最近、次のような3つの記事で懐かしい戦後の映画を22編ご紹介してきました。
「戦後の日本映画全盛の頃を懐かしむ」(021年06月30日 )、「戦後の洋画全盛の頃を懐かしむ」、その一(2021年07月01日 )、そして「戦後の洋画全盛の頃を懐かしむ」、その二(2021年07月05日 )。
今日はこれらの記事の続編として更に7編の日本映画のポスターの写真をお送り致します。写真の順は私の印象が深い順で製作年の順ではありません。「羅生門」と「雨月物語」は他の娯楽映画とは異質で複雑な内容なので最後に並べました。特に「羅生門」は独創的で外国の映画界に深い影響を与えたなので解説と粗筋をつけました。「雨月物語」の解説は長くなるので割愛しました。
それではポスターの写真をご覧になってそれぞれの映画を思い出してお楽しみ下さい。







(1)映画、「羅生門」の解説とあらすじについて
この映画は1950年公開され監督は黒澤明で、三船敏郎、京マチ子、森雅之などが出演しました。原作は芥川龍之介の短編小説『藪の中』と『羅生門』でした。平安時代を舞台に、ある武士の殺害事件の目撃者や関係者がそれぞれ食い違った証言をする姿を描いた映画です、人間のエゴイズムを深く考えさせる作品でした。
さて粗筋ですが長くなるのでそれは末尾の参考資料に示すことにしました。是非、参考資料;映画「羅生門」のあらすじをお読み下さい。
(2)「羅生門」が何故独創的か?外国の映画界にどんな影響を与えたか?
映画の「羅生門」は次の二つが非常に独創的でした。同じ殺人事件を違った立場から語られている。そして映像を作る手法が独創的だったのです。
同じ出来事を複数の登場人物の視点から描く手法は、この「羅生門」によって外国の映画の物語手法の1つとなったのです。それ以来、世界の映画界で何度も用いられるようになります。海外では「羅生門効果」などの学術用語も成立したそうです。
そして撮影担当の宮川一夫による、サイレント映画の美しさを意識した視覚的な映像表現が高く評価されたのです。光と影の強いコントラストによる映像美、太陽に直接カメラを向けるという当時タブーだった手法など、斬新な撮影テクニックでモノクロ映像の美しさを示したのです。
第12回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞、第24回アカデミー賞で名誉賞(現在の国際長編映画賞)を受賞し、これまで国際的にほとんど知られていなかった日本映画の存在を世界に知らしめることになったのです。またこれらの受賞は日本映画産業が国際市場に進出する契機となったのです。
「羅生門」は実に日本映画の画期的な作品でした。
今日は7編の日本映画のポスターの写真をお送り致しました。そして特に「羅生門」は独創的で外国の映画界に深い影響を与えたなので解説と粗筋をつけました。「雨月物語」の解説は長くなるので割愛しました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料;映画「羅生門」のあらすじ================================
粗筋の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%85%E7%94%9F%E9%96%80_(1950%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB) です。
平安時代の京の都。羅生門で3人の男たちが雨宿りしていた。そのうちの2人、杣売り(そまうり、焚き木の販売業者)と旅法師はある事件の参考人として出頭した検非違使からの帰途だった。実に奇妙な話を見聞きしたと、もう1人の下人に語り始める。
3日前、薪を取りに山に分け入った杣売りは、武士・金沢武弘の死体を発見し、検非違使に届け出る。そして今日、取り調べの場に出廷した杣売りは、当時の状況を思い出しながら、遺体のそばに市女笠、踏みにじられた侍烏帽子、切られた縄、そして赤地織の守袋が落ちており、そこにあるはずの金沢の太刀、女性用の短刀は見当たらなかったと証言する。また、道中で金沢と会った旅法師も出廷し、金沢は妻の真砂と一緒に行動していたと証言する。
