谷沢健一のニューアマチュアリズム

新ドメインに移行しました。

第18回JABA一関市長旗争奪クラブ野球大会(その3)

2005-07-28 | 西多摩倶楽部戦記
 最終日の決勝戦は、強敵・オール高崎野球倶楽部と対戦。押し気味に試合を進めたが、0-0のまま延長戦へ。10回表、2死1、3塁で、敵打者が3塁後方に小フライを打ち上げた。これでチェンジだと思った瞬間、大園君が球をグラブに入れながら転倒。球がこぼれて1点献上。ベンチの私の目には、土と芝生の境目にスパイクが引っかかって転倒、ついてない!と見えた。
 しかし、その裏、山野辺君が右前安打、それを飯田君がバントで送り、大園君が右前安打でミスを帳消し、1死1-3塁で、打者が9番の甲斐君。敵の小林投手は球種が多彩であり、追い込んだ後のフォークが決め球だった。代打を考えたが、我が方には縦の変化に強い打者がいない。で、そのまま打たせたら、投手の斜め後ろに高々とフライ。こりゃ、あかんと思ったら、天の助けで、2塁手が落球した上に(本来は2塁に送球すべきを)慌てて1塁へ送球し、オールセーフで1死満塁になった。
 こうなれば、試合はこちらのものになるのが野球というものだ。1番の笠原君が右翼線に2塁打、2者生還で、サヨナラ勝ち。敵失とはいえ、選手たちの歓喜の叫びがベンチ中が響き渡った。監督としては、敵2塁手がかわいそうであり、好投した小林投手が気の毒だったが、選手の喜びに水を差すわけにはいかない。なんといっても全勝する、つまり優勝するということはなにものにも代え難い。こういうことで、選手のモチベーションは一気に上がり、チーム力も高まるものだからだ。
 (ちなみに、後でわかったことだが、大園君のミスは、じつは左スパイクの紐が長すぎて右足でそれを踏んづけて転んだのだった。彼も試合に勝てたからようやくチームメイトに白状したらしい。やはり勝つことはいいことだ!)
 表彰式では、一関市長旗、カップ、表彰状と全員にメダルが授与された。このように形として残るものをいただくのは、私も久々で、思いがけないほどの嬉しさがこみあげてきた。
 まして、その直後、選手たちが胴上げをしてくれた。この時の気持ちは格別の喜びであり、現役時代に味わった感情とはひと味もふた味も違う、ひょっとすると、セリーグ首位打者賞を獲得したときよりも強いかもしれないとさえ感じた。プロ野球界からみれば、ささやかな勝利とはいえ、アマチュアだからこその深い感動を体験できた。
 オール高崎野球倶楽部の三木(みつぎ)監督からは悪びれずに、「今度、あきる野市へ行きますから、もう一度相手をしてください」と言われた。こういうこともまたアマチュア野球(特にクラブチーム野球)ならではの楽しみである。

第18回JABA一関市長旗争奪クラブ野球大会(その2)

2005-07-28 | 西多摩倶楽部戦記
 翌日の第2試合は全日立ドリームズと対戦。同チームは、話題のゴールデンゴールズ(欽ちゃん球団)と茨城県で覇を競い合っている強豪チームだが、我が安田君の強気のストレート主体のピッチングが功を奏して完投。7-2で勝てた。実は内心で心配していたのは、安田君の与死球で、都市対抗都予選でもいささか相手チームに迷惑をかけた。今回、わざわざ招いていただいたのに、「死球禍の安田」などと称せられると困るなと思っていた。しかし、それは杞憂で見事なコントロールで135球の完投勝利だった。
 第3試合は準決勝で、オール江刺と対戦。我が斉藤(生一)君とノバク君との継投で勝利。ここまでの3試合は、投手もよく投げたが、打線も活発で、新加入の片山君が2本の本塁打をうち、主力の遠藤君をはじめ、島原君・飯田君・山野辺君といった面々が好調だった。守備では、控えだった大園君(まだ19歳)を遊撃手に起用したところ、安心できる的確なスローイングで勝利に貢献してくれた。

第18回JABA一関市長旗争奪クラブ野球大会(その1)

2005-07-28 | 西多摩倶楽部戦記
 7月23~25日、岩手県一関市へ遠征。JABA一関市長旗争奪クラブ野球大会に招いていただいたからだ。この大会は今年で第18回目という伝統のあるもので、東北と関東の16チームが参加した。過去には全足利クラブが3連覇したり、WIEN94が2連覇したりしているという、東日本のクラブチーム大会としても有意義な催しである。18年も継続するというのは、はたで考えるより大変なことだと思う。一関市や地元の関係者の方々の長年の尽力には敬意を払いたい。
 初日の第1試合は一関三星倶楽部と対戦。同チームのオーナー、永澤卓三氏によれば、「10年前にはクラブチーム日本一にも輝いた」という名門である。幸い、シダックスの野村監督も「うちのチームにトレードしろよ」とさえ冗談交じりに言っていた我がエース金森君が好調で、7回まで1失点に抑えてくれた。相手の先発、菅原投手のスリークォーター気味の投球をうちあぐねていたが、疲れが出てきたところで、何とか打ち込めた。結果は10-1だった。

