谷沢健一のニューアマチュアリズム

新ドメインに移行しました。

落合監督の思考

2006-07-31 | プロ野球への独白
 7月30日は、フジテレビが地上波で全国に放送していた中日対巨人の最後の放送となった。フジテレビによる今シーズンの巨人戦放映は今日の試合をもって、全て打ち切りとなる。
 この記念すべき(?)試合の中継担当解説のため、ナゴヤドームに行った。グランドに入っていくとドラゴンズの練習中だった。2位の阪神に5.5差、巨人には8連勝中(18年ぶり)である。ということもあり、当然、練習にも活気が満ち溢れていた。グランドを見渡しているうちに、打撃ゲージの後方に立っている落合監督の姿が目に入った。
 試合前のこの時間帯は、解説者が情報を得るのによい機会になる。ところが、12球団中、落合監督にだけは話を聞きに行く解説者がひじょうに少ない。中日OBの私でさえも月に1回足らず、それもたいていは極く短時間、言葉を交わす程度である。
 もともと、中日担当の新聞記者でもTVラジオの放送記者やアナウンサーでも、監督のコメントは「無愛想な」ため、メディアには頗る(すこぶる)評判の芳しくない状態が3年も続いている。
 そんな評判を全く意に介すことがないように見える落合監督の徹底した態度が、またメディアとの間の冷たい溝を深くすることになっている。せっかくの中日の快進撃について今一つメディアの注目度が低いのは、落合監督の対メディア戦略のなせるわざだというのは、すでに球界では周知である。
 そんなことを心に思い浮かべながら見ていると、私はむしょうに落合監督と話を交わしたくなった。で、近づいて「独走だねー」と声を掛けた。いつもと違ってすぐに「いや、まだまだですよ」という返事である。「今日は話したがっているなー」と直感した。さらに「中継は7時半からですね」と、よくご存知である。前カードの阪神戦が17%の視聴率(中部日本放送の中継)であったことも熟知していた。やはり、マスコミを「無関心」でもないし、「無視」しているわけでもない。記者からの質問が嫌いなだけかもしれない。
 チーム構成の話になった。以下は落合監督の言葉である。けっして嘘も偽りもない真っ正直な話をする監督なのである。
 「うちは投手を13人(他球団は11~12人の登録)入れているので、野手は15人ですからねー。厳しい競争ですよ」
 「代打は、立浪、井上、高橋光、それに付随して守備要因も兼ねる代走が3人。ユーティリティの奈良原(日本ハムから移籍)に追いつく若手もいませんよ」
 「川相と鎌田を二軍に落としたが、入る余地がないんだなー」。
 「立浪は、4回打席に立つよりも、好機で1回使いますよ」
 「うちの野手で一番練習をこなしてきたのが森野と福留ですからね」
 「昨年の秋季練習は二人とも陸上選手でした」
 「陸上選手というと、投手陣もそうでした。くたくたになるまで走りこんで、紅白戦に投げる。当然130km台のスピードしか出なくなる。そこから、這い上がってきたのが、佐藤充であり朝倉ですよ」。
 「私は選手に余計なことは言いません。競争に勝つには練習しかない。競争に勝ったものだけが、ここでプレーすることが与えられる」
 「ウッズもアレックスも良く練習しますよ。二人ともまじめだ」
 「遠征先でも、朝から投手陣はジムなどで汗を流していますからね」。
 話をしていて、「果たして巨人の選手たちは中日以上の練習をしているのか。放送打ち切りも君たち選手の責任ではないかな」と思った。
 そして、ふと、「落合思考」は、「君主論」を著したあのマキアヴェリの権謀術数に似たところもあり、並の監督では及ばないはずだと、へんに納得した。

利根運動広場(その2)

2006-07-14 | YBC始動
 あけぼの山農業公園は、広大な農園とシンボルの風車小屋を囲むように四季折々の草花が咲いていた。春季はチューリップが綺麗だそうで、市民の憩いの場であることを感じさせた。私の中学時代の印象とは一変しており、隣接の「布施弁財天・東海寺は遠足のコースでもあったなー」と感慨に耽ってしまった。
 管理棟の手続きは杉村君に聞いてもらい、シャワー室などが整っているクラブハウスも見学した。「週末は、サッカーの選手たちで賑いますよ」「YBCも頑張って下さいね」と激励してくれたのは、管理棟の井戸俊也副所長であった。「私は、市役所に勤めているときに、谷沢さんのお父さんに随分とお世話になったんですよ」(父は戦後、10年ほど町役場に勤めていた)。こんなところにも、父の「旧交」があったとは・・。
 「杉村!グランドに行くぞ」市役所の方々と打ち解けてきた杉村君を促して約1km先の「利根運動広場(利根川河川敷グランドの正式名称)」に向かった。
 YBCが使用するグランドには、既に業者が入って伸びた芝の刈取り作業をしていた。早々とグランド整備に取り掛かってくれたことに感謝したが、行政機関が何をどこまで行えるのか、まだ私には理解できないので、その感謝の念も中途半端にしか表せないのが、正直な気持ちである。あくまでYBCの存在が柏市(柏市民)にとってどれだけ有益なのかが柏市行政機関の判断基準だと、私にもわかってきたが、その判断基準と実行基準の乖離(かいり)がどれだけなのかが、まだまだ理解できないのである。
 というわけで、7月17日の海の日に、川でYBCは柏市のご協力によって、新たな練習場所の使用を開始する。ここまでの経緯と公園内の利用の説明などを行ってから、軽めの練習を実施する予定である。

