後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「白壁の酒蔵のある風景は日本人の郷愁」

2019年04月17日 | 日記・エッセイ・コラム
どういう理由があるのか知りませんが、私は時々強い「郷愁」に襲われることがあります。心が淋しく悲しみでいっぱいになるのです。
そういう時に必ず訪れる白壁の酒蔵があります。
多摩川を遡った羽村の堰にある田村酒造です。文政5年創業です。

誰もいない構内に入ると昨年仕込んだ酒が蔵の中で静かに発酵しているだけです。
この田村酒造は何時も門が開いていて誰でも出入り自由です。
その中に入ると何故か私の心が静まります。
別に詳しく考えたわけではありませんが、私は白壁の酒蔵のある風景は日本人の郷愁ではないかと感じています。
昨日撮って来た写真をお送りします。
写真はこの酒蔵の風景と隣接して流れている玉川上水の写真です。そこから分水した田村分水が構内を流れています。









この酒蔵は多摩川の伏流水を用いて「嘉泉」という地酒を作っています。昨日は羽村の堰の傍にある酒屋さんから「嘉泉」の純米吟醸酒を一本買ってきました。
夕食に飲んでみましたら実に奥深い中辛の味でした。
その味に感動したので福生市の田村酒造をあらためて調べてみました。
よく出来たホームページが、http://www.seishu-kasen.com/ にありました。
早速「嘉泉」という地酒が出来た歴史を読みました。抜粋をお送りします。

・・・代々、福生村の名主だった田村家の「半十郎(豊真)」から数えて九代目の「勘次郎(賢真)」は28歳で名主役を継ぎ、文政5年(1822年)の46歳の時に酒造業を興しました。
当時の江戸は華やかな文化文政期を迎え、急速に発展していきました。酒の需要も増え、主流だった上方(関西)で生産する“下り酒”に代わるものとして幕府は“江戸地廻り酒”の生産を奨励しました。
田村家は敷地内の井戸に、酒造りに好適な中硬水の秩父奥多摩伏流水を得た喜びから“嘉泉“と酒銘を定めました。・・・

ここに「秩父奥多摩伏流」とありますが秩父と奥多摩は離れていて全く別の水系です。田村酒造の50メートル先には多摩川が流ています。ですから「嘉泉」は多摩川伏流水を用いた地酒と言えます。

日本酒の作り方です。
「新酒」10月中旬頃
最初のタンクを9月下旬に仕込み、発酵を経て10月中旬頃搾って出荷しています。この酒を「新酒」といいます。
それは新酒ならではのフレッシュな香り、コクのある味が充分に楽しめるそうす。

「大吟醸造り」12月中旬
日本酒の最高峰「大吟醸」の造りが始まると蔵に一層の緊張感が走ります。泊まり込みの麹の管理を経て、酒母の仕込みは年末頃。年が明けて醪となった大吟醸の搾りと出荷は例年2月中旬頃となります。

「甑(こしき)倒し」3月中旬
甑とは酒造りに使う米を蒸す道具で、湯が煮立つ釜の上に乗せて使います。家庭用蒸し器の上の部分のようなものです。今期の酒造りで最後の蒸米が完了したら、酒蔵では「甑倒し」といって今期の仕込みが無事に終了したことを祝う慣わしがあります。

「皆造(かいぞう)」4月下旬
皆造とは“みんな造った”という意味で、今期のもろみを全て搾りきり、酒造りのすべてが終了した時の言葉です。皆造後は製品化に伴う仕事が続きますが、蔵人は冬から続いた約半年の緊張の日々から開放されます。

このように酒造は特殊な日本の文化の一部を作っているのです。
そんな理由もあって白壁の酒蔵のある風景は日本人の郷愁なのではないでしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)