谷沢健一のニューアマチュアリズム

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追悼 稲尾和久さん(その3)

2007-11-30 | プロ野球への独白
 稲尾さんは豪放磊落な性格を前面に露出させていたけれども、実は繊細さが本性だったと思う。野球教室でご一緒して感じたのは、子供たちには誰よりも丁寧に指導されることだった。「いいか、指導してもらうときは、耳で聞くなよ。眼で聞くんだ。眼で聞くと教えられていることが眼に焼く付くんだ。耳で聞く者は集中力が足りない」
 私の息子はラグビーをやっていたが、よくアドバイスをいただいた。息子が大学2年の時に、名球会ハワイ総会に同伴した。そこでも、「ラグビーよりも野球をやれ。ラグビーはお金にならんぞ!」と冗談交じりに、野球の良さを滔々と話したそうだ。おそらく、4人の子宝に恵まれたが、男児を持てなかったせいか、かわいく思う分、歯がゆかったのだろう。
 告別式には1500人の弔問客が参列した。名球会員ももっと参列するはずであったが、同じ日に関西でスポーツメーカー「オニツカ(現アシックス)」を世界有数のメーカーに育て上げた鬼塚喜八郎氏の葬儀があったため、参列できない人が多かったのは致し方ない。
 それにしても、酒も人も唄もこよなく愛しておられた稲尾氏だった。十八番「無法松の一生」が聞けなくなったことは寂しい。「小倉生まれで 玄海育ち 口も荒いが 気も荒い 無法一代 涙を捨てて 度胸千両で 生きる身の 男一代 無法松」と口ずさんだあとに、一度ならず「健一、そんなことじゃ、強打者の器じゃないぞ」と言われたものだが、今、私に言えるのは「稲尾さん、あなたはどんな器も比でない最高の投手でした」

追悼 稲尾和久さん(その2)

2007-11-30 | プロ野球への独白
 福岡斎場には早めに到着した。場内に稲尾さんの在りし日の映像が流れていた。寂寥の湧き上がる心でしばし見入っていると、日本ティーボール協会の吉村正副会長と末次義久専務理事から声を掛けられた。稲尾さんも協会の副会長である。やがて前参院議長の扇千景さんが最前列にお座りになった。また福岡で合宿中のアジア予選に向かう「星野ジャパン」のスタッフの面々も着席していた。
 稲尾さんは、私をいつでもどこでも「健一!」と呼んでくれた。その縁は、中監督(78~80)の時代にコーチとしてドラゴンズに在籍したときに始まった。投手コーチとはいえ、私が80年に復帰を果たすまで陰になり日向になりして応援してくださった。
 稲尾さんが日本シリーズ4連投や年間42勝は古今未曾有の記録によって、多くの野球ファンの記憶に刻み込まれ、「神様、仏様、稲尾様」と呼称された当時、三原監督の下に影のトレーナーが存在していた。故小山田秀雄氏である。日本酒マッサージで私のアキレス腱を蘇えらせ、私の心も回復させた名医だ。
 あるとき「小山田さんを覚えていますか?」とたずねたら、「忘れもしないよ。オレの凝縮された投手人生は小山田先生のお陰だよ」「一度、先生を交えて食事をしませんか。喜ぶと思います。」さっそく、私は段取りを重ね、会食が実現した。
 会話は弾んだ。「稲尾君は知る由も無いだろうが、三原監督は細かい指示を私に良く与えましてね。夜中に選手の寝姿を見てこいと言うんだなー。寝ぞうの悪い者には布団を掛けて回るんだが、寝姿で体調が分かるもんだと監督から教えられたねー」と小山田氏。「小山田先生も、お爺ちゃんになりましたね。それなのに、有志のポケットマネーで、福岡から名古屋まで皆さんの治療にいらしているとは有難いことですね」と稲尾氏。もっとも思い出に残る食事会の一つである。

追悼 稲尾和久さん(その1)

