谷沢健一のニューアマチュアリズム

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遠い五輪野球の金メダル(その2)

2008-08-24 | プロとアマ
 この文章を記している最中に、韓国の優勝が決まった。土壇場で、1点リードの韓国はストライクゾーンにクレームをつけた捕手が退場宣告を受け、一死満塁の大ピンチ。それを見事に凌いで悲願の金メダルを獲得した。
 アマチュアの五輪経験者たちが口を揃えて言うのは、「アマの試合はもちろんだが、とくに国際試合では、審判にクレームをつけるのは下の下だ。プロの感覚で審判に文句を言ったら、試合後の審判たちのミーティングで槍玉に挙げられるだろう」ということだ。韓国もそれを知っていたろうが、最終試合で堪忍袋の緒を切ってしまった。
 日本は、監督自らがずいぶん早く緒を切ってしまい、危うく退場になりかけた。審判に不信感を与えたことも敗因の一つだろう。また、捕球直後にミットを少しでもずらせば、ほとんどボールにとられるのも、アマの国際試合では常識だ。五輪強化費を使って「世界中からデータを集めた」と豪語したのだから、阿部・里崎・矢野の捕手陣に審判対策が伝授されていただろうが、捕手たちは実行していただろうか。ストライクゾーンに文句をつける前に(プロ意識丸出しでアマを見下す前に)、郷に入って郷に従っていただろうか。(じつは、これは私自身の自戒でもある。)
 それにしても、監督にすべてを負わせすぎではないか。○○ジャパンなどと表現される事態がおかしいのである。最高の権限をもつ組織のトップと、現場で総指揮を執るチームのトップとの間に、それなりの緊張感がなければ、必ず偏向と堕落が生じる。当人にそのつもりがまったくなくても生じるのは、歴史が教えている。
 そもそもJOC(日本オリンピック委員会)に加盟しているのは、BJF(全日本アマチュア野球連盟)である。これは、便宜上創設されたもので、実質的には、JABA(日本野球連盟)とJCBA(日本学生野球協会)である。これまでは、BJFが五輪代表監督を選んできた。永くアマ野球を支えた長船JCBA事務局長が、長嶋ジャパンを生みだし、星野ジャパンにつなげて昨年亡くなった。その直前に雑談する機会があったとき、私に「金メダルをとる最後のチャンスだから、五輪チームをアマからプロへ渡したのだ」と悔しさと期待とが入り交じった微妙な表情で語った。今回の結果を長船さんはどう天国で見守っていたか。五輪野球にプロを加えること自体、問題ではなかったのか。
 8月15日の朝日新聞で、作家の重松清氏が書いている。「星野ジャパンには、もちろんメダルを期待したい。でも、それ以上に「野球の魅力を世界の子どもたちに伝える」という大きな使命があるんじゃないか。(中略)グラウンドを見てごらん。野球っていうスポーツ、面白いだろう?」
 日本の子どもたち、世界の子どもたちに野球の面白さ・楽しさを伝えることを怠っている限りは、再び五輪で野球を見ることはないだろう。そして、ついに野球は世界スポーツにはならないだろう。21世紀の野球人(責任ある立場の野球人)を名乗る資格のあるのは、それを知っている者ではないだろうか。

遠い五輪野球の金メダル(その1)

