谷沢健一のニューアマチュアリズム

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クラブチーム活動の「場」(その3)

2008-11-20 | YBC前進
 先日、和歌山市での名球会のイベントを終えて、関空の待合室にいくと、茨城GGを応援する年配のご夫婦から声を掛けられた。茨城GGが日本選手権1回戦で敗退したので帰路に着くという。
 谷沢「北野君が初回に4点取られたのが痛かったですね」
 夫君「2回からは2番手がきっちり抑えただけに残念でした」
ご夫婦は茨城GGの帽子とチームジャンバーを着用していたので、
谷沢「皆さんの応援が力になりますね」
妻君「練習が終わるとご飯を食べに来るんですよ。全国から選手が集まってますから、情が移りますね」
夫君「野良仕事も手伝ってくれるので有難いです。こずかい程度にしかならないのに、一生懸命ですね。お陰で町も明るくなりました」。
チーム協賛企業の応援もあるので、選手には一時金が貢献度を鑑みて支給されるそうだ。いずれにしても、野球ばかりでは地元の人たちも愛着が湧かない。こうした社会貢献は不可欠なのだ。
 「硬式ができる野球広場をつくる」ことは私の大きな目標の一つであるけれども、地元の人たちの理解があってこそ実現できるものである。柏市はあまりにも東京に近いので、地元独自の活動に制約が生まれやすいが、不可能を可能にする粘りを身上に闘っていきたいと思う。
 その一つとして、やはりNPO法人であるオール沼南ベースボールクラブと共同で「谷沢健一杯少年野球大会」が、来年2月(14~15日)に開催されることとなった。遅々としているがそれでも、新たに動き出すものがある。2009年はYBCの事業骨格づくりがテーマである。道はいつも多難であるが。

クラブチーム活動の「場」(その2)

2008-11-20 | YBC前進
 もともと、市を通して県から無償で借りていたのだから、何の文句もつけられない。それどころか、県と市に感謝すらしていた。お陰で今年はPWPで練習試合を17試合もできた。グランドが狭いので、特別ルールを設定しての試合だったが、相手チームの部長や監督は口々に「試合できるグランドがあるだけも羨ましい」と言ってくださった。
 わずか1年という短期間でも、土日に1日中専用できるグランドが存在したことで、明らかに選手たちは成長した。今年のYBCは、高い会費や企業の協賛を受けずに強くなれることを証明できた。その一端はやはりPWPという場があったことである。  
 この3年間の公式戦試合数は3、7、13と倍増を重ねた。4年目も多少メンバーは変わるだろうが、YBCの野球をやりたい若者が(なかには若者を卒業した者も)自ら進んで入団してくると期待している。チームづくりもこの3年間では最高といえるスタッフにも恵まれ、望ましい方向に向かっている。
 今回のグランド喪失の宣告は、「YBCのミッションは何か?」と天が問うているのかもしれない。昨年6月にYBCはNPO法人として認可された。NPOや企業は創業者の抱いた想いをミッションとして、創設されるのではないか。創業者の想いを賛同してくれる人たちの協力を得て具現化・具体化することではないか。私の想いはいくつも心の内に潜んでいる。
 フェニーズを強いチームとしてつくりあげていくことは大きなミッションであるが、それ以外の想いもたくさんある。スポーツ啓蒙活動などを軸にした地域貢献もその大きな一つだ。本当は、これがNPO法人の活動としては真っ先に挙げられなければいけないのである。
 私個人は、講演活動や少年野球教室、ティーボール教室(養護学校へのボランティア活動)、指導者研修会などを行ってきたが、更にこれらをYBCの事業活動と結びつけて、より活発かつ効果的にしなければならない。スタッフや選手たちにも当然、NPO法人のメンバーとしての任務が課せられることになる。フェニーズは単独チームではなく、YBCという法人の一部だという意識を抱いてくれなければいけない。野球以外の活動は無理だと言う者が大半ならば、人材をさらに募らなければならない。

クラブチーム活動の「場」(その1)

