後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

美しい日本の教会の写真(8)国宝、世界遺産の大浦天主堂

2019年02月09日 | 日記・エッセイ・コラム
長崎の大浦天主堂を、私は日本のカトリックの本山と勝手に思い込んでいます。勿論、カトリックの本山はバチカン以外にはありませんが。
江戸幕府による250年のキリシタン禁制の中を信仰を守り通した潜伏キリシタン達が突然現れたのがこの大浦天主堂だったのです。このドラマチックなニュースは世界を巡り人々を驚かせたのです。日本人の誠実さ精神の強さを証明した事件でした。
大浦天主堂は明治12年に現在のような美しい姿に建てられた日本最古の教会です。昭和8年(1933年)に 当時の国宝保存法に基づき国宝に指定されたのです。これは洋風建築としては初の国宝指定でした。
何度も訪れて写真を撮りましたが、今日は2013年に撮った写真をお送り致します。

1番目の写真は長い石の階段の下から見上げた大浦天主堂です。
初めの天主堂はパリ外国宣教会宣教師のフューレ神父とプティジャン神父が1864年に完成しました。それを1879年(明治12年)にプティジャン神父達が現在の姿に改築したのです。

2番目の写真は現在の天主堂の祭壇です。ステンドグラスの窓からの光が祭壇を美しく照らしています。
同じ場所に1864年に完成した旧天主堂に浦上の潜伏キリシタンが現れプティジャン神父に密かに信仰者であることを名乗ったのです。しかし時期が早過ぎました。幕府は信者を捕らえ流刑にしたのです。
日本の禁教令は明治5年まで居留外国人以外へは厳重に執行されていたのです。
幕府と明治政府は名乗り出たキリシタンを逮捕し流刑にしました。これが有名な浦上4番崩れなのです。

3番目の写真は天主堂の右に回り込み側壁と窓の様子を撮った写真です。
窓のデザインが古風で壁も少し汚れていて時代の経過を示しています。
この写真を撮った反対側には昔の神学校が建っていました。

4番目の写真は天主堂の壁に触ったあとで見上げて撮った写真です。壁に触って眼を閉じると浦上のキリシタン達がプティジャン神父に話かけてい場面が見えてきます。

5番目の写真は昔の神学校の写真です。天主堂の東の隣に建っています。大浦天主堂の傍に司祭館や神学校の建物を設計したのはド・ロ神父でした。
2013年に訪れた時にはキリシタンの踏絵やマリア観音などの展示をしていました。そしてコルベ神父の特別展も開催していたのです。
コルベ神父はアウシュービッツ収容所で他人の命の身代りになって処刑された神父さんです。
コルベ神父は長崎で活躍していたのです。1881年にヨハネ・パウロ2世が長崎に巡礼の旅をした時もコルベ神父ゆかりの建物も訪問しました。
大浦天主堂は昭和20年8月9日の長崎市への原爆投下によって破損しましたが、爆心地から比較的離れていたため焼失は免れました。その後破損個所の修理は昭和27年に完了します。

最近この大浦天主堂は世界遺産にもなりました。
大浦天主堂の世界遺産に関しては次の拙著にも書いてあります。
大浦天主堂や神学校を建てたプティジャン神父やド・ロ神父についても詳しく書いてあります。
『国宝 大浦天主堂などキリシタン教会群が世界遺産へ!』、2013年04月17日 掲載記事です。

なお国宝の大浦天主堂が、観光客の増加に伴い、ミサのためには不都合となったので昭和50年(1975)11月、長崎教区が大浦天王堂の隣接地に新らしい大きな教会を建てています。大浦天主堂では普通のミサはありません。
新らしい教会の主日ミサは土曜日は19:00、日曜日は7:00時と10:00時です。主任司祭はぺトロ下口 勲 神父です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)



雪の日は静かに玉堂と竹喬の風景画を眺めている

2019年02月09日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は天気予報通り小雪が舞っています。私の車には夏用の普通タイヤしかついていませんので家に蟄居です。
こんな日は日本画や油彩画を眺めて過ごすが良いのです。そこはかとなく元気になります。楽しい気分になります。
そこで川合玉堂と小野竹喬の日本画を取り上げて眺めることにしました。
川合玉堂は明治6年愛知県に生まれ昭和32年に84歳で没しました。
昭和19年から32年まで奥多摩の御岳駅の傍に住んでいました。そこには現在、玉堂美術館があります。何度も行った馴染みの美術館です。
川合玉堂の絵画は自由闊達でのびやかです。上品で穏やかです。自然の風景、草木、小鳥などを愛する心が画面に温かい雰囲気をかもし出しています。

1番目の写真は「行く春」という六曲一双屏風の左隻です。

2番目の写真は「行く春」の右隻です。
「行く春」という絵画は玉堂の生涯の傑作と絶賛される作品です。 
この屏風を何年も前に国立美術館で見たときの感動を忘れられません。
写真の左から散りかけた桜花が画面中央へ伸びています。水豊かな山峡の流れに大きな水車を乗せた船が連なってしっかりと係留されています。激しい流れを使って水車を回す「水車船」なのです。船の中には臼がが並んでいて穀物を挽いているのが想像出来ます。雄大な自然と人々の生活が描がれているです。そして過ぎ行く春が時の流れのはかなさを暗示しています。

3番目の写真は「彩雨」という傑作で、「行く春」と並んで玉堂の二大傑作と言われています。
この絵の右下の方に2人の傘をさした女性が小さく描いてあります。それで雨が降っていると判然とします。その女性が精密に描いてあり、嫁と姑のように見えるのです。
勿論、傘の2人を見なくても風景が雨もよいに描いてあります。何か懐かしい風景がのびやかに描いてあります。玉堂の絵画の特徴を表している傑作です。
このような玉堂の力の籠った3枚の絵だけでも元気が出てきます。明るい気分になります。

そして一方、心を穏やかにする美しい絵画も思い出します。小野竹喬の優しい美の世界です。小野竹喬は明治22年に生まれ昭和54年に90歳で亡くなりました。
竹喬の画の特徴を一口に言うと柔らかさでしょう。なだらかな線、穏やかな色、それらが見る人の心にそっと浸みこみ、自然に平安な世界にいざなってくれます。

4番目の写真は「西の空」です。素描の1967年の作品です。
空は少し暮れかかって茜色になり始めました。もう少し時間が経てば本当に鮮やかな茜色になると考えられます。なにかほのぼのとした幸せな気分になります。

5番目の写真は『夏の五箇山』です。 1933年(昭和8年)の作で、笠岡市立竹喬美術館の所蔵です。
この絵は戦争前の昭和8年に描かれた四曲の屏風絵です。若い頃の作品なので山々の茂っている樹木の緑の濃淡が丁寧に描いてあります。この絵をしばらく見ていると自分の体が木々の緑色に染まってしまうようです。人間と自然が溶け合うのです。

6番目の写真は「池」です。1967年(昭和42年)の作で東京国立近代美術館にあります。

7番目の写真は小野竹喬の絵を「絵葉書」にしたものの集合写真です。
小野竹喬はもともと家内が好きで美術館に行く度に買い集めた絵葉書の一部を並べて写真に撮ったものです。

こんな事を書いていると暗い雪の日のことはすっかり忘れてしまいます。
それにしても雪国の人々は毎日どんな気持で暮らしているのでしょうか?
冬来たりなば春遠からずです。今日の絵画は桜の絵、春雨の絵、初夏の山の絵、初夏の池の絵など明るい気分になる絵画だけを選びました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)