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後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「信仰を貫いてフィリピンに追放された高山右近」

2023年08月17日 | 日記・エッセイ・コラム
フィリピンの国教はキリスト教です。80%ほどがカトリックで、10%がその他のキリスト教です。つまり合わせて90%以上もの人がキリスト教徒ということになります。
1521年のマゼランのフィリピン到着とその後300年にわたるスペインの統治の歴史がフィリピンをカトリック国にしたのです。
そのフィリピンへ1614年に62歳の高山右近が追放されました。高山右近は有力な戦国大名でした。キリシタンの信仰をつらぬいて追放されたのです。フィリピンではスペインの総督やカトリック関係者に大歓迎されます。
今日はユスト高山右近のことをご紹介いたします。

慶長19年(1614年)、加賀で暮らしていた右近は、徳川家康によるキリシタン国外追放令を受け人々の引きとめる中、加賀を退去します。
長崎から家族や内藤如安らと共にマニラに送られる船に乗り、マニラには12月に到着しました。
イエズス会の神父たちからの報告ですでにローマ法王に知られていた右近はマニラでスペインの総督フアン・デ・シルバやカトリックの信者達から大歓迎を受けたのです。
しかし、船旅の疲れや慣れない気候のため老齢の右近はすぐに病を得て、翌年の1615年2月3日に息を引き取りました。享年63歳でした。マニラ到着からわずか40日のことでした。

葬儀は総督の指示によってマニラ全市をあげてイントラムロスの中にあった聖アンナ教会で10日間という長期間にわたって盛大に行われます。
そして右近の亡骸はイエズス会コレジオのサンタ・アンナ聖堂の近くに埋葬されました。
1634年には右近の遺骨はサン・ホセにあったコレジオの聖堂に移され、石棺の上には右近の画像が掲げられたそうです。

右近の死後家族は日本への帰国を許され、現在、石川県羽咋郡志賀町代田、福井県福井市、大分県大分市に直系子孫の3つの「高山家」があるそうです。
そして約300年後の1977年11月、フィリピン国鉄南方本線パコ駅の前にマニラ市、高槻市、財団法人東南アジア文化友好協会等の協力によりプラザデラオ日比友好公園が作られ、公園内に高山右近像が立てられました。右近のフィリピンに来た経緯が刻まれた碑も設置されたのです。高槻市は昔、高山右近が治めていたのです。
そうした関係で、1979年(昭和54年)1月25日、高槻市とマニラ市は姉妹都市となります。
公園はその後もアロヨ政権期に再び整備され、像や碑も綺麗に立っています。これらに関連した写真を示します。
1番目の写真はスペイン植民地時代に造営されたカトリック教会のサン・アグスティン・デ・マニラ教会です。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/フィリピンの歴史 です。
2番目の写真はマニラのプラザ・ディラオ(日比友好公園)にある高山右近の記念碑です。後方に高山右近の像が見えます。その後は旧パコ駅舎です。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/高山右近#国外追放と死 です。
3番目の写真はマニラの日比友好公園にある高山右近の銅像です。この銅像は高槻市高槻城址公園にある銅像と同じ姿のものです。この近所にはかって日本人町があったそうです。写真の出典は、vel.jp/travelogue/11103053 です。

さて高山右近没後400年にあたる平成27年(2015年)、日本のカトリック中央協議会は「高山右近は、地位を捨てて信仰を貫いた殉教者である」として、福者に認定するようローマ教皇庁に申請しました。
翌2016年(平成28年)に教皇フランシスコが認可しました。そして2017年2月7日に大阪府大阪市の大阪城ホールで列福式が執り行われたのです。
4番目の写真は高槻城跡公園 に立つ高山右近の銅像です。マニラにあるものと同じ姿です。
これと同じ姿の銅像が次のように各地に立っています。
・大阪府高槻市 高槻城跡公園
・富山県高岡市 高岡古城公園
・石川県羽咋郡志賀町 高山右近記念公園
・香川県小豆島 小豆島教会

ところで日本人の列福式と言えば2008年11月24日 にも長崎で行われ188人の日本人が列福しました。
1603年から1639年にわたって信仰を捨てないで徳川幕府に処刑されたペトロ岐部と187人の殉教者を、ローマ法王が福者と宣言する式典は日本ではじめて行われたのです。式典は188人の殉教者の子孫の代表が遺物を祭壇に供えることから始まりました。
続いて岡田大司教が188人の殉教の証拠やいきさつをローマから来たマルティンス枢機卿へ説明し、福者として正式に認めるように願います。それを受けて、ローマ法王は認めますという宣言をジョゼ・サライバ・マルティンス枢機卿が代読しました。

福者はいずれ数年後にはカトリックの聖人として認定されます。高山右近と合計189人の聖者がやがて生まれるのです。日本の26聖人に加えて215人の聖者が生まれるのです。

個人的な蛇足です。1974年頃、塚本神父様の立川教会で私達の堅信式をしたときに司式して下さったのが、当時の白柳大司教様でした。
その後も何度か白柳大司教様の感動的な説教を聞きました。10年以上拝眉しませんでしたが、2008年11月24日にテレビでお元気なご様子を見て嬉しさに堪えませんでした。
それに当時、立川教会で塚本神父様のお世話をしながら作曲をしていた新垣さんの曲が長崎から聞こえてきました。
立川教会のことが懐かしくいろいろ思い出されました。当時、洗礼を受けたとき代父をして下さった山本教授のご子息山本量太郎様がその後、小金井教会の主任司祭様になって来られました。

高山右近から話が外れてしまって申し訳ありませんでした。お許し下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

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