キリスト教は愛の宗教です。神が人間を愛します。我々も神を愛します。
しかし眼に見えない神の愛を確信することは普通の人間にはなかなか出来ないことです。
それでも神父さんたちや牧師さんたちは神の愛を示してくれます。同じようにシスター達や修道士達も神の愛を感じさせてくれます。
今日は一つの例として宮津市の人々を愛し宮津の土になったルラーブ神父のことをご紹介致します。
遺体は遺言により宮津市惣村の教会墓地に埋葬されたのです。
1888(明治21)年、パリ外国宣教会から来たルイ・ルラーブ神父は宮津に居を定めて、宣教を開始しました。ルラーブ神父の当時の受け持ち区域は、若狭(福井県南部)から但馬(兵庫県北部)までに及びました。
1895(明治28)年に、地元の旧家・田井五郎衛門氏から敷地の寄贈を受け、翌年の5月、当時としては珍しいフランス風の構造に木造・畳敷きという和洋折衷のロマネスク式の聖堂「洗者聖ヨハネ天主堂」が竣工され、献堂式が行われました。
1907(明治40)年には、教会敷地内に、現在の京都暁星高等学校の前身である「宮津裁縫伝習所」が設立されました。
1927(昭和2)年の丹後大震災の際には、戸塚文卿神父を中心とするカトリック医療団と共にルラーブ神父も救護活動に尽力しました。尚、この戸塚文卿神は私どもの小金井市に桜町病院やヨハネ女子修道会を作った医学博士の神父でした。その延長に現在のカトリック小金井教会があるのです。
1935(昭和10)年、ルラーブ神父の来日50周年が祝いました。この年、ルラーブ神父の司祭叙階金祝を記念して「宮津暁星幼稚園」の設立が決定され、翌年に開園されました。
1941(昭和16)年、53年間日本で宣教活動を続けてきたルラーブ神父が、83歳で帰天されました。
1888年に日本に来てから1941年まで53年間も宮津市の人々を愛し日本の土になったのです。
1896年(明治28年)に建てられたロマネスク式の聖堂「洗者聖ヨハネ天主堂」は日本で2番目に古いカトリック天主堂として、今も現役の教会として祈りがささげられています。1番古い教会は長崎の大浦天主堂です。
宮津の教会はステンドグラスの美しい畳敷きの教会です。信者は入り口で靴を脱いで畳の上を静かに歩きます。
畳敷きの教会も良いものです。少し寛いで自然な気持ちで祈ることが出来のです。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。
出典は、http://pupa.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_f70a.html です。



それはそれとして、今日も皆様の心の平和とご健康をお祈り申し上げます。後藤和弘
===ルラーブ神父さまのこと、======================
ジャン・ルイ・ルラーブ(Jean Louis Relave、1857年12月17日 - 1941年2月1日)は、フランスの神父、パリ外国宣教会に所属していました。
少年期に日本を知り、来日後、宮津教会で司祭として活動した神父です。
1857年12月17日フランス南部リヨン市のはずれサンテアン村で生れました。
日本26聖人殉教者の列聖は5歳の頃です。村の教会で26聖人に献げられた小さな赤玉のロザリオをもらい日本人のために祈り始めたそうです。
8歳で父を失い、弟妹の世話や畑仕事の傍ら独学で中学程度の学課を修得し、パリの外国宣教会神学校に入り、1885年(明治18年)司祭叙階しました。
同年1885年12月22日神戸に上陸し、大阪川口教会で8ケ月日本語を学んだのち、京都でヴィリヨン神父の助任となります。京都に2年滞在しました。
その後1888年(明治21年)12月に宮津に赴任します。
それからは52年間宮津で働いたのです。
1940年(昭和15年)司教の命令で大阪の聖母病院に隠退。
1941年(昭和16年)7月1日同病院にて死去。遺言により宮津市惣村の教会墓地に埋葬。
しかし眼に見えない神の愛を確信することは普通の人間にはなかなか出来ないことです。
それでも神父さんたちや牧師さんたちは神の愛を示してくれます。同じようにシスター達や修道士達も神の愛を感じさせてくれます。
今日は一つの例として宮津市の人々を愛し宮津の土になったルラーブ神父のことをご紹介致します。
遺体は遺言により宮津市惣村の教会墓地に埋葬されたのです。
1888(明治21)年、パリ外国宣教会から来たルイ・ルラーブ神父は宮津に居を定めて、宣教を開始しました。ルラーブ神父の当時の受け持ち区域は、若狭(福井県南部)から但馬(兵庫県北部)までに及びました。
1895(明治28)年に、地元の旧家・田井五郎衛門氏から敷地の寄贈を受け、翌年の5月、当時としては珍しいフランス風の構造に木造・畳敷きという和洋折衷のロマネスク式の聖堂「洗者聖ヨハネ天主堂」が竣工され、献堂式が行われました。
1907(明治40)年には、教会敷地内に、現在の京都暁星高等学校の前身である「宮津裁縫伝習所」が設立されました。
1927(昭和2)年の丹後大震災の際には、戸塚文卿神父を中心とするカトリック医療団と共にルラーブ神父も救護活動に尽力しました。尚、この戸塚文卿神は私どもの小金井市に桜町病院やヨハネ女子修道会を作った医学博士の神父でした。その延長に現在のカトリック小金井教会があるのです。
1935(昭和10)年、ルラーブ神父の来日50周年が祝いました。この年、ルラーブ神父の司祭叙階金祝を記念して「宮津暁星幼稚園」の設立が決定され、翌年に開園されました。
1941(昭和16)年、53年間日本で宣教活動を続けてきたルラーブ神父が、83歳で帰天されました。
1888年に日本に来てから1941年まで53年間も宮津市の人々を愛し日本の土になったのです。
1896年(明治28年)に建てられたロマネスク式の聖堂「洗者聖ヨハネ天主堂」は日本で2番目に古いカトリック天主堂として、今も現役の教会として祈りがささげられています。1番古い教会は長崎の大浦天主堂です。
宮津の教会はステンドグラスの美しい畳敷きの教会です。信者は入り口で靴を脱いで畳の上を静かに歩きます。
畳敷きの教会も良いものです。少し寛いで自然な気持ちで祈ることが出来のです。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。
出典は、http://pupa.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_f70a.html です。



それはそれとして、今日も皆様の心の平和とご健康をお祈り申し上げます。後藤和弘
===ルラーブ神父さまのこと、======================
ジャン・ルイ・ルラーブ(Jean Louis Relave、1857年12月17日 - 1941年2月1日)は、フランスの神父、パリ外国宣教会に所属していました。
少年期に日本を知り、来日後、宮津教会で司祭として活動した神父です。
1857年12月17日フランス南部リヨン市のはずれサンテアン村で生れました。
日本26聖人殉教者の列聖は5歳の頃です。村の教会で26聖人に献げられた小さな赤玉のロザリオをもらい日本人のために祈り始めたそうです。
8歳で父を失い、弟妹の世話や畑仕事の傍ら独学で中学程度の学課を修得し、パリの外国宣教会神学校に入り、1885年(明治18年)司祭叙階しました。
同年1885年12月22日神戸に上陸し、大阪川口教会で8ケ月日本語を学んだのち、京都でヴィリヨン神父の助任となります。京都に2年滞在しました。
その後1888年(明治21年)12月に宮津に赴任します。
それからは52年間宮津で働いたのです。
1940年(昭和15年)司教の命令で大阪の聖母病院に隠退。
1941年(昭和16年)7月1日同病院にて死去。遺言により宮津市惣村の教会墓地に埋葬。