谷沢健一のニューアマチュアリズム

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日本選手権県予選ーJR千葉に勝利(その2)

2007-09-25 | YBC前進
 満塁打のきっかけを作った森君も、木更津から通い続けてきた。彼は寡黙なほうだから、夜から朝方まで仕事が入っていることなど、こちらは知らずに先発に起用していたが、どうも動きがかなり鈍い時がある。ミスすると、チーム内からも野次られ、それを黙殺し続けていても、鬱積したモヤモヤは爆発して取っ組み合いの喧嘩になる。1度は練習時に、2度目は試合中に起きた。私は叱りはしなかった。彼の内面をすこしはわかっていたからである。
 野球一筋できた選手は、自己表現の下手な者が多い。だから、謝罪にくれば、じっくり話を聞いてやる。原則として、こちらから呼びつけない。自分に過ちがあると思えば、必ず謝りに来るはずだからだ。昨年、大きな過失を犯した選手を呼んで叱責したら、呼びもしないチームメートがついてきて、言葉では謝罪しても内心では逆に反発していた。代わって、チームメートが弁解ばかりしていた。
 クラブチームは、じつに選手同士の関係がややこしい。その点ではプロ野球以上だ。メンバーの目的も技量も生活環境もまちまちである。レギュラークラスの選手たちは望みが高い。もっとも、だからこそYBCに集まってきたとも言える。自分の技量向上のためには、他を省みないなことが少なくない。それはそれでかまわないのだが、チーム全体に大きな悪影響を及ぼすことになる場合は、監督としてまた部長として黙認しておけなくなる。そのため、チームを去ることになるのが、残念なことだが珍しい話ではない。
 森君をはじめ、レギュラーの大半は、プロ野球の世界やプロに準ずる(と信じられている)独立リーグの世界を目指している。そのために、他の同世代の若者と違って、安定した就職など歯牙にもかけない。貧しい生活が苦にならない。金よりも自己の向上を求める若者たちである。
 そういう高い目標を胸に描いて羽ばたいて行って欲しいが、フェニー(不死鳥の雛)はチキン(鶏もしくは臆病者)でないのだから、後足で砂をかけるような所業は謹んで欲しいといつも思っている。YBCはレギュラークラスの選手のためだけにあるのではない。自分の野球観を人に語るのはいいが、押しつけるのは危うい。常に心しておきたいことだ。
 平池君もふだん私からこっぴどく怒られてる口だ。はじめは彼はうつむいていた。それが悔しさを表に出してぶつけてくるタイプに変わってきた。試合で何度も打ち込まれ走られていくうちに、練習の回数も増えていった。何よりも表情が明るくなったきた。その心の変わりようが、この試合での終盤の好投に結びついたのではないかと思う。彼は久々に勝利投手になった。
 さて、翌日の準決勝のJFE東日本は力量差が歴然とした結果になったが、大敗後の選手たちの顔を見ていると、生き方においても打たれ強い選手が増えてきたように思われた。YBC2年目の大収穫であった。

日本選手権県予選ーJR千葉に勝利(その1)

2007-09-25 | YBC前進
 YBCにとって本年度締めくくりの公式戦を迎えた。初戦はJR千葉戦である。今年、企業チーム登録をした格上のチームである。ゲーム内容はホームページに掲載済みなので多くは触れないが、投手力をはじめ、攻守走のどれもがまだまだ弱い中で、全員がよく頑張ってくれたと思う。スポーツ界には「練習はうそをつかない」という言葉があるが、まさにそれが証明された試合だった。
 DHで先発した松村君は、不定期な勤務時間の隙を縫って、グランドに来るやただちにランニングでたっぷり汗を流している。その真摯な姿勢をスタッフも選手も知っている。2点差を追う8回表、無死1,2塁になったとき、川村君にあえてバントを指示した。期待通り、きっちり3塁前に転がしてくれた。1死2.3塁。最悪でも次打者の松村君が犠飛を打ち上げてくれるはずだ。ともすれば速球に振り遅れがちな彼は、早めのタイミングで1振りし、左翼へ飛球を打ち上げた。そして、次の瞬間、野手が落球していた。上空で強く渦巻いていた風をうまく味方に付けたのだ。戦争映画でいえば、指揮官の読みを熟練した下士官が以心伝心で感じ取った場面である。
 リードしていた4回裏に一気に5点取られて意気消沈の5回表、すぐに森、元野、瀬尾の諸君が連続安打してお膳立てを整え、3番の渡辺君が同点の満塁本塁打をかっ飛ばした。彼には私は厳しいことばかりを言ってきた。守備の要である遊撃と二塁という2つのポジションを往ったり来たりさせたが、日に日に成長を遂げていった。その締めくくりが、このホームランだった。いつも球場に応援の足を運んでいるご両親の喜びの声がベンチにいた私の耳に聞こえたような気がした。

