谷沢健一のニューアマチュアリズム

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谷繁捕手のミット(その2)

2007-08-27 | YBC前進
 普段は谷繁君を「しげ」と呼ぶことが多い。「しげ!頼みがあるんだ。使い古しでいいから、うちのチームにミットをプレゼントしてくれないか」我ながら図々しい頼みである。
 ところが、谷繁君はすぐにスクッと立って「いいですよ。ちょっと待ってください」と言うなり、ロッカールームへ走っていった。数分後に、「どうぞ!使ってください」
 差し出されたミットは、少し小ぶりでたっぷりとオイルが浸み込んでいて光沢豊かな、手入れの行き届いた絶品であった。ほんとうに驚いた。まさか今使用しているものを!
 捕手というポジションの門外漢の私でさえも小躍りしたくなるような瞬間だった。何よりも嬉しかったのは、練習中であったにもかかわらず、すぐにロッカーに走ってくれた谷繁選手の誠意と、私のYBC活動に最大限の敬意を払ってくれたことと、クラブチームの選手の心理をすぐさま察知してくれたことだった。
 翌日の国際武道大との試合前に、「Shige」とイニシァルの入ったミットを川村君に手渡した。一瞬、言葉がなかったが、すぐに「有難うございます!!」と満面に笑みが広がった。加藤副部長が「その谷繁ミットはチームに所有権があるが、川村!お前に独占使用権を与える」とわざと小難しい言葉で言い、「もちろん、丁寧に手入れして管理するんだぞ」と付け加えた。
 普段よりも数千デシベルも大きな声で「ハイ!」と答えて、ミットを手にシートノックに飛び出していった。試合には敗れたが、ミットの捕球音だけは相手よりも数段上回っていたことを、谷繁選手に報告したいと思う。
 帰り際、瀬尾君が「監督さん、井端さんのバットが見たいんですけど・・・プロって、どんなバットを使っているか・・・」どうも遠回しの「おねだり」のように聞こえた。久保田コーチがいわく「谷沢監督がプロ選手からモノを戴いたら、中継の解説でもその選手に気を使うことになるかもしれないって、うちの選手はわかりますかねえ」。
 それが聞こえたのか、頭を掻きながら帰りの車に乗り込んでいった瀬尾君の気持ちもよく分かる。もう何年も前から、私は「けなす解説」は必要最小限にしているし、谷繁君ほどのレベルになれば、我々解説者が指摘しなくても、自らのプレーの良きも悪しきも十二分に知っているのだから、殊更に言うこともない。私の解説は、選手のプレーのすばらしさと野球というスポーツの難しさを、球場に来られないファンに伝えるのが力点になっている。ただ、時には苦言を呈するので、八方美人にはなれないのだが。

谷繁捕手のミット(その1)

2007-08-27 | YBC前進
 8月10日、この日は東海ラジオの中日巨人戦の中継解説のため、ナゴヤドームに早めに到着した。午後3時前と言うと相手チームのアップも始まっていないので、打撃練習の打球音が耳に響いてくる。打撃順の最後になるとウッズ、井上両選手の白球が鮮明な弧を描いて外野スタンドの椅子を直撃する。注目の一戦のせいか、打球音の谺(こだま)には反響の空しさも皆無で、ただただ力強さが耳を打つ。
 暫く練習を見ていたが、ティー打撃を終えた谷繁捕手がやって来て、打順を待つべく腰を下ろした。と、私の嚢中に電球がパッと点いた。私の足は谷繁君のもとへ向かっていた。
 昨年、小田捕手からYBCに望外のプレゼントがあった。ミットの寄贈である。プロが使用している用具はアマチュア選手にとっては、高嶺の花である。「プロはどんなグラブを使っているんだろう」と我が雛鳥たちが話しているのが聞こえることもあった。当時のYBCは、正捕手(今は北信越リーグで活躍している)の故障などで、捕手難だった。それで、他ポジションからコンバートを繰り返していた。タイミングのよい贈り物だった。私の期待通り、小田ミットは捕手難解消のカンフル剤になり、公式戦の初勝利に結びついた。
 そのミットも捕手たちが頻繁に使い続けたことで、最近はキャッチングの際の「バシッ」という良い音も鈍くなり、投手陣の懸命の投球までもが弱々しく感じられるようになっていた。
 2年目を迎えたYBCは、甲子園組の川村雄次君(広島商-帝京大)の加入で、捕手陣も引き締まりつつあり、藏重投手コーチからも「プロ仕様レベルの良いミットを、川村に使わせてやりたいですね」と言われもしていた。選手や若いスタッフたちは、差し入れなら飲料水1杯でも「さもしい」くらいに喜びを表し、争奪戦を繰り広げることさえある。しかし、藏重コーチは、およそ物欲しがる言動はいっさい見せることはない。だから、その一言は心に深く残った。
 しかし、チームが一選手の用具を無料で用意するわけには行かない。不公平になるからだ。