利根運動広場(その1)

2006-07-14 | YBC始動
 オール沼南グランドを拝借できるようになったとはいえ、練習場の確保は不安定である。6~7月の高校野球の予選時期は、柏日体高と言えどもほとんど借用できない。そこで、当初から柏市が勧めてくれていた「利根川河川敷グランド(利根運動広場)」の状況を、再々々度、見ることにした。
 10日、YBCの某選手の就職依頼(これも松田監事が超多忙であるので、私と加藤副部長が何度もあちこちに足を運んでいる)のため、柏に行ったので、さらに足を延ばして利根川へ行ったのである。
 過去3度見て回ったときと変わりはなかったが、常時気兼ねなく硬式野球ができる場は、柏市と周辺地域を視察してきた結果から鑑みても、今のところ、この場所以外には考えにくい。そこで、生涯学習部スポーツ課の石切山課長に連絡をとって、教育委員会に出向くことにした。
 旧沼南町庁舎3階の石切山さんを訪ねると「今日は、矢上教育長は留守にしていますが、こちらへどうぞ」と、さっそく応接室に通された。石切山さんを筆頭にスポーツ課の重田さん、野辺さん(初対面)に加えて、ホームタウン推進室の渡辺室長までが駆けつけてくれていた。これまでの経緯から、ついスポーツ課にアポを取ってしまったが、じつはYBCへの対応は、ホームタウン推進室に一本化されていた、それを私がすっかり忘却していたのである。
 4月の協議では、私も感情がかなり高下しただけに、失礼な発言もあったと反省しているが、渡辺室長が駆けつけてくださったのはありがたかった。
 改めてYBCの創設から今日までの半年間、練習環境、選手育成、現在のチーム状況など説明し、「河川敷グランド」を硬式対応グランドとして、最低限の環境(仮設トイレ及び物置の設置)だけでも整えていただきたい旨をお願いした。
 石切山課長が利用状況を調べてくださり、とりあえず8月下旬まで延べ5日の使用を予約できた。9月以降3月まで、第1週、第3週の土日の使用も許可された。
 渡辺室長は、市内のグランドを全て見て周って作成した資料を手元に置いて「河川敷グランドから目と鼻の先に、あけぼの山農業公園があります。そこには、管理棟やクラブハウス、芝のサッカーグランドが2面用意されています。一度見に来てください」「谷沢さんもご自分でこんな折衝までするんじゃ、身体が持ちませんよ」と気を使っていただいたが、「これでやっと前に進むことができる」と確信した。
 平日練習が行われている「オール沼南グランド」に同行していただいて、選手の練習相手をしていた杉村広報を呼んで、双方の連絡窓口となる野辺氏を紹介した。
杉村君には、私の早大での野球実技授業の補助員もつとめてもらっているので、連絡窓口にはうってつけである。もっとも補助員は時給900円だから交通費込みで2700円にしかならない。窓口となって柏まで出張ってきたり、沼南での練習をサポートしてくれたりすると、かなりの持ち出しになるだろう。彼が河童のように痩身(そうしん)なのはそのせいである。加藤副部長が杉村君に受験指導のアルバイト口を斡旋(あっせん)してくれても、当然、追いつくはずがない。
 これまた、本人はほとんど口にしないが、スタッフの一面である。もちろん、彼は金銭的に我慢してスタッフ役をつとめているのではない。「そうするのが楽しいから、お金を自分で払ってしているのです」と言う。これがYBCのスタッフであり、YBCの理念である。そういうスタッフに「ああしろ、こうしろ」と口さがなく言う者がいるとすれば、私は「君自身が自分の時間と金銭を提供して、楽しくやりたまえ」と言わざるをえない。
 ともあれ、杉村君は早大の授業の合間に野辺氏に連絡を取り、11日にいったん柏市ホームタウン推進室へ出向いていってさらに「管理棟とクラブハウス」を拝見に行くことになったのである。

柏YBC野球教室の準備

2006-07-14 | YBC始動
 先月、柏市野球連盟の中田理事長、山村副委員長がYBC事務局にいらした。この席で、8月4、5日の両日、「第1回柏YBC野球教室」が開催されることになったが、その後、二転三転どころか四転五転して、結局、再度、両氏が事務局にご足労くださり、5日だけになった。その変更は、ひたすら先方の都合だったが、なにしろ多くの団体が関わるので、その調整が先方も大変だったようだ。
 大変だと言えば、YBCスタッフも大変で、先方の度重なる変更要請に合わせて、そのつど、即時に対応していたのは忍耐強い加藤副部長だった。誰からであれ(名前を名乗る度胸もなく)飛んでくる卑しい非難を甘受し、愚痴も洩らさず、そして自らを誇らず、仲間のスタッフを誹(そし)らずに裏方をつとめてくれていることを知る人は少ない。身内誉めになるが、敢えて書いておきたい。この詳細は機会をみて触れたいと思う。
 いずれにしても、YBCと柏市とが共同で野球教室という「イベント」を開くことになったのだ。一時は、「谷沢野球コミュニティ南関東」などど自らを揶揄(やゆ)したこともあったが、柏市と柏の野球関係者のお役に立てることは嬉しい。

