長崎の大浦天主堂を、私は日本のカトリックの本山と勝手に思い込んでいます。勿論、カトリックの本山はバチカン以外にはありませんが。
江戸幕府による250年のキリシタン禁制の中を信仰を守り通した潜伏キリシタン達が突然現れたのがこの大浦天主堂だったのです。このドラマチックなニュースは世界を巡り人々を驚かせたのです。日本人の誠実さ精神の強さを証明した事件でした。
大浦天主堂は明治12年に現在のような美しい姿に建てられた日本最古の教会です。昭和8年(1933年)に 当時の国宝保存法に基づき国宝に指定されたのです。これは洋風建築としては初の国宝指定でした。
何度も訪れて写真を撮りましたが、今日は2013年に撮った写真をお送り致します。
1番目の写真は長い石の階段の下から見上げた大浦天主堂です。
初めの天主堂はパリ外国宣教会宣教師のフューレ神父とプティジャン神父が1864年に完成しました。それを1879年(明治12年)にプティジャン神父達が現在の姿に改築したのです。
2番目の写真は現在の天主堂の祭壇です。ステンドグラスの窓からの光が祭壇を美しく照らしています。
同じ場所に1864年に完成した旧天主堂に浦上の潜伏キリシタンが現れプティジャン神父に密かに信仰者であることを名乗ったのです。しかし時期が早過ぎました。幕府は信者を捕らえ流刑にしたのです。
日本の禁教令は明治5年まで居留外国人以外へは厳重に執行されていたのです。
幕府と明治政府は名乗り出たキリシタンを逮捕し流刑にしました。これが有名な浦上4番崩れなのです。
3番目の写真は天主堂の右に回り込み側壁と窓の様子を撮った写真です。
窓のデザインが古風で壁も少し汚れていて時代の経過を示しています。
この写真を撮った反対側には昔の神学校が建っていました。
4番目の写真は天主堂の壁に触ったあとで見上げて撮った写真です。壁に触って眼を閉じると浦上のキリシタン達がプティジャン神父に話かけてい場面が見えてきます。
5番目の写真は昔の神学校の写真です。天主堂の東の隣に建っています。大浦天主堂の傍に司祭館や神学校の建物を設計したのはド・ロ神父でした。
2013年に訪れた時にはキリシタンの踏絵やマリア観音などの展示をしていました。そしてコルベ神父の特別展も開催していたのです。
コルベ神父はアウシュービッツ収容所で他人の命の身代りになって処刑された神父さんです。
コルベ神父は長崎で活躍していたのです。1881年にヨハネ・パウロ2世が長崎に巡礼の旅をした時もコルベ神父ゆかりの建物も訪問しました。
大浦天主堂は昭和20年8月9日の長崎市への原爆投下によって破損しましたが、爆心地から比較的離れていたため焼失は免れました。その後破損個所の修理は昭和27年に完了します。
最近この大浦天主堂は世界遺産にもなりました。
大浦天主堂の世界遺産に関しては次の拙著にも書いてあります。
大浦天主堂や神学校を建てたプティジャン神父やド・ロ神父についても詳しく書いてあります。
『国宝 大浦天主堂などキリシタン教会群が世界遺産へ!』、2013年04月17日 掲載記事です。
なお国宝の大浦天主堂が、観光客の増加に伴い、ミサのためには不都合となったので昭和50年(1975)11月、長崎教区が大浦天王堂の隣接地に新らしい大きな教会を建てています。大浦天主堂では普通のミサはありません。
新らしい教会の主日ミサは土曜日は19:00、日曜日は7:00時と10:00時です。主任司祭はぺトロ下口 勲 神父です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
江戸幕府による250年のキリシタン禁制の中を信仰を守り通した潜伏キリシタン達が突然現れたのがこの大浦天主堂だったのです。このドラマチックなニュースは世界を巡り人々を驚かせたのです。日本人の誠実さ精神の強さを証明した事件でした。
大浦天主堂は明治12年に現在のような美しい姿に建てられた日本最古の教会です。昭和8年(1933年)に 当時の国宝保存法に基づき国宝に指定されたのです。これは洋風建築としては初の国宝指定でした。
何度も訪れて写真を撮りましたが、今日は2013年に撮った写真をお送り致します。
1番目の写真は長い石の階段の下から見上げた大浦天主堂です。
初めの天主堂はパリ外国宣教会宣教師のフューレ神父とプティジャン神父が1864年に完成しました。それを1879年(明治12年)にプティジャン神父達が現在の姿に改築したのです。
2番目の写真は現在の天主堂の祭壇です。ステンドグラスの窓からの光が祭壇を美しく照らしています。
同じ場所に1864年に完成した旧天主堂に浦上の潜伏キリシタンが現れプティジャン神父に密かに信仰者であることを名乗ったのです。しかし時期が早過ぎました。幕府は信者を捕らえ流刑にしたのです。
日本の禁教令は明治5年まで居留外国人以外へは厳重に執行されていたのです。
幕府と明治政府は名乗り出たキリシタンを逮捕し流刑にしました。これが有名な浦上4番崩れなのです。
3番目の写真は天主堂の右に回り込み側壁と窓の様子を撮った写真です。
窓のデザインが古風で壁も少し汚れていて時代の経過を示しています。
この写真を撮った反対側には昔の神学校が建っていました。
4番目の写真は天主堂の壁に触ったあとで見上げて撮った写真です。壁に触って眼を閉じると浦上のキリシタン達がプティジャン神父に話かけてい場面が見えてきます。
5番目の写真は昔の神学校の写真です。天主堂の東の隣に建っています。大浦天主堂の傍に司祭館や神学校の建物を設計したのはド・ロ神父でした。
2013年に訪れた時にはキリシタンの踏絵やマリア観音などの展示をしていました。そしてコルベ神父の特別展も開催していたのです。
コルベ神父はアウシュービッツ収容所で他人の命の身代りになって処刑された神父さんです。
コルベ神父は長崎で活躍していたのです。1881年にヨハネ・パウロ2世が長崎に巡礼の旅をした時もコルベ神父ゆかりの建物も訪問しました。
大浦天主堂は昭和20年8月9日の長崎市への原爆投下によって破損しましたが、爆心地から比較的離れていたため焼失は免れました。その後破損個所の修理は昭和27年に完了します。
最近この大浦天主堂は世界遺産にもなりました。
大浦天主堂の世界遺産に関しては次の拙著にも書いてあります。
大浦天主堂や神学校を建てたプティジャン神父やド・ロ神父についても詳しく書いてあります。
『国宝 大浦天主堂などキリシタン教会群が世界遺産へ!』、2013年04月17日 掲載記事です。
なお国宝の大浦天主堂が、観光客の増加に伴い、ミサのためには不都合となったので昭和50年(1975)11月、長崎教区が大浦天王堂の隣接地に新らしい大きな教会を建てています。大浦天主堂では普通のミサはありません。
新らしい教会の主日ミサは土曜日は19:00、日曜日は7:00時と10:00時です。主任司祭はぺトロ下口 勲 神父です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)