FAと大リーグ

2005-07-21 | プロ野球への独白
 ドラフト制度の改革案がほぼ確定した。各スポーツ紙には、いろいろな方のコメントが掲載されている。そして、同じ紙面に野茂投手と高津投手の戦力外通告の記事が2日続けて掲載された。この二つが私の頭の中で不意に結びついた。FA制度の改正も即座に行うべきであると。
 FAの期間については、短くするとせっかく育てた選手が大リーグへ流出してしまうという懸念が強い。それを防ぐ一つの方策として、ホークスの孫オーナーは年俸を高くすることなどを提唱している。だが、それでは経営が圧迫されるという球団の反対論も強い。
 私は、個人的心情から言えば、高津選手をはじめ、とくに才能ある投手たちを気の毒に思う。もしFAの期間が短くて、もっと早くアメリカに渡っていたらと思う。これは、小宮山投手のメッツ入りが決まって、その壮行会を親しい知人たち(ラグビーの清宮氏、日テレの船越アナら)と催したときに強く感じたことだ。
 野茂投手とイチロー選手はその特別な才能と努力はもちろんだが、それぞれ特殊な条件の下で日本球界を早く離れることができた、ということを忘れてはならない。そして、彼らは投打のパイオニアになり、大きな成功を収めた。佐々木、吉井、伊良部といった投手たちも、数年早く渡米していたら、その期間がそのまま活躍期間になったろう。
 ある野球通のアメリカ人が言っていた、「日本から大リーグに来るのは半数以上がポンコツではないか。日本人は不要になるのがわかっている選手しか渡そうとしない」。別のアメリカ人はこうも言った。「日本の野球選手はノモとイチロー以外はたいしたことがない。2・3年しかアメリカでは通用しない」。
 たしかにそう言われても仕方がない。このままでは、日本のプロ野球はいつまでも米国から見下げられ続けるだろう。その端的な例は、3月に開催するという「ワールドクラシック」という名の「世界大会」である。
 力の衰えはじめた選手をアメリカに送るだけにするか、アメリカで最高の力を発揮できる選手を送るか、二者択一である。松井(秀喜)選手がヤンキース入りしたときの、あの悲痛なこわばった表情を私は二度と見たくない。

前半戦最後のヤクルト-巨人戦

2005-07-21 | プロ野球への独白
 神宮球場でのスワローズ対ジャイアンツ戦のTV中継解説をつとめた。いつものように、塩原アナのバランスのいいリードに乗せられて、大矢、加藤、齋藤(明夫)の3氏ともども、前半戦最後の試合ということで、喋りにも一段と熱がこもった。もっとも、私は風邪をこじらせていてほんとうに熱がこもっていたが。
 二転三転した試合は、最終回にローズ選手の一発で決まったが、それにつけても思ったことがある。もしも、ジャイアンツが大方の予想通りに好成績でトップを走っていたら、今日の試合はどうだったろうか。おそらく堀内監督や山本ヘッドや弘田コーチらは、ローズ選手に代えて、矢野選手か亀井選手をスターティングメンバーに起用していたのではないだろうか。
 なぜなら、後半戦に向けて、ローズ選手の疲労を回復させ、若い選手たちに実戦のチャンスを与え、より強固なチーム作りを実現しようとするためである。
 しかしながら、現実は違っている。わずか2割4分前後の不調なローズ選手を使い続けなければならない首脳陣の苦しみは、たぶんオールスター戦以後も続くだろう。今日のような試合を決めるホームランを打つ限りはやむをえないのだ。だが、ほんとうは、堀内監督もコーチ陣もそんな野球はやりたくないはずなのだが。
 その実例と思える場面が、今日の試合にもあった。5回表、2対2の同点で、無死1・2塁だった。打者は1番バッター清水選手、堀内監督は初球にバントを指示、が、ファウル。やむなくヒッティングに作戦を切り替えた。結果は左飛。2番の鈴木選手は1ゴロで併殺でチェンジ。監督の心情は察するに余りある。そして選手の心情も。

クラブチームの嘆き(その1)