2007-11-30 | プロ野球への独白
 13日の新聞を開いて驚愕した。「稲尾さんが、まさか・・」と、名球会事務局から電話が入った。「22日の告別式に参列するか」との問いであった。その声には「名球会会員は当然、全員参加ですよ」という響きが感じ取れたが、それは言うまでもないことで、「もちろんですよ」と返答した。
 福岡便には、金田代表幹事を初め、衣笠、松原、山?、若松、大島、平松、東尾、堀内の各氏が同乗した。このように参集するのは故・大杉勝男氏以来である。村山実氏、皆川睦夫氏、梶本隆夫氏が亡くなったときは、もっと人数が寂しかった。
 今では会員が47名にもなった名球会だが、その創設のきっかけを金田代表から伺ったことがある。金田氏曰く「中尾碩志さんの葬儀に行ったときなー。参列者が余りにも少なかったんや」それで、同席していた長嶋、王両氏に言ったという。「なあ、ミスター、200勝も挙げてる投手やでー。ワンちゃん、さびしいなー」中尾氏は巨人軍投手で、19年間在籍して209勝127敗の成績を残し、引退後は投手コーチもつとめた。「苦労して成し遂げた200勝の成績や。その功に報いる親睦会でも作ろうや」というのが動機だったそうだ。
 いかにも、金田代表らしい情けのこもった話だった。「人情紙風船の如し」という思いは、名球会の会員であろうが、なかろうが、プロ野球選手なら皆、味わっているだろう。絶頂期はやたら褒めそやす者がまわりに集まる。しかし、それが過ぎると手のひらを返す者が次々に表れる。「ないことないこと」をさも真実のように言いたて書きたてる。「カネやん、チョウーさん、ワンちゃん」とさも親しげにすりよってきた者が、非人間的な言葉を浴びせ、中には卵を投げつけたり「ワン公」などと獣扱いする者もいる。それを「有名人の宿命だ」などと、かえって罵倒者の肩を持つ者さえ現れる。金田、長嶋、王の名球会発起人3氏は、他のだれよりも非難・罵倒された経験を持っている。それももっとも自分に近いマスコミ関係者、ファン、球団関係者からだ。

野球場の雑草刈り(その3)

2007-11-06 | YBC前進
 「本日の整備はこれで打ち切りだ。みんな練習したいだろう。整備のすんだ部分でやろう」と言うと、大学の「ナントカ治療」レポートの作成で一睡もしていない武岡君が真っ先に「やるぞー、うまくなるぞー、サー行こうぜ!」さすがチーム一のムードメーカーである。私も「キャッチボールが済んだら何時でも合図してこい。内野ノックをやるぞ」と言ったものの、それにはノックのスペースだけは整えねばならない。「上村!そんな悠長な整備では間に合わんぞ。大学の野球部で教わったんだろう」「僕は外野の整備しかやったことないんですよ」「こうやるんだ!見てろ!」このような機会は選手やスタッフの性格や行動が自ずと露わになる。
 翌4日も10時集合だった。この日は昨日のメンバーに加えて、遠藤、渡辺、瀬尾、永島、瀧沢の面々が参加した。11月は練習場所が確保しにくい。千葉熱血チームの中村代表も、加藤副部長へ電話をかけてきて、同じ悩みと苦労を話したという。しかし、秋の練習量が来シーズンへの確実なステップとなるし、常にモチベーションを維持するために、夕方から都内へ移動して神宮外苑室内球技場で2時間の練習メニューを組んだ。(神宮室内では我々の直後に、武蔵野クの練習が控えていて、オーナーと久々に歓談できた。)
 このグランドは関係者のご配慮で使用が許された。何度も何度も挫折したが諦めずに(おそらく内心で「しつこいな」と嫌悪していた方もおられただろう)、タイミングを見計らいながら交渉に挑んできた。とにかく3月までは使用可能となった。有難いことである。それから先は不透明ではあるが、3年目を迎えるYBCにとって、また一つ逞しさを養う場所が確保できたことは、私にはこのうえなく嬉しいし、硬式野球に熱中している人たちの下支えの一端に在ることを実感している。

