産業革命以来、欧米諸国には近代工業が発展します。それにしたがうように世界の少数民族がつぎつぎに消えて行ったのです。
多様な民族文化も消滅しました。これはどうしようもない歴史の必然です。しかし悲しいことです。
そして消えて行く少数民族に限りない哀惜の念が湧いてきます。
そんな理由で今日はアッツ島に住んでいたアリュート族の苦難の運命を取り上げてみたいと思います。
1943年6月にアッツ島の玉砕があり、日本兵2,638名が戦死しました。第二次大戦の初めての玉砕だったので、その詳細は広く知られています。
日本軍の1942年6月の占領から玉砕に至る経緯は、「https://ja.wikipedia.org/wiki/アッツ島の戦い 」に詳しく掲載されています。
その一方、アッツ島の原住民、アリュート族を襲った悲劇はあまり知られていません。
今日はアッツ島のアリュート族40人の北海道の小樽への強制連行とその後の24人の死の悲劇をご紹介したいと思います。
もともとアリューシャン列島には少数民族のアリュート人が住んでいました。ロシア皇帝がベーリング隊をその地域の探検に派遣して以来、アリュート族はロシア人の迫害にあったのです。
ロシア人が行く以前には、25000人以上のアリュート族がアリューシャンの島々に住みついていたと言われています。それが1700年代の後半には1000人前後に減ってしまったと記されています。(白崎謙太郎著、「明治・海・2人」、2018年出版)
ロシアは島々にロシア正教を押し付けロシアの領土にして疫病を持ち込んだのです。それはスペインの南米征服に似た現象でした。
列島を完全にロシアの領土にした後で、1867年にロシアはアリューシャン列島とアラスカをアメリカへお金で売り渡したのです。
ですから現在はアリューシャン列島とアラスカはアメリカの領土です。
しかしアメリカ政府はアリューシャン列島とアリュート人達をほとんどかえりみなかったのです。
このアッツ島の原住民については、http://www.campus.ouj.ac.jp/~stew_hon/HTML/aryu-to01.html に詳しく報じてあります。
以下はその抜粋です。
まずは地図をご覧下さい。
1番目の写真はカムチャッカ半島からアラスカ半島に弓なりに並んだアリューシャン列島も地図です。
2番目の写真は夏のアッツ島の風景です。短い夏には草花も一面に咲いています。
3番目の写真は寒い時期のアリュート族の一家の写真です。衣類は全てアザラシやオットセイやラッコの皮です。
4番目の写真は夏の季節のアリュート族の一家の写真です。アザラシやオットセイやラッコの皮の衣服を脱いでいます。
アリュート族は蒙古族が1万年以上前に東進したものでカムチャッカ半島に住む少数民族に近いと言われています。
さて日本軍は列島の東側のダッチ・ハーバーを1942(昭和17)年6月の4日と5日に空爆しました。続いて日本軍は6月8日に列島の西端アッツとキスカの両島に上陸し占領したのです。キスカ島には数名の米海軍の気象観測員しかいませんでしたが、アッツ島には42名のアリュート人が住んでいました。
日本軍の侵攻にともない威嚇発砲の流れ弾が当たったことが原因に1人の女性が死にます。
占領の間に老衰のために1人の男性が死にます。
そしちて1942年の9月に日本軍は40名のアリュート人を小樽へ強制的に連行したのです。
そのいきさつや、小樽での生活については1980年になってやっと公表されました。
『諸君』12-10、1980 に「昭和十七年・小樽・四十名のアリュート人」という記事が掲載されたのです。
また1980年の『法学セミナー』には「アリュート民族と戦後補償」という記事も出ます。
そして『中国新聞』1995年8月31日には「アリュート人と日本」という記事も掲載されたのです。
このようにアッツ島の40人のアリュート人の強制連行の悲劇は1980年まで多くの日本人は知らなかったのです。
その原因はアメリカ占領軍のGHQの報道規制によるのではないかと考えられます。
