谷沢健一のニューアマチュアリズム

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NPO法人YBC(その2)

2007-06-23 | ニューアマチュアリズム
 今年に入ると、川島君の活動量は増大した。海外へ出かけることも多い多忙な仕事の合間を縫って、89番のユニフォームを着用し、精力的に一塁コーチにも立ち、ノックや打撃投手も務めてくれている。かつては日本IBMの野球部初代監督として采配を執っていただけに、選手たちへのアドバイスにも、一言々々、含蓄に富んでいる。
 川島君の尽力によって、YBCはNPO法人の登録は終えた。今後は、我々の活動に、更なる前進と行動の責任が要求されることになる。自己利益のためではなく、社会への貢献を使命としなければならない。
 2年後には柏の葉野球場も完成する。その時がはたして、「認定NPO法人谷沢野球コミュニティ千葉」の本格的な地域貢献開始の日になるだろうか。千葉県営柏の葉野球場の建築の目的が達成できるように、行政は動いてくれるだろうか。そして、それにYBCは呼応できるだろうか。県当局は動かずして机上の書類を積み上げるだけで、県民に動け動け、書類を書け書類を出せと命じ続けるだろうか。
 今月二度(2日、16日)実施したオール沼南との野球教室兼合同練習の目的は、我々の理念に即した活動である。YBCのスタッフ・選手とオール沼南のスタッフ(もちろん、熱心な保護者の方々も含む)・選手が、篤志家の提供してくれている手作りの野球場(というより野球広場)という空間を活用して、心と身体を鍛え、野球を通してふれあい、かけがえのない共有感を醸成している。
 YBCが借用するようになって以降、照明灯(というよりも投光器)の数も増やして下さった。そのお礼も兼ねて、YBCは、アーム式打撃マシンを設置して、オール沼南の子供たちにもどんどん使用してもらっている。この打撃マシンは、じつは吉田加工所(プロ球団のほとんどに打撃マシンを提供している知る人ぞ知る最高技術の職人メーカー)が信じられない条件で貸してくださったものである。貸与の際の吉田社長の言葉が「え!? 谷沢さん、YBCにはスポンサーがいないんですか! 手弁当ですか! それでは私も協力させてもらいますよ!」だった。なんと嬉しい言葉ではないか。
 5月16日には、第2グランドに打撃ゲージも設置した。今のところ合同練習時の打撃教室やティーバッティングにしか活用できていないが、さらに、打撃ゲージにドッキングできる組み立て式の鳥かごを製作中である。それなりの出費になるが、できることはやる。
 YBCの行動が稀有に見えて愚かしく見えるとしたら、それは人に「してもらう」、人に「させる」ことに慣れすぎていて、自分は汗も血も涙も流すことのない人たちの持つ目だろう。

NPO法人YBC(その1)

2007-06-23 | ニューアマチュアリズム
 6月8日、総務庁から一通の文書が届いた。谷沢野球コミュニティ千葉がNPO法人(特定非営利活動法人)として認証されたのだ。あとは2週間以内に登記登録の手続きに済ませるだけである。「NPO法人」としてまっとうな活動を続ければ、1年後に「認定NPO法人」の認可がおりるだろう。
 YBC創設準備期(2005年8月)に、加藤副部長と二人で、柏市のNPO設立相談事務所にリサーチに行った記憶が甦ってくる。ボランティアの女性スタッフから丁寧な説明を受けて、一層NPO活動のイメージが膨らんだ。千葉県だけで活動するのであれば千葉県に申請をしなければならないし、二県以上に跨る場合には総務庁(内閣府)の管轄だとその時に知った。どちらにするかの決断は実際の活動を行う中で下すこととして、YBC創設の「設立趣旨」「理念と活動」を作成していった。だからCP会員やNPO contributionという造語は、創設準備段階の過程で誕生し、派生したものである。
 創設時からこのブログを読んでいただいている方々には「さもあらん」と思ってもらえるだろうが、チーム運営だけで身体が幾つあっても足りない状態であった。当初は定期的に理事会を開いていた。様々の課題の中でも、年間スケジュールの決定、年間費用の概算、チームスタッフ・選手の参加形態の確認、スタッフの役割分担、スポンサーシップの考え方等等、それぞれ確定していったが、項目によっては一日も早い改善を求める声も出て、その対応もかなり迅速に実行したつもりでいる。
 チームの状況・雰囲気の変化が顕著な時には、スタッフ・選手にレポートの提出も促した。私と加藤副部長は皆に最小限の共通理解を求め、即座に出来ることとすぐには出来ないこととに分類・整理しながら、一歩前進、半歩後退、半歩前進、半々歩後退を繰り返し、水の流れが澱まぬように気をつけた。
 このような時期に、川島理事と根本マネ(今年3月に退団して熊球クラブへ移籍)が「NPO申請はオレ達がやるよ」と申し出てくれた。とくに川島君(大学野球部の同期生だから「君」呼ばわりをしておこう。ちなみにYBCで私を「谷沢」と呼び捨てにする唯一のメンバーである)のお陰で、遅々として進まなかったものが一気に加速していった。

