谷沢健一のニューアマチュアリズム

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柏日体高! 鈴木先生!

2006-04-30 | YBC始動
 柏日体高は創立45年余りを経た伝統校であり、柏駅からも車で15分位である。この4月に校長に就任した鈴木誠司先生がお待ちくださっていた。私たちがうっかり玄関を間違えたことに気づく間もなく、事務の方が案内に飛んできてくれた。
 鈴木先生とは、2月の柏市体育協会50周年記念講演の際にお会いして、柏中の先輩にあたるということもあり、色々とお話をさせていただいた。それで、わずか2回目なのに非常にくつろいだ雰囲気で話もでき、グランドの借用についてもまさにトントン拍子に進んだ。
 穏やかでゆったりしたお顔に似ず、判断と指示は敏速で、グランドの5月使用表もすでに作成されており、私たちが借用可能な日がマークされていた。すぐに公式戦直前の日曜日である5月14日を借りることに決めた。グランド使用願の用紙も何枚もコピーしてくださっていた。これは「空いている日は全部お使いなさいよ」というお心遣いを暗に示してくださっているのだろう。ほんとうに心の暖かい方である。
 窓口役として事務職の林成幸氏を紹介していただいたが、林氏は野球部のコーチでもあり、すべてをのみこんだ上で話ができる。副校長の伊藤彰洋氏も同席され、「私は豊橋の出身でしてねー、谷沢さんのプレーは良く見に行きました」と嬉しい言葉をおっしゃってくださる。「さあー、グランドを見ますか」。グランドは校長室の窓辺から一望されるほど前方に緑の帯びが広がっていた。
 部員は60人ほどだという野球部の練習も始まろうとしていた。「プロアマ規定に縛られているので、部員たちに接触できないのは残念ですね」。グランドは良く整備され、クラブチームの練習環境として素晴らしかった。外野のセンター、ライト後方には陸上のトラックが広がり、フィールド内にはラグビー用のポールが立っていた。野球場から林を隔てた方向には、サッカー場も見えた。野球部監督にも紹介された。徳島の出身と聞いて、一瞬「池田高校の蔦監督の風貌に似ておいでだ」と感じた。鈴木校長は自ら各施設を案内され、特に新しく設置されたばかりのトレーニング施設の機器の利用も許可してくださった。何と寛容なことか!
 余談だが、柏日体高の位置する戸張地区は、私がプロへ入団したころに随分応援してくれた当時の浜島市長がこの地の出身であると伺っていた。浜島市長のお気持ちと鈴木校長のご厚意が私の胸の中で重なった。私同様、加藤副部長も「鈴木先生こそ救いの神だなあ・・」と繰り返し呟いていた。このお礼としてどんなことでもしなければならない。

柏市との協議(その2)

2006-04-30 | YBC始動
 安氏は就任早々、柏市の球場施設を巡回・視察してレジメを作っておられたが、新展開が期待できるまでには至らなかった。塚崎と手賀の丘の硬式野球対応は改修費用(約2~3千万だそうだ)がかかるため、財政難の柏市の現状では不可能だという。利根川河川敷グランドは、一面だけは硬式野球対応に改修するという回答を得たが、散水用水道の整備などはできないというので、実際に使用するとしたら、かなり制約を受けることになり、選手はむしろ不満を募らせるに違いない。
 また、数年後には完成されるはずの柏の葉公園野球場についても、使用頻度を高め、活動の利便性を改良するために、私の考えを述べようとしたが、公園法に即して建設するとかで、最初から耳を貸してもらえず、どうにも腑に落ちない気分で終わった。どうして少しでも多くの人たちが利用できるようにしないのだろう。どうしてわざわざ利用しにくいように作るのだろう。どうして後で修理や改修に経費がかさむように建設するのだろう。千葉県と柏市の政治的な党派の問題も絡んでいるのだろうか。わからないことだらけだった。
 一つわかったことは、行政(というよりも、たぶん柏市の行政マン)の考え方、「柏市は何ができないか」についてかなり明確に判明したことが、今日のミーティングの収穫だった。結局、石切山課長がおそらく知恵の限り、財源の限りを尽くして河川敷の整備を進める努力を重ねてくれたことはわかった。それには深く感謝しなければならない。整備されれば、とくに少年野球や早朝野球などを楽しむ人たちにも歓迎されるだろう。課長の努力への理解と同時に柏市の財政的な力量もかなりわかった。それについて、これからじっくり考えよう。
 協議の最中で、私は正直に言って感情がかなり高下したが、加藤副部長が穏やかに市側に対応してくれた御蔭で、行政の考え方を引き出せたのではないかと思う。