さて捕虜ではなく、強制連行されたアリュート人は小樽警察外事課の管轄におかれ、接収された民間の家で寝起きしていました。
警官が交代して監視していたアリュート人の行動はある程度自由だったようですが、生活の詳細は知られていません。
戦後、アリュート人は週6日の強制労働があったと訴えていますが、その証拠は、小樽には無いそうです。
進駐軍の追及を恐れて当時の記録は敗戦のときに処分されたので、公式の情報は現存しないのです。
アリュート人は近いベントナイト採掘場で1日1円をもらって働いていたといいます。
それよりも食事が悲劇をもたらします。
アリュート人はアッツ島では高タンパク質・高カロリーの海獣を食事にしていました。しかし小樽では1日に茶碗2杯分の米とわずかなおかずしかなく、彼らは常に空腹に苦しんでいたのです。
このような貧しい食料事情も関係して、結核菌保持者だったアリュート人の10数名が発病して、アメリカへ帰国する1945(昭和20)年9月まで、強制連行された40名の40%にあたる16名が小樽で死亡した。そのほかに、小樽で生まれた5人の赤ちゃんの4人が死亡した、という悲惨な状況だったのです。
敗戦とともに解放されたアリュート人の試練はそのあともつづきます。1945年にアメリカへ帰国した25名のアリュート人は故郷のアッツ島にかえることが許されず、病人は病院に収容され、子どもは全寮制学校に、大人たちはアッツ島から800キロも離れているアトカ島に強制的に移されてしまったのです。
1995年の8月、抑留されていた1人のアリュート人ニック・ゴロドフさんが、高木健一法律事務所主催『戦後補償国際フォーラム‘95』に参加するとともに50年ぶりに小樽を訪れます。
長橋病院(現国立療養所小樽病院)に保管されている自分のカルテ、そして小樽で亡くなった父などのカルテを見ることが目的でした。病院でアリュート人を対象に人体実験が行なわれていたとゴロドフさんもアリュート人一般も信じているのです。
アリュート民族の代表団体アリュート協会の会長も人体実験があったという公式見解を表明しているほどです。
5番目の写真はアリュート人は収容された若竹町(現勝納(かつない)町)にあった2階建ての木造施設の写真です。
写真の出典は、https://blogs.yahoo.co.jp/hattor123inakjima/34323369.html の北海道新聞の記事です。
記事の題目は、「消えた外国人 戦時の抑留、4、アリュート 異郷で病魔 犠牲次々」でした。
この記事の内容に次のような文章があります。
・・・戦後、当事者のアリュートらから聞き取りを行った放送大学のスチュアート・ヘンリ客員教授(民族学)=東京都=はアリュート
人の死亡について、食料事情の悪化が響いたとみる。「アリュートはアザラシやクジラなど高タンパク、高カロリーのものを日常的に食べていましたが、戦時中の小樽ではそうした高タンパク源はほとんど手に入らなかった」
仲間を亡くしたアリュートは大八車にひつぎを乗せて全員で火葬場に向かった。その痛々しい光景が何度も繰り返された。
救いもあった。スチュアート教授は言う。「43年から帰国まで担当した(小樽警察署の)鹿内武四郎巡査は夫婦で親身になって自分たちの世話を焼いてくれたと聞きました」
鹿内夫妻は食料の調達に奔走。結核が彼らの命を脅かしていると分かると、療養所の医師を訪ね、食事療法を学んで帰った。それでも結核の悲劇を防ぐことはできなかったが、夫妻の苦労はアリュートたちにもおのずと知れていた。・・・
以上がアッツ島に住んでいた40人のアリュート人の悲劇の物語です。
産業革命以来、欧米諸国には近代工業が発展し、世界の少数民族がつぎつぎに消えて行ったのです。今日の話はその一例の具体的な経緯なのです。近代文明の発達とともに少数民族が消えて行くのは歴史の必然とは言いながら淋しいです。悲しいです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
