谷沢健一のニューアマチュアリズム

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ニューアマチュアリズム(その2)

2005-08-22 | ニューアマチュアリズム
 私がアマチュア野球界に関心を抱いたきっかけは、実はこのアマかプロかという問題ではなく、元プロとアマとの関係である。プロ野球選手の寿命(勤続年数)は短い。これは多くのスポーツもそうであり、肉体を過酷に使う競技の宿命だろう。プロを退いた選手の多くは、そのプロとしての能力やプロだったときの経験を、十分に他の人々(さらには社会)に還元していない、というより還元するチャンスがほとんど与えられていない。
 もちろん、どの選手も自分の経験と能力を自分自身の引退後の生活に還元しているだろう。しかし、プロ野球は選手自身のためばかりか、ファンをはじめとする多くの人々のためにも存在するもののはずだ。とすれば、自分一人のためだけではなく、多くの人(=地域社会)に少しでも還元することが、プロだった者の一種の義務ではないかと、私は考える。
 その気持ちが強くなって、大学院に入って勉強し直そうと思ったり、もっともアマチュアらしいクラブチームに関わろうと思ったりして、それを曲がりなりにも実行してきた。そうする中で、改めて気づかされたこと、新たに思いついたことも、少なからず心の中にたまってきた。
 それを、さしあたって「ニューアマチュアリズム」を名付けたのである。すなわち、プロの経験と技術とをアマに役立ててもらい、逆にそうすることでプロに見えないこと、見忘れてしまったことを思い出してもらう、ということである。
 (今日は、このくらいまで言葉にしておこう。)

ニューアマチュアリズム(その1)

2005-08-22 | ニューアマチュアリズム
 先日、このブログを見たある知人から「ニューアマチュアリズムって、何だい? 何がニューなのだ?」と問われた。たまたま、いささかアルコールの入っていた席だったので、十分に返答できなかったが、ここで少し答を書こうと思う。
 従来のアマチュアリズムは、私の知る限りでは、プロの対語というか、プロを意識した考え方ではないだろうか。つまり、スポーツ競技を収入手段としたり、それで生計を立てたりするのをプロフェショナルとし、それと反対にスポーツ競技によって金銭を稼がない人をアマチュアとする、そういう考え方をアマチュア精神=アマチュアリズムと言ってきたように思う。
 そのため、野球界では、金銭をめぐるトラブルなどもあって、アマとプロとの断絶が深くあった。しかし、それがアマのレベルアップをはじめ様々の事柄にマイナスも生み出してきたし、逆にプロの金銭感覚をはじめいくつもの事柄に歪みを発生させてきたことは、だれもがわかっていることである。
 プロ選手のいないスポーツの中には、アマチュアといいながら、多額の金銭を獲得できる競技もある。私にはアマチュア選手が金銭を得ることをやみくもに否定する考えはない。しかし、金銭が第一の目的になったとき、それはやはりアマチュアといえないだろう。

中本審判のこと

2005-08-22 | プロとアマ
 下の記事に書いた中本尚氏は、日本高野連審判委員幹事で、20日の夏の甲子園の決勝試合では1塁塁審を勤めた。私はそれをTVで見ながら、人づてに聞いた話を思い浮かべていた。中本氏は大学で、たしか5期下の後輩に当たり、内野手として活躍した。
 大先輩で名審判の誉れの高かった西大立目氏の後を継いで、東京六大学の審判となり、高校野球も担当して、毎年のように、甲子園のあの暑いグランドに立ってきた。
 だが、この夏で審判を退くという。このような方々が、アマチュア野球を黙々と支えてくれているのである。もっともっと評価され、リスペクトされて然るべきだと思う。
 日本野球連盟は都市対抗大会の開会式で、中本氏に特別功労賞を贈った。今日、中本氏は私と会って開口一番、「西多摩倶楽部の選手で、審判を志す者はいませんかね。私たちが一から指導しますから、ぜひ勧誘してください!」 私もこの期待に応えるよう努力しよう。