2008-08-24 | プロとアマ
 NPBから全選手を選抜して編成した星野ジャパンこと五輪野球代表チームの試合は終わった。開戦前は「闘将名将、星野」とか「最高最善のメンバー」とか賛辞と期待一色だったファンの声も、今日からは手のひらを返して、批判の嵐が吹きすさぶだろう。
 8月13日から始まった予選リーグの初戦はキューバ。ベンチの映像を見ていると、スタッフも選手も重圧にがんじがらめだと感じざるをえなかった。「メダルは一番いい色(金メダル)しかいらない」という類の星野発言に示されるように、おそらく、指揮官の一挙一動が陰に陽に緊張過剰の心身の膠着を、全員に生みだしてしまうという素地があったにちがいない。
 とにかく、初戦から決勝リーグまで心身ともに相手を圧倒できるだけの力と結束を維持できたのか。強い興奮が100%以上の力を発揮させることもあり、その時の充実感は競技スポーツの経験者なら誰でも知っている。同時に、チームが普段とあまりにも異質な空間になると、心と体のバランスを失うことも多い。それが、テレビ観戦をしている私にも伝わってきた。
 韓国、キューバ、米国にしても同じ強い緊張現象が起きていた。兵役免除のかかっている(軍役の知らない私たちにはピンと来ない)韓国、帰国後の経済的処遇に天地の差が生じる(貧富差を知らない私たちにはピンと来ない)キューバ、メジャー昇格やドラフトのかかっている(私たちにも少しはわかる)米国は、緊張の質が異なる。一人一人が明日から人生が変わるのである。結果として、かかっているものの重さの順がメダルの順位になった。
 一方、日本にかかっているのは初の金メダルという名誉である。その名誉は、自分が金メダルチームの一員になるというワン・オブ・ゼムの名誉にすぎない。人生が変わるとしたら、星野監督であり、金メダル獲得によって、WBC代表監督就任が確実になり、長嶋ジャパン(五輪)と王ジャパン(WBC)両方の後継者としての地位が確立する。この温度差は大きい。

王貞治氏とWCBF(その2)

2008-07-31 | プロとアマ
 交流試合が始まった正午近く、王氏が到着し、子供たちにメッセージをスタンドから発した。「世界各国の子供たちが一堂に会して正しい野球を学ぶことは大変意義深いことです。また野球を通して交流の輪が広がることに喜びを感じます。すばらしい思い出となるよう期待しています。」いかにも王さんらしい「正しい野球」という言葉が印象的だった。
 昼食会場は「ひつまぶし」の老舗・熱田の蓬莱軒だった。行政の方々は「うなぎ談義」から始めたが、王さんはすぐに「少し疲れたのでオールスターは秋山ヘッドに任せたよ」と、話題が野球になる。私は聞き役に回ったのだが、イチロー君の3000本安打、北京五輪の日本野球代表の戦力、ホークスの抑えの馬原君の復活、少年時代の反復練習の重要性など、リラックスした王さんの会話は様々に広がった。
 最後に王さんがいみじくも語った、「次のオリンピックでは野球は公式競技から外されてしまう。最大の原因は、連盟やら協会やら、組織が細分化して多過ぎることだ。組織の一本化が進めば、野球の発展・普及はもっともっと進む」と。
 慎重な王さんだから、それ以上具体的に言葉にしなかったが、今回のタイブレーク制の導入も念頭にあるのはすぐに察せられた。
 タイブレーク制については、最初は各紙の見出しに「星野監督、激怒!」という文字が躍ったが、その提案(紹介とも報道されている)が全日本アマチュア野球連盟だったとわかると、あっというまに紙面の文字はおとなしくなってしまった。最後は「(星野氏に)謝罪に訪れた全日本アマチュア野球連盟の鈴木義信副会長とはすれ違いになってしまった」(東京中日スポーツ)で終わった。
 報道されたのは、日本は「こけにされている」とか「アメリカは勝手すぎる」という日米対立図式である。ルール決定の仕方、決定事項の伝達の仕方がメチャメチャなのは確かだが、このようなやり方について、NPBもBFJ(全日本アマチュア野球連盟)もあまり文句は言えないだろう。なぜなら、これまで選手会や各チームなどに対して、似たような仕方をとってきたのだから。
 メディアもいくら五輪だからといって、ニッポン、ニッポンとナショナリズムを煽るばかりでなく、「日本には、『他人(ひと)の振り見て我が振り直せ』という諺がある」ということを忘れないでほしい(あ、これは、私自身への戒めでもある)。
 BFJはJABA(日本野球連盟)とJSBA(日本学生野球協会)の二つのみが加盟している組織である。そして、全日本野球会議という組織があり、そこの日本代表編成委員会が五輪野球日本代表チームのメンバーを決定している。では、全日本野球会議はどのように運営されているか、BFJやNPBとはどういう関係か、ということになると、一般には公表されていない。いわゆる「おとなの集まり」である。
 その点、子供たちはいい。今ごろは、自然に恵まれた知多半島の愛知県美浜少年自然の家に全員が宿泊して、友情を育み、きずなを深めていることであろう。