2008-11-20 | YBC前進
 第1回関東クラブ選手権の直前、柏市から電話がかかってきた。試合のシミレーション中だったが、それを頭から追い払って電話に出た。11月3日のスポーツフェスタ(柏市主催)にYBCが協力することになったので、その件だろうと思ったからである。しかし、意気消沈する報知だった。
 それは事実上PWPの使用拒絶を意味する知らせだった。PWPは2007年に廃校となった県立柏北高の硬式野球グランドである。それを昨年11月から原則土日に限って使用させてもらっていた。
 電話の声は「千葉県教育委員会から、柏北高のネット、フェンスを撤去する方向であると言ってきました。グランドは売却の予定だが話が具体化しているわけではない。しかし、再利用のために撤去したいというのです。工事は年明けの1月から始めるそうです。それで、グランド使用は12月までで終わらせていただきます。」
 谷沢「えー、ネット・フェンスをどこへ持って行くんですか。それは酷いやり方だね。」
 この1年間、グランドを整備し(具体的に言えば、繁茂の早い草の刈り込み、ネットの修理と新ネットの購入追加、土の掘り起こし、荒れはてて粗大ゴミの山積したブルペンの清掃と改造、外野フェンスの設置、近所の篤志の家にお願いして井戸水の確保及び水タンクの設置、物置の購入設置、打撃用鳥籠の購入設置などなど)管理してきた。県にも市にもまったく迷惑はかけなかったつもりである。あえて言えば、他の団体がYBCの備品を無断借用・盗用するのも黙って見逃してもきた。グランド使用の申し込みは、県の指示通りに2ヶ月前までに行ってきた。そして使用打ち切りの通告も2ヶ月前にやってきた。また「ジプシー」が始まるのかと暗澹たる気分になった。
 関東クラブ選手権の直前なのに、余計なニュースに心が乱された。今年最後の公式戦が準決勝での敗退に終わった日、球場(いくつもある埼玉県営の硬式仕様の球場のひとつ)からの帰り際に、主要スタッフに県の通達事項を伝えた。全員、表情が変わった。
 加藤副部長がつぶやいた、「ああ・・・そんなことなら、2月の確定申告で千葉県に「ふるさと納税」をしようと準備していたけれど、やーめた・・・」

クラブチームの公式戦(その3)

2008-06-04 | YBC前進
 早速久保田コーチから電話が入った。「棄権は避けましょうよ。選手たちに(参加への)努力するよう働きかけますから。棄権だけは・・・」加藤副部長の下へも松村主将からメールが入る。松村君に電話すると「監督!棄権こそ相手に失礼ですよ。お願いします。やらせてください」谷沢「だが、仕事を休めない者はチームに迷惑をかけたという罪悪感が募ってしまう」松村「10人でも戦わしてください」その熱意は尋常ではなかった。小松トップマネも「絶対にやるべきだ」という意見である。
 土曜日は1日中、天候と同じ気持ちでいた。翌日曜は皮肉にも晴れた。だが、金曜日に敗れたYBCには試合がなく、PWPで全体練習を行った。川島・久保田両コーチから20数名の参加があったと連絡が入った。川島コーチは「谷沢、俺がIBMで監督をしていた時も似たようなことがあった。やはり、試合をやりたいという選手たちに、やらしてやろうよ」
 加藤副部長も戦不戦のメリット・デメリットを挙げてきた。戦のメリットは、スケジュールをやりくりできた選手たちの気持ちを尊重してやれる。出場できない選手たちのチーム愛=団結心も維持できる。不戦のデメリットはクラブ選手権への和の乱れ。最悪の場合はチームの溶解・崩壊である。
 このように皆が、いつものように胸襟を開いて、いやいつも以上に思いの丈を語ってくれた。私は。何か淀んでいた河の流れが一気に大海の河口まで流れ去ったような気がした。
 人間の欲は葛藤を生み出す。欲が激しければ業(ごう)が現れて己の正体が垣間見える。欲が抑えられれば解脱した聖(ひじり)のように現実から離れられよう。だが、生きている以上現実から離れる訳にいかない。理想と現実を常に切り分け常に接合していくことしかない。よし、月曜日の試合で出来ることを出来るようにするだけだ、と心が決まった。「有敗而無敗」を改めてかみしめた。
 現状において、我々が出来ることと出来ないことが明確になった。チーム全員の更なる創意工夫と智慧を寄せ合い前進するしかない。
 おそらく、全国のクラブチームの大半はたくさんの悩みを抱え、勝ち上がれば更に悩みが増えているだろう。「へこたれずに大草野球を楽しもうではありませんか」というクラブチームの面々の声が聞こえてきたような気がした。