まず、金沢を殺した下手人として盗賊の多襄丸が連行されてくる。多襄丸は、山で侍夫婦を見かけた際に真砂の顔を見て欲情し、金沢を騙して捕縛した上で、真砂を手篭めにしたことを語る。その後、凛とした真砂が両者の決闘を要求し、勝った方の妻になると申し出たことから、多襄丸は金沢と正々堂々と戦い、激闘の末に金沢を倒したという。ところが、その間に真砂は逃げており、短刀の行方も知らないと証言する。
次に真砂の証言が始まる。手篭めにされた後、多襄丸は金沢を殺さずに逃げたという。真砂は金沢を助けようとするが、眼前で男に身体を許した妻を金沢は軽蔑の眼差しで見据え、その目についに耐えられなくなった真砂は自らを殺すように懇願した。そのまま気絶してしまい目が覚めると、夫には短刀が刺さって死んでおり、自分は後を追って死のうとしたが死ねなかった、と証言した。語り口は悲嘆に暮れ、多襄丸の証言とはあまりにかけ離れていた。
最後に巫女が呼ばれ、金沢の霊を呼び出して証言を得る。金沢の霊曰く、真砂は多襄丸に辱められた後、彼に情を移し、一緒に行く代わりに自分の夫を殺すように求めた。しかし、その浅ましい態度に流石の多襄丸も呆れ果て、女を生かすか殺すか夫のお前が決めて良いと金沢に申し出た。それを聞いた真砂は逃亡し、多襄丸も姿を消し、一人残された自分は無念のあまり、妻の短刀で自害した。そして自分が死んだ後に何者かが現れ、短刀を引き抜いたが、それは誰かわからないと答える。
それぞれ食い違う三人の言い分を話し終えた杣売りは、下人に「三人とも嘘をついている」と言う。杣売りは実は事件の一部始終を目撃していたが巻き込まれるのを恐れ、黙っていたという。杣売りによれば、多襄丸は強姦の後、真砂に惚れてしまい夫婦となることを懇願したが、彼女は断り金沢の縄を解いた。ところが金沢は辱めを受けた彼女に対し、武士の妻として自害するように迫った。すると真砂は笑いだして男たちの自分勝手な言い分を誹り、金沢と多襄丸を殺し合わせる。戦に慣れない2人はへっぴり腰で無様に斬り合い、ようやく多襄丸が金沢を殺すに至ったが、自らが仕向けた事の成り行きに真砂は動揺し逃げだした。人を殺めたばかりで動転している多襄丸は真砂を追うことができなかった。
3人の告白は見栄のための虚偽であり、情けない真実を知った旅法師は世を儚む。すると、羅生門の一角でふと赤ん坊の泣き声がした。何者かが赤子を捨てていったのだ。下人は迷わずに赤ん坊をくるんでいた着物を奪い取ると、赤ん坊は放置する。あまりの所業に杣売りは咎めるが、下人はこの世の中において手前勝手でない人間は生きていけないと自らの理を説き、さらに現場から無くなっていた真砂の短刀を盗んだのが杣売りだったと指摘し、お前に非難する資格はないと罵りながら去って行った。
旅法師は思わぬ事の成り行きに絶望してしまう。と、おもむろに杣売りが赤子に手を伸ばした。一瞬、赤子の肌着まで奪うのではと疑ってその手を払い除ける旅法師だったが、杣売りは「自分の子として育てる」と言い残し、赤子を大事そうにかかえて去っていった。旅法師は己の不明を恥じながらも、人間の良心に希望を見出すのだった。
「戦後の日本映画全盛の頃を懐かしむ」(021年06月30日 )、「戦後の洋画全盛の頃を懐かしむ」、その一(2021年07月01日 )、そして「戦後の洋画全盛の頃を懐かしむ」、その二(2021年07月05日 )。
今日はこれらの記事の続編として更に7編の日本映画のポスターの写真をお送り致します。写真の順は私の印象が深い順で製作年の順ではありません。「羅生門」と「雨月物語」は他の娯楽映画とは異質で複雑な内容なので最後に並べました。特に「羅生門」は独創的で外国の映画界に深い影響を与えたなので解説と粗筋をつけました。「雨月物語」の解説は長くなるので割愛しました。
それではポスターの写真をご覧になってそれぞれの映画を思い出してお楽しみ下さい。







(1)映画、「羅生門」の解説とあらすじについて
この映画は1950年公開され監督は黒澤明で、三船敏郎、京マチ子、森雅之などが出演しました。原作は芥川龍之介の短編小説『藪の中』と『羅生門』でした。平安時代を舞台に、ある武士の殺害事件の目撃者や関係者がそれぞれ食い違った証言をする姿を描いた映画です、人間のエゴイズムを深く考えさせる作品でした。
さて粗筋ですが長くなるのでそれは末尾の参考資料に示すことにしました。是非、参考資料;映画「羅生門」のあらすじをお読み下さい。
(2)「羅生門」が何故独創的か?外国の映画界にどんな影響を与えたか?
