谷沢健一のニューアマチュアリズム

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キャンプ地紀行(その8)

2006-02-06 | プロ野球への独白
 午前中から23度の気温で、夏の陽射しかと思えるほどの沖縄。行く先は東京ヤクルトスワローズのキャンプ地・浦添市民球場である。
 受付では、どこの球団でも報道関係者及び解説者専用のキャップを渡される。キャンプ限定のオリジナル品だけに、これを被っていれば警備員から呼び止められることもない。すでに5個目の帽子が手元にある。あと、いくつ集められるだろうか。別に帽子収集のためにキャンプ地巡りをしているわけではないのだが。
 例年だと、キャンプ期間が済むと知人に進呈していたのだが・・・そうだ! 今年はぜんぶYBCのメンバーへ、つまりCPにプレゼントしよう!(副部長に渡しておけば、機関誌「フェニ・フェニ」のクイズ賞品とか、YBCフェスタの安価オークションとか、うまく利用してくれるだろう。私はねだられるとすぐにあげる性格だけれど、副部長はその点、厳格だから管理者としてうってつけである。)
 10時からウォーミングアップが始まったので、ネット裏スタンド席の中央の見通しのよい所に陣取って、見物(兼日光浴)をした。
 アップを終えると、1軍(候補も含む)メンバー40人がスパイクに履き替えて、ベースランニングに入った。古田兼任監督も選手たちの軽快な動きを一瞬確かめてから最後尾について走りだしていく、その姿が印象的だった。石井一久投手も戻ってきたし、高津投手もたぶん復帰するだろう、そんなファミリーとも言うべき雰囲気が現出し、監督の笑顔に如実に表れていた。
 シートノックが終わると、投手と内野手は室内練習場に移動し、報道陣もシャットアウトして「バントシフト」のメニューに移った。この間、武内晋一ルーキー、200安打の青木宣親リーディングヒッター、期待の志田宗大ヤングマンの3人が、特別指名をうけたのか、打撃練習に入った。
 背番号8(武内選手)は初球にバットを折ってしまい、以後は重いマスコットバットで打つ羽目になった。しばらくタイミングの合わない打撃が続いたが、持ち前のバットコントロールの良さで修正していくという非凡さを感じさせてくれた。
 東京ヤクルトには、大学の後輩がたまたま多くおり、グランドでは彼らがしばしば挨拶に来てくれるので、他の報道関係者よりも、いろいろ突っ込んだ話を聞くことができる。やはり、持つべきものは・・・である。(もっとも、監督やコーチの指導の邪魔をしないように、よけいな口出しをしないのが取材の鉄則である。)

キャンプ地紀行(その7)

2006-02-05 | プロ野球への独白
 宮崎から那覇行きのフライトは一便しかない。那覇には午前10時20分に到着。
 出発前の予定では、今日はホテルに直行して休養するつもりだった。ところが、宮崎から私と常に同じ動線を辿っているWBCの投手コーチ・武田一浩氏がベイスターズのキャンプ地に向かうようだったので、私も一日も疎かにできないなと思い、ついタクシーの運転手さんに行く先を「宜野湾へ」と告げていた。
 明日からは、東京中日スポーツの小原記者が同行するので、彼と相乗りすることになる。
 グランドでは、すでに「中継プレー」が行われていた。進藤守備コーチが左中間へ打球を放つ、カットマンの位置を大声を出して確認する、それが繰り返されていた。この時期に中継プレーの練習ができるのは、沖縄の暖かさからであろう。
 ブルペンに向かう途中で牛島監督と挨拶を交わした。すぐにポジションのコンバートの話題になった。小田島正邦捕手を一塁へ、3年も期待され続けている吉村裕基内野手を外野手へ。「この時期は勝負から離れているので、選手の可能性を探す楽しみがありますね」と語っていた。
 ブルペンでは、今年から再び詳論家業に戻る山本浩二氏にお会いした。すぐにブラウン新監督の話題となった。
 私が「ピッチャーの投げる球数が極端に少ないようですね」と聞くと、「時には変えるのもいいよ。ルーツ(1975年に監督に就任したが、5月で辞任し、古葉監督が後を引き継いで優勝)の時もそうだった。1時半には練習が終わってしまうんじゃからのー。しかし、俺とキヌ(衣笠氏)がこれじゃーいかんと、先頭になって練習してなー。だから、若い者もやらざるを得んかったよ。今年は、引っ張っていく奴がおるかどうかじゃのー。」
 キャンプ巡りとは、随所にこんな会話が生まれるのである。

キャンプ地紀行(その6)