クラブチームの公式戦(その2)

2008-06-04 | YBC前進
 県連盟が決めた予定では、木・金・土・日の4連戦になるはずだった(途中で2敗すればその後の試合はなくなるが)。4連休をとれる選手はひじょうに少ない。スタメンクラスで半数ちょっとである。初戦の木曜日に欠勤・欠席して試合に出ると、次の金曜日は出勤・出席しなければならない選手が大半だった。やむなく、私は金曜日の敗戦(それも無惨な敗戦)を覚悟した。金曜日を出勤・出席することで土日は試合に参加できる選手は多い。よし、土日の試合を全力で闘おう、と決心した。
 しかし、天候は味方してくれず、木曜日の試合は金曜日に延期になった。当日、球場に来られたのは、スタッフ3名、選手10名である。正捕手・準捕手の2名も会社を休めない。準々捕手は学校をやすめない。結果は、推して知るべし。7回コールド負けだった。そして、順延で金土日の日程は土日月に変わり、YBCは日月の連戦になる。
 が、金曜の夕方から降りだした雨は土曜日も続くことが確実になった。試合はさらに順延になり、YBCの試合は月火になる。つまり、当初は木土日の予定だったのが、実際は金月火で、頼みの土日は試合がないというとんでもない事態になったのである。私は暗澹(あんたん)たる思いに沈んだ。
 雨音が強くなっている金曜日の深夜、私は心を決めて加藤副部長と協議し、試合を棄権することに決定を下した。翌日、小松ヘッドマネに一斉メールの送付を頼んだ。それは以下の文面である。
 「月・火の公式戦はキケンすることにします。理由1、雨天順延が2度続き、選手が欠勤・欠席などの変更で大変であること。理由2、不十分な戦力で試合を行うことは相手チームに失礼であること。わざわざ日程の変更に苦労した選手・スタッフの諸君ありがとう。残念だが、今後の試合に全力を尽くそうではないか」という一方的な通達である。情が入れば迷いも生じる。(「キケン」の文字変換がカタカナになってしまったのは、「危険」を暗示する天の声だったんだろうか)

クラブチームの公式戦(その1)

2008-06-04 | YBC前進
 全日本クラブ選手権千葉県大会&都市対抗千葉県大会1次予選は、ホームページに掲載されているように優勝することができた。創設3年目にして初めての優勝である。その基となったチームの和と闘争力は、松村主将以下選手たちの人格と意志と鍛錬で培われた。またスタッフの献身的な協力には頭が下がる想いである。7月上旬の全日本クラブ選手権南関東大会にはさらに練習を重ねて、昨年以上の成果を挙げたいと願っている。
 しかし、今回は大きなジレンマに直面した。5月29日(木)の2次予選初戦は雨で順延された。平日の開催はクラブにとってはひじょうに辛い。数少ない公式戦はクラブチームの活動の頂点であるから、選手たちもスタッフも何としても参加したい、出場したい。そのために、勤労者は上司と交渉し同僚や部下に頭を下げて了解を取る。もし有給をとれたら僥倖である(多くの人たちが承知しているように、有給は非雇用者の法的な権利だとはいいながら、事実上は無用の権利に等しい)。学生は単位習得が綱渡りになる。とくに実験・実習の多い理系・医系の学生は、欠席は命取りになりかねない。
 それを少しでも和らげるには、意図的にフリーターやアルバイターの選手・スタッフを増やすといい。あるいは、企業チームに準じる形態、レギュラーの大半がいくつかのスポンサー的な会社(野球活動を業務より優先させてくれる会社)に雇用してもらうようにする方法も考えられる。
 YBCもそのようなチームにすべきかどうか、発足以来、幹部スタッフの間でことのあるごとに議論し続けている。門戸を広く開放するというYBCの理念に沿って、今日まではほとんど上記の方法をとらないままで、チーム力は向上してきた。だが、チーム力の向上は、公式戦の試合日数が増えるということであり、平日の試合が増えるということである。