映画の「羅生門」は次の二つが非常に独創的でした。同じ殺人事件を違った立場から語られている。そして映像を作る手法が独創的だったのです。
同じ出来事を複数の登場人物の視点から描く手法は、この「羅生門」によって外国の映画の物語手法の1つとなったのです。それ以来、世界の映画界で何度も用いられるようになります。海外では「羅生門効果」などの学術用語も成立したそうです。
そして撮影担当の宮川一夫による、サイレント映画の美しさを意識した視覚的な映像表現が高く評価されたのです。光と影の強いコントラストによる映像美、太陽に直接カメラを向けるという当時タブーだった手法など、斬新な撮影テクニックでモノクロ映像の美しさを示したのです。
第12回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞、第24回アカデミー賞で名誉賞(現在の国際長編映画賞)を受賞し、これまで国際的にほとんど知られていなかった日本映画の存在を世界に知らしめることになったのです。またこれらの受賞は日本映画産業が国際市場に進出する契機となったのです。
「羅生門」は実に日本映画の画期的な作品でした。
今日は7編の日本映画のポスターの写真をお送り致しました。そして特に「羅生門」は独創的で外国の映画界に深い影響を与えたなので解説と粗筋をつけました。「雨月物語」の解説は長くなるので割愛しました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料;映画「羅生門」のあらすじ================================
粗筋の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%85%E7%94%9F%E9%96%80_(1950%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB) です。
平安時代の京の都。羅生門で3人の男たちが雨宿りしていた。そのうちの2人、杣売り(そまうり、焚き木の販売業者)と旅法師はある事件の参考人として出頭した検非違使からの帰途だった。実に奇妙な話を見聞きしたと、もう1人の下人に語り始める。
3日前、薪を取りに山に分け入った杣売りは、武士・金沢武弘の死体を発見し、検非違使に届け出る。そして今日、取り調べの場に出廷した杣売りは、当時の状況を思い出しながら、遺体のそばに市女笠、踏みにじられた侍烏帽子、切られた縄、そして赤地織の守袋が落ちており、そこにあるはずの金沢の太刀、女性用の短刀は見当たらなかったと証言する。また、道中で金沢と会った旅法師も出廷し、金沢は妻の真砂と一緒に行動していたと証言する。
まず、金沢を殺した下手人として盗賊の多襄丸が連行されてくる。多襄丸は、山で侍夫婦を見かけた際に真砂の顔を見て欲情し、金沢を騙して捕縛した上で、真砂を手篭めにしたことを語る。その後、凛とした真砂が両者の決闘を要求し、勝った方の妻になると申し出たことから、多襄丸は金沢と正々堂々と戦い、激闘の末に金沢を倒したという。ところが、その間に真砂は逃げており、短刀の行方も知らないと証言する。
次に真砂の証言が始まる。手篭めにされた後、多襄丸は金沢を殺さずに逃げたという。真砂は金沢を助けようとするが、眼前で男に身体を許した妻を金沢は軽蔑の眼差しで見据え、その目についに耐えられなくなった真砂は自らを殺すように懇願した。そのまま気絶してしまい目が覚めると、夫には短刀が刺さって死んでおり、自分は後を追って死のうとしたが死ねなかった、と証言した。語り口は悲嘆に暮れ、多襄丸の証言とはあまりにかけ離れていた。
最後に巫女が呼ばれ、金沢の霊を呼び出して証言を得る。金沢の霊曰く、真砂は多襄丸に辱められた後、彼に情を移し、一緒に行く代わりに自分の夫を殺すように求めた。しかし、その浅ましい態度に流石の多襄丸も呆れ果て、女を生かすか殺すか夫のお前が決めて良いと金沢に申し出た。それを聞いた真砂は逃亡し、多襄丸も姿を消し、一人残された自分は無念のあまり、妻の短刀で自害した。そして自分が死んだ後に何者かが現れ、短刀を引き抜いたが、それは誰かわからないと答える。
それぞれ食い違う三人の言い分を話し終えた杣売りは、下人に「三人とも嘘をついている」と言う。杣売りは実は事件の一部始終を目撃していたが巻き込まれるのを恐れ、黙っていたという。杣売りによれば、多襄丸は強姦の後、真砂に惚れてしまい夫婦となることを懇願したが、彼女は断り金沢の縄を解いた。ところが金沢は辱めを受けた彼女に対し、武士の妻として自害するように迫った。すると真砂は笑いだして男たちの自分勝手な言い分を誹り、金沢と多襄丸を殺し合わせる。戦に慣れない2人はへっぴり腰で無様に斬り合い、ようやく多襄丸が金沢を殺すに至ったが、自らが仕向けた事の成り行きに真砂は動揺し逃げだした。人を殺めたばかりで動転している多襄丸は真砂を追うことができなかった。
3人の告白は見栄のための虚偽であり、情けない真実を知った旅法師は世を儚む。すると、羅生門の一角でふと赤ん坊の泣き声がした。何者かが赤子を捨てていったのだ。下人は迷わずに赤ん坊をくるんでいた着物を奪い取ると、赤ん坊は放置する。あまりの所業に杣売りは咎めるが、下人はこの世の中において手前勝手でない人間は生きていけないと自らの理を説き、さらに現場から無くなっていた真砂の短刀を盗んだのが杣売りだったと指摘し、お前に非難する資格はないと罵りながら去って行った。
旅法師は思わぬ事の成り行きに絶望してしまう。と、おもむろに杣売りが赤子に手を伸ばした。一瞬、赤子の肌着まで奪うのではと疑ってその手を払い除ける旅法師だったが、杣売りは「自分の子として育てる」と言い残し、赤子を大事そうにかかえて去っていった。旅法師は己の不明を恥じながらも、人間の良心に希望を見出すのだった。