父の葬儀(その3)

2007-09-25 | 個人的な話題
 通夜式の夜を柏斎苑に泊まって過ごし、朝食もまだ食べていない早朝、加藤副部長がやってきた。「監督! 受付のところへ黒アゲハチョウが飛んできましたよ。私は生来、縁起や迷信など担ぐ方ではないのですが、少年時代に父が亡くなったとき、大きな黒アゲハが飛来してきましてねー。それ以来、葬式で何度か見ました。私の郷里では、黒アゲハは故人の魂だというんです。父君が監督への感謝と皆さんへの御礼にきたんですよ。」
 まだ、会葬謝礼の挨拶回りも十分には終えていないし、遺品整理などまだまだ時間のかかる事柄が控えているが、とにかく「谷沢家の道筋」がつけられたことについて、皆々様に感謝したいと思う。
 その思いを託した「喪主挨拶」を、短すぎて伝わらないかも知れないが、掲載します。
「本日は父・上(のぼる)の葬儀に際しましてご多忙中にも関わらず、遠路からもご会葬を賜り有難うございます。六月末に入院し、暑い夏を乗り切りましたが不治の病には勝てませんでした。85年の生涯は私たちにとっても誇りでありました。もっと元気でいて欲しかったとの想いが遺ります。シルバー会の皆様、町内会の皆様、またご友人の皆様方の暖かいお言葉をいただき、本当に感謝します。そして、教育関係の皆様、野球関係及びメディアの皆様には格別のご配慮を賜り厚く御礼申し上げます。最後に受付や誘導にご尽力していただいた方々にも御礼申し上げます。父も喜んでくれると思います。有難うございました。」

父の葬儀(その2)

2007-09-25 | 個人的な話題
 葬儀は「神道(しんとう)」で執行することを決断した。神式の葬儀は、関東地方では関西より比較的多く執り行われていると聞いている。早大の石井藤吉郎監督の葬儀も神道であった。その厳粛な雰囲気は心が引き締まる想いだったことを記憶している。死の穢れを清めて霊を慰め、故人を神として祀る儀式であった。仏式は位牌であるが神式では霊璽(れいじ)と呼称される。
 葬儀社からは神社や神官の予定を先に聞いてと催促されたが、順序は寺を訪ねることが最初だと考え、9月11日早朝、菩提寺に連絡をとり住職を訪ねた。松田君も同行してくれた。もともと島根県出身の松田君の先祖も神道で、千葉県に改葬(御墓を移す)していたこともあり、心強かった。
 住職には率直に10年間の御礼を述べ、父の葬儀を家族の総意として神式で行いたいとお願いした。住職は「お父さんは良くお墓に通っておられました。家族皆さんの想いならば、そのようにして下さって結構です」と了承していただいた。まわりからは「英断だね」と言われたが、確かに仏寺に墓地もあるのに、別宗教で葬儀を行うのは英断かも知れない。しかし、それは私の後に残る者たちの幸せのためである。
 すぐに祭祀を司る神社も決定した。会津若松の羽黒山湯上神社から神官(斎主)が来ることになった。また、加藤副部長から「私の一存で東京中日スポーツに連絡しときました」とのメール第1報も入った。そこから各マスコミに流れるはずであり、慌ただしさのあまり、そこまでの余裕がなかったので助かった。翌日の新聞には訃報欄に父の名が告知されていた。
 通夜祭(仏式のお通夜)と葬場祭(そうじょうさい・仏式の告別式)には、受付や案内などに、松田君の日本共済から6名、YBCから9~12名が手伝ってくれることになった。そういう人たちのお蔭で滞りなく厳かに父を送れたことに感謝申し上げたい。