第76回都市対抗初日観戦

2005-08-22 | 社会人野球
 第76回都市対抗大会の初日。第1試合がNOMOクラブvsJR東日本だった。やはり心情的にはNOMOクラブを応援したいところだ。これは全国のクラブチームの人たちの気持ちだろう。結果は、6-1で敗れたとはいえ、善戦だった。初回のバントミスと7回の失策が痛かったが、とくに目立ったのは外野陣の堅守で、2度ホームで刺殺したのは見事だった。
 7回表にホームランで2-1に肉薄したときには、JR東日本も少し慌てたのではないだろうか。先発投手とクリーンアップの4人が補強選手だったが、1回から9回まで控え選手はダッグアウトの最前列に身を乗り出して声援していたのが印象的だった。
 球場ではいろいろな人に声をかけたりかけられたりだったが、その中にはホークスの松中選手(明日からロッテとの決戦を控えている)、石井(浩郎)氏、与田剛氏といった社会人野球出身者や、ヤクルトの小田スカウト部長(大学時代の同期です)や岡林氏(いうまでもなく元エース)、日本ハムの大宮(龍男)氏らスカウトや編成部の人たち、中本氏のような審判・・・、つくづくいろいろな人たちが、社会人野球に関わり、支えていると実感した。
 そうそう、シダックスのノムさん、おっと失礼、野村監督とも球場内のエレベーターでいっしょになったので、「ぜひとも優勝してくださいよ」と言ったところ、「とんでもないよ」とは答えながらもニヤリと笑っていた。

対明治学院戦 試合&試合後

2005-08-11 | 西多摩倶楽部戦記
 試合が始まった。先発はショーン投手。彼の日本での最後の登板になった。期待通り、3回を完封。目立ったのは加藤裕之君で、初回の打席でバスターエンドランのサインを出してみたところ、見事に1、2塁間を抜くヒット。その後の打席も長打を連発した。遅刻した山野辺君をはずして、教職試験のため試合から遠ざかっていた是則君を起用したところ、それに応えて活躍してくれたが、やはりゲーム勘が戻らないのか、1塁へ悪送球というシーンもあった。できるだけ多くの選手をゲームに出場させるというのが、クラブチームの采配の難しさである。サインの徹底ひとつにしても、出場機会の少ない選手にすぐに覚えさせるにはコツがある。その話はまた別に書こう。
 森山監督はベンチに座ってはいたが、学生コーチ(4年生だろう)が采配を執っていた。ゲームは我がチームの選手たちが元気いっぱいで、22対4で勝利した。森山監督の手腕なら、このチームの強化をはかり、来年ももし対戦するとしたら、その時は大接戦になるかもしれないなと思った。
 試合後、指導を受けたいと頼まれた我がチームの香川コーチ(言うまでもなく、近鉄と横浜大洋の名リリーバー)は、熱の入った指導を40分ほど続けた。帰りの車中で香川コーチは、「谷沢さん、1年生でいい投手がいましたよ。水上氏の息子だと言っていました」。「えっ、水上氏ってあのロッテの?!」「ええ、あの水上さんですよ。」つまり、1000本安打を記録し、ゴールデングラブ賞も取っている名ショートストップである。さすがに蛙の子は蛙である。
 一段落したところで、「蕎麦をどうぞ」と食堂に招かれ、暑さで火照りきっていた体と空きっ腹とを十分に満足させてくださった。誰かが「香川コーチが熱心すぎたので、蕎麦が少しのびていますよ」と冗談を言い、笑いを誘った。香川コーチは「選手さえ伸びれば、蕎麦はどうでもいい」と言いたげな顔をしていた。
 その歓待に報いるものは用意していなかったが、たまたまヤクルト対巨人戦の特別入場券を持ち合わせていたので、20枚ほど差し上げることができた。女子マネージャー(10名もいるのですよ!)が一番喜んでいた、という明治学院との試合であった。