2008年の初めに(その3)

2008-01-08 | YBC前進
 一昨年のことだ。NHKがYBCの取材に来た。担当のディレクターがじつに真摯に考える人で、「谷沢野球コミュ二ティ千葉」のイメージを把握しかねる、トップからサードチームまで存在する形態をどうとらえるか難しい、と言う。私は、プロ野球の1軍・2軍・3軍とはちがうのだ、選手たちの意識と現能力の差異による形態であり、私とコーチ陣はそれに対する「指導・教育」で応じる、という意味のことを述べたが、なかなか納得いかないようだった。
 その結果、番組のタイトルに、何と「大草野球」と名づけたいと言ってきた。私は反発した。「草野球の上に大だと。勘違いするな」という気持ちだったである。その時の私にとっては、硬式=野球、軟式=草野球というカテゴリーだったのである。2晩徹夜での編集の結果、番組は制作され放送されたが、その苦心は大変だったろう。だが、私にはあまり意に添う番組内容ではなかった。
 そして今年、スローガンはホームページに掲載したとおり「大草野球よ!・・・」である。(草野球=野球の基点と素朴にとらえ直すことにしたのだ)
 YBCの野球環境が整うことにこしたことはないが、何よりもまず今の環境が在ることに感謝することが第一なのだ。1月6日は陽光まぶしい暖かい日和に恵まれた。YBCの全体練習が始動した。練習前に上記の想いを掻い摘んで選手たちに話した。有望な新入団選手も増えてきて、ポジション争いも激しくなる。「遊びたい人楽しみたい人」が参加しやすいチームでありながら、YBCの戦力は成長している。ただ、選手たちに忘れてほしくないのは、「辛く思える練習が辛くなくなったときこそ、遊びと楽しさの深みを実感できる」ということだ。
 私も3月並という思わぬ暖かさに体の調子もよく、ついでに心も調子に乗って、日が落ちるまでトスを上げ続け、「武岡!いまの当たりを自分で分析してみろ!」「樫田!手応えの良かった打球はそのつど言ってみろ!」と若いエネルギーを受けとめた。「練習は嘘をつかない」のを、昨年彼らは体感したのだ。こういう選手が何人育っていくか、楽しみな1年である。

2008年の初めに(その2)

