後藤和弘のブログ

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波乱に満ちたある武将の墓

2008年04月23日 | 日記・エッセイ・コラム

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Dscn3052  平林寺で興味深い墓を見た。1615年没、増田長盛の小さな、質素な墓石である。説明板がある。

長盛は豊臣秀吉の長浜城の近在のあるお寺の次男とし生まれ、秀吉へ仕え頭角を現す。朝鮮の役で兵站を担当し、食料・武器調達に大きな功績を残した。その後、秀吉の5奉行の一人として任ぜられ、徳川家康とともに活躍した。特に検地・税制のような財務行政に卓越していたようである。

やまとの国郡山、20万石の城主とし16年間、城下町の発展に尽くす。

しかし運命は暗転する。大阪の陣、関が原の合戦で徳川家康側に惨敗する。一族の多くは罪人になるが、長盛は高野山で僧になり、後に武蔵野国の岩槻で蟄居する。悲劇は重なる。

尾州家に仕えて大阪城へ入った長男、盛貞が合戦で死ぬ。1615年5月7日のことである。落胆した父、長盛が切腹したのは長男の死のあと20日後であった。

1615年没の長盛の質素な墓を岩槻から新座市にある平林寺へ移したのは明治になってからのことである。

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色々な疑問を考える。何故、家康は秀吉の5奉行だった長盛の死罪を免じ、岩槻での蟄居を認めたのであろうか?5奉行として共に働いた頃に、お互い友情のようなものを感じ合っていたのだろうか?

大和の国郡山の現在の住民は増田長盛をどのように評価しているのであろうか?

忘れられているか、あるいは、郡山の発展の功績者として尊敬されているのであろうか?

長盛切腹のときは平林寺は岩槻にあった。お墓が平林寺につくられたとしても不思議はない。その後、野火止用水を完成し、平林寺を新座へ移したのは徳川側の名家、松平伊豆守信綱である。

当時の平林寺の住職が気を利かせ、ソオーっと長盛の墓を岩槻へ置いてきたのであろうか? もしそうであるなら権力へへつらう俗っ気の多い住職ではないか?あるいは松平信綱が岩槻に置いて来いと命じたのであろうか?

徳川幕府が滅んだ明治時代になって平林寺に移されたということの背景にはどのような経緯があったのであろうか?

奈良県の郡山市、埼玉県の岩槻市、そして新座市というローカルな視点で波乱に満ちたひとりの武将の人生を考えると色々な疑問が湧いてくる。

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その他にも興味深い墓や宝塔、供養塔がある。したの写真に示すが、漱石の「草枕」の熊本県小天温泉の美人、那美さんのモデルになった女性の墓、武田信玄の5女の宝塔、島原の乱の供養塔である。那美さんのモデルの女性と異母弟の興味深い関係が説明板にあるのでご一読をお勧めする。2人は同じ墓に眠る。

Dscn3007_2 Dscn3050_2 Dscn3044_2 これら3枚の写真の詳細は記録して来なかった。歴史的背景をご研究の方は平林寺事務所へお聞きになれば良いと思う。

撮影日時:4月19日午前10時ー12時、撮影場所:埼玉県新座市、市役所向かい平林寺。


2 コメント

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他の奉行の、浅井長政(東軍)、石田三成(西軍)... (高山)
2008-04-23 17:50:25
他の奉行の、浅井長政(東軍)、石田三成(西軍)、前田玄以【不参加】、長束(なつか)正家(西軍)は、石田、長束が、戦死同然だが、内通していた増田が、自害させられたのは、息子盛次が西軍で奮戦したうえ、もう徳川は怖いものが無かったので所領没収ためらわなかったようです。
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高山さん、 (藤山杜人)
2008-04-23 19:43:11
高山さん、
色々なことが有ったのですね。小生は歴史の勉強をしていないので、平林寺の説明板で感じ入ってブログの記事にしましたが、
ご存知の方が多いのですね。
それにしても戦国時代は大変な時代でしたね。昭和11年の後に生まれてよかったと、つくづく思います。その前の人々は戦争へ行きました。
お互い命は大切に平穏に命を終わらせましょう!
コメント有難うございました。敬具、藤山杜人
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