父の葬儀(その1)

2007-09-25 | 個人的な話題
 13日にお通夜、14日を葬儀と決めた。2ヶ月以上に及ぶ父の入院は、私の兄妹や家族たちに、父を見舞うことによって交わりを深める機会をうんでくれた。経済的な事柄なども、忌憚なく話し合えた。
 しかし、それ以上に私の念頭にあったのは先祖供養だった。私が谷沢家の将来を思うとき、私の息子や孫たちに負担の掛からぬ供養であって欲しいといつも願っていた。10年前に母が亡くなった時、父と同行して新たに墓地を求めた。そこは母が生前に口にしていたロケーションにふさわしい場所だった。
 だが、父は本家の三男という気安さからか、宗派を禅宗から密教真言宗に改宗した。墓地を購入した数日後、自宅から少し遠いからと言って、知人から勧められた別の場所に求め直した。父の本心は、息子の私の名を汚すことを恐れたのだと思う。柏市以外の場所に谷沢家の墓を建立することは、柏在住の人たちから指弾されると思ったのだろう。あるいは、実際に非難されたのかも知れない。柏の地だけで生涯を送ってきた人だけに、柏を愛すると同時に「世間体」も重んじたのであろう。
 それから10年に渡って、父は一人暮らしの生活をしていた。私たち子どもからの援助なども必要ないと、裕福さを装っていた。切りつめた暮らしをしている老いた父は、母の供養の費用は言われたとおりに出費していた。それは父には過重な金額だった。父の思いは遺されていた大学ノート3冊に書き込まれていた。その苦悩と安堵の記録を見たとき、非常にせつない想いが走った。私は、なぜもっと早く察知できなかったのかと激しく悔い、同時にそれはできなかったとも思った。なぜなら、私が少しでもそれを察知して何か言えば、父は金銭で息子に気をつかわせることを恥じて、私に怒りの言葉を浴びせただろう。そういう誇りの持ち方をしていた父だった。
 墓地、墓石、墓地の管理、布施、寄進……、父は持てるものすべてをそれにはきだしていったのだった。だが、それで母は本当に成仏できているのだろうか。

父の死

2007-09-25 | 個人的な話題
 9月10日午前11時43分、父は永眠した。前日の夕刻、義弟・松田君からメールが届いた。
「本日夕方、当直医師のK先生より以下の説明を受けました。今日の昼過ぎより呼吸状態、循環動態の悪化がありました。A)胸水・腹水の増加が有効な換気呼吸の障害になっている。胸水・腹水の増加原因は?低栄養状態?肝機能の低下にある。その治療としてアルブミン製剤(肝機能を高める)を施行しています。B)心機能の低い状態が続いているため、血圧の低下(60位)があった。胸水による呼吸障害と心機能低下が要因である。血圧維持のため昇圧剤を使います。K先生『今の状態が続くと今後急変の可能性があります』、私(松田)『1~2週間の間に急変する可能性は何%くらいですか?』、K先生『1・2週間ではなく今日明日の内に急変する可能性があります』との説明で、今後危険な状態が続きます、と読み取れました。肺機能も低下しているためか酸素マスクを付けていても、呼吸が速く苦しそうでした」との由だった。
 実はそれに遡る9月8日に、私も医院長と面談した。長く病名不明であったが、8月8日の転院以降の病態データの分析で判明した。「胆管細胞癌」の可能性が強く示唆されるとの話だった。治療は対症療法が主で、父に苦痛をもたらすことは出来るだけしないという方針を聞き、我が意を得た思いだった。
 残念ながら、死に目にはわずかに間に合わなかったが、主治医から「静かに眠るようにお亡くなりになりました」と言われ、私たちの気持ちが父に通じたのかと、わけもなく心が熱くなった。

長女と大阪世界陸上(その2)