2008-01-08 | YBC前進
 今年のクラブチームの環境は、少なくとも千葉県では昨年よりも厳しいものになると私は思う。恵まれた環境の下で運営ができる少数のチームはさておき、選手不足と戦力低下に悩むチームが増加してくるだろう。たとえ部員が増えてもレベルの向上に直結するわけではない。その原因のひとつは独立リーグだ。
 独立リーグと拮抗する戦力のクラブチームは少なくない。おそらく各県のトップチームは、そう遜色はないだろう。しかし、独立リーグは、金額がいくらであれ、給料がでる。これが選手たちのプライドの支えになる。「野球をすることで稼ぎがある。プロである」という自尊心だ。この気持ちは他の人たちには理解しにくいものだろうが、「野球をすることで稼ぎ」を得てきた私にはわかる。(もともとプロ野球選手は、報酬の有無だけでなく金額の多少がプライドの支えになる。それは、自分の野球能力の評価そのものだからである。このあたりの心理の深部は、メディアもファンもあまり理解できていないように思える。)
 第二に、独立リーグのほうが練習環境が格段に良いと、クラブチームの選手たちは信じている。とくに、高校・大学の野球部で「野球漬け」の日々を送ってきた者には、クラブチームの練習環境はずいぶんと劣っている。環境の良い場を求める気持ちは、誰にでも理解できるだろう。この2つは、メジャー入りを願う日本人選手たちの大きな動機になっているはずだが、それはさておき、それが独立リーグとクラブチームの一部の選手との関係にも生じやすい。
 この4月から、四国九州・北信越の2つの独立リーグは、チーム数を各2球団合わせて4球団も増やすから、1チーム25人としても、100人の選手が必要になる。その中にはクラブチームの選手たちも当然多く入るだろう。昨秋の北信越リーグのトライアウトの結果をみると、千葉県のクラブチームの場合、市原と千葉熱血、そしてYBCの3チームからだけでも10名以上の選手が入団することになる。彼らの大半は、各チームのレギュラークラスだったはずだ。
 上記の2つの理由だけでなく、千葉県の場合は「クラブチームリーグ戦」のような大会もなく、公式戦の数が少なすぎて、モチベーションが高まらないことも、大きな理由になるだろう。
 いずれにしても、アマ野球界の底辺(というより太い根)を支えるクラブ野球にとって、当分は「(混沌とした)不確実性の時代」が続くはずである。この状況下で、私自身に求めるべきはクリエイティブであること・フレキシブルであること・アクティブであることだろう。つまり、創造・柔軟・行動である。そう思って無想・無心になることを期した。
 すると、原点に立つという想いが浮かび上がってきた。YBCの原点であり、底流であるのは「ムチャクチャ野球が好きだ」「この環境で成長したい」「誰もが楽しめる」「野球広場に行こうぜ」などである。そういうあるべきイメージが膨らんできた。

2008年の初めに(その1)

2008-01-08 | YBC前進
 暮れから1週間、名古屋に行って家族や友人たちと過ごしてきた。喪も明けていないので一般的な正月の習わしはできるだけ避け、めでたい気分を心から遠ざけるようにした。神社への参拝もできないので、1月1日のセレモニーは「父と母へ献杯するぞ」の言葉から始めた。
 遠ざけたつもりだったが、慎ましい御節料理がことのほかうまかった。30日に知人の農家で恒例の餅つきをしたのだが、その餅がとろけるような絶品に仕上がった雑煮、黒豆、酢ごぼう、ごまめ、なます、全てが手作りの我が家伝統の大阪風御節である。妻が私や家族の舌をせいいっぱい喜ばしてくれることは、亡き父母も許してくれるだろう。
 爺として孫たちの面倒を見ているときには一種の無心に回帰しているので、YBCのことは時時(じじ)忘却してしまう。しかし、「今年のスローガンを考えてくる」と副部長と約束をしたので、ジョギングにでかけた折に「思慮しながら走る」ことを何度か試みた。三が日を経過しても決定的なロゴスは現れず、いささか困った。ヒントはブログからであった。ブログの「この1年」を改めて読み直した時、年末にかかってきた電話が思い出された。
 昨年のクラブチーム座談会や湘南シーレックスとの対戦が当該チームに刺激を齎したのだろうか、伝統あるクラブチームの監督やマネージャーから電話が何本かあった。「3月の初めという時期に、うちの選手たちがプロのスピードを体験した御蔭で、その後の公式戦にすごく効果があった」「いい選手が入ってきたので、彼らに励みや動機づけを与えてやりたい」などの理由で、湘南シーレックスとの再戦を期待するという電話だった。
 私は「皆さんの意向は分かりました」と応えたものの、躊躇が心を占めた。というのは、昨年の対戦の結果から考えると、湘南シーレックスに迷惑をかけたのではないかという反省である。もちろん、そんなクレームはなかった。しかし、改めてクラブチームの現状と在り方について考えさせられたのである。