多様な民族文化も消滅しました。これはどうしようもない歴史の必然です。しかし悲しいことです。
そして消えて行く少数民族に限りない哀惜の念が湧いてきます。
そんな理由で今日はアッツ島に住んでいたアリュート族の苦難の運命を取り上げてみたいと思います。
1943年6月にアッツ島の玉砕があり、日本兵2,638名が戦死しました。第二次大戦の初めての玉砕だったので、その詳細は広く知られています。
日本軍の1942年6月の占領から玉砕に至る経緯は、「https://ja.wikipedia.org/wiki/アッツ島の戦い 」に詳しく掲載されています。
その一方、アッツ島の原住民、アリュート族を襲った悲劇はあまり知られていません。
今日はアッツ島のアリュート族40人の北海道の小樽への強制連行とその後の24人の死の悲劇をご紹介したいと思います。
もともとアリューシャン列島には少数民族のアリュート人が住んでいました。ロシア皇帝がベーリング隊をその地域の探検に派遣して以来、アリュート族はロシア人の迫害にあったのです。
ロシア人が行く以前には、25000人以上のアリュート族がアリューシャンの島々に住みついていたと言われています。それが1700年代の後半には1000人前後に減ってしまったと記されています。(白崎謙太郎著、「明治・海・2人」、2018年出版)
ロシアは島々にロシア正教を押し付けロシアの領土にして疫病を持ち込んだのです。それはスペインの南米征服に似た現象でした。
列島を完全にロシアの領土にした後で、1867年にロシアはアリューシャン列島とアラスカをアメリカへお金で売り渡したのです。
ですから現在はアリューシャン列島とアラスカはアメリカの領土です。
しかしアメリカ政府はアリューシャン列島とアリュート人達をほとんどかえりみなかったのです。
このアッツ島の原住民については、http://www.campus.ouj.ac.jp/~stew_hon/HTML/aryu-to01.html に詳しく報じてあります。
以下はその抜粋です。
まずは地図をご覧下さい。
1番目の写真はカムチャッカ半島からアラスカ半島に弓なりに並んだアリューシャン列島も地図です。
2番目の写真は夏のアッツ島の風景です。短い夏には草花も一面に咲いています。
3番目の写真は寒い時期のアリュート族の一家の写真です。衣類は全てアザラシやオットセイやラッコの皮です。
4番目の写真は夏の季節のアリュート族の一家の写真です。アザラシやオットセイやラッコの皮の衣服を脱いでいます。
アリュート族は蒙古族が1万年以上前に東進したものでカムチャッカ半島に住む少数民族に近いと言われています。
さて日本軍は列島の東側のダッチ・ハーバーを1942(昭和17)年6月の4日と5日に空爆しました。続いて日本軍は6月8日に列島の西端アッツとキスカの両島に上陸し占領したのです。キスカ島には数名の米海軍の気象観測員しかいませんでしたが、アッツ島には42名のアリュート人が住んでいました。
日本軍の侵攻にともない威嚇発砲の流れ弾が当たったことが原因に1人の女性が死にます。
占領の間に老衰のために1人の男性が死にます。
そしちて1942年の9月に日本軍は40名のアリュート人を小樽へ強制的に連行したのです。
そのいきさつや、小樽での生活については1980年になってやっと公表されました。
『諸君』12-10、1980 に「昭和十七年・小樽・四十名のアリュート人」という記事が掲載されたのです。
また1980年の『法学セミナー』には「アリュート民族と戦後補償」という記事も出ます。
そして『中国新聞』1995年8月31日には「アリュート人と日本」という記事も掲載されたのです。
このようにアッツ島の40人のアリュート人の強制連行の悲劇は1980年まで多くの日本人は知らなかったのです。
その原因はアメリカ占領軍のGHQの報道規制によるのではないかと考えられます。
さて捕虜ではなく、強制連行されたアリュート人は小樽警察外事課の管轄におかれ、接収された民間の家で寝起きしていました。
