谷沢健一のニューアマチュアリズム

新ドメインに移行しました。

日本シリーズTV解説裏話(その2)

2007-10-31 | プロ野球への独白
 中継ブースレベルにマスコミ専用食堂がある。食事を摂りに行くと、野村監督がフジTVの植村氏とお茶を飲んでおり、私もご一緒させていただいた。下戸なのに少し赤ら顔のノムさんは(血圧は大丈夫なのだろうか)、洒落た白いYシャツにノーネクタイでリラックスしていた。監督の年俸ランキングなどをおもしろく暴露して語るほどだった。
 野村氏「今日はおしゃべりな解説陣が沢山いるから、ワシは楽させてもらうわ」(これは江本氏を意識しての発言だが、もちろんご本人がもっともよくしゃべるのを承知の上での冗談である。)
 私「第1戦の中継で、東尾から随分と突っ込まれていましたねー。配球の組み立ては捕手だけではないとか、捕手よりもむしろ投手の方が考えていますよなどと・・」
 野村氏「人がどう言おうが関係ない。ワシも70も過ぎたら、自分のことだけでせい一杯や。」
 東尾氏も舌鋒鋭利派である。ひょっとして、野村監督が東尾氏を怒らせたのかも知れない。
 完全中継が18時10分から始まった。試合は初回から中日の大量得点で、僅差のゲームでこそ生かされる蘊蓄(うんちく)解説も発する場がない。ノムさんは回りの状況を窺(うかが)いながらの物静かなスタートとなってしまった。それでも事実上ゲームが決まってしまった中盤から、野村節も調子がでてきて、とくにCM中は面白かった。選手時の東尾・森安両投手のえげつない内角攻め、日本ハム新スタッフの批評、落合監督の継投法、楽天のコーチ人事、興味は尽きることはなく楽しませてもらった。
 というわけで、大味な試合をよそに、なかなか緻密な話が私には収穫だった。

日本シリーズTV解説裏話(その1)

2007-10-31 | プロ野球への独白
 一勝一敗の後、舞台を名古屋に移した日本シリーズ第3戦のTV中継は、東海テレビ担当でフジテレビ系列の放映だった。早大での野球実技授業を終えて新幹線に飛び乗り、3時頃にナゴヤドームに到着してすぐにグランドレベルに降りていくと、高木豊氏が近づいてきて「谷沢さん!今日は大変ですね。野村さんと江本さんですよ」「ああそう、エモヤンなの」「僕らは高見の見物ですよ」とニヤニヤしている。
 私の解説者一年目のこと、ある試合で江本氏と組んだ。たまたま話題が「カモと苦手」に及んだ。当時から舌鋒(ぜっぽう)鋭い江本氏だったから、それに話を合わせようとして(同時に新米解説者としては話を面白くしようとして)、江本vs谷沢の対戦成績を引き合いに出した。現役時代は彼の投球術に対して私のバットがかなり上回った年もあった。その話を言葉にしかけた途端に、彼が激しく怒り出した。
 この時はじめて私は、「辛辣な批判でならしている人は、逆にマイナス評価がささやかにでも自分に向けられたとき、逆上することが少なくない」という経験をした。野球一筋に生きてきて人物判断力が未熟だった私には、得がたい体験だった。(もっとも、私の人物判断力はまだまだ低いらしく、昨年もCSのプロ野球ニュースで、突然、土橋氏に罵声を浴びせられた。その怒りの理由はいまだによくわからない。)
 それ以来、フジの中継スタッフには、「江本・谷沢」のコンビはご法度となったらしい。だから、3年程前にこのコンビをセットした担当者は周囲から「なんというシフトをしたんだ!」と驚愕の声を聞かされたというが(実際は、野次馬根性でおもしろがって組んだのかも知れない)、江本氏もすでにりっぱな紳士だったし、私も少しは分別を備えるようになっていた。周囲の野次馬たちの期待を大きく裏切り、平穏に番組は終わった。もはや互いにわだかまりなどは消えていたのだ。
 しかし、それを知る者は意外に少ないらしく、あいかわらず「江本・谷沢は犬猿の仲」説を信じている人もいるようなのである。高木氏(彼とはけっこう何でも話し合っている仲なのだが)の笑いもそれだった。
 今日は球界の重鎮・野村監督が登場するから「野村-江本の南海師弟コンビ」が主役で、私は脇役に徹するべきだと内心で勝手に決めて、打ち合わせに臨んだ。「第1戦はテレビ朝日系列中継で視聴率17%でした。皆さん、20%を目標に頑張りましょう」と局側から檄が飛び、そういえば野村氏はテレ朝にも出演していたなと思い出した。

クラブチームと独立リーグ(その4)