柏市との協議(その1)

2006-04-30 | YBC始動
 「失望・・・」は様々な形で物議を醸した。アクセスは500件を超えた。gooのブログには53万以上が登録されているが、その中でアクセス数が496位を記録した。過去最高だった。しかし、多くの人たちから歓迎されることならば、ブログに書きとめておくことにいささかの喜びもあるが、辛辣なご意見も削除しない方針だけに、耐え忍ばなければならないのは辛い時もある。他の大部分のブログのように、正体を隠してなら何とでも言える。だが、常に堂々としていたいから、名前を名乗る。それを貫くつもりである。
 そもそもYBCにしても、「せちがらい現実の社会生活の中で、何も無償の喜びなど求めなくとも良いのに」と言われ続けてもいるが、人間らしい生きかたを追求しているときこそ楽しく、「人生は楽しいものだ」と断言できる。
 さて、柏北高グランドの借用が不可能になったので、一日も早く地元を拠点とする練習場所を確保できないのか、柏市とも頻繁に交渉を継続していた。すると、柏市からYBCに対する市側の窓口を一本化するという知らせがきた。これまで、教育委員会生涯学習部スポーツ課、ホームタウン推進室、秘書課の3カ所へご挨拶に伺い折衝を続けてきたが、YBCの動きにこれまで以上にしっかりと対応べく、ホームタウン推進室に集約されることになった。前任の安蒜(あんびる)氏から、新室長に安(やす)真司氏が就いたので、改めて懸案を協議することになった。
 4月28日、柏市役所に出向いた。柏市の新助役・浅羽氏が挨拶に入ってこられたあと、協議は、安室長の主導で始まった。同室からは副主幹の方が3名、教育委員会からも石切山課長・重田主幹が参加した。YBCは私と加藤副部長。さっそく、昨夜作成した整備要望書を提出した。
 利根川河川敷グランドの整備、塚崎球場と手賀の丘公園野球場の硬式野球対応、それに加えて選手たちの生活費の確保への協力(敢えて市の呼びかけによって、選手を迎え入れてくれる企業が名乗りあげてくださるのを切望)をお願いした。
 協議時間は1時間半に及んだ。

対全足利クラブ戦(その3)

2006-04-19 | YBC始動
 試合の詳細な経過などはホームページに掲載されているので、割愛する。今日の試合を一言で表現すると、(私がこう言うとおこがましくなるが)「すべて(技術、マナー、作戦)において格調の高いものを体験できた」と思う内容であった。足利の4人の継投は見事だったし、堅実な守備と粘り強い攻撃と最後まで諦めない集中力はYBCが見習うべきものだった。我が谷野投手も最後までよく投げた。YBC初の完投である。彼の負けん気がどこまで強いかも把握できたし、何よりも完投能力のあるタフさはチームにとって収穫である。しかし、登板を予定していた木藤君をはじめ、他の投手諸君にはすまないことをした。登板できなかった悔しさをバネにして、投球能力をさらに磨いていって欲しい。
 攻撃陣は、良くつないで2点先行し、9回にも代打五十嵐君のタイムリーで勝ち越し。先取点を得たのも、10試合目にして初めてである。しかし、得点機会はまだあっただけに詰めが甘かったと反省させられる。守備にもほころびが出たので、今後は是正していくしかない。野手陣の層も厚みを増してきたので、チーム内の競争意識の高まりは歓迎すべきだ。
 今日の試合後もそうだったが、このところ、選手たちも問題意識をもって技術上の指導を仰ぎに、頻繁にくる。そのつどその場で対応してはいるが、もっともっと指導時間が欲しい。特に専門の打撃指導に費やす時間が足らない。必然的に選手たちの打ち込みがかなり不足することになってしまっている。全足利クラブのように、足利市役所に勤めるスタッフが多く、球場使用も優先的に、各自仕事を終えてから連日練習ができる環境はうらやましい限りである。
 ミーティングでは、「実戦で生じる様々な野球の複雑さなど、今日の試合から勉強することが多い」と、いくつか厳しい注文を選手たちに要求した。私も、三塁コーチャーボックスで采配を執りながら、我がチームのゲームへの取り組む姿勢をみていたが、相手が範となるのか、控え選手でベンチ外に出るというマナー違反を犯す者は皆無だったし、声援の声もよく出ていた。また、サードチームの神木君は最後までボールボーイを真摯に勤めていたし、ブルペンでは真新しいミットを手にし、その手を腫らしながらも捕球しつづける大竹捕手がいた。それを忘れてはならない。
 こういう価値ある試合ができたことをありがたく思っていたところ、帰り際に、全足利の小倉監督が写真撮影と挨拶とに見えられ、「来年の4月末に、恒例の足利市長杯大会が開催されるので、是非、YBCさんに参加していただきたい」とご招待くださった。こういう「ご褒美」はいくつになっても嬉しいものである。(もちろん、来年4月の前に、今年8月のクラブ選手権大会に再訪したい!)