警官が交代して監視していたアリュート人の行動はある程度自由だったようですが、生活の詳細は知られていません。
戦後、アリュート人は週6日の強制労働があったと訴えていますが、その証拠は、小樽には無いそうです。
進駐軍の追及を恐れて当時の記録は敗戦のときに処分されたので、公式の情報は現存しないのです。
アリュート人は近いベントナイト採掘場で1日1円をもらって働いていたといいます。
それよりも食事が悲劇をもたらします。
アリュート人はアッツ島では高タンパク質・高カロリーの海獣を食事にしていました。しかし小樽では1日に茶碗2杯分の米とわずかなおかずしかなく、彼らは常に空腹に苦しんでいたのです。
このような貧しい食料事情も関係して、結核菌保持者だったアリュート人の10数名が発病して、アメリカへ帰国する1945(昭和20)年9月まで、強制連行された40名の40%にあたる16名が小樽で死亡した。そのほかに、小樽で生まれた5人の赤ちゃんの4人が死亡した、という悲惨な状況だったのです。
敗戦とともに解放されたアリュート人の試練はそのあともつづきます。1945年にアメリカへ帰国した25名のアリュート人は故郷のアッツ島にかえることが許されず、病人は病院に収容され、子どもは全寮制学校に、大人たちはアッツ島から800キロも離れているアトカ島に強制的に移されてしまったのです。
1995年の8月、抑留されていた1人のアリュート人ニック・ゴロドフさんが、高木健一法律事務所主催『戦後補償国際フォーラム‘95』に参加するとともに50年ぶりに小樽を訪れます。
長橋病院(現国立療養所小樽病院)に保管されている自分のカルテ、そして小樽で亡くなった父などのカルテを見ることが目的でした。病院でアリュート人を対象に人体実験が行なわれていたとゴロドフさんもアリュート人一般も信じているのです。
アリュート民族の代表団体アリュート協会の会長も人体実験があったという公式見解を表明しているほどです。
5番目の写真はアリュート人は収容された若竹町(現勝納(かつない)町)にあった2階建ての木造施設の写真です。
写真の出典は、https://blogs.yahoo.co.jp/hattor123inakjima/34323369.html の北海道新聞の記事です。
記事の題目は、「消えた外国人 戦時の抑留、4、アリュート 異郷で病魔 犠牲次々」でした。
この記事の内容に次のような文章があります。
・・・戦後、当事者のアリュートらから聞き取りを行った放送大学のスチュアート・ヘンリ客員教授(民族学)=東京都=はアリュート
人の死亡について、食料事情の悪化が響いたとみる。「アリュートはアザラシやクジラなど高タンパク、高カロリーのものを日常的に食べていましたが、戦時中の小樽ではそうした高タンパク源はほとんど手に入らなかった」
仲間を亡くしたアリュートは大八車にひつぎを乗せて全員で火葬場に向かった。その痛々しい光景が何度も繰り返された。
救いもあった。スチュアート教授は言う。「43年から帰国まで担当した(小樽警察署の)鹿内武四郎巡査は夫婦で親身になって自分たちの世話を焼いてくれたと聞きました」
鹿内夫妻は食料の調達に奔走。結核が彼らの命を脅かしていると分かると、療養所の医師を訪ね、食事療法を学んで帰った。それでも結核の悲劇を防ぐことはできなかったが、夫妻の苦労はアリュートたちにもおのずと知れていた。・・・
以上がアッツ島に住んでいた40人のアリュート人の悲劇の物語です。
産業革命以来、欧米諸国には近代工業が発展し、世界の少数民族がつぎつぎに消えて行ったのです。今日の話はその一例の具体的な経緯なのです。近代文明の発達とともに少数民族が消えて行くのは歴史の必然とは言いながら淋しいです。悲しいです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
歴史の良かったもの、悪かったもの、小さなこの様な色々の歴史しっかりとしたい現代史として副読本にしたいものですね!
歴史を知ることから 人々のご冥福を お祈りいたします。