谷沢健一のニューアマチュアリズム

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YBC流の実現

2006-03-30 | YBC始動
 3月26日は明治学院大との試合だった。早朝8時にJR戸塚駅近くに集合して、明学大のグランド前までバスで向かう行程が組まれていた。
 東京駅でいっしょになった加藤副部長と戸塚駅からバスセンターへ歩いていくと、久保田コーチを先頭にぞろぞろと坂を下ってくる集団が見えた。ほとんどがサードチームの選手たちだが、中にはトップやセカンドチームの選手もおり、午後から仕事があるが第1試合にだけは参加したいという真摯な意欲の(選手たちの手本となる年長者の)松村君も、大きなバッグを担いでバスに乗り込んでいった。
 今日のゲームはダブルヘッダーで、第1試合がサード・セカンドチーム主体、第2試合はトップチーム主体で臨むことになっている。
 予てからYBC流の考え方として公表しているように、トップチーム(プロを目指しているといった意識の高い選手たち)だけが戦う集団ではない。サードチームも勿論戦う集団である。ただ、キャリアが不足していたり、技術・体力がトップの面々には追いついていなかったり、自主練習の時間もなかったりといった様々な理由(その多くは、高校-大学-企業の野球部で野球をやり通してきた選手たちは経験していない様々な理由である)で、これまで試合に出場するチャンスが与えられないでいた選手たちである。しかし、情熱は人一倍であって、一生懸命やろうとするあまり、空回りしてしまいがちなプレイヤーの集団と言っていい。
 グランドに到着して、すぐに森山監督(ご経歴やお人柄については昨年このブログでも書かせていただいた)のところへ挨拶に伺った。
 「谷沢さん、短い期間でよくこれだけの選手を集めましたね。」
 「いやー、まだチームとしての態を成していませんよ」「監督、今日は本当に申し訳ない。うちは3つの層に選手を分けていましてね。1試合目は下の2層(意欲空転しがち層とは言えなかった)です。ご迷惑をかけるかもしれませんが、よろしくお願いします」
 「そのような趣旨もマネージャーから聞いておりますので、うちも何人か下級生を使います」
 投手陣は、サードチームの束ね役・蔵重チーフコーチに7人の継投順を伝達した。すべてサードチームの投手であり、他流試合初登板である。打順構成については確認したいことが一つあって、松村君を呼んだ。「DHでいくか、守備につくか」、彼は即座に「守りも行きます。やらせてください」と返答してきた。
 かつて名門企業チームの選手として都市対抗などで数々の栄光を手にしてきた男が、一から出直すつもりで出場を志願していることに頭が下がる思いだった。YBCはこうした松村君のような選手がいる限り、幼い雛も大きく育つに違いない。
 試合中は、早くからきていたトップチームの山崎(大輔)君、吉田君、鈴木(翔)君などはブルペン捕手を買って出たり、バットボーイを自らやってくれたり、私も本当は第1試合の采配を久保田、蔵重両コーチにまかせる予定だったが、居てもたってもいられず、三塁のコーチボックスへ飛びだしていって、ブロックサインを(ゆっくりと分かりやすく)送ることになった。

千葉県立柏北高に感謝(その4)

