谷沢健一のニューアマチュアリズム

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南関東大会へ進出(その4)

2007-05-22 | YBC前進
 番外編ふうにもう一人挙げるとすれば、浜松大から入った久保田雅夫君である。練習不足で今大会では不振も予想できたが、あえて2試合ともクリーンナップに起用した。
 今春、浜松在住の知人からの紹介で入団してきたが、就職したのが都内の鉄鋼関係会社の営業職だった。車の免許取得や社内研修におわれて練習不足はあきらかだった。体格は超優良児なので私のつけた呼称が「ジャンボ」。このジャンボの打撃センスには光るものがあり、時たま出場できた練習試合に中心を打たせた。
 4月半ばにスタッフから、彼は「20日は友人の結婚式に出席するので公式戦でも出場できない」と聞いた。私は出場の強要をしなかった。だが、久保田コーチが同姓の気安さもあってか、「優先順位はどちらが高いんだ。我々は1年間かけてこの大会のために労苦を共にしている。おまえにもチームの攻撃の柱の一人として、みんなが大きな期待をしている。草野球じゃないんだ!」と強く叱咤(しった)してくれた。私のみならず、選手たちの意を汲んでくれたのだろう。
 19日の惨敗後、元野主将から報告があった、「久保田が、『野球に取り組む姿勢が甘かったです。今日のゲームを経験して痛感しました。明日の結婚式はでません』と言ってきました」と。これで友人を無くすかもしれないなー、と私は思った。YBCのスタッフの中には、家族サービスの犠牲や仕事、友人を第二番目と考えがち者もいる。それを良いこととして肯定するわけではないが、その思いはチームにとって貴重なことだ。「たかが野球されど野球」というフレーズは、野球に没頭し肉体と精神がその時間に凝縮されたその時の思いを表現している。それは野球に真摯(しんし)に関わる者の人生の縮図を端的に言いきっている言葉でもある。我が「無敗而有敗」にもそういう意味を込めている。
 成長した者。公式の舞台で緊張して普段の力が不発に終わった者。野球の基本を再度点検する者。裏方を黙々と務めてくれた者。創設2年目での南関東大会への進出を素直に喜びたいが、サウザンリーフ市原に力が及ばなかったことは我々の未熟さの程度が知れる。YBCにとって千葉県クラブチーム1位のサウザンリーフは打倒目標でない。その先の先に目を向けている。
 幸い、千葉県のクラブチームの大半は、グランドではもちろんだが、ベンチにいる時もさわやかである。必要以上に汚い野次はほとんど聞かれない。これは各チームの指導者の人柄だろう。ただ意外なことに、プロ出身の選手やコーチがいるチームの方が、その辺のマナーが良くないのは残念なことだ。私も元プロの一人として、他山の石としなければならない。

南関東大会へ進出(その3)

2007-05-22 | YBC前進
 成長度NO2は、川村捕手である。名門広島商業時代は正捕手として甲子園に出場し、ベスト4になったほどの逸材だが、帝京大に進んでからは肩を痛めたままの4年間だった。捕手という要の位置に座る選手にはグランド中に響き渡るような発声が必要だが、声量も回数もまだまだ不十分で、控えめな好青年の性格がかえって災いしているきらいがある。
 どのチームの捕手もそうであるように、投手の分まで私に叱られ通しで気の毒だったが、大会直前の2週間あまり、手を傷めて欠場せざるをえなかった。当然、本人は内心でイライラしていただろうが、それを表に現さないので、「川村は休んでいる間、監督から叱られないのでホッとしているんだろう」と選手たちからからかわれていたという。
 しかし、急造捕手・元野キャプテンの評価が悪くなかった、それも刺激になったのか、千葉熱血戦では見違えるようなリードを見せた。また、試合序盤の劣勢をピックオフプレーでピンチを救ってくれもした。これは、毎日新聞には「千葉熱血は……序盤の拙攻が最後まで響いた」と書かれていたが、千葉熱血の拙攻というよりも川村君らの堅守が原因である。
 9回、木藤投手を投入した場面でも、サインに首を振る木藤君に「川村のリードに任せろ!」とベンチから叫んだくらいである。捕手は常に打席の打者だけでなく相手ベンチ・味方ベンチ、守備の8人、走者、次打席サークルの打者などを目で見続けるだけでなく、試合の流れ、作戦の予測を冷静に嚢中(のうちゅう)においておかなければならない。それが少しずつ向上してきているので、今後の成長が大いに楽しみだ。

南関東大会へ進出(その2)

2007-05-22 | YBC前進
 投手では金沢君の成長を一番に挙げたい。今回、2勝をもぎ取った原動力であった。彼をYBCの一員に導いたのが小田君で、二人とも慶應義塾大野球部に入部したが続かなかった。両君ともYBCでは投手兼野手として、「緊急コンバート」に振り回された選手たちである。
 金沢君の体躯は野茂投手ばりで、球質もずしりと重く、ストレートにも力がある。ところがまだまだ制球力が低い。当然、野手をやらしても送球が不十分であった。体が強く脚力があるという長所の上に、練習も休まない努力家で性格も素直である。私には叱られてばかりいたが、蔵重コーチが体調も回復し、今年は足繁くグランドに通って、フォームの矯正を丹念に指導してくれている。その成果が目に見えて表れているのである。
 慶大野球部では花が咲かなかったが、かつて小泉塾長が「練習は不可能を可能にする」と自伝でおっしゃっていたことを想い出す。課題の一つは、完投できるスタミナをつけることだ。もっと走り込めば、球速もさらに増してくることは、本人も自覚しているはずである。

南関東大会へ進出(その1)