この1年

2007-12-26 | YBC前進
 YBCの2007年を振り返ってみると、関東の主要なクラブチーム座談会(東京中日スポーツ掲載)を手始めに、3月には関東混成クラブチームvs湘南シーレックス戦を実現して各チームの選手たちに喜んでもらった。続いて四国独立リーグとの対戦で香川・徳島へ遠征。5月の連休には群馬藤岡への遠征試合。そのつど、このブログとホームページに掲載したように、想い出は尽きない。来年秋に関東クラブチームチャンピオン大会の開催が内定したとの由だが、上記の最初の2つがその呼び水になったとしたら、甲斐のあったことになる。
 また、今年もお世話になった高校と大学のグランド。中でも柏日体高には感謝しきれないほどのお礼を申し上げねばならない。大学チームにもたいへんお世話になった。実力格下のYBCのためにゲームを組んでいただいて、ほんとうに有難かった。夜間の練習ではオール沼南チームの皆さんの暖かいご配慮は忘れられない。子供たちには野球教室や合同練習で還元できて良かったと思う。
 行政機関へはずいぶん悪態もついたが、YBC名誉顧問の本多市長はじめ、柏市教育委員会の皆さんにもいろいろと尽力いただき、地元に根を下ろす基盤が築かれつつあることはなによりも心強いことだ。
 また車両の駐車場などで協力をしていただいてる鈴木化工さん。それに打撃マシンを事実上無償で貸してくださっている吉田加工さん。社長の吉田義(ただし)氏の「谷沢さんがこれといったスポンサーもなく運営しているのを拝見すると、私も根っから野球が好きで指導の経験もあるから応援したくなってねー」という言葉には胸が熱くなった。
 YBCスタッフの皆さんには今年もご苦労をお掛けした。川島君の細かい作業の継続のお蔭でNPO法人の認可を得たことも今年最大の収穫であり、ミラクルNPOと呼ばれることを目指す第一歩になった。スタッフ全員が無報酬どころか持ち出しなのに、だれもが喜んでやってくれることを、ある方々は「奇跡」だと言う。その通りだろう。なにしろ、野球の最高の感動は、代打満塁逆転サヨナラホームランとか、1試合2度の3重殺とか、決勝戦での完全試合とか、信じがたい奇跡にあるのだから。(満塁時の4番打者の敬遠などは奇策であっても、だれも奇跡とは呼ばない。)
 私事だが、足の絶望的な故障から2年近くの空白後に首位打者を獲得できたとき「奇跡の復活」と呼ばれた。その時の感動は生涯の最高のものだった。「不死鳥・谷沢」がそれ以降、何を使命として生きるべきか、天から与えられたような気がした。その使命が具体的に何なのかわからないままで来たが、今ようやく、誰かがしなければいけないことで、まだ誰もしようとしていないことに着手できたように思う。
 故父の弔事で、年賀状をどなたにも差し出せない代わりに、この一文を草した。さて、3年目の来年はどんなサプライズが起きるのか、今から楽しみである。

壮行紅白試合(その2)

2007-12-26 | YBC前進
 シートノックを終えると、久保田コーチがオーダーを発表した。紅組は、1番ショート渡辺、2番セカンド瀬尾、3番センター木原、4番ファースト久保田、5番サード山中、6番キャッチャー川村、7番ライト樫田、8番レフト森、9番ピッチャー金沢。白組は、1番ショート武岡、2番セカンド白井、3番サード山?、4番センター元野、5番キャッチャー永島、6番ファースト伊東、7番ライト高木、8番レフト菅谷、9番ピッチャー木藤。
 試合は6イニングまでとし、3対3の同点から紅組川村君の本塁への好走塁で決した。勝利投手は金沢-谷沢-蔵重の継投を最後にリリーフした大野君。敗戦投手は木藤-高木を継いでリリーフした元野君であった。私と蔵重投手コーチはともに左投げで、元野君の打順の時にマウンドに上がったが、私はライト前に打たれ(ほんとに遠慮をしないヤツだ)、「蔵ちゃん」は綺麗なフォームから繰り出す変化球でライトフライに抑えきった。
 何人かの選手たちが言うには、「こうして気持ちよく送り出してもらえると、2人も新天地で頑張りますよ。最近はどこのクラブチームも選手の出入りが激しく人間関係もギクシャクとしがちだから」
 YBCは「入ってくる舟は荒波でも迎え入れ、出てゆく舟は食糧と水を与えて送り出す」ことをモットーにしている。ゲームもじつに楽しかったし、最後には福井へ行く3人を胴上げしたYBCの選手たちの心の広さが何よりも嬉しかった。残る彼らの心もまた成長し続けている。

