谷沢健一のニューアマチュアリズム

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ドリーム・ベースボール(その3)

2006-11-29 | YBC始動
 しばらくして、市役所勤めの兄・大地君がやってきた。天心君は3人兄弟なのだ。父君が名前の由来を話してくれた。「長男は、正力(しょうりき)と言いましてね。読売を大きくした正力松太郎氏から名付けました。大地はパール・バックの小説からとりました」「3番目は女の子の名前を考えていましてね。そしたら、また男。困ってねー。生まれたときは嵐の日でした。人生平穏の日ばかりではない、天の心と閃(ひらめ)いたんですよ」、なるほど、いかにも男気のある大胆な父上であった。
 翌日は名瀬運動公園市民球場で試合だった。その終盤に奥様とご一緒にダッグアウト横にきてくれた。昨夜、「明日は試合前にグランドで写真を撮りましょう」と申しあげておいたのだが、「朝からずっとスタンドで観戦してましたよ」と言う。何と奥ゆかしい方なのだろうかと、一瞬、天心君の顔とダブってしまった。
 「ここに、YBCを連れてきたいですね」と皆さんに言ったほどに、広い球場と立派な室内ドームが完備している。チームを強くして、2月~3月に掛けてキャンプを張る七十七銀行や日大と練習試合をしたいものである。
 そして思った、「昨晩の皆さんとの語らいが、私にとってのドリーム・ゲームだったのかも知れない」と。

ドリーム・ベースボール(その2)

2006-11-29 | YBC始動
 父君は恰幅の良い、歌舞伎役者のような男前の方だった。案内された料理店の座敷には、4人の方々がおいでだった。飛行機が遅れたため、だいぶ待たせてしまったのだ。丁重に上座に通されて「今日は内輪のものばかりですので、ゆっくりしてくださいね。これが私の兄の弘一です。それから、押川さん、山田さん(父君と同業のホンダ販売経営)です」(もうお一人は名刺交換をせず、お名前を思い出せない。すみません)と紹介してくれた。
 「みんな、天心の野球を応援してくれています。茨城GGに入ったときもそうですし、今度は谷沢さんのチームに入ったと聞いて大騒ぎなんですよ。つい最近、地元の新聞にも大きく載りました」
 「天心君は、積極的にチームを引っ張ってくれています。有り難いですよ」と私がお世辞抜きで言うと、すかさず押川さんの曰く「天心たちには小さい頃から野球を教えていましたが、何か質問があるかと聞くと、天心一人がハイ、ハイ、ハイと手を大きく上げてねー。今ではこっちが恥ずかしいくらいになりましたよ」「シャイな子供が多い中で、あの子一人が目立っていましたね」

ドリーム・ベースボール(その1)

2006-11-29 | YBC始動
 11月25~26日の両日、奄美大島の奄美市(名瀬、奄美が合併)で野球行事が開催され、私も参加してきた。うたい文句は「名球会、OBクラブがやって来る!」である。名球会員8名(金田代表幹事以下、松原、有藤、谷沢、村田、北別府、駒田、野村謙二郎)とOBクラブから16名(水上善雄、山本和範、市川和正、辻発彦、二村忠美、中田良弘、松永浩美、木戸克彦、高田誠、本西厚博、村上隆行、武田一浩、山崎慎太郎、高橋智、吉永幸一郎、小林宏)である。主催は、鹿児島県、奄美市、財団法人自治総合センターだった。
 15年前から、宝くじスポーツフェア-と銘打って「ドリーム・ベースボール」が行われてきた。日本プロ野球名球会が「あなたの町に名球会がやってくる!」というキャッチ・フレーズで始めたものだったが、3年前から全国野球振興会(日本プロ野球OBクラブ)と協力して行われるようになった。今年は14箇所で実施され、その最後の開催地が奄美市だった。
 25日、私は東海テレビの番組に出演してから、中部国際空港-鹿児島-奄美と乗り継ぎ、空港からもタクシー(OBクラブ事務係と山本カズが同乗)で約50分かかって奄美市名瀬に到着した。ここまで詳細に書いてきたのは実は訳がある。YBCフェニーズのリードオフマンである元野天心君がこの島の出身なのだ。「今度、奄美へ行くぞ」と話をしたところ、練習時にYBCメンバーの集合写真や私とのツーショットの写真を撮り始めた。実家に送るためだったらしい。ホテルに着くと、元野君の父君・景一氏が待ってくれていた。

桜川球場新装記念試合(その3)

