後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

聖書の奇蹟物語を信じますか?・そして健康な懐疑心とは?

2014年11月13日 | 日記・エッセイ・コラム
近代科学を知っている人々は聖書の奇蹟物語を信じないといいます。
しかし私は信じています。
信じているというと正確ではありません。信じている時間もありますが、疑っている時間もあります。全然信じないと思っている時間もあります。
人間は生きていいる限り健康な懐疑心を持つべきとも思っています。ですから奇蹟物語を疑うのは自然なことです。
しかし奇蹟のことで論争をしてはいけません。ある人が信じていますと言えばそれは良いですねと答え、それ以上のことは言わないというのが私の信条です。信じていないと言えば、それも自然ですねと答えるだけです。
信じる信じないは別にして私は奇蹟物語が好きです。
特にカナの婚姻の宴会でブドウ酒が無くなったときイエス様が数多くの甕の中の水を上等なブドウ酒にした奇蹟が好きです。それを飲んだ男が言うのです、「宴会では先に上等な酒をだして、皆が酔ったら悪い酒を出すのが普通だが、この宴会では後からも良いブドウ酒が出てくる!」と。この台詞に私は同感です。同感してこの奇蹟を信じます。
またある時はイエス様が唾で土をこねて盲目の人の眼にそれを塗ると、見えるようになったという奇蹟も好きです。唾で土をこねることがイエス様の愛の深さを感じさせます。
そしてイエス様が水の上を歩く光景も好きです。弟子たちにも歩いて来なさいと誘います。弟子が歩いて少し行くと風が吹き、怖くなり、こんなことを信じられなくなります。すると途端に体が水の中に沈むのです。バシャバシャしている光景が目に浮かびます。
このように書いている時間は奇蹟を信じています。しばらくすると奇蹟物語は科学的に無理と、理性的に考え直します。
それでは冒頭に何故私は信じていますと書いたのでしょうか?
理性的な判断とは別にして、信じていますと公言出来るからです。堂々と言ったり書いたり出来る状態を私は信じていると定義してるのです。定義ですから議論はしません。
さて仏教ではどうでしょうか?お釈迦様は合理的な哲学から人間の悟りの状態を教えました。ですから奇蹟物語はほとんどありませ。しかし全ての宗教には神秘的なことが必ず存在しています。弟子たちが作ります。
私は仏教学の論争はしません。そのかわり誰でも知っている奇蹟を一つだけ書きます。それは弘法大師が全国を行脚したとき杖を突いて温泉を出したという奇蹟です。私はこの奇蹟が好きです。弘法大師が好きなのでこの話を信じています。
神道にも不思議な話があります。毎年10月になると全国の神々が全て出雲に集まります。出雲大社の境内には神々の泊まる小さな社が数多くずらりと並んでいるのです。
その月は全国から神々がいなくなるので10月のことを神無月(かんなづき)というのです。この話から私は幻想的な美しさを感じます。私の好きな不思議な話です。
このように宗教にまつわる奇蹟物語や不思議な話は人々の人生を豊かにします。感性を豊かにします。ですから私は信じるようにしています。
今日の挿絵は水上高原ホテル周辺の風景写真です。今年の10月1日に撮りました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)






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