対全足利クラブ戦(その2)

2006-04-19 | YBC始動
 足利市内に入り渡良瀬川の橋を過ぎると、足利の里というか、室町時代に栄えた藁葺き屋根の合掌造り・足利学校の前をバスは通り過ぎたところで、私の携帯が鳴った。全足利クラブの栗原マネージャーからである。昨年3月、前クラブのときにお世話になっただけに、栗原マネの声にも親しみと懐かしさが倍加されるように感じた。足利学校から5分ほどで球場の照明塔が見えた。足利市営球場は総合運動場の中心に位置していたが、バスの駐車場がみつからず、球場周辺を一周したところで、また携帯がなった。「球場入口から出た道路の所に私が居ますから」と栗原マネ。この細やかさは、さすが、全日本クラブ選手権10度制覇の名門を継承する名マネージャーである。
 試合開始は2時からだったが、木村好文氏(全足利クラブ後援会長・栃木県会議員)や川田幸夫氏(栃木県社会人野球連盟理事長)も挨拶に見えてくれた。また、野球部長の山地義夫氏とも再会して、YBC誕生を祝っていただいた。山地氏には、「足利は野球好きの市民が多く、欽ちゃん球団と試合をしてくれとせまがれるのですが、どうしたらいいですかねー」と聞かれた。伝統の重みを大事にしているせいか、全足利クラブのイメージと茨城ゴールデンゴールズのイメージにギャップを感じておられるようで、対戦にも二の足を踏んでいる感があった。私は「一度対戦しましたが、欽ちゃんは人一倍負けず嫌いですから、試合は一生懸命、真剣勝負ですよ。けっしてふざけてやっていませんよ。一度対戦してもよろしいのでは」と答えた。
 スタンドには300人超(翌日の新聞報道)の全足利ファンが詰めかけていた。ゲーム前に簡単なセレモニーが行われた。直前に栗原マネから「最初に私どもの小倉正文監督がスタンドに向かって挨拶をしてから、谷沢監督をホームベース付近にお呼びしますから、一言挨拶を」との由、小倉監督も「YBCの誕生おめでとうございます。元中日の中心打者・谷沢さんのチームと対戦することを心待ちにしておりました。いいゲームをして、8月の全日本クラブ選手権は、この球場で行われます。今日の試合をはずみにして、11度目の優勝を狙います」とYBCをも持ち上げてくれた。私もそれに応えて、創設間もないチームと対戦してくれることへの感謝御礼をのべ、昨今のクラブチームの増加で野球界を活性化しましょう。是非、8月には足利に来たい旨を述べた。

対全足利クラブ戦(その1)

2006-04-19 | YBC始動
 YBCが千葉県に登録されて約3ヶ月、記念すべき初遠征試合を来年50周年を迎える全足利クラブと対戦した。こんなに早く「クラブチームの雄」と戦えるとあって、私もスタッフもこの日を待ちに待っていたし、選手たちも大いに楽しみにしていたことと思う。
 ホームページに記載の通り、交通手段は3通りだったが、電車で向かう者は料金ももっとも高いせいか皆無だった。貸切大型バスは集合出発地点(柏駅前)が1箇所だったせいか、20名弱だった。他は自家用車の者に同乗である。予想よりもバス利用者が減ったので、細田観光に中型バスに代替できないか打診したところ、同社社長(なんと、私と幼なじみだった!)が「足利までは2時間もかかりますので、大型バスで皆さんゆったりとくつろいで、試合には是非頑張って下さい」とおっしゃってくださり、ご厚意に甘えることになった。その上、細田社長はご子息である細田専務とともに、朝早くにバス乗車地に挨拶に見えられ、我々の出発を見送ってくれたのだった。じつは、細田観光を紹介してくれたのは、柏市の「野球が大好き人間」であるT氏(奥ゆかしい方なので、お名前を勝手に出すと叱られるかも知れないからあえて仮名にする)ーYBCのCPのお一人だったことも記しておきたい。
 今回の足利遠征には、もちろん主務(マネージャー)の帯同が不可欠だった。新聞の栃木版では、全足利ーYBC戦を既に大きく報じていることもあり、ひょっとすると試合前に小セレモニーなどがあるかもしれない。先方のマネージャーとも、あれこれ打ち合わせをする必要もある。ところが、主務は二人とも参加できそうにない。小松主務は勤務先が今は繁忙期であって無理は言えず、頼みは根本主務だった。しかし、YBCに加わってからは、根本氏の休日の家族サービスが極端に少なくなったはずで、今回、無理強いするのは躊躇せざるをえない。さて、困ったことになった。
 ところで、根本家には娘さんがいる。長女のわかなちゃんは4歳で、かわいい盛りである。そのわかなちゃんが1日楽しく過ごせられれば、何とか参加が可能になるのではないか。そう考えた加藤副部長は一計を案じた。白羽の矢がたったのは、蔵重チーフコーチ(藏重氏も責任感がひじょうに強い人であり、常時仕事が多忙で、中国へ出張中)のお嬢さんの優美さんである。彼女がありがたいことにわかなちゃんの御守役を快く引き受けてくださった。助かった! これで、一路足利へ、YBC軍団+ファミリーは動いた。