2006-11-20 | YBC始動
 ゲームの最中もゲーム後も、スタッフや選手たちに主催者から賞品や弁当などを沢山いただいた。食べ盛りの選手の中には、なかばそれが目当てだと、冗談を言う者もいるほどである。とくに今回は、参加選手・スタッフが少なかったので、昼夕の2食分のはずなのに、副部長は「弁当は2種類あるが、好きな弁当を3食分+おかず1パック+デザート柿4個を各自に配布する」と声を張り上げていた。地元名産の「監督用土産」まで用意されていて、改めてこのブログでも感謝する次第である。お返しといえば、サインに応じることぐらいだったが、サインの申し出のタイミングがうまくない人もいて、数人の人には申し訳ないことになってしまった。
 東京中日スポーツ(わざわざ2名も来てくれた)など、マスコミ4社のカコミ取材を受けているうちに、試合内容の低調さへの怒りも静まり、試合後のミーティングでは、「我がチームにオフはない。基本的な練習の継続は行って行く。チームとして個人として何が足りないか、目的をもって練習を続けていくように」と話をした。投手にも、「並行カウントからのボールが多く、常に打者有利のカウントで投げねばならない羽目に陥っている。特にストレートのコントロールを磨くように」と指示した。
 この日と翌日は、福井県敦賀市で名球会&プロ野球OBクラブの「ドリームゲーム」の開催が予定されていた。今日18日の指導者研修会の講師役はキャンセルさせてもらったが、19日の試合には出なければならない。
 食事をしている選手たちをあとに、私・加藤・川島の60歳(四捨五入)トリオは空腹を抱えて、福井敦賀、神田神保町、湘南藤沢へと、それぞれ向かったのである。

桜川球場新装記念試合(その2)

2006-11-20 | YBC始動
 改装された球場は立派だった。照明塔にはモチーフとして桜の花びらが施され、小ぶりのメインスタンドとスタンドの椅子は、萩本さんたっての希望とかで、GGのチームカラー(黄色と黒?)だった。広さも両翼96m、センター120mと充分ある。大きなバックスクリーンの左横には、横長の電光掲示板もあるし、右横は斜面一体に広がる「さくら川」の花文字である。春になると綺麗なツツジが咲くことだろう。
 内野スタンドと並行して、4人が投球練習できるブルペンも設置され、グランドは内外野(外野は芝生)ともよく整備されていた。稲敷市は、回収に約8千万円を投じたそうである。
 打撃練習でノック中の私のところに、西武ライオンズ全盛時のエース、アニヤンこと松沼(兄)君が挨拶に見えられた。わざわざノックの手伝いをしてくれながら交わした言葉によると、「今日は、桜川に住んでいる選手たちを優先して起用しますのでよろしく」「選手は3人ずつアパートを借り、平日は3時ころまで農作業を手伝っています」「月々5~6万、頂いているようです」「この球場はナイター設備もありますから、電気代も掛かりますが、毎日、八時頃までは練習してますよ」「これでも選手が少なくなりましたので、12月にはトライアウトをやりますよ」と恵まれた練習環境の話が続く。
 「羨(うらや)ましいね」と言うと、「萩本さんは、ああ見えて、人一倍負けず嫌いですから、どんどん選手を入れ替えてでも、強くしたいんですね」という。その負けず嫌いが良い方向へ進んでいるようで、見習わねばならないと思った。
 午後から肌寒くなる中、試合が始まったが、1回表の無死満塁のチャンスを活かせなかったのがたたって、こちらの旗色も悪く、一方的に押されるゲームだった。それでも三塁側スタンドのファンの皆さんは「欽ちゃんをとっちめてやれ」と終始、声援を送ってくれたのは嬉しかった。

桜川球場新装記念試合(その1)