2006-02-05 | プロ野球への独白
 2月4日は、ライオンズのキャンプ地、南郷町を訪れた。
 あと10kmも南下すると鹿児島県との県境、懐かしい串間市(78~83年・中日キャンプ)は目と鼻の先である。現在は社会人・大学生チームが、改装なった球場で行っているそうだ。今回も、連絡しておいた串間キャンプ時代の友人・小城(こじょう)ご夫妻が南郷町まで来てくれた(海の幸おいしかったですよ)。
 3球団目の西武は、私が2年間、コーチとしてお世話になった球団だけに、皆さん笑顔で迎えてくださる。こちらも、つい甘えてしまい、球団専用の軽食ルーム(西武は昔から個々が空いた時間に軽食をとって練習を継続する)に気軽に入っていって、ここには書けないような歓談をする。
 伊東監督曰く「谷沢さん、今年はすばらしいキャッチャーが入団しましたよ」、「私の18歳当時よりいいですよ。プロがやるような練習を常に課されていたようで、一通りのことはすべてできますよ」。土井ヘッド曰く「10年は安泰だよ。細川も野田もうかうかできんぞ」。
 その名は、平安高出身・炭谷銀仁朗である(YBCにも銀次郎がいる)。個別練習に入ったと聞いて、高台に位置する本球場から、100段ほど降りた第2グランドに行って見た。
 案の定、監督自ら上記の3人を熱心に指導している姿を見つけた。中堅捕手2人には厳しく、炭谷君にはミスをしても寛容な態度で接しているようだ。
 炭谷君が練習の合間に、そばに来たので聞いてみた。「プロの練習は辛くないか」。炭谷曰く「プロの方が僕は好きです。こうして個別に練習ができるので、うれしいですね。高校の練習は全体ですから…」、なかなかはっきりした受け答えをしてくれる。物怖じしないようだ。私の名前も多分知らなかっただろう。私も忘れられてしまう世代に入ってきたのではないかと、一瞬、YBCの同世代が頭に浮かんだ。

キャンプ地紀行(その5)

2006-02-04 | プロ野球への独白
 さて、今日も収穫があったので、それをいくつか書いておこう。
 ブルペンで、和田毅投手のピッチングに見とれていたのだが、挨拶にきてくれた彼に、さっそく和田流チェンジアップの握りを伝授してもらった。
 王監督とも話をしたが、「つくづく(思うが、野球は)守りと投手だな」と監督は会話を切り上げて、ブルペンに足を運び、新外国人・カラスコ投手を注視していた。しかし、心配の種は何と言っても城島捕手の抜けた穴のはずで、大石バッテリーコーチとともに、的場捕手に付きっきりだった。特打を終えると、引き続き捕手強化メニューに入り、グランドを最後に引き上げたのはコーチと捕手だったと思う。
 川崎・宮地両選手のティー打撃も参考になった。高目ゾーンを意識して叩いていく打法に力強さを感じた。
 スタンドは平日というのに大勢のファンで溢れ、中でも目立ったのは九州各地の高校野球部員の多さだった。
 私はいったん球場をあとにして帰りかけたが、ふと気になって戻った。それは森脇守備コーチの「守備の手ほどき」である。ルーキーの松田宣浩内野手をはじめ、選手たちに熱心に指導する姿を、私は1時間以上も見入ってしまった。ここに記すまでもないが、このとき目に焼き付けた事柄がYBCへの私の土産の一つなのである。

キャンプ地紀行(その4)

2006-02-04 | プロ野球への独白
 球場正面で報道関係者として受付を終えると、一人の青年が近寄ってきた。イチロー選手愛用のサングラスメーカーのスポーツマーケティングディレクター・露木氏である。私が前クラブの監督の時に何度か対戦したと言う。彼は横浜金港クラブの助監督兼三塁手で、サードコーチャーボックスに立って采配を振るっていた私に声をかけられたそうだ。
 それを思い出しかけたとき、「オープン戦をやりませんか」という挑戦を受けた。金港クラブは栃木県の全足利クラブに並ぶ強豪であり、老舗(しにせ)のすばらしいチームである。対戦は4月にグランドが確保できしだい、返事をすることになった。
 まずブルペンへ行き、投手陣を見た。今年から投手の2段モーションが禁止され、国際基準に沿うことになる。(アマチュア野球では、このモーションについて既に厳しく律しているので、問題はない。)ホークスでは斉藤和巳投手が一番危惧(きぐ)されていたが、流れるようなスムーズなフォームとなり、審判からOKの確約を得ていた。

キャンプ地紀行(その3)