王貞治氏とWCBF(その1)

2008-07-31 | プロとアマ
 NPBが前半戦を終えた7月30日、世界少年野球大会(WCBF)開会式が名古屋市の瑞穂公園野球場で行われ、スポークスパースンとして高木守道氏と共に参加した。
 世界のホームラン王の王さんとハンク・アーロン氏が提唱して始まったこの大会も、もう19年目を迎えた。今回も20の国・地域から200名を超える少年少女とIBAF(国際野球連盟)のコーチが参加した。参加者は9日間にわたって寝食をともにし、様々な言語が飛び交う中で、野球というスポーツを通して交流を図る。チェコ、トルコ、ミクロネシアの子供たちもいて、野球が着実に世界各地へ広がっていることを示している。
 大リーガー大塚投手のご子息(11歳)も参加していた。このブログでも書いたが、私の長女が現地で大塚氏のケアを担当したこともあって、特に親密に言葉を交わしたが、母国がまるで異郷であるみたいに、ホームシックにかかっているような顔をしていて、私たちとの記念撮影でも寂しげな表情だったが、おそらく9日後には逞しくなっているだろう。
 猛暑の中、90名に及ぶ正規スタッフやボランティアの皆さんを元気づけていたのは、WCBF財団の専務理事を務める村田兆冶氏であった。王理事長の代行として、組織委員の皆さん(神田真秋知事、江崎鉄麿衆院議員、各教育長、各スポンサー、NPB、JABA、学生野球連盟等…)との挨拶に動き回っていた。それが済むや、技術指導も兼ねたウォーミングアップに1時間を費やし、始球式に臨む。おなじみ投球フォームと球速に、観衆は歓声を上げた。まさに、まさかり投法健在である。

IBLJと鍵山誠氏(その2)

2008-07-21 | プロとアマ
 YBC東京臨時事務局では、加藤副部長が待機していた。神保町界隈は、食事をするには旨くてリーズナブルな値段の店が多い。栄養をつけたければ「いもや」があるし、私の好物のピザなら「ボーナマイヤー」があり、ボルシチをすすりたくなれば「ろしあ亭」がある。他にもここには書くわけにいかない隠れた名店もある。この日は、用意しておいたカレー・コリアン・和食の3選択枝から、鍵山氏がチョイスしたインドカレーの「SHANTTI」にした。
 料理もそこそこに、鍵山氏は、独立リーグの現状や方向性、NPBとの交流、スポンサーやマスコミとの関係、北信越(BCリーグ)との連携など、大いに語ってくれた。口にしたカレーのようにスパイスの利いた内容を、マイルドなラッシーのような言葉で、2時間以上話し続け、さらに昔懐かしい音楽喫茶の風情を残している「白十字」に場所を移して、語り合った。
 野球界は今、流動期である。過去から現在を見れば、そしてプロ球界だけを見れば、安定期だと見る人も少なくないだろう。しかし、過去から現在そして未来まで構想すると、揺動し流動する時期に入っていると見る人の方が多い。「鍵山さんたちは、今、歴史の1ページを書いているんですよね」と言った加藤副部長の言葉が、私の思いを代弁していた。鍵山氏はややはにかみながら、それに頷いたようだった。
 鍵山氏は私のブログを頻繁に読んでくれているそうで、クラブチームの内情もかなり分かっておられる。独立リーグとクラブチームの関係は、今後、共通理念・共通利益もあるだろうが、利害の対立も生じるだろう。お互いの位置づけはまだ確定していないが、双方とも、プロ球界の中心者たちよりは、日本の野球界全体について考えている(実行力はさておいての話だが)ということは確かでないだろうか。
 YBCも来月は中日本大会、9月には日本選手権予選、10月はJABA伊勢大会と、公式試合が2桁を数えるだけの強さになった。そういう忙しいスケジュールをこなしつつ、選手たちの思いが様々に揺れ動く時期も近づいてくる。選手たちは、より技術の高い集団でプレーしたいと望み、自分の実力と可能性を常に試したいと挑む。中には、YBCからIBLJを目指す者も出てくるだろう。それは、歓迎すべきことであり、同時にYBCが独立リーグに遜色のない戦力のチームにならねばならないと、改めて心を決めることである。