2006-03-22 | YBC始動
 3月19日の日曜日、柏北高での練習集合時間は8時30分とした。夕方まで使用できる点を大いに活用したかったからだ。それで、サードチームとトップ・セカンドチームの集合時間を別々にした。「やっと予てから念願だった、レベルに即した(見合った)練習ができる!」私は心の中で叫んだ。
 8時30分にはサードチームのメンバーばかりでなく、トップ・セカンドの木藤、高木、内村、川上、樫田、小林らの各選手も集合した。
 グランドの石拾いと清掃からスタート。ブルペンにはゴミや枯れ葉などが多く散乱しており、それを綺麗に片づけ、ホームベースも土を掘り起こして設置し直し、マウンドも土を盛って固めた。打撃ゲージの大小2台も移動して、使い勝手のいいように配置した。数多くの防御ネット類が用意されていたので、打撃2箇所のゲージ・セッティングが可能であるとふんだからだ。これらの準備作業の中で、特に木藤君は率先垂範をみせてくれた。骨惜しみなく体を動かし、高木君らに指示しながら、私の意を汲んでどんどん事を進捗させてくれた。
 準備に40分ほど時間を費やしたが、サードチーム参加者15名の練習が始まった。基本的な練習をと思いながらも、投内連携や2ヶ所ノックで、実戦と体力補強の重要性を指摘しながらのメニューであった。
 11時には、トップ・セカンドがグランドに入ってきてウォーミング・アップも始まったが、サードチームには一通りの練習が終えるや否や、皆を集めてキャッチボールの指導を始めた。まさに「野球教室」である。30分ほどだったが、このような初歩の初歩にあたる練習時間自体を作ってやれなかっただけに、選手たちはいつも以上に生き生きと取り組んでいるように見えた。意欲のあるものは、午後の練習まで手伝いを兼ねて練習を続けていた。
 トップ・セカンドチームの選手たちは、(YBC創設から今日まで全員の合同練習ばかり行っていたので)やっと自分達の求めるレベルの実戦練習ができるのを感じ取ったのか、前日の練習試合の敗戦など吹き飛ばすように熱が入っていた。バントシフトや重盗防止、中継プレーのサイン確認、声のかけ方まで、時にはプレーを中断してマウンドに集まり、チームのために何が必要かを話し合った。
 打撃練習が始まると、吉田君や鈴木君が真っ先に捕手の防具をつけて、打撃捕手に納まっていた(わがYBCも他のクラブチームと同じく捕手が少ないのだ)。2時頃、全体練習を終えると、吉田君を筆頭に選手たちが「何時まで練習できるんですか」と聞いてきた。「暗くなるまでいいぞ」という声に意を強くしたのか、各自、重点練習に入っていった。スタッフたちもすぐさま、選手たちの意図を掴んでサポートに入った。
 かくして、YBCのチームづくりも、いよいよ本格的になる。

千葉県立柏北高に感謝(その3)

2006-03-22 | YBC始動
 3月7日は、加藤副部長も同行して、柏市野球協会の方々との昼食会を終えてから、柏北高に向かった。約束の2時前には余裕を持って到着。野球部顧問・駒形先生に勿論(もちろん)連絡をとり、まず校長先生とお会いすることになった。
 校長は退院直後という感じがお顔にも表れていた。おそらく公務のために無理をなさっているのだろう。さっそく今回の目的の説明を始めたとたん、外線の電話が鳴り、その対応に時間を費やしていた。やがて、女性の教諭が部室に入ってきて何やら打合せをしていた。
 女性が退室してからも、なかなか話の核心に入れず、私も困惑していたところ、教育事業が本職(仙台育英学園、青森山田高、埼玉の栄グループなどのコンサルティングをしてきている)の副部長が、校長先生の校務について話をしているうちに本題に向かって進展し始めた。2年後には廃校となるだけに、それまで処理しなければならない事項が、校長先生の両肩にずしりと託されており、かなり煩雑な問題が山積しているようだ。
 グランド使用についてはひじょうに好意的に考えていただけた。通常なら、外部者の利用はそう容易ではないのだが、駒形先生のご配慮とボランティアスピリットで、「19日は学校で朝早くから研究活動(理科の教諭)をしますので、その時間帯なら結構ですよ」と言ってくださった。公立高校だけに、つまり公の施設だけに、やや面倒なことが多いが、事務長先生のご配慮もあって兎にも角にもグランド使用が実現することになった。

千葉県立柏北高に感謝(その2)

2006-03-22 | YBC始動
 校長先生との面談日が決まったが、それまでにクリアーしなければならない問題があった。プロアマ問題である。さっそく、千葉県高校野球連盟に問い合わせをした。
 担当の方が電話に出て、「お久しぶりですね。7、8年前になるかと思いますが、松戸さん(元県立成東高校・監督)が連盟会長の時に、指導者講習会で講演をしていただきました。あの時は私も事務局におりましたからね。谷沢さんのあとは、プロOBは誰もおいでになっておりませんよ。」私は、「講演は人のためならず」だなぁーーと思わず、過去の行いをふりかえった。
 「高校のグランド使用の件ですね。高野連の方に聞きまして、のちほど、お返事いたします。」10分もしないうちに、返答がきた。「何の問題もありません。校長先生が許可をくださればグランドは使用できます。細部のことは学校側と話し合ってください」。
 これで、堂々と校長先生と交渉できる。わたしの心に安堵感が走ったのは言うまでもない。

千葉県立柏北高に感謝(その1)