野球場の雑草刈り(その2)

2007-11-06 | YBC前進
 センター後方にも物置が大小2つ並んでいた。扉が半開きである。「監督!扉が歪んでいて閉まりません。」と小松マネージャーが言う。「小松君、柏の葉(故父の旧宅)に購入したばかりの物置があるので、それを運んでくれないか」小松君は有名輸送会社の中堅管理職である。「はい!承知しました」と答えながら、草刈りに精を出している皆の姿を携帯のカメラで撮っている。
 旧宅の物置というのは父がYBCの道具入れとして用意してくれていた。10m四方のネット8枚を納めておいたのだが、これは全て7月にオール沼南グランドに移動して使用していた。明日にでも道具車担当の樫田君に何枚か取りに行ってもらおう。
 トンボやレーキも蔦と長く伸びた雑草の中にから10本程出てきた。鉄の柄や枠が腐って半分欠けており、タイヤもパンクしたリヤカーを発見してからは、刈った草や不要物の移動がスムーズになり、大掃除はどんどん捗っていった。3時間は費やしただろうか。「おーい!休憩にしよう」、副部長が樫田君を呼んで「貧しいが1人500円の予算で昼飯を買ってきてくれ」と離れた場所にあるコンビニへ行かせた。
 錦秋(というには「紅葉は未だし」だが)の日差しは心地良かった。農作業が一段落する時のように(雑草取りは腰に極度の疲労を与える)車座になっては、みんな冗談を飛ばし、年齢や職責を超えて、大きな笑い声はグランド一杯に広がった。今日は、4人の選手(金沢、瀬尾、川村、伊藤康)が千葉県クラブ選抜チームのメンバーとして千葉県大学選抜軍(2部・3部)との交流試合に臨んでいる。久保田コーチも帯同してベンチ入りしているので張り切っていることだろう。

野球場の雑草刈り(その1)

2007-11-06 | YBC前進
 日本シリーズ第5戦の(山井投手の交代劇についての)私の発言が物議を醸し、その翌日のTV番組での出演依頼もあったが断った(電話インタビューには答えたが)。というのは、この日(3日)はYBC待望の練習場の整備日だったからである。関係者の方々のご努力とご理解で、ようやく使用できるようになったグランドである。たとえ、来年3月までという期限付きであれ、1年近くも放置されて荒れ放題のグランドであれ、野球場と言うには変形で打撃練習も手加減しなければいけないのであれ、とにかく思い通りに使用できる初めてのグランドである。
 朝10時に集合した有志8名(小松マネ以下、上村、高木、樫田、武岡、小野寺、鈴木俊、新入部の菅谷)と仕事の都合で遅れた加藤副部長と合わせてちょうど10名だった。YBCがお世話になっているスポーツ店・ベースマンの佐々木君もわざわざ足を運んでくれて、稼動するための用具や備品をチェックしてくれた。
 あちこちに苔が生え、ぶかぶかの地面、石コロだらけで雑草も伸び放題、草木が根を張り、蔓がネットに絡んでいる。特に酷いのはブルペンで、大げさに言えば密林のごとく、廃屋の庭のごとく、シートは垂れ下がり、壊れた椅子や机やゴミ箱などが取り残されていた。
 「監督!こんな所に鎌が落ちてました。錆付いてるけど蔓が切れますよ!」「監督!草むらにL字ネットが埋もれていました!」「監督!物置にベースやラインカンや巻尺が残ってます!」という声々を聞きながら、「佐々木君、何とか使えそうなものが出てくるよ。でも、ホームベースは無いな。君にお願いするよ」と言っているところへ、「監督!3塁ベースが穴に入りません!」上村君の声であった。