6月は大学との交流戦(その4)

2007-06-21 | YBC前進
 17日の城西国際大の水田球場(学園創立者・故水田三喜男氏に由来する)はJR外房線大網駅で下車し、車で10分程だった。
既に到着していた加藤副部長、久保田コーチが、今春から就任した佐藤清君とクラブハウスで談笑していた。
 じつはYBC創設の際に、佐藤君に助監督就任を依頼し、いったんは快諾を得たが、諸事情から実現しなかった。早大監督時代は、全国の高校を巡って、藤井、鎌田(いずれも現ヤクルト)、江尻(現日ハム)といった球児の心に「野球をやるなら早稲田」という思いを芽生えさせ、十二分にメンバーを整えたところで、野村氏に後任を委ねて潔く去った出処進退は見事だった。
 私はプロ経験者だし、まだ客員教授でもなかったから、関わることが禁じられていたため、可能なギリギリのところで援助するしかなかったが、その時に佐藤監督の作り上げたシステムをサポートした面々が山本氏や加藤氏であり、ともに参与、副理事長として今YBCを支えてくれている。
 山本参与は中学からの早稲田マンであり、「山本の頭を割れば脳みそが臙脂色しているだろう」とからかわれるほど、早稲田一色の言動の男だが、加藤副理事長(フェニーズ副部長)はもともと早稲田とはまったく関わりがないのに、小宮山君(現ロッテ)をはじめ、随分と早稲田野球部の面倒を人知れず見てくれていた。YBCの誕生はその時に運命づけられていたのかも知れない。
 その佐藤監督が就任したのだから、城西国際大は強くなるに決まっている。今年初めに就任内定という電話を貰ったときには、私もたいそう嬉しかった。JOSAI Internationalのユニフォーム姿に身を包み、満面の笑みを浮かべて迎えてくれた佐藤氏は、すぐに道方康友氏(JFE勤務)を紹介してくれた。マックスと異名を取った打撃王の佐藤監督の片腕として投手陣を指導する頼もしいコーチである。
 公式戦以外に、関西方面にも遠征して、城西国際大の名を広めていくとか、様々なプランを語る佐藤監督の目は、実に澄んでいて、アマチュア野球人の典型的な姿を見ている思いだった。試合は一勝一敗の五分に終わったが、来年ははたしてどうなるか、こちらも大いに腕を磨いて次回も対等に戦いたいと、ひそかに思わされたのだった。

6月は大学との交流戦(その3)

2007-06-21 | YBC前進
 10日の山梨遠征は、入手したばかりの荷物車もフル稼働だった。これまでは木藤、大野君らが自分の車で運搬してくれていた。そういう寄与はYBCの基本精神であるとはいえ、大いにその労に感謝したい。
 山梨学院大の米田俊次監督は2年後輩である。昨秋、遠征の話が出た時「じきに全面人工芝の球場が完成しますから、その時に是非」ということだった。米田氏は小兵だが報徳学園で、甲子園に春夏合わせて4回出場。同じ年に春夏連続でホームランを打った高校球児第一号である。早大時代も3年まで外野手として鳴らし、肩の強さを買われて4年時は投手としても起用された。阪神・オリックスの監督をつとめた中村勝広氏の同期である。卒業後は、伊勢丹に勤務しながら、少年野球を指導していた。シンガポール伊勢丹時代には、積極的に野球を広め、それから山学大の監督に就任した。
 JR石和(いさわ)温泉から車で5分走ると球場に着いた。陸上競技場(駅伝の強さはいうまでもない)と隣接し、ナイター設備も整った素晴らしい施設である。試合は4対5のサヨナラ負けだった(森君が「僕がもっと落ち着いて2度もミスをしなければ…」と悄気(しょげ)ていた)が、学生らしいきびきびとしたプレーには、米田君の魂のこもった指導が十二分に浸透していた。試合途中から晴れ間も見えてきて、外野後方には雲海に浮かぶ山並み、バックネット後方には南アルプスが雄大に聳え、そのパノラマは壮観であった。この環境で育成醸成される山梨学院大は、じきに大学野球界を席巻するだろう。