2006-02-04 | プロ野球への独白
 宮崎市の中心地、橘通りにあるホテルから車で北西に約20分、大淀川を渡り田園地帯をしばらく行くと、前方の小高い所に「はんぴドーム」と命名されたソフトバンク・ホークスのキャンプ地、生目の森(いきめのもり)総合運動公園が見えてくる。
 その広大で、ひじょうに贅沢な施設を紹介しよう。運動公園の中心は「ホークスビレッジ」といって、緑豊かな芝生でファミリーやキャンプツアーの人々の「伸び伸びゾーン」である。仮設のshopも30軒ほど連なり、いつでも食事がとれる。そのゾーンから360度、頭をめぐらせて見渡していくと、50メートル先に、先ほどのドームが室内練習場だ。三分の一のスペースに打撃マシンが6台並んでいる。隣は、屋外のブルペンと打撃マシンが3台置いてある。
 その裏に、天井から燦々と光が射し込む室内ブルペンが建っている。6人が同時に投球練習できる。
 そしてメインは「アイビースタジアム」と呼ばれる2万人収容でナイター設備完備の球場である。外野の洋芝はサンマリンと同じく緑鮮やかである。内野の地面は黒く、上質の土だと聞いている。
 チェアーの向きを変えると、ファーム専用の第2野球場。隣は4面使用の野球場。まだまだ、歩行路を挟んで全面高麗芝の多目的グランド(投手陣の補強・強化と走り込みの場)は、サッカーグランド3面分もある。そして、使用していないが陸上競技場も控えているのだ。
 郷愁にかられるわけではないが、選手時代や評論家になってからも何度か訪れたメジャーリーグのキャンプ地を髣髴とさせる。子も恵まれた環境から、川上哲治氏がおっしゃっていた「厚い壁」を乗り越える逞しいプレーヤーを期待できるのか。ホークスは今WBCの話題で持ちきりではあるのだが。

キャンプ地紀行(その2)

2006-02-02 | プロ野球への独白
 サンマリンスタジアムは練習の始動から南国の陽光に満ちていた。しっとりとした天然芝の一葉一葉がキラキラと光輝を放っているグランドを歩く。
 ダッグアウト前に行くと、吉田孝司運営部長と顔を合わせ、ひとしきり昔話に花が咲いた。大学の先輩である近藤昭人ヘッドも暖かく迎えてくれ、昼食時にはチームの食堂にまで招いてくれた。
 移籍組の尾花コーチ(ホークス)からは2年連続敗退の悔しさを聞き、同年代の内田コーチ(カープ)からは、期待の若手の話も取材できた。
 練習は、序章のアップから第2章のキャッチボールへと進む。今年の巨人は、キャッチボールから基本に忠実である。仁志、小久保両選手からして手本を示顕するのだから、「全員、右に倣え」だろう。
 やや驚いたのは、バント防御のサインプレーがスムーズに実施され、投手の牽制プレーも野手と息が合っていることだった。例年なら、こうなるのはキャンプの中盤頃だろう。昨年の秋期練習にみっちり行った成果であると、近藤ヘッドからうかがった。
 いずれにしても、私のスプリングキャンプの見方は変わってきている。「この練習メニューは選手指導の参考になるぞ」「この練習にはどんな意味があるのか。」これまでの自分の固定観念を白紙に戻して、コーチや選手に(練習の邪魔にならない程度に)教えを乞うのだ。
 宮崎に降り立った時にそう考えた。そのとたんに、昨年までマンネリぎみだったこの2月のキャンプ巡りが、急に楽しくなった。やらされる仕事よりも自分で見つける仕事、これもYBC流である。
 まだまだ環境も整わないYBCであっても、自主練習をして合宿に備えて待っている選手や優秀なスタッフたちに「土産」だけは豪華に持ち帰る義務が私にはある。さあ、明日はソフトバンクス・ホークスだ。何を学べるだろうか、楽しみだ。

キャンプ地紀行(その1)

2006-02-02 | YBC始動
 2月1日、最終便で宮崎入りした。本業のプロ野球解説者としての仕事である。今日から8泊9日の予定で宮崎県と沖縄県を巡行する。
 昨日は強雨の中のフライトだったが、機内でうとうとまどろんだ。と、後頭部に痛みを感じた。ふりむくと何と雛鳥フェニーが私の後ろ髪を引っ張っている。あっと思った瞬間、目が覚めた。(この夢の話は、じつは嘘です。)
 作り話をしたくなるのが、私の心中にある想いーYBCフェニーズに後ろ髪を引かれる想いである。合宿地が決定したとはいえ、不足している用具(昨晩、離京直前に副部長に手配を依頼した)の準備や旭市教育委員会の柴田氏と詳細な打合せを取り合ってきただけに、ついそちらが気にかかるのだ。
 柴田氏の計らいで、土屋正勝氏(銚子商業のエースとして夏の甲子園大会で優勝、さらに中日で活躍)と尾上旭氏(銚子商業、中央大、中日と、一貫して中心選手だった。とくに守りは天下一品)が、嬉しいことに協力してくれている。
 ともあれ、出発前に練習メニューもホームページに掲載し、選手に告知したので、あとはスタッフと選手にすべてを委ねるしかない。