対明治学院戦 試合前

2005-08-11 | 西多摩倶楽部戦記
 8月7日、明治学院大とのオープン戦を行った。大学との練習試合は、立教大、東京情報大に次いで3校目である(なお、母校早稲田大はこちらが申し込んでも思わしい言葉が返ってこない)。今、明治学院大は栃木の白鳳大と共に注目されている。それは今年、プロ野球OBが監督に就任したからだ。しかし、申請先の大学野球連盟からは許可がおりていない。白鳳大は、地元出身の藤倉一雅氏(元阪神内野手→ロッテ2軍コーチ)と浅野啓司氏(元ヤクルト投手→巨人)。明治学院大は同大学OBの森山正義氏(元阪神外野手→ロッテ)である。
 ちなみに、藤倉氏は親子2代にわたるプロ選手で、ジュニアオールスターで11回満塁サヨナラヒットを放ちMVPを獲得したこともある。浅野氏は巨人キラーで名をはせた理論派投手。全盛期のONをぴしゃりと抑えて、ヤクルトファンを熱狂させた。森山氏は学生時代に全大学リーグ最多の通算26本塁打を放ったスラッガー。
 さて、試合は11時からだが、集合は9時。グランドはJR戸塚駅から車なら15分と聞いて、いつものように、携帯サイトの乗換案内で調べると、湘南新宿ラインで新宿から44分。だが、万に一つも遅刻しないように、本数の多い東海道線に切り替えて東京駅から乗車した。
 いつもこんな調子で電車を愛用しているのだが、時々、口さがない人たちはあれこれ言うらしい。そう言えば、江戸川大学市民講座に招かれたとき、小林至氏(言うまでもないが、同大助教授兼ホークス球団取締役)が「えっ、名球会プレーヤーが電車でお帰りですか!」とびっくりしていたが、けっきょく彼もいっしょに電車で帰途についたのだった。
 現地に到着すると、グランド(整った球場だった)では明学大選手の打撃練習が終わりかけていて、我がチームも外野のほうに集まっていた。さっそく、女子マネージャーの出迎えを受けてロッカールームに案内された。そこは、大学の総合グランドの管理施設(3階建)のようで、各運動部員がひしめき合っていた。
 グランドに行くと、森山監督が(私よりいくらか年下なので、長幼の序を重視する野球人らしく)わざわざ挨拶にきた。「先月、監督になったばかりで指導する時間もないんですよ。試験中は一切練習は禁止でしてね。このグランドも軟式野球部と併用ですよ。」問わずともいろいろ話してくれる。「今は、首都リーグの2部校ですが、大学当局も少子化なのに野球を強化したい意向のようで。しかし、推薦入学制度はないんですよ。」
 また曰く、「私も本職は伊勢屋という団子屋なんですよ、ボクシングの世界チャンピオンだった輪島さんのチェーン店を任されています。」私が「秋季リーグ戦はベンチ入りできるんですか」と尋ねると、「いや、まだ許可が出ないんですよ。」コーチまでは許すが、監督は認めないというのはどうしてだろう?

プロアマ交流試合・対インボイス戦 試合後

2005-08-03 | 西多摩倶楽部戦記
 試合後、インボイスの渡辺久信監督は、自軍の選手たちにバットを持ってこさせ、それらを寄贈してくださった。これもまたありがたいことだった。渡辺監督は「1番の片山君は初球から思い切りよく振りますねー」と誉めてくれた。さすが台湾球団など多くの選手を見ているだけある。確かに片山君は切込み隊長らしい(かつてのバファローズ黄金時代のトップバッター平野外野手ばりだ)好選手である。
 また、金森君についても「形が一番しっかりしてる」と投手出身の監督らしい見方を述べてくれた。ただ、全体的に上体ばかりに力が入って下半身の弱さが目立つと指摘してくれ、ディフェンスの強化をという提言をいただいた。
 私の心の中には、「たかだかアマのクラブチームが相手だ」という意識を捨てて、真剣に挑んでくれたインボイスのスタッフ、選手の皆さんへの感謝が溢れるほどいっぱいに満ちていた。うちの選手たちも、夢と現実との両方を見せられることで、各自、感じるところ・思うところが多かったことだろう。(ちなみに、観戦してくれたフジテレビのFディレクターも「真剣勝負ですねー」と感想をもらしていた。)
 ほんとうに、西多摩倶楽部にとって、本格的にプロと交流戦ができたことへの満足感、充実感が与えられた一戦だった。この試合が新たなスタートであることは、私以上に、ネット越しに見守っていたプロ球団たる西武とインボイスのファンにも、足場の不安定な三塁側の土手で(うだるような暑さの中で)熱い声援を送り続けてくれた西多摩応援団にも伝わっていたと確信している。