平日自主練習とクローズドテスト

2006-07-14 | YBC始動

 夏の高校野球予選が千葉県でも始まった。12日は、トライアウトの会場を提供していただいた市立柏高と、5月から練習場としてお世話になっている柏日体高が、それぞれ一回戦を迎えた。両校の健闘を期待していたが、結果は明暗二筋に分かれてしまった。市立柏高は渋谷幕張高にコールド勝ち、柏日体高は君津高に惜しくも敗退だった。残念・・・
 YBCは、6月下旬から「オール沼南ベースボールクラブ」のご厚意で平日自主練習がスタートし、すでに6回使わせていただいたが、参加者は微増して、3回目6人、4回目7人、5回目8人、6回目9人となった。このままいくと・・・50回目には53人! まさか・・・
 「オール沼南」の方々による手作りのグランドなので、ご迷惑をかけてはいけないと思い、できるだけ私も出向いているが、2回に1回くらいしか行けないので、選手自身による自主的管理が機能するようになるまでは、広報兼マネージャーの杉村君に毎回参加してもらっている。(彼は東京の西のはずれに住んでいるのだから、片道2時間強の時間を費やしてくれている。)
 さて、9日の練習試合(ホームページに掲載)は、久し振りに勝利を味わった。練習試合は出来るだけ相手チームの意向に沿って実施しているが、曜日や時間や場所によっては出場する選手にも限りがある。それはYBCだけでなくクラブチームの宿命で、試合の勝敗も大きく左右される。
 しかし、YBCは基本的には「来るものは歓(よろこ)んで迎える」という姿勢であるせいか、練習や試合を「視察」に来る他チームの選手たちが少なくない。自らメールで参加意志を示してくる選手、私の知人の紹介でくる選手、YBCのメンバーの関係でくる選手、さらには保護者に伴われて見学にくる少年選手、そんな選手たちがやってくる。暗黙のうちに「クローズドテスト」を行いながらも、「育成選手」と名付けてその場で試合に出場させる時もある。少しずつYBCの自由に参加できる「コミュニティ」の理念が効果を産んでいるのではないかと思っている。

出処進退

2006-07-04 | プロ野球への独白
 野球一筋の人生だから、他のスポーツについては口を慎むことにしてきた。それでも、昨夜の「ヒデ引退」のニュースには心の内に去来するものがあった。
 それを短くいえば「ヒデはさすがだな、そしてなんという幸せ者か……」だった。
 プロ野球人の引退は個性を示すものばかりだ。ぼろぼろになるまで選手であり続けた人、ピークを越えたと悟ったときに退いた人、その人なりの「潔さ」の現れだった。
 私の場合は、以前、TVの取材でも答えたが、引退の決意と安堵感が直結するものだった。当時は(そして今でも)なかなか信じてもらえないのだが、引退を心で決めた瞬間、「ああ、これで苦しまなくてもすむ、足の激痛と戦わなくてもすむ」という安らかさに包まれたのだった。
 それを家族に伝えたとき、私以上に、安堵感が妻の表情に現れた。また、今思い出してもおかしくなるのは中学にあがったばかりの長男の言葉で、「パパが引退しても、僕に御飯だけは腹一杯食べさせてね」である。ほんとうに正直な子どもに育ったものだと思った。それがいかにも私似だと思い、いとしさが募った。
 我がYBCでも、6月の公式戦後に、「野球をやめる」と言って、チームを退部する選手が何人かいた。「親との約束だから、もう家に戻って野球から足を洗う」とか、「野球生活の最後がYBCでよかった。ほんとうに良い締めくくりになった」とか、それぞれ率直に語ってくれた。選手たちがそういう言葉を残してくれると、短い期間だったが、つくづくYBCを結成してよかったと思っている。
 彼らは、自らの意志でYBCに加わり、自らの望みでYBCで行動したはずだ。だからこそ、爽やかな言葉とともにYBCから離れられるのだろう。友人から誘われたのでなんとなくとか、知人に頼まれたのでやむなくとか、そんな参加のしかたではないから、仲間への不満も抱かず、逆に感謝の思いを抱いてくれた。
 私は、選手やスタッフの言葉を信じてきたし、これからも信じる。言葉に裏と表があるのがこの世だと言う。生き抜くには、それを使い分けることだと「教えて」くれる人たちも少なくない。だが、私と私の信頼するスタッフはけっして表と裏を使い分けたりしない。ヒデの出処進退の見事さにふれて、改めてそんなことを想った。