6月は大学との交流戦(その2)

2007-06-21 | YBC前進
 さて、なんとか空いている日曜の夜間使用で、球場は確保したが、肝心の相手が見つからない。クラブチームは大会予選の最中で、おいそれと日曜の夜に習志野までやってきてくれそうにない。
 そこで頭に閃いたのは大学チームである。どこも春のリーグ戦が終了したばかりだから、スケジュールに余裕があるかも知れない。すぐに、いくつかの大学の監督に連絡を取った。こういう場合はやはり先輩風を吹かして無理を通すしかない。というわけで、大学の後輩たちに白羽の矢を立てた。
 6月3日は、弱体だった早大を監督として改革して4連覇の礎を築いた佐藤清氏の誼で、昨年からこちらのわがままをきいてくれる流通経済大。10日は、海外への野球普及にも実績のある米田俊次氏の山梨学院大。17日は、佐藤氏が今春から監督就任した城西国際大。24日は、授業での教え子が主務の東京大というふうに、4チームと対戦することになった。

6月は大学との交流戦(その1)

2007-06-21 | YBC前進
 現在、各地で都市対抗二次予選が真っ盛りで、部の存続を賭けて全国大会出場権の獲得に必死の企業チームさえある。クラブチームは、企業チームに挑んではいるが、ほとんどの場合、あっさりと蹴散らされている。一昨年、本大会に出場したNOMOクラブは非常に希な例で、そんなにうまくは事が運ばない。
 社会人野球の公式戦は、11月開催の日本選手権まで予定されている。だが、企業チームとちがって、クラブチームの大半は公式戦のゲーム数も少なく、予選での敗退とともに目標を失う。YBCも都市対抗予選で敗れたが、9月のクラブ選手権出場への道は絶たれていない。
 YBCは創部2年目のチームだけに、勝ち上がっていくにつれ、何事にも経験不足が露出する。それはただの練習だけではどうしても補えない。やむなく、大胆というか図々しくと言うか、無茶な行動にでることを厭(いと)っていられなくなる。
 例えば、練習試合の回数を増やすために、当初、6月の日曜日は全て習志野市秋津球場でのナイトゲームを予定していた。ナイター照明代は高く、しかも習志野市民料金でなく、外部者使用料金だから、懐が痛む。YBCのCP(つまりメンバー)には柏市民が10名以上いるが、習志野市民は1名である。「全員、柏から習志野に引っ越して、住民税を習志野市に払おうか」と、なかば真剣にいう者もいるが、すぐには無理である。
 申込に行ったスタッフの話だと、外部者(習志野市民以外)だとわかると、球場管理の窓口の人物の対応が、やたら冷ややかだという。地方出身のあるスタッフの言だと、「上京以来、東京、神奈川、埼玉、千葉と、多くの関東の人たちと接してきたが、どう考えても千葉県の人がもっとも不親切だ」そうだ。私が千葉で生を享(う)けたことを知っているのに、わざわざ言うのだから、よほど腹に据えかねることが幾度かあったのだろう。うーん、残念としか言えない。
 そういえば、私を除くYBCの理事ら幹部連(みな若い選手やスタッフから尊敬されている)の生国は、千葉、東京、北海道、静岡、佐賀である。しかし、幸いにも、柏生まれで柏在住の松田理事が立派な人格を示してくれているから、「千葉人=不親切者」論を否定できるのでありがたい。

ロッテvs中日、74年の再現(その2)