2007-10-18 | ニューアマチュアリズム
 今後の予測を端的に言えば、アマ企業球団の衰退を補う形で、クラブチームは一時は増加したが、その存続は容易でなくなるだろう。9月の野球教室で、川口和久氏(広島-巨人)と話を交わした。彼は周知のように、新チーム・鳥取キタロウズの監督になったが、「いや、僕は辞めました。クラブの経費の問題も大きいのですが、他にもね。一度茨城GGに来てもらって有料試合を開催したところ予想だにしない大きな収益があったんです。すると、皆さんが勘違いしてしましてね。自分たちも頑張れば、茨城GGのようなことが出来ると思ったようでして。萩本さんのような特別な人がいない限り、そのマネをしても無理だと考えないんですからね。」
 川口氏は、萩本氏の野球が野球の範疇に入っても、異端に留まるものであることをすぐに悟ったのである。私は、日本野球文化の豊穣化という観点に立てば、萩本さんの野球スタイルもまた許容されるべきだと思うし、実際、茨城GGの岡本代表から試合申込が3回あって、3回とも受諾し、対戦した。正統も異端も両方包括してこそ豊穣だと言うべきである。なぜなら、日本の野球文化はまだまだ貧しいのだから。
 私の右腕とも言うべきYBCのメインスタッフとして、一生懸命指導してくれている久保田コーチも、独立リーグへの選手流出に複雑な思いを抱いているようだ。「週末だけの全体練習や恵まれないグランド確保などに、選手たちの一部は不満なのだろう。高校・大学で部活動に慣れきっていると、インフラが整備されていることなど当たり前だと思っている。企業チームが廃部になってクラブチーム化した場合は、グランド確保が容易だが、それはクラブチームでも例外だとわかっていない。YBCは、月の中旬になると、監督が翌月のグランド確保の交渉に奔走しているのだ。それが何を意味するか、君たちにはわからないか」と、選手たちに訓示したと言うが、どれだけ選手の頭と心に響いただろうか。
 久保田コーチだけでなく、川島・蔵重両コーチも同じ思いだろう。しかし、プロ球団ーアマ企業球団ー独立リーグ球団ークラブ球団というふうに事実上、序列化されつつある昨今の状況下で、もっとも「底辺」で野球組織を維持することは、それなりの誇りと喜びがある。
 その喜びの一つは、大学・高校での野球を終えて、それでもなお硬式野球を続けたいという情熱のある若者たちが、また何人もYBCに飛び込んでくることである。
 さて、来年はどんなチームに飛躍できるのか、去年と今年でレギュラーの半分が入れ替わったように(そして、戦力ははるかにアップした)、きっと有望な雛鳥がフェニーズに加わってくれるだろう。

クラブチームと独立リーグ(その3)

2007-10-18 | ニューアマチュアリズム
 私は、プロ球界が責任を放棄している部分を、ひじょうに微力であるのを承知で少しでもカバーできたらと考え、まがりなりにも僅かずつ実行しているつもりであるが、同じような思い、似たような思いの人たちだっている。たとえば石毛氏だ。ただ彼が立ち上げた独立リーグは、あくまでプロ球界への「選手資源」の提供という意図のように見えたが、石毛氏が離れた今は、いささか経営形態も変化しているようである。
 先日、四国在住の知人と話す機会があったが、「高知球団の経営が危なくなってましてねー。地元の人間は独立リーグなどにあまり魅力を感じていませんでね。若者が少ない給料で野球だけやっていても碌なことありませんよ。もっと野球を基盤としてでも良いから、社会人教育をして欲しいですね」とかなり辛口の言葉が続いた。このブログにも書いたように、YBCの3月四国遠征の際に、私も少しは現状を把握できたが、まさに厳しい口調であった。
 それは、独立リーグ批判というよりも、そこへ集まる選手たちへの叱責だった。確かにうなずける部分も多く、私は反論せずに耳を傾けるだけだった。YBCの若い選手・スタッフをみても、人間として、社会人として未熟な者のほうが多い。彼らに対しては、事細かな言葉で指導するよりも、年長のスタッフ・選手たちの行動と短く適切な言葉で範を示すやり方をとってきた。
 社会人としての教育はむしろ、土日のYBCでの練習や試合でよりも、彼らが勤務する職場で行われるはずだ。それがどうも不十分なのかも知れない。だいたい、首都圏はアルバイトなど不定期な仕事に就くことをはじめ、生活資金を調達するのは他地域よりもはるかに容易である。そのため、少しでも気に入らないことがあると退団して次へ移るというクラブチームを渡り歩く者が出てくる(そのせいか、できるだけ部費を納めずにいて、けっきょく払わずに他チームへ行く者までも現れる。YBCにも4名もいた。情けない限りだ)。つまり、選手の流動性が高くなるのである。企業では、アルバイト社員の教育まで手が回らないのだろう。
 その点で、他地域は異なるようだ。地方にクラブチームが多いのは、一つには選手が一つの職場に定着する率が高いせいかもしれない。地元企業の正社員や既婚者が首都圏のチームより多いと思われるが、どうだろうか。
 オール高崎の三木部長と話をした際、群馬に来年BCリーグ球団が生まれるというので聞いてみた。「うちからBCへ行くのはいないですよ。プロといっても給料が安いですからね。後の保障もないし、うちの選手の状況から言えば冒険ですよ」
 私は「羨ましいね。三木さんのチームに賭ける想いと情熱は人一倍だからなー。選手たちはそれを肌で感じているんでしょう。また機会を見て試合をやりましょう」といって電話をきった。確かに地方には三木氏のような人が率いるチームは多い。