西武の炭谷、涌井よ、いいぞ!

2006-04-12 | プロ野球への独白
 YBC発会式の折に池田哲雄ベースボールマガジン社長に挨拶をしてもらった。その時、プロ野球選手の「早熟」の話がでた。「清原君のピークは16歳であったと私は思う。YBCの選手たちよ悲観してはいけない。皆さんはこれからピークを迎えるのだ」。この話をお聞きして「なるほどなー」と思った。
 私の年代は団塊の世代で、そろそろ60歳に差し掛かってきたが、高校時代のことを思い起こしてみよう。山梨甲府に堀内恒夫、千葉銚子に木樽(ロッテで活躍、現・巨人軍スカウト)、岡山東商に平松政次(選抜優勝投手)、兵庫育英に鈴木啓示など、投手に早熟型が多かった。例えば、堀内氏はプロ入団して即、13連勝をやってのけた。彼一人の力ではなかったとしても、歴史に残る金字塔である。
 さて、今年のプロ野球をみると、まさに池田氏の指摘する「早熟タイプ」が注目されている。まずは、10代バッテリーと騒がれている、涌井秀章投手と炭谷銀仁朗捕手である。炭谷君は開幕からいきなりスタメンでマスクをかぶった。
 前にも書いたが、私は2月上旬、西武のキャンプ地(宮崎県南郷市)で炭谷君を見た。頑健な体つき、ちょっと切れ長の細目で大杉勝男氏(東映・ヤクルトで活躍)を彷彿とさせる。伊東監督は「何も教えるところがないくらい、捕手として備えるべき技術、物怖じしない積極人間、明るさは先輩から可愛がられる資質、など枚挙に遑(いとま)がないほど捕手としての資格を有している」と語っていた。本人に「プロの練習はつらいか」と聞くと、「プロの練習は、個別に練習できるから楽しいですね。高校の時は、全体練習ばかりで充実感はなかったですよー」と、平然と言ってのける。
 畳屋の倅(せがれ)と聞いている。オヤジの職人気質をみて育ってきているだけに、コツコツと努力することも持ち合わせていることであろう。城島捕手を凌駕するような、早熟からの大成を祈りたい。
 涌井君は、すでに3勝目(4月12日現在)をゲット。千葉県出身でありながら、横浜高に進んだ。柔軟性に富んだフォームとストレートのキレは、小山正明氏(阪神、東京オリオンズ、大洋で通算320勝)に似ている。「針の穴をも通す」というコントロールは見事であった。涌井君よ、現状に満足することなく「目標は高く、理想は大きく」、これも大樹大成を祈りたい。