2006-03-22 | YBC始動
 3月19日(日)は、柏北高で初めて練習を行った。練習ができるようになった経緯を書き記しておきたい。
 話は昨年の12月に遡る。2度目のトライアウトの頃、柏市の関係者の方から、「柏北高は、2年後には柏西高と合併して廃校となりますが、野球のグランドは最適ですよ」と聞いたのが発端である。
 さて、年が明けて、今年の2月、旭市合宿を終えた翌日(以前ブログにも記した)、予てから使用を薦められていた柏市の利根川河川敷グランドの状態を調べに行った。2回目の現地視察だったが、私は愕然とした。硬式グランドとしては、あまりにも不備な点が多く(水道なし、トイレなし、物置なし)、無し無しずくめにがっかりして、待機していたタクシーに戻った。
 車内で東京事務局にいる副部長に電話で怒りをぶつけて八つ当たりしたあと、黙り込んでいると、運転手さんが話し掛けてきた。「お客さん、ここを何かに使うんですか? 雨季は、時によってこの先の水門が開けられましてね。川の氾濫を防ぐためですが、堤防内のグランドや田畑が犠牲になるんです。農家の方もそれを承知で、田畑を耕しているんですよ。上流に大雨が降ったときなど、心配で床につけないと思いますよ。」なるほど、そうであれば、グランドにネットやベンチなどを設置しても川の増水で元の木阿弥になるのだ・・・と考えていると、タクシーは柏北高の裏門(金網の出入り口)にさしかかっていた。ふと何かが閃いて、「運転手さん、ちょっと止めて。ここで降ります」と急停車してもらった。
 柏北高は入口が皆目見当がつかないので、上記の裏門の前に立って思案しかけたとき、校舎の方からジャージ姿で恰幅の良い先生が声を掛けてきた。「どちらへ行くんですか」と金網柵を開けてくれた。すぐにYBCの名刺を差し出して挨拶をし、「野球のグランドを拝見したいのですが」、「ちょっと待っていただけますか、野球部顧問を紹介しますから」と言いながら、正面玄関まで案内してくれた。
 このところ「つくばエクスプレス」に乗車する機会も多いので、車窓からグランドを見てはいたが、柏北高の周辺は造成地ばかりで、いたるところに塀や柵や網などが施してあり、生徒たちも駅から近いとはいえ、これでは不自由だろうなーーと同情したくなった。
 待つこともなく、長身の先生が来られ、「野球部の監督をしております駒形と申します。あのぉ、谷沢さんですか。本当に谷沢さんですか。私は谷沢選手があこがれの選手だったんですよ。グランドですか。どうぞ、見てください。」と言い終わらないうちにシューズに履き替えて外へ先導してくれた。
 「グランドとしては、土も入れたばかりですし、水はけもいいですよ。うちの学校も夏の県予選では、ベスト16まで進んだことがありましてね。その時は投手も良かったですよ。ご存知だと思いますが、廃校になりますので、部員も少なくなりました。今では10人足らずですね」。
 ホームベースの方へ歩いていくと、「ライトが少し狭いのですが、バックネットのこの位置まで下がれば、打撃練習でも一塁側のファールゾーンのネットからは、ボールは外に出て行きません」。グランドの周りは20mほどの高いネットで張り巡らせれており、ライトやセンター後方のネットから幹線道路までは、40~50mの距離があった。たしかに硬式のできるグランドであることを確信した。
 駒形先生曰く「廃校になっても、跡地利用は何も決まっていませんので、使用してもらうことは、私としてもうれしいことです。部員たちにも練習を見せてやりたいですよ」。そして、センター後方にある物置を指差して、「マシンは3台あります。使って頂いて結構です。使わないとかえって傷みますからね」。
 一塁側には、ネットで囲われたブルペンも用意されていたが、あまり練習もしていないせいか、散らかっていて、より一層現状を把握できた。ただ、最後の言葉が気になった。「じつは、校長先生が入院中です。3月上旬には退院してくると伺っています。許可を下すのも校長しだいですので、私から連絡致します」。
 私は深々と頭を下げて、北高をあとにした。しばらくは電車に乗っても、駒形先生の親切なやさしい応対にに触れた余韻にひたっていた。
 翌日、先生から連絡が入った。「校長も生徒たちの活動に支障がなければ、使用できる方向にで協力しますと、言ってくれています。もう少し待っていただきたい」。2月末になって、校長との面談が、3月7日と決定した。