壮行紅白試合(その1)

2007-12-26 | YBC前進
 12月22日の練習は紅白戦を行った。北信越BCリーグの新球団に加わった元野・木藤両君の壮行試合である。朝8時前に家を出てPWPに向かった。つくばEXに乗りかえるあたりで、川村副主将から「小雨が降っていますが如何しますか」と連絡が入る。「直に着くから待機してくれ」と返答した。なんとしても元野・木藤両君を送るゲームを実施したかったからである。
 それにしても、松村キャプテン以下新スタッフは準備・指示・行動が迅速である。今年の元野主将以下の面々も頑張ってくれたが、JR東日本(チーム統率の優秀さで知られている)で鍛えられた松村君の厳格な人間形成と緻密な野球観は、早くも選手たちの手本となっている。特にトップチームの選手は集合時間の30分前には到着して、グランド整備をし練習に備える。この実践が自ずとセカンド・サードチームの選手たちの心身に浸み込んでいっている。このような姿勢が随所に発揮されつつあることに私も心強い限りである。
 グランドは小雨がかえって適度な湿りをもたらし、土の状態は良好だったので、試合を決行できると判断して「出来るところまでやるぞ!」と選手たちに告げた。今年1番の寒さの中、スタッフも揃った。蔵重・久保田両コーチ、椿本マネ、小松淳トレーニングコーチ(新入団だが早くも手腕を発揮している)、川島コーチも遠方の藤沢市からやや遅れてやってきた。
 加えて、橋本考志君が愛妻あさ子さんを伴って挨拶に訪れてくれた。福井ミラクルエレファンツの球団スタッフに採用された橋本君は、首尾良くあさ子さんが「おめでた」だそうで、夫妻で福井へ引越しとのこと。夫人が国際線の客室乗務員だから、結婚しても「すれ違い」が多かったようだが、これでしばらくは水入らずだろう。
 YBCから3名も福井ME球団にお世話になることになったので、先々週、名球会総会のためハワイへ行った際に、MEの初代監督に就任した藤田平氏に「よろしく頼む」とお願いし「元野は・・・で、木藤は・・・だ」と特性を説明しておいた。橋本君はやはり関西方面の水が合うのか、すでに監督の信頼を得ているようだった。

野球場の雑草刈り(その3)

2007-11-06 | YBC前進
 「本日の整備はこれで打ち切りだ。みんな練習したいだろう。整備のすんだ部分でやろう」と言うと、大学の「ナントカ治療」レポートの作成で一睡もしていない武岡君が真っ先に「やるぞー、うまくなるぞー、サー行こうぜ!」さすがチーム一のムードメーカーである。私も「キャッチボールが済んだら何時でも合図してこい。内野ノックをやるぞ」と言ったものの、それにはノックのスペースだけは整えねばならない。「上村!そんな悠長な整備では間に合わんぞ。大学の野球部で教わったんだろう」「僕は外野の整備しかやったことないんですよ」「こうやるんだ!見てろ!」このような機会は選手やスタッフの性格や行動が自ずと露わになる。
 翌4日も10時集合だった。この日は昨日のメンバーに加えて、遠藤、渡辺、瀬尾、永島、瀧沢の面々が参加した。11月は練習場所が確保しにくい。千葉熱血チームの中村代表も、加藤副部長へ電話をかけてきて、同じ悩みと苦労を話したという。しかし、秋の練習量が来シーズンへの確実なステップとなるし、常にモチベーションを維持するために、夕方から都内へ移動して神宮外苑室内球技場で2時間の練習メニューを組んだ。(神宮室内では我々の直後に、武蔵野クの練習が控えていて、オーナーと久々に歓談できた。)
 このグランドは関係者のご配慮で使用が許された。何度も何度も挫折したが諦めずに(おそらく内心で「しつこいな」と嫌悪していた方もおられただろう)、タイミングを見計らいながら交渉に挑んできた。とにかく3月までは使用可能となった。有難いことである。それから先は不透明ではあるが、3年目を迎えるYBCにとって、また一つ逞しさを養う場所が確保できたことは、私にはこのうえなく嬉しいし、硬式野球に熱中している人たちの下支えの一端に在ることを実感している。