2007-09-01 | 個人的な話題
 目標を持った彼女は、欧米のスポーツ医学や理学療法に興味を抱き、男性の分野と謂われる世界に挑んでいった。英語を学ぶことから始めて、やがてSTSUの大学院に進んだ。その時の目的は、NATA(National Athletic Trainers Association)公認アスレチック・トレーナーの資格取得だった。
 NATAこと全米アスレチックトレーナーズ協会は、1950年に非営利団体として設立。現役のアスレチックトレーナーと、それを目指す学生のための国家機関である。NATA公認のアスレチックトレーナーになるには、CAAHEP(準医療従事職教育認定委員会 the Committee on Accreditation for Allied Health Education Programs)の認可したアスレチックトレーナープログラム(約2000時間)を完璧に終えてから、国家試験(BOC)を受け、それに合格すると、資格が授与される。
 プロ、アマ問わずスポーツ界には必須の存在となったトレーナーは、医学的な知識をもとに、常に選手のコンディションをベスト状態に整えるプロフェッショナルである。その最高の所に位置するのが、NATAトレーナー資格である。
 その資格を取得した順子は、在米生活も10年目を迎え、野球、バスケット、アメフト、陸上競技等のトレーナーを勤めてきて、充実感に充ちた日々を過ごしているようだ。3年前には千葉国際駅伝のアメリカチームのトレーナーとして帰日した。一時、体調を崩して海の彼方へ見舞いに行けない親としては、大いに心配したが、いつのまにかすっかり回復し、テキサス州・オースチンからニューヨークに移り、ブルックリンのロングアイランド大学講師と同大学アスレチックトレーナーを兼務している。
 レンジャーズの大塚晶則投手(今季は肘の故障で苦しんでいる)やサンフランシスコ・ジャイアンツのボウチー監督(前パドレス)からもしばしば連絡が入るそうで、彼らの治療などの話は、私にもいろいろ参考になる。昨年、YBCのトレーニングコーチを勤めてくれた順天堂大の勝原君が米国の長期留学を決めたのも、アメリカで順子にアドバイスを受けたことも大きな理由らしい。
 私の人生を苦しめたアキレス腱の故障が、長女の人に尽くす人生のきっかけとなったのは、皮肉という以上に、「いかなる苦痛・不幸も、思いがけぬ喜びや幸福を生み出す」ものだと、つくづく実感している。

長女と大阪世界陸上(その1)

2007-09-01 | 個人的な話題
 8月30日、大阪長居競技場に出かけ、「IAAF世界陸上2007大阪」を女房と観戦した。というのは、実は長女の順子に会うためだった。順子は今アメリカチームのトレーナーとして、久々に日本へ戻ってきた。親として娘の時間の許す限り、積もる話も聞いてやりたいし、さらにはトレーナーの仕事振りにも関心があったのだった。
「リース・ホッファとネルソンをマッサージする時は大変なのよ」と順子。彼らは、身長2m、体重200kgもある。砲丸投げで金銀のメダルを獲った大巨漢である。
「タイソン・ゲイは、普段はとても静かな人よ。練習中も本を読んだり音楽を聴いていたり、リラックスと緊張の切り替えがうまいのよねー」100mを9秒85で走るアメリカ短距離選手が、プレッシャーを跳ね返す強さには舌を巻くものがあると言う。それに対して、陸上競技の日本人選手はどうだろうか。やはり、気に掛かると言う。
 順子は、私が引退して一時東京に居を移した時も、名古屋で寮生活を続けた。新体操部(名古屋女子大付属高)の選手として一意専心だったのだ。兵庫の武庫川女子大に進んでからも新体操はやめなかった。同時に将来の設計図をひそかに描いていった。身体のケアーやトレーニング方法の指導に夢を抱いていたのだ。
 現役時代の私のアキレス腱故障の苦しみをつぶさに見ていて、まだ幼かったがもどかしく歯がゆい思いを抱いたのだろう。大学の伊達教授からの影響も大きく、武庫川女大の姉妹校・Southwest Texas State Universityへ進学した。伊達先生のアドバイスを忠実に従ってアメリカ・テキサス州へ迷いも無く渡っていった。