対流通経済大第2戦(その3)

2006-03-19 | YBC始動
 今日の攻撃は全体的に淡泊だった。好球必打で、初球から打ちに出ることは責められるべきではないが、狙い球も決めずに、または狙い球と異なるのに、初球に手を出せば、当たり損ねの凡打になるのは必定である。
 また、振りを鋭くすることは当然、大切だが、そのためには体力を強化しなければならない。飲食の内容と時間をよく考えて是正し、酒・煙草などの嗜好品を減少させ、最終的にそれを絶つことを目指すのが当たり前だろう。これは投手陣にも言えることであるーーーそういうことを、試合後の短いミーティングで話した。きっと、向上心の強い選手は、心に深く刻んで実行しようと努めてくれるだろう。
 私の心に深く残ったのは、2度にわたる松尾君のヘッドスライディングである。そのうちの1度はギリギリのタイミングでセーフになった。それは彼の初安打でもあった。その出塁への執着心を高く評価したい。
 流経大の選手について最も心に残ったのは、礼儀正しい挨拶だった。これは、間違いなく大田垣監督の徹底した指導によるものだろう。その統率力はもちろん、気配りにも富んだ方で、クラブチームの現状をよく理解してくださり、我々の練習場所の紹介までしてくださった。秋にも是非、胸を貸していただきたいと願っている。

対流通経済大第2戦(その2)

2006-03-19 | YBC始動
 試合は2対7の完敗。それでもかなりの収穫(とその数倍もの反省)があった。
 まず投手陣である。東大戦で自責点0だった谷野君を初先発に起用した。3イニングで2点を失ったが、球数が48球、四球は1個だけで、ピッチングのリズムがよくなっている。それだけでなく、ストレートの力を取り戻しつつあるようだ。もっとも、本人はまだまだ不満足に違いないだろうが。
 中継ぎは、高木、ホソバヤル、小林の3投手の継投を試みた。高木君は投球テンポがよく、内外野手とも守りやすかっただろう。次回は、もう少し長く投げさせよう。他の2投手は、不用意なミスや四球で崩れてしまった。
 だが、抑えの木藤君が見事に5者を討ち取り、崩壊をくい止めてくれた。
 

対流通経済大第2戦(その1)

2006-03-19 | YBC始動
 今日は東大戦に活躍した四番の山崎(大輔)君、捕手の杉野君が戻ってくる。第1戦は3対4の敗戦だっただけに、私もスタッフも、そしてそれ以上に選手たちも雪辱を期する気持ちがはやってか、グランドへの到着が早かったように思う。ただちに小松マネに出欠をとるよう指示した。小松マネは、YBCの試合全体のマネージメントは初めてなので、慣れてはいないのだが、てきぱきと仕事をしてくれる。古巣の流経大という安心感もあるのだろう。
 参加人数は31名で、最年長の松村君も、JR東日本での仕事を済ませ、背広姿のまま、ゲーム開始直前に駆けつけてきた。今日は、東武日光線の新宿乗入れ開始日で、彼は池袋駅のセレモニーを終えて直行したのだ。
 久保田コーチと共にプレハブ2階の監督室で着替えていると、吉田選手が予てからクローズドテストを志願しているという鈴木哲也投手を連れてきた。彼は吉田君の元のチームメイトである。
 3月に入って、クローズドテストを実施し始めたが、これで2人目である。第1号合格者の阿部君は、セカンドチーム所属と決定した。トレーニングコーチ兼選手の誕生である。風の噂では、「阿部コーチの身近な人が『選手としてYBCに参加してほしい』と願っている」のだそうで、その思いが叶えられて喜びもひとしおだろう。
 女性スタッフの河合・藏重両嬢も、選手たちの意気の高さが伝染したのか、仕事の指示を求めてきた。すかさず、久保田コーチが勤務先の学校で集めてきた消しゴムを二人に渡した。
 「ボールの汚れを消しゴムで落とせ」と加藤副部長にも促されて、さっそく始まった。単調な作業なので、副部長が藏重嬢優美君に「『お父さん! お酒飲み過ぎよ、酔ったお父さんは大嫌い!』と言いながらゴシゴシこすると、気分がすっきりするよ」と言うと、「はい、わかりました」と笑顔での返事だった。
 しかし、ボール1個の汚れ落としに約1時間かかったのだから、藏重パパは何度「酔っぱらいは嫌い!嫌い!」と言われたことだろうか! ちなみにこのボールは、練習に使わせてもらった流経大のボールである。それが白くなったのだから、藏重パパの深酒も時には少し役に立つこともある(とこじつけておこう)。