野球場の雑草刈り(その2)

2007-11-06 | YBC前進
 センター後方にも物置が大小2つ並んでいた。扉が半開きである。「監督!扉が歪んでいて閉まりません。」と小松マネージャーが言う。「小松君、柏の葉(故父の旧宅)に購入したばかりの物置があるので、それを運んでくれないか」小松君は有名輸送会社の中堅管理職である。「はい!承知しました」と答えながら、草刈りに精を出している皆の姿を携帯のカメラで撮っている。
 旧宅の物置というのは父がYBCの道具入れとして用意してくれていた。10m四方のネット8枚を納めておいたのだが、これは全て7月にオール沼南グランドに移動して使用していた。明日にでも道具車担当の樫田君に何枚か取りに行ってもらおう。
 トンボやレーキも蔦と長く伸びた雑草の中にから10本程出てきた。鉄の柄や枠が腐って半分欠けており、タイヤもパンクしたリヤカーを発見してからは、刈った草や不要物の移動がスムーズになり、大掃除はどんどん捗っていった。3時間は費やしただろうか。「おーい!休憩にしよう」、副部長が樫田君を呼んで「貧しいが1人500円の予算で昼飯を買ってきてくれ」と離れた場所にあるコンビニへ行かせた。
 錦秋(というには「紅葉は未だし」だが)の日差しは心地良かった。農作業が一段落する時のように(雑草取りは腰に極度の疲労を与える)車座になっては、みんな冗談を飛ばし、年齢や職責を超えて、大きな笑い声はグランド一杯に広がった。今日は、4人の選手(金沢、瀬尾、川村、伊藤康)が千葉県クラブ選抜チームのメンバーとして千葉県大学選抜軍(2部・3部)との交流試合に臨んでいる。久保田コーチも帯同してベンチ入りしているので張り切っていることだろう。

野球場の雑草刈り(その1)

2007-11-06 | YBC前進
 日本シリーズ第5戦の(山井投手の交代劇についての)私の発言が物議を醸し、その翌日のTV番組での出演依頼もあったが断った(電話インタビューには答えたが)。というのは、この日(3日)はYBC待望の練習場の整備日だったからである。関係者の方々のご努力とご理解で、ようやく使用できるようになったグランドである。たとえ、来年3月までという期限付きであれ、1年近くも放置されて荒れ放題のグランドであれ、野球場と言うには変形で打撃練習も手加減しなければいけないのであれ、とにかく思い通りに使用できる初めてのグランドである。
 朝10時に集合した有志8名(小松マネ以下、上村、高木、樫田、武岡、小野寺、鈴木俊、新入部の菅谷)と仕事の都合で遅れた加藤副部長と合わせてちょうど10名だった。YBCがお世話になっているスポーツ店・ベースマンの佐々木君もわざわざ足を運んでくれて、稼動するための用具や備品をチェックしてくれた。
 あちこちに苔が生え、ぶかぶかの地面、石コロだらけで雑草も伸び放題、草木が根を張り、蔓がネットに絡んでいる。特に酷いのはブルペンで、大げさに言えば密林のごとく、廃屋の庭のごとく、シートは垂れ下がり、壊れた椅子や机やゴミ箱などが取り残されていた。
 「監督!こんな所に鎌が落ちてました。錆付いてるけど蔓が切れますよ!」「監督!草むらにL字ネットが埋もれていました!」「監督!物置にベースやラインカンや巻尺が残ってます!」という声々を聞きながら、「佐々木君、何とか使えそうなものが出てくるよ。でも、ホームベースは無いな。君にお願いするよ」と言っているところへ、「監督!3塁ベースが穴に入りません!」上村君の声であった。