2007-05-22 | YBC前進
 5月18日から三日間、「第78回都市対抗野球千葉県大会兼第32回全日本クラブ選手権千葉県大会」が実施された。昨年は一回戦でサウザンリーフ市原と対戦、あえなく蹴散らされた。その苦い思い出から1年間、YBCは紆余曲折を経験しながら生まれ変わった。ブログを遡って読むと悔しさのどん底から新生へと向かっていった当時が懐かしく思えてくる。
 かといって充実したチーム力が備わっているかというと不安だらけである。YBCの理念(野球指導の経験者の方々から例外なく、理想的すぎると忠告をいただいている)を堅持しつつ育成していくことは、まるで道なき登山のようで、あるべき姿とはまだまだ遠い。一歩登ったかと思うと三歩も四歩も滑りおりてしまい、また別のルートを探求しなければならない。比喩表現でしか言えないが、様々な感情を味わってきた。
 しかし、選手と若いスタッフはかわいい。語弊を恐れず言えば、親愛を越える愛情が私の内にある。それが、そのときどきに、怒ったり叱ったり愚痴ったりといった私の行動に表れてしまう。今年は特に、私の行動は我ながら激しい。
 YBCのための行動には既成概念をチェンジするパワーが含有されているはずだ。加藤副部長も「監督が良しと判断されたときは突っ走ってください」と支援してくれる。とは言え、ブレーキとアクセルの使い分けという行動良識は弁えているつもりだ。クラブチーム座談会、湘南との対戦、四国遠征、ミニ合宿、群馬遠征など、副部長のアイデアも採り入れてYBC2年目に挑んでいる。練習試合も、クラブチームの中ではかなり多いだろうと自負している。
 さて、南関東大会への進出を決めたのだから、肝心の成果と反省を報告することにしよう。

群馬遠征(その2)

2007-05-08 | YBC前進
 グランドに到着すると、既にオール高崎対新潟コンマーシャルの試合が行われていた。
 センター後方の山並みは北関東の平野を支えているように目に映った。三木氏がやや沈んだ声で言う「谷沢さん、あの方向が御巣鷹山ですよ。私の高校時代でした。このグランドにヘリの基地もできましてね。遺体の運搬もこの目で見ました」すごい惨状だったそうだ。22年前のJAL123便の墜落事故である。犠牲者520人のうち、五体揃っていた遺体は約200人にすぎなかったというのだから・・・私は自然と手を合わせずにはおれなかった。(YBCにもJALの関係者は複数いる)
 オール高崎野球倶楽部の前身は企業チーム(高崎鉄道管理局)で、当時はグランドも完備されていたそうだ。しかし、今はそれにはほど遠いという。それでも、廃校になった藤岡高校(三木副部長の母校)の教室棟は寂静としていたが、グランドにはチームの熱い思いが随所に込められていた。やはりホームグランドである。
 例えば、ネット裏には葦簀(よしず)屋根で日除けをした観客席や(試合途中に突風で葦簀がめくり上がったりしたが)藤岡寮と呼べそうな合宿可能な施設も活用されていた。グランド施設が県から市へ移管された時に、オール高崎チームの優先使用が認められ、管理も任されているようだ。(行政当局の理解度と実行力の高さが羨ましい)
 宿泊は三木氏が車で先導してくれて、30分程行った「甘楽町ふるさと館」の国民宿舎(東京都北区との提携施設)。森の中にテニスコートやゴルフ場や軟式野球場が広がり、ツツジの花壇や新緑が疲れを癒してくれた。フロントの方々にも懇切に対応していただいた(私は3日の試合後に藤岡から東京お台場に行き、TVの仕事を終えて、深夜2時に再び宿舎に戻ったのだが、特別のご好意で鍵を開けていただいたのである)。
 試合は1勝1敗だった。まだまだ未熟さが露呈されているが、昨年以上に多く実施してきた遠征や試合によって、今月18日から始まる公式戦へ向けて、選手たちに一体感と団結力が培われてきたのが感じられた。

群馬遠征(その1)

2007-05-08 | YBC前進
 ゴールデンウイークの5月3日と4日、群馬藤岡に遠征した。
 4月上旬にオール高崎の三木(みつぎ)副部長に打診したところ、2試合を組んでいただけた。わざわざ新潟コンマーシャルを招いてくださったのは嬉しかった。
 遠征の細かい作業は、上村コーチ兼主務に任せた。そのつど報告があったが、三木氏との計画立案はスムーズに行われた。最大の難問は約30名のスタッフ・選手の交通手段である。なにしろ連休中なので、バスによる移動は大渋滞に巻き込まれないかという懸念があった。
 この杞憂はすぐに解決した。それは私が遠征を思いついた時に、すぐに加藤副部長がカミ村(YBCには「上村」がウエ村とカミ村がいる。で、このブログでは申し訳ないがコーチは上村、選手はカミ村と書き分けている)選手に連絡して、「2日間、YBCのために奉仕できないか」と依頼していた。
 カミ村君はYBC創設パーティの際、「背番号決定戦」で53番をGETできなかった。赤星選手のファンだったが、川崎選手(ソフトバンク)の52番でガマンすることになった経緯もある。俊足の選手である。彼は、長距離トラックのドライバーで、10年以上の運転歴を誇っている。全国を駆け巡る長時間勤務の合間を縫って、走力を維持している。
 そのカミ村君が大活躍してくれた。試合に代走で出場しただけでなく、小型バスと荷物車を格安で確保してくれた。勿論、往復の運転も務めてくれた。柏駅前をスタートして、高速道路を避け、いわゆる下道(したみち=一般道)だけを走破して、悠々と予定時間よりも早く群馬県藤岡市に到着してしまった。これには、ハンドル捌(さば)きに自信のあるマイカー族の選手の面々も驚嘆の声をあげていた。