対流通経済大戦(その4)

2006-03-12 | YBC始動
 試合前のティー打壁練習で、十代トリオと五十嵐君の4人に短時間だが、スイングスピードと軸足への重心の掛け方などを指導した。そして、4人全員がヒットを打った。
 守備では、センター川上君の動きが光り、レフト内村君はホームへの好返球で走者を刺し、サード中村君も鋭い安打性の当たりを処理できた。彼らはゲームに出場できた者のみが得られる喜びを知り、「楽しさ」を経験できただろう。
 投手陣では、先発の木藤君が、単調さが災いして神戸選手の一発をくった。2番手の谷野君は3回を無失点で切り抜けたが、まだまだ四球が多い。先頭打者を出すのも今後是正しなければならない大きな課題だ。最後の1回は気の優しい小林君が登板。明らかに緊張しているのが見て取れたが、普段の熱心な練習が実って、フォークで三振を奪った。大事な場面でもっと腕を振って投球できれば、もっとスピードも増すだろう。
 試合には敗れはしたが、美味で有名な牛久沼の鰻以上に収穫量に富んだ一日だった。

対流通経済大戦(その3)

2006-03-12 | YBC始動
 今日のゲームは、ホームページにも掲載したが、都合で参加できない選手が多く、先発メンバーのポジション決めにいささか苦心した。とくに手薄な捕手は、杉野君・金澤君の正副2名を欠いているので、敢えてほとんど経験のない松尾君を起用、1塁には仕事が多忙すぎて練習不足だが実績を買って和久田君を当て、3塁に中村君、レフトに内村君、センターに川上君と、十代トリオを並べた。前試合と変わらないのは二遊間の鈴木・吉田両君だけである。
 松尾捕手のことを考え、前試合の結果を考えると、今もっともコントロールの良い木藤君を先発させるのが良策になる。しかし、木藤君は先頭打者を四球で歩かせ、次打者の初球がパスボール・・・この先どうなるかと思いつつも、松尾君に怪我のないことも祈りながら、選手・スタッフに悟られないように泰然とした顔を装っていた。
 (6回裏になって、松尾捕手がスロートガードはないかと副部長に訴え、ようやく彼がそれなしにいたことに驚き、その度胸にも感嘆した。それに気づかなかった私も、まだまだ細部に目がいっていないと自省した。)
 松尾君は懸命にボールを捕らえ、ショートバウンドを胸で止め、大声で投手や野手を鼓舞し、投手への返球もよく、当たり損ねの打球やバントの処理も難なくこなしていた。盗塁を2度も刺した時は小躍りしてベンチに引き上げてきた。その顔は野球少年そのものだった。
 5日の練習では、中継プレーの指示について首脳陣に「くってかかってきた」ほどにファイトもある。しかし、基本プレーの励行は私の指導の根幹の一つだから、その時の基本に反した松尾君のプレーは黙過できるわけもなく、選手全員を呼び集めた。もちろん、頭ごなしに「松尾っ、そんなプレーは許さん!」と叱りつけるのは私の流儀ではない(同時にYBC全般の流儀でもない)。で、なぜそういうプレーをしたかを尋ねた。それに対する彼の態度は自分の言い分だけを猛々しく主張する、言わば動物的なそれだった。
 私は、「どんな正しい主張もその表現の仕方によっては人に受け入れられないことが多い」ということを彼に示唆したかったが、残念ながら、その場ではあまりうまくいかなかった。
 ところが、今日の試合後、松尾君は加藤副部長にこう言ったという。「野球をする者は、野球人生の中で一度はキャッチャーをやるべきですよ!」副部長がどうしてだい?ときくと、「キャッチャーは楽しいですよ!」と満面に笑みを浮かべて叫ぶように言ったそうだ。私は、この「楽しい!」という一言がじつに嬉しかった。私が最近のマスコミのインタビューでくりかえし述べているのが「(YBCの)野球は楽しい!」だからである。

対流通経済大戦(その2)