IBLJと鍵山誠氏(その1)

2008-07-21 | プロとアマ
 鍵山誠氏に電話したのは10日程前であった。鍵山氏は、言うまでもないが、四国・九州ILリーグの代表取締役社長である。今年から新たに九州の2チーム(福岡・長崎)が加盟し、その拡大した状況や着実に選手を育成している実績(すでに13名をNPBに送り出している)などが話題になった。
 苦労も多いはずだが、電話の声はそれを微塵(みじん)も感じさせない41歳の若々しさとバイタリティに満ちたものだった。「谷沢さん、上京の折に、是非、お会いしてもっと突っ込んだ話を。」という明るい声で電話が切れた。が、1週間も経たぬ7月16日、電話がかかってきた。同じ声だった。「今日から東京にいますので、お忙しいと思いますが、云々・・・」その行動の敏速さには敬服するしかなかった。
 私もたまたま授業や講演など昼間の仕事があったので、互いに身体の空く18日夜に歓談しようということになった。その日は、鍵山氏もプロ球団に挨拶に行くので、神保町のYBC東京事務局でおちあうことにした。
 YBCは昨年3月、四国ILの香川、徳島へ遠征した。その際、石毛氏と田口事務局長の尽力で、戦力差がありすぎるというのに対戦できることになった。ところが、香川との試合直前に石毛氏の四国IL社長辞任発表という緊急事態が勃発し、グランドには田口氏が出迎えてくれたものの、石毛氏の姿がなかった。事情もわからず、私の胸中はただ憂慮の2文字に覆われたが、新社長だという青年と会うことになって、石毛氏のパイオニア精神は、別の形でこの青年社長・鍵山氏へ受け継がれているのを知った。

早稲田125とハンカチ王子(その3)

2007-03-10 | プロとアマ
 ブルペンの中央に入った斎藤君は、3,4歩進み出て上級生捕手に帽子をとってきっちりと挨拶した。捕手に緩いボールを投げ始めた彼を見て、基本動作はしっかりと出来ていると思った。
 捕手を立たせたままの投球が約30球、そして捕手へ座ってくれという合図をした。まず、ワインドアップからボールが投げ込まれた。軸足に沿って上げられた左足が上体と一緒に溜められた一瞬の間(タメ)がいい。体は大きくないが、投球バランスの要、パワーの蓄積がそのタメにある。
 全力投球に入って徐々に熱を帯びてくると、「いいボールだ!」と捕手の声が響く。また、逆にストレートに伸びのないと斎藤君にイラつく表情が浮かぶ。
 セットポジションになると、クイック投法はお手のもののようだ。斎藤君の真後ろの位置に移動して見ると、スライダーがまだコントロールされていないようだ。1球だけチェンジアップのようなボールを投げた。
 「今のは何だ」と訊くと「フォークです」と捕手が答えてくれる。応武監督は「昨日あたりから良くなってきました。私はアイツ(斎藤君)と心中ですよ」と言う。その言葉から、リーグ戦の初っ端からの起用があるぞと予感した。
 となれば、大半のマスコミが「六大学はプロよりも熱い!」と盛り上げるのは間違いないようだ。

早稲田125とハンカチ王子(その2)