2006-11-20 | YBC始動
 18日、YBCは今季最終戦を茨城県稲敷市(稲敷郡の江戸崎・新利根・桜川・東の4町村が合併した新市)の、新装なった桜川球場で茨城GGと対戦した。今季3試合の実施予定だった「水戸信金カップ(TXシリーズ)」(1試合は雨でノーゲーム)の一環であり、同時に新装球場オープニングゲームとして行われた。
 東京から約2時間、私と加藤副部長はJR-京成-JRと電車を乗り継いで、下総神崎駅に到着。集合時間11時をやや過ぎたころに球場入りした。球場正面では、地元の方々による野菜や果物や御強飯(おこわめし)などの出店が並び、焼きリンゴや今川焼の店まであって、さながらお祭り気分という雰囲気を醸し出していた。
 すでに、GGの選手たちが大勢、練習をしていたが、YBCの選手はというと、10人足らずだった。コーチ陣でただ一人の参加者の上村君に尋ねると、「遠藤君の車も、五味田君の車も、高速の事故などで渋滞しているそうです」2台ともそうとう朝早く出たのだろうに、同乗している元野君、伊藤君らも今頃きっと焦っているだろう。
 打撃練習は2箇所でできたが、1箇所はマシンがセットされていて、人手不足の我々にはありがたかった。山崎?大輔sr君は、打撃投手としてすでに200球も投げていた。彼のチームへの貢献意識は随分と高い。YBCにも、残念ながら我が身ばかりを考えがちな選手もいないではない。高校や大学で野球部に属してきても、for the teamの精神が身についていないのだ。for the teamは、試合の時だけではない。高校や大学で野球部に属さなかった選手たちに、身を以てfor the teamを示す者は---松村、大野、木藤、山崎sr、大竹、神木、五味田、高木、元野、パッと思いつくだけでもまだまだいる。最年少の岡少年も、最近はそれらを見習うようになりつつある。桜川球場のように、YBCの若い選手たちが行いをより磨き、新たに、より美しくなっていることを改めて感じた。

合宿&特別クローズドテスト(その2)

2006-11-06 | YBC始動
 合宿は大成功だった。概括的に三日間を紹介しよう。一日目は、素晴らしい内野手がテストを受けてくれた。彼がチームの守備練習に入ると内野陣がひきしまった。山?崎大輔ジュニアとのコンビは楽しみである。午後からは、延期されていた野田BCとの試合をおこなった。卑しい野次のない、清々しいチームだった。夕食後のミーティングでは、基本的な野球の心得を話した。
 深夜、悪寒がひどく、風邪薬を飲んで、一晩中、氷をとっかえひっかえしながら、夜明けを待った。我ながら、体が柔になったものである。副部長は「今後は、監督用体温計を用意しておかなくては」と言う。「還暦を過ぎたご老体にからかわれるようでは…」と憎まれ口の一つも叩きたかったが、その元気も出なかったのは不甲斐ない話である。
 二日目は、午後から、明治神宮外苑創建80年記念試合の「東京六大学選抜vs東京ヤクルト」の中継(フジテレビ739)のため、神宮球場へ出向き、ほとんどの練習を畏友・川島君と久保田コーチに任せた。真っ暗になるまでのハードな練習だったようだ。
 夕食後のミーティングは、「攻撃・守備・投手の心得応用問題」などを行った。実戦例を挙げながら、「このケースで起こりうることはいくつあるか」と選手たちに問い、軽い討論をした。少しずつ頭を使う野球へ導かなければならないが、野球経験に大きな差のある選手たちを教えるのは、いささか困難である。対策を考えなければならない。
 三日目は、朝6時に埼玉へ用を果たしに行き、正午過ぎに戻った。昼食を5分で終えて、午後1時からの試合に臨んだ。わざわざ群馬から遠征にきてくれた「オール高崎野球倶楽部」との対戦である。次々と繰り出してくる粒ぞろいの投手陣からなんとか3点をもぎとったが、惜しくも1点差の敗戦となった。
 しかし、チームにようやく一体感が生まれてきた。その中心を担ってくれているのが松村、木藤、元野の3選手である。3人とも多忙な会社に勤務しながら、戦力的にも精神的にもチームの柱になってくれている。彼らを中心に自主的に行動できる積極性が選手たちが芽生えてきたのは、嬉しいし頼もしい。
 YBCを創設して1年目が終わろうとしている。グランド問題を抱えながらも、試合数31、合宿3回、野球教室2回など、よく活動できたものだと思う。知人たちから「グランドの当てもないのに、チームを作ったのか?!」と、計画性の無さを指摘されたことは1回2回でないが、大きな困難が立ちはだかっている時には、無計画性はむしろ臨機応変の柔軟性となって、困難を打破できるのではないだろうか。
 創設時の熱気を失ったメンバーや支持者が少なくない中で、ともあれ1年間やってこれたことに、むしろ私(そして創設時と変わらぬ活動量を保持しているスタッフ・選手たち)は、この上ない楽しさをおぼえるのである。

合宿&特別クローズドテスト(その1)