2007-06-02 | プロ野球への独白
 木樽氏との因縁は深い。彼は古豪の銚子商業。私は新鋭の習志野高。対戦は2度あった。最初は春季大会で、延長10回、私が木樽氏から本塁打を放って、1対0で勝った。内角に投じられた小さく曲がるスライダーを捉えたのだった。
 2度目は夏の県予選の決勝。スライダーは1球も投げてこなかった。習志野高は0対5の完敗に終わり、銚子商は東関東代表(当時は千葉・茨城2県で1校のみが代表)として、甲子園大会で準優勝の大活躍であった(優勝は三池工)。
 セレモニー直前の打ち合わせで、北村・森野両氏から説明があり、私は3塁側から打席に向かうことになった。「対決の内容はお二人におまかせします。ただし1球です」木樽氏と私は顔を見合わせた。木樽氏が「どうする?」という表情を浮かべたので、「せっかくの企画なので、打ちに行くよ」と答えた。
 グランドに降りて、3塁側=中日ベンチ前に出て行くと、森野氏が今江選手からバットを借りてきてくれた。持ってみると長くて重いバット(ホークス多村選手仕様)で、今の私には到底振れそうになかったので、目の前にいた荒木君に「バットを貸してくれないか」と言うと、すぐにベンチへ飛んでいって福留君のバットを持ってきた。
 福留君がベンチから「どうぞ!」というゼスチャーをしてくれたので、握ってみると、滑り止めがたっぷり付着していた。ということは、このバットを今まさに試合で使う予定なのである。それをわざわざ貸してくれた。福留君クラスの選手なら、だれでもバットに神経質になるものである。それを貸してくれるとは、その心意気が嬉しかった。
 まもなく電光掲示板に74年当時の映像が流された。私は三塁側の観客席(中日だけでなく、ロッテのファンもかなりいたようだ)の声援と拍手に両手を挙げてこたえた。久しぶりに背筋に熱い電流が走り、打席に向かった。
 一振りだけスイングをして打席に入り、木樽投手を見据えた。大きく振りかぶったフォームから山なりのストレートが外角の低目まできた。その瞬間、私の体はその方向に踏み込んでボールを捉え、ライナー性の速い打球が、ワンバウンドして三塁手・今江君の股間を抜いていた。彼は普通の始球式のつもりでいて、まさか私が打つとは思わなかったのだろう。遅れて差し出したグラブの下をボールが通過した。観衆の「ウオー」というどよめきが瞬時に起こった。
 控室として特別室を用意していただいていると当日近くに知ったので、急遽、加藤副部長とその友人、久保田コーチ、上村コーチ兼主務に声を掛け、「特優」の観戦となった。
 そこへ瀬戸山社長が挨拶に見えられ、一同恐縮しただけでなく、MDS担当マネージャーの米田容子さんが付きっ切りで私たちを歓待してくれた。ロッテ球団の交流戦の強さにも改めて感心したが、おそらく米田さんのような方々がそれを支えていることに納得してしまうのであった。そのすばらしさはいちいち書かないが、米田さんの気配りは見事だった。

ロッテvs中日、74年の再現(その1)

2007-06-02 | プロ野球への独白
 セパ交流戦がスタートした5月22日、千葉マリンスタジアムには中日を迎えていた。試合直前のセレモニーで私は打席に入った。投手は木樽正明氏。1974年の日本シリーズの再現である。当時は仙台を本拠地とするロッテオリオンズだったが、シリーズは後楽園球場で実施された。深まりゆく東北の秋の冷気と収容人員の少なさを考慮した選択だったが、この決断が地元のファンを怒らせ、翌年から川崎球場が一応のホームとなったものの、「ジプシー球団」とからかわれる状態だった。
 日本一を掴んだ球団がまともなホームグランドももてない、それがプロ野球の実態だったのである。つまり、持てるものは奢(おご)り、持たざるものは耐える、他の損失は我が利益なり、という状態だった(過去形で書くべきか、現在進行形で書くべきか、迷うところだ)。
 だが、ロッテは強かった。金田監督が拵えた投手王国は、冒頭に挙げたエース木樽、金田留広、成田の3投手に、先発・抑えに獅子奮迅の活躍をした若き村田兆治氏がいた。打者では弘田、山崎、有籐、ロペス、前田ら、強打者が並んでいた。我が中日が2勝4敗に終わったのは、弁解じみるが、巨人の10連覇をついに阻んだという快挙と、29年ぶりのリーグ制覇の快感に浸りすぎて、その余韻が大きすぎたためではないかとも思う。
 5月半ば、千葉ロッテ事業部の森野氏(前フジテレビスポーツディレクター)から連絡が入った。「交流戦初戦のセレモニーとして、74年の再現を企画している。当時のユニフォームを着て打席に立っていただきたい。投手は木樽氏です」
 「いいですよ。面白い企画ですね」私は即答し、急いで女房に電話した。「当時のユニフォームや帽子はあるか」と聞くと、「保管してありますよ」とあっさり答えられてしまった。記念のトロフィーなどと一緒に知人宅の倉庫に預かって貰っていたのだ。さすが我が女房と心の内で見直して、名古屋から東京に送ってもらい、バッグに詰め込んで、当日、球場へ向かった。
 控室で着替えようとしたところ、木樽氏は「現在巨人軍のスタッフとしてお世話になっているので、ロッテのユニフォームは勘弁してください」という意向だとの連絡が来た。木樽氏らしい義理堅さである。それで、2人ともスーツ姿の登場となった。最近、懐古調のユニフォームを着て応援している熱狂的なファンを見かけるだけに、33年前のユニフォームに袖を通せなかったのは残念であった。