2007-03-10 | プロとアマ
 ブルペンではA組のピッチングが始まっていた。応武監督がやってきた。「うちの経験者は須田と松下だけですからね」。今年は宮本・山本両君が日本ハムへ入団し、大谷君が社会人野球のトヨタへ進んだ。そのため、リーグ戦の登板経験のある投手が少ない。
 応武監督「法政が2枚、明治が4枚残ってますから春は苦しいと思いますよ。食い合い(混戦)になればチャンスもありますけどね」
 谷沢「1年生を使わざるを得ないね」
 応武監督「今の斎藤の状態では、他の投手たちが納得せんでしょう。むしろ、一浪して入ってきた福井(済美高)がいいですよ」
 確かに福井君のピッチングはストレートの伸びとスライダーの切れがよい。だが、同じコースにコントロールされず、高めに浮いてしまうことも多かった。1年間のブランクが影響しているのだろうか。
 斉藤君がブルペンに入ってくると、取材陣が多数集まってきた。平日なのでファンは少ないが、それでも厳戒な警備がなされており、応武監督も三浦主務もやや神経が過敏になっているようだった。
 主務は私にも「それ以上は入らないでください。他の報道関係者と同じようにしてください」と言う。私は今日はフジテレビなどの取材ではなく(学生投手のTV取材なら私でなく、池田氏や土橋氏らの仕事だろう)、大学に依頼された仕事で来ていることを説明した。投球練習など午前中のメニューが終われば、沖縄校友会の皆さんと一緒に陣中見舞(豚の丸焼き2頭)を贈り、激励するという小イベントを行わなければならない。それは、私の意志でなく、大学当局の指示なのだ。(私だって、明後日からのYBC四国遠征を控えているのに、その準備も疎かにして、母校早大のため、校友会のために東京から沖縄浦添に飛んできたのだ。)
 その連絡が主務に伝わっているのかいないのか、私の説明が耳に入るのか入らないのか、「OBでも入れないことになっています」と言い続ける。
 「大学の行事として頼まれているのを拒否するのは君の判断か?」と訊くと、主務曰く「私の判断でもあり監督の判断でもあります」
 「監督が大学の行事も拒否しろと言ったのか?」とさすがに腹に据えかねてやや強い口調で言うと、主務は「中に入れるのは野球部がお願いした広岡さんと徳武さんだけです」。
 良く言えば愚直、悪く言えば総長も監督以下と考えているらしい主務を尻目に(忙しくて言い争う暇はない!)、斎藤君のピッチングを「拝見」することにした。

早稲田125とハンカチ王子(その1)

2007-03-10 | プロとアマ
 3月8日に「早稲田125フェスティバルin沖縄」が行われた。早稲田大学当局に乞われて、イベントに参加した。これで、沖縄入りは今年4度目となるが、今回ほど忙しい旅はなかった。前日夕刻、那覇空港に到着すると、イベント幹事役の早稲田マン・白石武博カヌチャベイリゾート社長が出迎えてくれた。
 今年10月に早大は創立125周年を迎える。何故125なのか。創設者・大隈重信侯が人生125歳説を唱えたことに依っている。その拘(こだわ)りは、大隈講堂の高さ125尺にも表れている。私はその125周年の募金委員でもあるので、時には総長と、時には単独で、講演など各地の校友会開催行事に駆り出されている。
 今日の予定は、午前中は浦添。キャンプ中の早大野球部への訪問だ。沖縄校友会の皆さんと一緒に激励に行く。15時からは那覇市の前島小学校。地元小学生のために「早稲田in沖縄野球教室」を実施。18時から『今年は早稲田が熱い』というテーマで講演。少しは母校のためになっているつもりだが、はたして・・・
 さて、125周年という記念すべき年に昨夏の甲子園優勝投手・ハンカチ王子こと斎藤祐樹君が入学した。そのせいで、浦添キャンプは、ヤクルトキャンプにまけないくらい、注目を浴びているという。
 グランドに入っていくと、内外野のシートノックの最中だった。目当ての斎藤君は、投手陣10名のうちのB組に入って、外野フェンス沿いをラン二ングしている。近づいて行くと、彼は私の方を見ながら、他の選手に何やらひそひそと「あの方は誰ですか」とでも囁(ささや)いているように感じた。
 新2年生以上の部員は大きな声で挨拶をしてくるが、B組は入学組が多いのだろう、不審そうに半分だけ帽子をとるように頭を下げる。YBCの新人選手と変わらない。私がOBであるのを知っているかどうかわからないが、声をかけてみた。
 「斎藤君、足首を捻挫は大丈夫か?」「はい、ほとんど治っています」「今日はブルペンに入るのか?」「はい、昨日も投げ込みをしたし、今日も投げたいと思います」マスコミの取材陣から毎日受けるような質問をしてみたが、嫌がらずに答えてくれる。
 176cmと聞いていた斎藤君の第一印象は、それよりも「小柄」だった。話しぶりは、静かでクールで控えめだし、ユニフォームの胸と背の「斎藤」の二文字は、他の新入生より小さめで薄かった。遠慮がちに書いたのか、練習量が多くて洗濯も多いのか、理由はわからない。

