後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「寒くて暗いドイツの思い出」

2024年08月22日 | 日記・エッセイ・コラム
老境に至って自分の人生を振り返ると、外国への留学で深い影響を受けたことをつくづく思います。アメリカ留学のおかげで私はアメリカが大好きになりました。アメリカ留学は24歳から26歳まででしたが、34歳のとき南ドイツのシュツットガルトに1年余行ったのです。今度はドイツにも魅了されました。外国に住むと、その国が好きになってしまうのです。ドイツは独特な文化を持っています。伝統を大事にし静かな思考を大切にします。街を歩くドイツ人は決してイタリア人のように陽気でありません。フランス人のようにお洒落をしません。何時も真面目で堅い雰囲気を持っています。
今日は寒くて暗いドイツの思い出を書いてみます。
ドイツでの生活は1969年夏のにローテンブルグでの3ケ月間のドイツ語研修から始まりました。そしてその後、シュツットガルト市にあるマックス・プランク金属研究所で1年間の研究生活をしました。シュツットガルト市に移るとすぐに家内と子供2人を呼びました。
1番目の写真はシュツットガルト市の中心にある広場です。
2番目の写真はシュツットガルト市の郊外に広がるブドウ畑です。遠景はシュツットガルトの中心街です。このようにシュツットガルト市はブドウ畑の丘に囲まれている町なのです。
3番目の写真はシュツットガルト市の街路にたつ市です。近くの農民が作物を売っています。
4番目の写真はシュツットガルト市を流れるネッカー河です。ライン河の支流です。ライン河はスイスのボーデン湖から流れ出ています。
5番目の写真は私どもが住んでいたような古いアパートです。墓地のそばにあり3階に住んでいました。家からは娘の行っていた小学校、息子の幼稚園はすぐ近くにありました。八百屋や花屋が近所にある住宅街でした。
 
ドイツは気候も社会も若い頃留学したアメリカのオハイオ州とは全く違うのです。同じ欧米人なのにアメリカとドイツでは人々の考え方が驚くほど違うのです。
よく言われる「ヨーロッパの階級社会や伝統社会から逃れた人々がアメリカに行って国家を作った」という文章の意味がしみじみ理解出来るのです。
それはさておき、まずはじめに受けた大きな驚きを書きます。
それはドイツの暗くて寒い冬でした。その長い冬を体験した結果、ドイツの文化を理解するためにはこの冬の厳しさを体験すべきだと思ったのです。 内陸のヨーロッパの人々が明るい地中海沿岸に憧れる理由が分かったのです。
もう一つの驚きは歴史に関する考え方です。 ドイツ人はビールを飲むたびに話題は決まったように中世の「30年戦争」のことなのです。
1600年代にドイツの町や農村を徹底的荒廃させ人口の何割かが殺された内戦のことです。
戦争の発端はカトリックとプロテスタン宗派との争いでしたが、すぐに領土をかけた地方の領主同士の欲得がからんだ戦争が30年間も続いたのです。そしてフランスやスウェーデンやウイーンのハプスブルグ家の軍隊を巻き込んだ大戦争になってしまったのです。誰が敵で、誰が味方か分からない混戦になってしまったのです。
私は日本の学校で「30年戦争」をほとんど習いませんでした。「30年戦争」など記憶になかったのです。
ところがドイツ人はビールを飲むたびにこれを話題にして喧々諤々の議論をするのです。
学校で習う歴史とは国々によってまったく違うという事実です。この世に絶対的に正しい歴史などは存在しないのです。
歴史とは国々によってまったく違うという事実を体験的に理解できたのです。
ビールと言えば面白いエピソードがあります。
「30年戦争」の時、ローテンブルグを包囲した敵将が市長に難題を言います。この大ジョッキのビールを一気に飲み干したら町は焼き尽くさないと言ったのです。市長は喜んで飲み干し、町を救ったのです。現在も市庁舎の上にビールを飲む市長の動く人形があります。
アメリカでビールを飲んだ時の話題はプロ野球やアメリカン・フットボールに関することが多いのです。あるいは趣味の話が多いのです。歴史が話題になったことを私は知りません。これもドイツ人とアメリカ人の違いの一つです。
 
今日は「寒くて暗いドイツの思い出」を書いてみました。シュツットガルトのマックス・プランク金属研究所で働いていた頃の思い出です。シュツットガルトはスイスに近いので何度も行きました。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

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