谷沢健一のニューアマチュアリズム

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クラブチーム座談会(その2)

2007-01-27 | YBC前進
 すぐに私は、各チームの関係者に打診した(小原記者の要望もあるので、1県1チームに限定しなければならず、少し頭を悩ました)。
 嬉しいことに、どの方々からも好意的な反応がかえってきた。オール高崎野球倶楽部の三木(みつぎ)部長は「このような企画を待っていたんですよ。社会人ラグビーなどは、トップリーグを作るために何度も何度も話し合ったそうですよ」と、すぐに駆けつけたいという回答をいただいた。
 全足利クラブの栗原マネの携帯に連絡すると「今度、監督になりました。20日頃は、千葉で社会人野球の指導者講習会が予定されていますので、丁度いいですね。チームの練習も始まりますが、明日返事します」。
 所沢グリーンベースボールクラブの吉田部長も「こんないい機会はないですね。三年目のチームですが、よろしく。わたしが出席しますよ」、またも快い回答であった。
 横浜金港クラブには、大学の後輩であるコーチ兼任の露木君に連絡を取ったところ「監督の中村が出席します」とすぐに返答があった。
 全府中野球倶楽部は谷田部監督と話をした。「前田マネと相談しまして、私が出席することになりました」
 日本で2番目に古い全府中や創部70年の横浜金港など、伝統ある古豪チームをさしおいて、ようやく2年目を迎える新参者のYBCが厚かましくも音頭を取るとは……。まだまだ弱小チームなので皆さんも温かい心で許してくださったのだろう。プロとアマのささやかな架け橋をという「ニューアマチュアリズム」の精神をで企画したことだが、年内に皆さんから快い回答をいただき、清々しい気持ちで新年を迎えられることになった。

クラブチーム座談会(その1)

2007-01-27 | YBC前進
 1月21日、千代田区内幸町の飯野ビル三階の中日新聞会議室に、クラブチームの面々が集まった。東京中日スポーツ紙の「クラブチーム座談会」の出席者たちである(メンバーはホームページに掲載)。
 じつは、これもひょんな思いつきからだった。昨年の暮れも押し迫ったある夜、YBC東京事務所で、加藤副部長と、酒も肴も無い二人だけの忘年会(語らいだけの……いつものことだが)をした。
 YBCの1年を振り返って、できたこと・できなかったこと、楽しかったこと・頭を悩ましたこと、成るようにしか成らないと諦めたら不思議に運が向いてきたこと等々……、走馬灯の如く浮かんできて語り尽きせぬ刻であった。
 創設一年目の述懐の後、必然のように私の心に浮かんできた言葉をそのまま口にした、「厚かましく、頭が高いと思われるのを承知で1年間やって来て、一部にかなり強い風当たりもあったが、それに懲りずに、クラブチームの近未来の青写真を考えてみたいですね。来春には、北信越の独立リーグもスタートするし、関東地区のクラブチームも何か新鮮なことを仕掛けたいなあ」。副部長曰く「では、そのきっかけに、この1年、弱小YBCとの試合につきあってくれた主だったチームに声を掛けて、座談会でもやりますか」
 というわけで、「この企画を、さっそく東中の小原記者に電話してみよう」となって、「小原さんですか。年明けからアマチュア野球も担当するんですよね。で、座談会の企画を思いついたんだけど、やりませんか」
 小原氏曰く「面白そうですね。座談会だと、全面記事になりますが、検討して明日返答します」ということになった。翌日、企画が通ったという知らせが届いた。何でも良いアイディアは「ダメもと」で提案してみるものである。この「ダメもと」精神は、この1年、グランド探しなどで私が身につけた行動型である。

2年目の初日(その2)