2006-03-11 | YBC始動
 ユニフォームに着替えて、グランドに降りていき、打撃投手をしていた大田垣監督と挨拶を交わした。監督は佐藤氏について「早大とうちとはよく試合をしましてね。根気よく真面目にチーム力向上に取り組む姿をみておりましたから、早大監督を辞任した後、すぐに指導に来てほしいとお願いしたんですよ」やはり、眼力のある人は見ているものである。
 この恵まれた施設についても「大学当局もほんとうに多大なバックアップをしてくれています。室内練習場もおみせしたいくらいのものが完備しており、お蔭で各地の高校から良い選手が来てくれますよ」「うちの神戸(191cmの左打者)を見てください。飛ばしますし、肩も強いですよ」(この言葉は、試合で思い知らされることになった)
 恰幅のいい(若い頃のハリさん=張本勲氏を穏やかにしたような顔の)大田垣監督からこのような話を聞かされては、今日は10点くらい取られるだろうとひそかに覚悟した。

対流通経済大戦(その1)

2006-03-11 | YBC始動
 オープン戦第2試合の流通経済大戦は、同大学の臨時コーチ・佐藤清氏のご紹介で実現した。佐藤氏が早大の学生の頃、松倉氏(元フジテレビ・アナウンサー)の自宅屋上でスイングを指導したことがあった。大学時代は、マックス佐藤と呼ばれ、(法大の江川らから)通算14本塁打を打って当時第4位の記録ホルダーのスラッガーだったのだ。もしプロ入りしていたら、名球会会員になっていたにちがいない。
 佐藤氏が早大監督だった時は、私はしばしばグランドに出かけ、部員たちについてアドバイスをした。そんな縁があるだけでなく、多忙でなければYBCの助監督を引き受けてもらいたいとさえ思っている技能と人格を有している。
 牛久グランドに到着すると、打撃ゲージの後ろに立っていた佐藤氏は、すぐに気づいてくれて挨拶を交わした。「仕事が忙しいので、流経大の選手に接するのも月に1回くらいなんですよ。今朝も朝6時半に起きて来ました」という。やはり、誠実で熱意のこもった指導をする人である。
 加藤副部長も佐藤氏と早大監督時代に関わりがあり、しばらく思い出話やYBC創設の楽しさを語っていたようだ。
 流経大の部員たちは、誰もがはっきりと挨拶をしてくれ、大田垣監督の指導の徹底ぶりが感じられた。マネージャーに招き入れられたプレハブ2階の監督室は応接間のようであり、そこで冷えた麦茶をご馳走になりながら、副部長、久保田コーチと、しばらく眼下のグランドできびきびと練習に励む流経大の選手たちを眺めていた。我々3人は、つい異口同音に「将来こんな施設をつくりたいね」と語った。

初試合顛末記(その5)

2006-03-07 | YBC始動
 初試合には取材陣も多かった。NHKの「おはよう日本」の千葉放送局・戸田ディレクター、東京中日スポーツの小原記者と整理部の加藤記者(CP会員)、朝日新聞の安藤記者、スポニチの記者も(私も年のせいか、なぜか今お名前を思い出せない、失礼! お詫びに今度奢ります)。選手たちも素晴らしい励みとなったことであろう。
 YBCのモットーは、攻守交代は全力疾走だが、まだ不十分である。攻撃時におけるベンチ前の一声もどこか不揃い。遠慮しているのか、照れくさいのか、いろいろと観察していると興味深い。不揃いなところ、キレイにまとまらないところが楽しさをおぼえる瞬間とも言える。いずれ、選手たちの総意の下で、選手会長かキャプテンが決まっていくのであろう。私がそれを指名することは全く考えていない。これもYBC流だ。今のところ、吉田・松尾両君が先頭に立ってやってくれているし、松村、山崎、木藤君の大声も選手たちを鼓舞している。5、6試合こなしていけばチームとして態を成していくと思う。
 ビジターとしての礼節を済ませ、全員を送り出してから、加藤副部長、勝原トレーニングコーチと共に、日大習志野グランドに向かった。残留組が練習をしているのだ。蔵重チーフコーチのもとに、上村コーチも合流。16人の選手たちが練習を積んだ。すでにグランド整備をしていた選手たちが集まってきて、試合の結果に聞き耳を立てていた。
 残留組の選手たちに話をした。東大戦をよそに、よくぞこれだけ多くの選手が参加して練習してくれた。このグラウンドは日大OBの根本マネが懸命になって確保したのだ。初試合を見たかったという思いを抑えて練習した君たちの姿勢が、これからのYBCの基盤を支えてくれる。ありがとう。
 「長くも楽しき1日」が終了した。