失望・・・

2006-04-12 | YBC始動
 柏北高グランドを使用できて喜んでいたら、先月下旬から雲行きが怪しくなってきた。野球部の顧問であった駒形先生から連絡が入り、「私はバレー部の方に移り、野球部は新任の先生が担当します。新任の先生に、YBCのグランド使用を聞きましたところ、お断りしていただきたいとのことでした。若い先生ですので、やる気があるのでしょう。残念ですが、土、日も練習をしたい意向のようで・・・」
 私はこれを聞いて絶句した。10人足らずの部員数でも、土日も練習しようというのは見上げたものだが、どれほど練習の実効性があるのか、また実行できるのか?と思い、さらに、わずか一回きりの使用で終わるのはいかにも残念だと思うと、なかなか心は平静に戻らなかった。そのうちに、柏市に固執している自分にばかばかしくなってもきた。柏市に拘泥しているからこそ、ご迷惑を承知で柏北高に何度か頭を下げに行ったのだが、他の市町村に本拠地を移せば、そんなこともしないですむかもしれないし、もっと歓迎されるかもしれない。
 げんに、習志野市や船橋市や他の市町村の知人の力で、何とか最低限、練習や試合を組み込めてはいる。とにかく、練習と練習試合を重ねて、スタッフや選手たちモチベーションだけは維持したい。徐々にチームの形が構成されつつあるだけに、そういう場所が必要なのである。
 4月11日、9時頃自宅をでて、柏北高に向かった。しつこいようだが、電話での話だけでなく、じかにお会いしてもう一度お願いしてみようと決断して、ベッドから飛び起きたのだった。
 北高には11時頃到着。野球部の新任の顧問の先生は授業中で、アポも無しだったので待つこと40分、ドアが開いて、二人の方が入ってこられた。机をはさんで対面すると、名刺交換をする間もなく、「私が野球部の部長です。私が新任の顧問です」とおっしゃる。
 私は「これは徒労に終わるな・・・」と直感したが、これまでの経緯をお話しさせてもらった。すぐに、部長という先生が返答する。「お断りします。新入部員が何名か入りましてねー。顧問も週末はゆっくり休みたいと言っております。そちらにお貸ししますと私等も学校に出てこなければなりませんのでねー」。その通りだが、土日に出勤する時だけで(それがたとえ月1回でも)いいし、他の先生の土日出勤日だけもいい・・・と思って、それを当てにしようとする私が「虫が良すぎる」というしかないだろう。
 それにしても、前の駒形先生が「私は理科の教諭でもあります。週末は学校で実験等もしておりますので、どうぞ遠慮なく使ってください」と言ってくれたのを思い出して、改めて感謝の念が涌いた。引き続いて、部長は静かな口調で「それに、3月をもって本村校長も転任されました」。私は、「ほんの少しの隙間でもいいですから」と訴えつづけ、頭を机につけて最後のお願いをしたが、ついに諦めざるをえなかった。
 小雨の降る中、柏北高をあとにした。荒れ放題だったブルペンを綺麗に手入れしたことを思い浮かべながら、そういえば、そのことについて柏北高の先生から何の言葉もなかったなと思いながら、この学校とは縁がなかったのだ、名前も名乗っていただけなかった2人の先生には、押し掛け依頼でご迷惑をかけたなあを心の中でお詫びした。少なくとも、私たち民間の人間の常識では、来客に対して名前を告げないというのは、「来られて迷惑だ」ということの意思表示であるから、私はひどく嫌われたのだと深く反省した。

故郷回帰

2006-04-03 | YBC始動
 4月2日は習志野市営秋津球場で試合を行った。私にとって習志野市は、第二の故郷(第一は柏市、第三は名古屋市)でもある。かつて習志野は、私が東京オリンピックの聖火ランナーとして走った国道から外側には、東京湾の埋立地が広がろうとしていた(いまの秋津球場のあたりは、たぶん海原ゆくポンポン船の行き交う風情がただよっていたはずだ)。
 少々、母校のことを記すと、市立習志野高校は、故白鳥市長と故山口久太校長の教育理念の下、文武両道というよりも「武」を重んじる校風を創った。私は山口校長の熱き情熱とたぐい希(まれ)な啓蒙主義による強烈なリーダーシップの磁力が、相対的に伝統校(銚子商、成東、成田)とぶつかりあって熱く上昇するスパイラルを産みだし、千葉県に「野球王国」が築きあげられた最大の要因になったと考える。今でも、山口先生は、教育者であると同時に、理想高き牽引者だったと認識している。
 上記の教えを共有する2歳下の石井好博氏(現在、習志野市役所勤務。高校野球の選手としても指導者としても全国制覇を成し遂げた希有な人である!)が、ひょっこり、横浜金港クラブとの試合前に球場に顔をだしてくれた。ひところより体型もスマートになってはいたが、「時にはうちに教えにきてくれよ(例えば、甲子園で1試合に3度、2塁走者を牽制球で刺したという卓抜な技術ももっている)」と言うと、「現場はいいですね」と、野球への想いと情熱はまだまだ失っていないようだった。わざわざ藤沢から習志野球場に来てくれた川島理事とも、大学の後輩でもあるから、懐かしそうに語り合っていた。
 今日対戦する、横浜金港クラブは、来年70周年を迎える。クラブチームでは北海道の「函館オーシャン」と同年の歴史を刻む。伝統から伝承の価値を時間の虚空に感受しながら、一戦を交えたいと思う。