2007-01-15 | YBC前進
 参拝後、20人の選手たちはただちに柏日体高に移動した。しかし、前日の雨でグランド状態は悪く、柏日体高野球部の練習も午後にずれ込んでいた。
 久保田、上村両コーチとも相談して、手賀沼周回のロードワークに出ることにした。高台に位置する日体高から10分程いくと、湖岸が見えてくる。釣針形の手賀沼は周囲34km、ちょうど葡萄の房の形のように中央が広がっている。
 ここでも昔よく遊んだ、懐かしい場所だ。沼で溺れた記憶もある。小さな淡水魚が釣れて日が暮れるまで楽しんだ。一時は、汚い臭い手賀沼として悪名が高かったが、浄化の努力が実を結んで、昨夏はトライアスロン大会が実施されるほどになっている。
 私は率先して湖岸を走り出したのだが、数分も立たぬうちにあっという間に選手たちに抜き去られ、置いていかれてしまった。それで、椿本マネと左前方に見える我孫子高(12月にお借りした)のことなどを説明しながら、片道7kmをゆっくりしたペースで走りきった。
 だが、復路は強い逆風で、走ろうとしてもあまり前に進んでいかない。足も痛くなり、ぞくぞくと寒くもなる。這這(ほうほう)の体(てい)で学校に辿(たど)りついた。久保田、上村両君は若いだけに悠々と完走。選手たちもすでにキャッチボールに移っていた。
 継続してトレーニングをしているだけに、選手の練習メニューは一つ一つの間隔が短くなっている。また、メニュー各々に元野、木藤両君の的確な指示がなされていることは心強い。各自、程良い軽食を持参して、練習間に要領よく食すことができるようになっていて、効率の良い練習が可能となった。
 これも柏日体高校のご厚意によるものであり、感謝の念を忘却してはいけない。YBCの選手たちに、高校の方々へしっかりした挨拶をはじめ、礼儀をわきまえ続けることを、改めて励行するよう喚起したいと思う。クラブチームは心ある人たちの支えなしには成り立たないのである。

2年目の初日(その1)

2007-01-15 | YBC前進
 1月7日、前日の豪雨とはうってかわって、まさに瑠璃紺(るりこん)色の天空が広がっていた。その空の下、2年目を迎えるYBCフェニーズは、地元の柏神社に集合して参拝を行った。
 今年も私と加藤副部長との「晴れ男コンビ」は健在のようだ。昨年暮、元野主将から「練習初めに先立ち、神社に参拝したい」との電話が入った。そこで、柏神社に決めたのだが、「選手たちは張り切っているなー」という嬉しい印象を抱いた。
 今年はチームスローガンを掲げたいと考え、名古屋の自宅で屠蘇を口にしながら、心に浮かんだ「攻めよ、激しく、逞しく!」を選手たちに告げるには、柏神社の社頭はふさわしいと思った。
 柏神社は私が育った場所から50mの位置だ。子供の頃は、天王様(てんのうさま)と呼ばれていた。名前の由来は定かではない。羽黒神社と八坂神社の合祀神社のはずだが、天王とどういう関係があるのだろう。
 1950年代後半は、家庭にテレビもなかったから、大相撲の好取組が始まれば天王様に飛んでいって、神社境内に設置されたテレビ(街頭テレビ)の前に集まっている人たちの中を分け入り、栃錦や若乃花、朝潮や鏡里の対戦を固唾を呑んで観たものである。そういえば、柏中の後輩である名力士・麒麟児こと北陣親方が柏神社の節分会(せつぶんえ)の豆まきに何度か来ると聞いた。
 夏祭りには沢山の露店も出て、豆鉄砲や金魚すくい、綿飴など、子供心をウキウキさせてくれた。それに2~3年に一度(本祭の年だと思う)は、ひときわデカイ神社の神輿(みこし)が登場して、駅前通りは威勢の良い法被(はっぴ)を着た大人たちに担がれた神輿が揺さぶられるように踊り、ヤンヤの喝采で盛り上がる。
 そんな想い出のある柏神社は、本殿も立派な建造物となる一方で境内が狭くなったように感じたが、今もこの地域の氏神様として歴史を刻んでいる。そこにYBCの選手たちと参拝に訪れることになったのは、不思議な縁を感じざるを得ない。
 もっとも嬉しかったのは、昨年は体調を崩してしまった蔵重コーチが、年初から顔色もよく元気な姿を見せてくれたことだ。今年はスタッフもいっそう充実するぞ!という予感が脳裏を走った。