初試合顛末記(その4)

2006-03-07 | YBC始動
 試合中はダッグアウトの最前列(2列しかない)に陣取っていた加藤副部長が、ホームページ上の「試合結果」で、詳細な戦闘経過を披露してくれたので、私は指揮官としての立場で感想を述べる。
 第1に攻撃。笠原、松尾、杉野の3君に共通するのが、積極性に欠けることだ。特にスコアリング・ポジションに走者がいるときに、甘いコースを打ち気を見せることなく見逃してしまうことだ。これは、私も経験しているだけに、その対処を一緒に考えてやらなければならない。また、左投手に弱い左打者もいるので、その対策法も伝授していこう。
 第2に守備。内外野手とも一歩目のスタートが遅いようだ。左中間を破られて一点を献上したが、3塁打にはしたくなかった。投球がバットに当たる瞬間に集中すること。西武のコーチだった時には、メニューの中に「実弾捕球」を組み入れた。じつは簡単なことで、打撃練習時に、外野手は「生きた打球を追え」ということだ。
 第3に走塁。エンドランを一度試みたが、走者が早くスタートを切ろうとして牽制球で刺された。この辺は初めての試合で、まだゲーム感の薄いためだ。7回にエンドラン失敗の後、一死から四球を選んだので、代走に17歳の川上(50m走5秒8の俊足)を起用した。準備をするよう告げると、彼はファールゾーンでスタート練習を繰り返し、戻ってくると、曰く「あの投手ならいつでも走れます」と言い放った。「よし、初球から走れ」と送り出した。公言した通り、「初球」、見事にやってのけた。阪神の赤星君を目標としているだけに、発会式の背番号争いでは「53番」に固執して勝ち取った、楽しみな高校生である。
 最後に、投手陣は、芳賀君が49球、谷野君も2イニングまでという香川ヘッドの進言もあったが、「もう一回投げさせてください」と訴えてきたので行かせた。思った以上に内容が良かったなどといえば、本人は「まだまだです」と不満を述べるかもしれない。首都リーグ一部の筑波大で2桁勝利の戦績を残しているだけに、自負心は強いはずだ。
 リリーフした小田君は走者をためて降板したが、練習では落ち着いた投球をみせているだけに悔いが残っただろう。彼には、緩急の使い分けを憶えてほしいと思う。次の登板のチャンスまでに少しでも研究してもらいたい。モンゴル出身のホソバヤル君は前のクラブチームの時より随分成長した。満塁のピンチから登板させたが、一点で切り抜けてくれた。最後は木藤君、8,9回をピシャリと抑え込んだ。投手陣の中では兄貴分だけに、皆をぐいぐいと引っ張ってくれている。これからも頼むぜ。

初試合顛末記(その3)

2006-03-07 | YBC始動
 数日前から打順のイメージができ、久保田コーチには伝えておいた。投手起用も25日のシート打撃でおおよその目安がつき、香川ヘッドとの打合せ+雑談のうちに、その継投策も出来上がっていた。しかし、記念すべき試合でもあるから先発投手には伝えておこうと思った。なかなか連絡がつかなかったが、夕方、私の携帯が鳴った。
 「おはようございます」と第一声が飛び込んできた。「午後5時におはようとは、少しずれてるなー」とは思ったが、「どうだ体調は?」、「はい、大丈夫です」、「明日、先に行くからな。4、50球でいいな」、「はい、よろしくお願いします。今からバイトに行ってきます。」
 一瞬、「おいおい、試合前日の夜にバイトかよ」と思ったが、これがクラブチーム選手の生活の現状であり、この2年間の経験で、私も慣れている。先発の芳賀君は、高校時代は春選抜の準優勝投手で、早大では和田(ソフトバンク)に匹敵する逸材と期待されたが、肩の故障などもあって、不満足な4年間を過ごしたはずだ。トライアウトの時に、「もう一度夢を追います。このままでは仙台にも帰れません」と語っていたが、概してその気になるのが遅い後輩たちである、「そろそろだぜ」と言いたいところだが、うまい水を飲ますためとはいえ無理に水辺に引っ張って行くというのも、YBCの考え方に反することになる。