父の看病・介護(その2)

2007-08-18 | 個人的な話題
 父はまじめで頑張り屋である。父の兄弟は異母兄弟を含めると12人。呉服商の三男である。柏の役場に務める公務員だったが、スポーツ好きが高じて、柏駅前裏通りの猫の額のような土地を譲り受け、運動具店を始めた。それが私が生まれた1947年だと聞いている。
 4年に1度のオリンピックのとき、深夜まで雑音の入るラジオに聞き耳を立てて、日本人選手の成績に一喜一憂していた。翌早朝、必ず店頭に日本選手の競技結果を張り出していた。父は趣味も多彩で、店の前に本体の店そのものよりも大きく藤棚を張り出して、毎年5月にはそれが紫色に染まった。
 私が小学生の頃は、頻繁に問屋に連れて行かれ、商品の仕入れを手伝わされた。父は問屋の意向を無視して、売れそうな(言いかえると、自分の客が喜びそうな)商品だけを問屋の棚の手前からでも奥からでも引っ張り出す。野球場やキャンプ地などで、当時の問屋のスタッフと遭遇することがある。そのうちの何人もが「谷沢さんのお父さんの注文には、いや~参りました」と笑って話してくれた。
 だから、浅草橋や御徒町、上野の問屋街は懐かしい。商品の納入の際、私もオートバイの後部座席に乗せられて各学校を廻ったものだ。野球用品が良く売れる時代が到来すると、ユニフォームのロゴマークのデザインも引き受けて、母と共に一晩中ミシンの音が鳴り止まなかった。無駄のない効率の良い経営は父の性格も反映していたのだろう。
 父の一人暮らしは心配でもあったが、父の意志を尊重し、私の妹・恵美子も柏に住んでいるので任せていた。父は自分で食事を作るし、体調が少しでも悪いときは、長年診てもらっている岡田病院に行っていた。岡田病院は地元で長く開業している評判の医院で、かつては故・岡田敏夫先生が谷沢健一後援会の副会長をしてくださった。会長の歯科医の故・榎本赳夫先生と並んで大の野球好きで、地元の応援者を大勢集めて激励してくださった。
 6月29日、父はその岡田病院に入院した。5月頃から左足が痺(しび)れると言っては薬を服用していたが、徐々に食欲が減退して、食も細り、身体は痩せ細って消耗していった。懇意でお気に入りの病院といえ個人病院だから、私の妹二人が交代で泊り込んで看病していた。そして、完全看護の病院の受け入れ態勢が整うのを待った。
 危篤状態で瞳孔が開いたのが二度、その度に処置が敏速適切で、最悪の危機を回避した。そして、8月8日午前10時、点滴器具を装備したまま、救急車で大病院への移送できた。
 私の心の中に様々な思い出が蘇り、様々な想いが去来する日々が続いている。たとえ「車椅子生活」を余儀なくされるとしても、頑固な表情で私を凝視する父に1日も早く戻ってほしいと、切に祈っている。

父の看病・介護(その1)

2007-08-18 | 個人的な話題
 7月に一度だけ認(したた)めてから今日まで、ブログから遠ざかっていた。この一月半、入院中の85歳の父の容態が幾度となく危急を告げたからである。主治医は、「熱が下がり危機的な状況から脱出したので、毎日の面談・説明はいったん本日までとします。ただし、状況が変化した場合は臨機応変に説明の機会をつくります」と言って下さっている。とはいえ、肺炎や敗血症の心配があるので目が離せない。
 病名は「急性循環不全」、自力で摂食できず点滴で栄養を補い、抗生剤や血液製剤で血圧や血糖値をコントロールしている状態である。意識は鮮明なときもあれば薬の投与などで混濁するときもあり、高齢で認知症も進行している。だが、私の二人の妹をはじめ家族の見舞いについては、誰が病室に来ているか敏感に察知する。
 母が逝去後10年の間、頑固一徹でマイペースの性格もあって、父は一人で生活してきたが、それに先だって、15年前に、長年営んできた「スポーツ店」を閉めた。年齢のせいもあるが、柏市駅前の大型店出店や再開発の波に抗しきれなかったためもある。以後、郊外に移り住んで、父と母は二人で民生委員やシルバー会への貢献など、「お役に立つ」仕事をするようになった。
 ただし、母はそういう生活をとくに望んではいなかったようだ。ほんとうは、温泉旅行など、老後をゆったり楽しみたかったはずだ。私がプロへ入団してから間もなく父が肺結核で倒れ長期療養を余儀なくされた時も、女手ひとつで店を切り盛りしていた。千葉ロッテの小宮山君が芝浦工大柏高に通学していた頃、たびたび野球用品を買いにきたそうだ。「谷沢さんのお袋さんには良くサービスしてもらいました」と今でも言ってくれる。(そのぶん、小宮山君はYBCのために野球用品の提供など、人知れずお返しをしてくれている。)