2006-11-06 | YBC始動
 11月3日から5日までの3日間、YBCは今年3度目の合宿を行った。と同時に特別クローズドテストと練習試合も2試合開催した。実施した会場は「東京大学検見川総合運動場」である。習志野高校時代、冬季の練習に時々利用させていただいていた。当時から広大な施設であったが、野球場が存在していたかどうかは、記憶が定かでない。ただ、今でも鮮明に憶えているのは、勾配のきついクロスカントリーのコースである。「芝生のコースだから足腰のバネが養成されるんだ」といわれ、血反吐を吐くようなランニングをやらされた。
 そんなことを思い出したのが、3月頃だった。YBCの創設第一戦の東大とのゲームを終えてから、東大野球部の小谷主務に検見川グランドのことを尋ねた。「セミナーハウスや野球場、サッカー場も完備してますよ」「もちろん、野球場は硬式対応もできますよ」「本部のある方を紹介しましょう」といってくれた。さっそく連絡をとると、グランド使用の頻度は高く、宿泊なども一定時期の予約制だった。しかし、宿泊、グランド使用、食事代も東大生のための施設であるせいか、廉価であり、「貧乏YBC」には適切である。何とか有効に利用できないものかと考えた。
 そして、9月上旬、現場責任者である尾迫(おせこ)雅英氏に依頼状(YBC合宿の趣旨及び団体の活動)を送付した。口さがない人たちに「顔でとった」と言われるのは心外だから、正式な手続きを踏んだのである。
 幸い許可もおり、東大に出向き、事務手続きを済ませて、3日間の合宿が決定した。YBCのマネージャー3人は今、ひじょうに多忙だというので、彼らに負担をかけることをせずに、私と副部長と二人で計画-行動-実施につとめた。私も日本シリーズの放送解説をはじめ諸事が多いし、副部長も本職のほうで最大行事があったという(会社を経営しているということは、社員とその家族の人たちの生活給を保障することなのだから、どれほどの重責かを考えると、申し訳なくも思う)が、なんとか大部分の雑務を二人きりでやりおおせた。

ヒルマン監督(北海道日本ハム)の思考

2006-11-06 | プロ野球への独白
 今年の日本シリーズは、私にも予想外の4勝1敗という結果だった。その「北海道日本ハム」の日本一は、ほとんどの野球ファンの常識をくつがえす事柄が本質にあったと言える。プロ野球が創設されてから70年以上に及ぶ既成概念を覆す、SHINNJOという破天荒な一選手の最後の大舞台を、勝利の女神が演出したことも手伝って、チームとファンが一体となった見事な優勝だった。
 かつては、北海道は巨人ファンが圧倒的多数だった。だが、「コンサドーレ札幌」が結成されて以来、サッカーが一時はプロ野球よりも盛り上がった。そこへ進出した日本ハムが、球団経営に命を張って、3年で北の大地を文字通りフランチャイズ化したのである。
 ファンもまた、Jリーグの応援スタイルを導入したり、小笠原選手の応援には東京都小笠原諸島のイルカのオブジェを持ち込んだりした。北海道は、こんなにも新しいものを受容する、何事にもとらわれない、ふところの深い、決して排他的ではない土地柄だったのだ。
 札幌ドームの観衆42030人が見守る中、最初に胴上げされたのは新庄剛志であった。続いて中心打者・小笠原、ベテラン田中幸雄、亡き先代オーナーの遺影を胸に抱いた大社オーナー、なんと最後の最後にヒルマン監督が宙に舞った。昨年のバレンタインもそうだったと思うが、外国人監督として日本の文化や日本人の気質をいち早く理解した、そのポジティブなバランス感覚は頭が下がる。時には、好きなギターを弾いてエンターテナーぶりを発揮し、自ら野球ファン獲得に奔走することも厭わなかった。だからこそ、女性ファンやプロ野球に関心の薄かった層も開拓できたのではないか。
 レギュラーシーズンを一位で通過して、一通りのセレモニーを終えたヒルマンが、グランドを整備するグランドキーパーのところに行き、ねぎらいの言葉を掛けている映像を、私は目にすることができた。こんな一面は、スタッフや選手たちを前面に押し出していく彼の考え方の基盤となっているのだろう。
 3年前、ヒルマン監督が就任した時の挨拶を思い出す。古代ギリシア哲学の言葉を引用するあたりインテリジェンスを感じさせた。それはロゴスとパトスである。「最初に言葉(ロゴス)ありき。私は全ての人とコミュニケーションによって、明るいチームをつくりたい。またパトス(情熱)をもってチームを牽引していきたい」と語った。
 アジアシリーズも11月9日から始まる。ヒルマン監督はシリーズ後、いくつかの大リーグ球団からの監督要請もあり、来年度は北海道を去るかもしれないが、かつて、2年足らずの在任期間で、内村鑑三や新渡戸稲造などを育成したクラーク博士のように、その偉業は賞賛されてほしいものだ。