2005-07-16 | 社会人野球
 西多摩倶楽部の監督を引き受けて1年が経ったが、いろいろな経験をしている中で、もっとも困っていることの一つは、練習時間と練習場の確保である。
 同じアマチュア(社会人)チームといっても、企業チームに比べ、練習環境はかなり恵まれていない。ジャイアンツの室内練習場をお借りした際にも、つくづく痛感させられた。
 親切にも同球団の所氏が「チームが遠征に出ているときは、どうぞお使いください。シダックスなぞはよく借りにきますよ」とおっしゃってくださり、高見マネージャーと大場サブマネージャーを紹介してくださった。お二人とも「気軽にどうぞ」と言ってくださった。
 じつにありがたい話だが、残念にも、クラブチームの悲しさで、練習日が土日にしかとれない。部員の多くは、企業などに勤めているからだ。なかなかスケジュールが合わないのだ。
 そんな嬉しい思いや残念な思いを重ねているうちに、心の中に湧きあがってきたのは、「クラブチーム共有の室内練習場を作れないだろうか」というプランである。もちろん、少年野球なども利用できるのがいい。
 まだ、思いついたばかりだが、これは絶対に実現したい。さしあたって、必要なのは建設資金である。ポーンと援助してくださる「タニマチ」などは望むべくもないから、多くの人の知恵や力を借りなければならない。
 例えば、廃校や廃工場などの跡地はないだろうか。羽村リトルシニアチームは、保護者をはじめ様々な人の努力で、焼却場敷地の一角に屋外練習場と屋根付きの簡易な練習場を手作りで完成させている。その成果は今年3月の全国優勝になって表れた。
 我々もそれを見習いたい。今、あれこれと考え始めたばかりだが、これから進行状況をここに書き込んでいくつもりである。

ジャイアンツ交流試合の顛末

2005-07-16 | プロとアマ
 今年の1月のことだったが、読売巨人軍の2軍が「企業チームだけでなく、クラブチームにも胸を貸すよ」といっているという話を聞いて、私は真っ先に手を挙げたところ、スポーツ報知や東京中日スポーツが記事にしてくれた。
 すると、すぐに巨人軍の末次スカウト部長から電話があり、お会いすることになった。末次氏は、クラブチームについていろいろ情熱的に考えており、私もレポートをさしあげた。
 その結果、7月に西多摩倶楽部との交流試合が開催されることになった。これには倶楽部部員も大感激で、選手たちの練習も一段と熱心さが加わった。
 最も長い伝統を誇る巨人軍がクラブチームと対戦するのは、6月の全足利クラブ(もちろんクラブチームの名門!)が嚆矢となるはずだった。
 ところが、全足利クラブとの試合は雨で中止となり、西多摩倶楽部が第1号となると知って、ますます私たちのモチベーションが高まった。
 しかし、天は全足利クラブに同情したのか、試合予定の6日、勇んでジャイアンツ球場に乗り込んだものの、無情にも雨・・・。選手たちの落胆ぶりは、私も声をかけにくいほどだった。
 が、すぐに選手たちの目が皿のようになった。というのは、雨を避けて室内練習場に入ったところ、ファームの選手諸君が練習をしていたからだった。ピッチングであれ、バッティングであれ、プロの選手の練習ぶりは、大いに参考になる。私が黙っていても、部員たちは一つでも多くそれを知ろうとしたのだ。
 すると、巨人球団の大塚氏が、練習場を使って宜しいと言ってくださる。感謝々々である。部員たちは初めてプロの室内練習場とその器具を利用させていただいた。
 たまたま仁志選手が居合わせ、大学時代の先輩後輩の礼にのっとって、丁寧に挨拶してくれる。思わず、気軽に「時間があるならコーチしてくれよ」と頼んだところ逃げ出してしまった。が、じきに戻ってきて手に3本バットを持っている。なんと、「これでもお役に立つなら」と進呈してくれた。ありがたいことである。持つべきものは良い(!)後輩である。
 選手たちはすぐにそのバットを握り、コツコツ叩いたりして曰く、「おい、さすがにプロはいいバットを使っているなあ」とささやいていた。貴重な用具をよくぞ寄付してくれたものだ。
 天が雨の代わりにくれたすばらしいプレゼントだった。

プロローグ

2005-07-16 | ニューアマチュアリズム
 西多摩倶楽部(昨年から私が監督をつとめています)の若い選手に「カントクもブログでも作ってみたらどうですか」とそそのかされて、「清水の舞台から飛び降りる」ような気持ちで作成してみました。
 近年の野球界の状況を鑑みて、アマチュアとプロフェショナルを繋ぐ新たな野球構想ーー野球を愛し、野球のすばらしさに感動して、人生を彩り、豊かにする企てーーを創造したいと願って、第一歩を踏み出しました。
 それが私のニューアマチュアリズムのプロローグです。