谷沢健一のニューアマチュアリズム

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日本シリーズの想い出(その2)

2006-10-19 | プロ野球への独白
 第3戦は後楽園球場(年少の人のために記すが、現在の東京ドーム)だった。対戦相手のロッテは、当時は仙台がフランチャイズだったが、日本シリーズを東京で行うという愚を犯してしまった。観客動員など、いくつかの理由はあったのだろうが、それでは仙台のファンが激怒するのは当然である。今でも楽天対ロッテ戦が仙台宮城野球場で行われる時は、その昔話が蒸し返されるという。
 逆に私には、柏から友人たちをはじめ少なからぬ人たちが応援に来てくれた。その声援のせいか、私のバットは3ランとソロの連続ホームランをロッテ応援席に叩きこんで、5対4の僅差で勝利した。
 甘美な記憶はここまでである。ここから先は3連敗。木樽・金田留広・成田らの投手陣は、今年の中日や日ハムを上回るような強力さだった。とくにまだ初々しかった村田兆治投手が抑えのエースで、急降下するフォークには我々も目を見はった。
 とにかく、手の痛みは記憶に鮮明だが、負け試合の記憶は曖昧模糊としている。なぜか、敗北の悔しさをあまり感じなかったように覚えている。それくらい、9年間という長い間、どのチームも成し遂げられなかった巨人の連覇を阻むという喜びが強かったのだ。少年時代、憧れていた川上さんに「恩返し」ができたという気持ちも心の片隅にあった。もし、今年も中日にしろ、北海道日本ハムにしろ、4-1や4-2で敗北したなら、それは実力の差ではなく、勝負への固執が不足しているためだろうと、シリーズが始まる前から心ひそかに思っている。

日本シリーズの想い出(その1)

2006-10-19 | プロ野球への独白
 いよいよ21日から中日対北海道日本ハムとの戦いが始まる。中日が勝てば52年ぶり、日本ハムが勝てば44年ぶりの日本一となる。私は現役時代に2度、シリーズを経験した。もちろん日本一には成れなかったが、良きにつけ悪しきにつけ記憶に残るポストシーズンであったことを思い出すままに記してみたい。
 1974年は巨人のV10を阻止して、我がドラゴンズは20年ぶりのリーグ優勝を遂げた。地元で大洋とのダブルヘッダーに連勝して優勝が決定した翌日は、後楽園球場で巨人とのシーズン最後の2試合が予定されていた。この試合をもって、V9の偉業を成し遂げた川上哲治監督が勇退、森昌彦捕手も引退、そして何と言っても長嶋さんのラストゲームであった。中日はこのゲームに一軍半の選手を選抜して試合に臨ませた。そして、与那嶺監督以下レギュラー陣は、中日新聞社の意向に沿って20年ぶりの優勝を祝う大パレードを挙行した。外国車のオープンカーやジープに分乗した私たちは、何千何万のファンと手を握り合っただろうか。そのぐらい名古屋が熱狂した一日であった。
 ところが、日本シリーズが数日後に控えていることなど忘却したのか、ファンの皆さんと握手をした両手は何カ所も水ぶくれができて、「これではバットも握れないなー」「まーいいかー」とあまり深刻に考えることもなく「あの強き憎き巨人を破ったのだから、シリーズは楽しむか」ぐらいの気分だった。打倒巨人の大課題を達成したことで、チーム内はいささか浮かれていたのは否めない事実だった。
 第1戦は高木守道さんのレフトオーバーの長打で、どうにかサヨナラ勝ちできたが、第2戦は、水ぶくれした私のファーストミットが3度もボールとサヨナラして敗北した。この1試合3失策は日本シリーズの失策記録になった。今でも、顔が火照るような、申し訳ない想い出である。