プロアマ交流試合・対インボイス戦 試合

2005-08-03 | 西多摩倶楽部戦記
 試合が始まった。インボイスの先発は東投手、打線は、栗山選手、水田選手、小関選手、高木(大成)選手、後藤選手、おかわり君こと中村選手・・・と、一軍でも実績のある面々が続いていた。西多摩倶楽部の先発はエースの金森君。 
 初回、水田選手にレフト前に運ばれ、直後にワイルドピッチが出て3塁まで奪われた。張り切りすぎているのか、どこか捕手の島原君の動きが堅い。続いて、小関選手に低目のフォークを打たれて1点献上。さらに追加点も取られる。
 3回表、2番関根君の右翼越えのツーベース、3番加藤(裕太郎)君の狙いどおりのセカンドゴロで走者が進塁、4番遠藤君のライト前タイムリーが生まれて3対1となった。そして、3回裏は金森君が0点に抑える。ここまでは、善戦といえた。そこで、できるだけ多くの部員たちに経験を積ませようと、バッテリー2人を交代させた。それが結果として、試合を暗転させた。
 4回からは防戦一方。投手は安田君を投入したが乱調で(生活のかかったプロ選手に死球の被害があってはならないので)降板。続く、斉藤(生一)君も普段の闘志はどこへやら(いつもは相手を威圧するような大声をだすなどのファイトマンだ)、相手の大型打線に圧倒され、打ち込まれた。
 試合は15対1という一方的な展開となった。そんな中、7回にマウンドに上がったノバク・ショーン君(横田基地内の生まれで、9月からはハワイ大学に進学)が、二つの三振を奪った。特に得意のチェンジアップで中村選手に空を切らせたのは見事だった。また、5番手の鈴木僚(りょう)投手、4回から出場の甲斐捕手も貴重な経験を積めたはずだ。

プロアマ交流試合・対インボイス戦 試合前

2005-08-03 | 西多摩倶楽部戦記
 7月31日、大げさな言い回しに響くかもしれないが、我が西多摩倶楽部にとっては歴史的な一日となった。西武球団のファーム、インボイスと対戦したのである。プロと対戦するのは、監督就任早々の昨年2月29日、湘南シーレックスに0対21で敗れて以来だ。あの時はチームも掌握していなかったので、采配らしい采配をする余裕もなかったが、さて、今回はどうなるのかと、何日も前から楽しみだった。
 10時過ぎ、西武第2球場に着くと、我が方の選手たちは外野に集まっていた。彼らからはいつもよりもずっと元気な挨拶の声が飛んできたが、それ以上にインボイスの練習に見入っている選手が目立った。
 この試合の企画がもちあがったのは、5月頃だった。私は、中日対西武(セパ交流戦)の解説でナゴヤドームを訪れた際、伊東監督に話を持ちかけた。「ツトム、お願いがあるんだが」と、つい私は横柄な物言いをしてしまったが(西武のコーチ時代に伊東捕手をツトム、ツトムと呼んでいた癖が出てしまったのだ)、伊東監督は人一倍、応対が丁寧な人柄そのままに、「はい、わかりました」と答えはすぐに返ってきた。そして、すぐにマネージャーを呼び寄せ、ファームの日程を調べさせたのである。伊東監督曰く、「うちの選手たちはいささか甘えている。1軍から2軍に落として鍛えようとしても、逆にファームの方が住みごごちがいいようだ。是非、そんな選手たちに、一生懸命頑張っている倶楽部チームの選手の姿を見せて、刺激して欲しい」。
 そんな伊東監督は、ゲーム前、(当日夜に楽天戦を控えているにもかかわらず)激励のためにロッカールームにわざわざ足を運んでくれた。この心配りには頭が下がる。