ドリーム・ベースボールその3

2005-11-22 | プロとアマ
 さて、試合にはやはり5番ファーストで後半の出場。2打席1安打無失策。なぜか前回とそっくり同じ。安打はレフト線への、我ながら完璧な当たりだった。金田ボス曰く「こら、谷沢よ、素人相手に本気を出すな!」と。また叱られたが、実はボスの内心では「ああ、よかった。素人に負けた試合だが、プロらしさを見せてくれたよ」と思ったらしい。
 後で、ボスが「お前は、ふだん若いもんといっしょにやっているから、体がよく動くんだなあ」と驚き半分に褒めてくれた。膝の調子が悪いボスにとっては、自分自身がまどろっこしいのだろう。
 ボスの推薦だったのか、私は優秀選手賞を苫篠氏(元ヤクルト名内野手)とともにいただいた。その景品は地元産白米10キロだった! (実は、当日の昼食は地元のシェフによる和食で、ご飯がべらぼーにうまかったのである!)
 伊勢崎の皆さん、特に伊勢崎硬建チームの方々、楽しい試合でしたね。

ドリーム・ベースボールその2

2005-11-22 | プロとアマ
 11月19・20日は伊勢崎市野球場で、指導者講習会と地元チームとの試合。この球場には地元の生んだプロ野球草創期の功労者・鈴木惣太郎先輩(早大OBで、日米野球の交流の立役者でもあり、例えば米国進駐軍に接収されていた甲子園、西宮、後楽園の解放を早めた人物である)の碑がある。
 参加したプロOBが全員、碑を見学したが、私は皆が引き上げた後もじっくり碑文を読んだ。読み終えたとき、我知らず自然に帽子をとって深々と頭を下げていた。このような方々がおられたからこそ、プロ野球はわが国で随一のスポーツになれたのである。私たちはぜひともその遺志を継承しなければ、と改めて心に誓った。

ドリーム・ベースボールその1

2005-11-22 | プロとアマ
 ドリーム・ベースボールとは、名球会とプロ野球OB会とが共同参加して催される行事(主催、財団法人自治総合センター)である。元プロと地元アマチュアとの試合と野球教室を主とする。
 年間15会場で行われるが、すべて土日の催しだから、西多摩倶楽部の練習と試合(そして西多摩倶楽部の幹部を通して依頼される地元の行事)を優先していた私は、乞われてもなかなか参加できなかった。
 それで、カネやんこと金田正一ボスに「こら、谷沢よ、たまには俺たちのほうにも協力しろ!」と叱られもした。で、西多摩倶楽部のスケジュールから解放された先月と今月、2回にわたって参加できたのは嬉しかった。
 10月30日は、5番ファーストで出場。2打席1安打無失策で、まあまあだった。遊ゴロでアウトになった時も、打球は完全にヒット性だったが、なぜか我が足では1塁ベースまでが遠く、送球のほうが速かった。すると、観衆から野次の一声、「谷沢っ、真面目に走れ!」
 私も疾走したいのはやまやまだったが、アキレス腱負傷の後遺症かはたまた加齢現象か、アウトになったしだいである。(私はいつだって真面目なんだよ・・・と、いちおう書いておこう・・・)