クラブチームと独立リーグ(その2)

2007-10-18 | ニューアマチュアリズム
 彼等の決意を聞いて「推測通りだ」と思った。この2人の実力ならば、昨年BCリーグに入団したYBC出身の4人よりは活躍するだろう。その4人は、残念ながら今レギュラーにさえなっていない。もっとも、うち1人は謹慎処分を下したら退部した程度の選手だし、別の2人は体が故障していて、試合に十分でられなかった選手たちである。
 それにしても、能力の評価基準は難しいもので、自己評価と第三者評価には隔たりがある。また能力は、本人の努力と練習環境と指導陣の指導力とによって大きく変化するものである。プロ野球でもドラフト下位指名者がレギュラーを掴み一流選手になることが多い。しかし、独立リーグやクラブチームから育成選手として指名されプロ入団の夢が叶った選手はまだ数名だし、その彼らも1年で整理されてしまうかもしれない。悲しいかな、ついこの間、それが現実になり、私もよく知る1人が解雇された。プロ球団はビジネスライクだ。けれども、日本野球の最高峰はプロ球団だから、それを目指す者は引きもきらない。それが大相撲とは異なるところだ。
 硬球を一度でも握ったら、軟球では物足りなくなり、体の動く限り、硬式野球をやりたくなる。ところが、その環境がほとんど整っていない。プロ球界のリーダー層の多くは、99%自分の球団のことしか考えない。2004年のスト騒動以降、「ファンを大切に」という掛け声が高まったが、まだ自分の球団のファンを増加させることに精一杯で、野球ファンそのものに目が向くまでにはなっていない。まして、実際にボールを握って野球をやりたい人間たちのことは念頭にない。せいぜい、将来、プロで活躍する可能性のある大学生・高校生に目を向けているだけだ。その高校生にプロが直接関与できないようにしてしまっている原因を作ったのも、プロ側に大きな責任がある。
 しかし、日本の野球文化を「実践」で支えているのは、プロ野球だけでなく、社会人野球・学生野球・少年野球でもあり、むしろ野球人口からいえば、プロ野球は少数派である。そして、企業経済の変化でアマ企業球団が僅少化する中で、かろうじてアマクラブ球団がそれを補っている。社会人野球・学生野球・少年野球のうち、将来のプロ野球界入りの可能性がある部分には日があたっていても、そうでない部分は事実上、無視されている。それを拾い集める役割を果たすかのように、四国次いで北信越に独立リーグが誕生した。つまり、プロ球界は、日本の野球文化を豊かにしようという志向をもっていなかったし、今もまだもっていない。日本の野球文化の豊穣化は、アマ球界が担ってきたし、今も担っているのである。

クラブチームと独立リーグ(その1)

2007-10-18 | ニューアマチュアリズム
 9月の日本選手権千葉県予選を終えたある日、YBCのトップチームの2人から「監督の所に伺いたいのですが、ご都合は如何ですか」と電話があった。彼等の話したいことは推測できた。「おそらく北信越のBCリーグのテストを受けたいのだろう。新たに2球団増え、採用枠が広がるから」と予想はしていた。同時に「それぞれまともな企業に職を得ているのに、退職して北信越リーグに夢を描くのは、20歳台後半という年齢からいって、最後のチャンスと考えているのだろう」と思い、2人の考えをじっくり聞いてみようとも思って、夕食に招いた。
 1人はこう言った。「11月4日にBCリーグのトライアウトが実施されます。受かれば会社を退職します。これまで幾度となくプロ球団(NPB)のテストに挑戦してきました。今でも目標はNPBにあります。とにかく、ボクは毎日でも野球がやりたいのです。給料は10万でも15万でもいいんです。お金ではありません。前のクラブチームからYBCへ移籍してきて、本当に野球の好きな自分が分かってきたんです。YBCに入団したおかげで、南関東大会にも出られ、独立リーグやプロの2軍との試合にも出られました。その対戦で自分の力に自信を持てました。監督に教わった技術も実践でき、かなり身にも付きました。」
 もう1人はこう言った。「どん底からスタートしたYBCが、今どんどん強くなって良い結果を生んでいる途上だというのに、チームを抜けるのは残念です。監督にはよく試合に使ってもらいました。それだけでなく、就職口までも紹介していただきながら、本格的に野球をやりたいために退職してしまいました。BCのテストに受かる保障もありませんが、BCリーグの選手たちからも随時情報をもらっています。ピッチングの組み立てや守りの大切さをYBCで学びました。自分の潜在的な可能性を試してみたいのです。」