中本審判のこと

2005-08-22 | プロとアマ
 下の記事に書いた中本尚氏は、日本高野連審判委員幹事で、20日の夏の甲子園の決勝試合では1塁塁審を勤めた。私はそれをTVで見ながら、人づてに聞いた話を思い浮かべていた。中本氏は大学で、たしか5期下の後輩に当たり、内野手として活躍した。
 大先輩で名審判の誉れの高かった西大立目氏の後を継いで、東京六大学の審判となり、高校野球も担当して、毎年のように、甲子園のあの暑いグランドに立ってきた。
 だが、この夏で審判を退くという。このような方々が、アマチュア野球を黙々と支えてくれているのである。もっともっと評価され、リスペクトされて然るべきだと思う。
 日本野球連盟は都市対抗大会の開会式で、中本氏に特別功労賞を贈った。今日、中本氏は私と会って開口一番、「西多摩倶楽部の選手で、審判を志す者はいませんかね。私たちが一から指導しますから、ぜひ勧誘してください!」 私もこの期待に応えるよう努力しよう。

ジャイアンツ交流試合の顛末

2005-07-16 | プロとアマ
 今年の1月のことだったが、読売巨人軍の2軍が「企業チームだけでなく、クラブチームにも胸を貸すよ」といっているという話を聞いて、私は真っ先に手を挙げたところ、スポーツ報知や東京中日スポーツが記事にしてくれた。
 すると、すぐに巨人軍の末次スカウト部長から電話があり、お会いすることになった。末次氏は、クラブチームについていろいろ情熱的に考えており、私もレポートをさしあげた。
 その結果、7月に西多摩倶楽部との交流試合が開催されることになった。これには倶楽部部員も大感激で、選手たちの練習も一段と熱心さが加わった。
 最も長い伝統を誇る巨人軍がクラブチームと対戦するのは、6月の全足利クラブ(もちろんクラブチームの名門!)が嚆矢となるはずだった。
 ところが、全足利クラブとの試合は雨で中止となり、西多摩倶楽部が第1号となると知って、ますます私たちのモチベーションが高まった。
 しかし、天は全足利クラブに同情したのか、試合予定の6日、勇んでジャイアンツ球場に乗り込んだものの、無情にも雨・・・。選手たちの落胆ぶりは、私も声をかけにくいほどだった。
 が、すぐに選手たちの目が皿のようになった。というのは、雨を避けて室内練習場に入ったところ、ファームの選手諸君が練習をしていたからだった。ピッチングであれ、バッティングであれ、プロの選手の練習ぶりは、大いに参考になる。私が黙っていても、部員たちは一つでも多くそれを知ろうとしたのだ。
 すると、巨人球団の大塚氏が、練習場を使って宜しいと言ってくださる。感謝々々である。部員たちは初めてプロの室内練習場とその器具を利用させていただいた。
 たまたま仁志選手が居合わせ、大学時代の先輩後輩の礼にのっとって、丁寧に挨拶してくれる。思わず、気軽に「時間があるならコーチしてくれよ」と頼んだところ逃げ出してしまった。が、じきに戻ってきて手に3本バットを持っている。なんと、「これでもお役に立つなら」と進呈してくれた。ありがたいことである。持つべきものは良い(!)後輩である。
 選手たちはすぐにそのバットを握り、コツコツ叩いたりして曰く、「おい、さすがにプロはいいバットを使っているなあ」とささやいていた。貴重な用具をよくぞ寄付してくれたものだ。
 天が雨の代わりにくれたすばらしいプレゼントだった。