後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

今日は気温18度C、水ぬるむ風景写真を撮って来ました

2019年02月04日 | 写真
私の住んでいる小金井市には崖が東西に走っています。立川崖線の東端です。
崖の下には数多くの泉が湧いています。
今日はこの冬一番温かい日で気温が18度Cまで上がりました。
午後から貫井弁天の裏に湧く水を湛えた池の写真と湧水を集めた野川の写真を撮って来ました。
心なしか水もぬるんでいるようです。あまり出来の良い写真ではありませんがお送りいたします。









節分で豆をまく稀勢の里と玉鷲

2019年02月04日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は昨日の節分祭の豆まきにまつわる3つの話をお送りします。

(1)節分で豆をまく稀勢の里と玉鷲
府中市の大國魂神社で昨日の3日、節分祭があり、大相撲の横綱稀勢の里が来てくれました。そして福豆をまいてくれたのです。
稀勢の里はこの神社に、2006年から毎年姿を見せております。
稀勢の里の現役時代は土俵に上がるたびハラハラしましたが、昨日の姿は安心して見ることが出来ました。横綱になりそして引退して本当に良かったです。

一方、優勝した関脇の玉鷲は調布市の深大寺に来て豆まきをしてくれました。
約1万5千人の人出でにぎわったそうです。「おめでとう!」の声にニッコリ答えていました。
 約1300年の歴史がある深大寺で、豆まき式は江戸時代に始まったと言われています。
昨日の大國魂神社と深大寺の写真をお送りします。

1番目の写真は豆まきが始まる前の大國魂神社の拝殿です。沢山の人が集まって始まるのを待っています、

2番目の写真は大國魂神社に来た横綱、稀勢の里の姿です。

3番目の写真は大國魂神社で豆をまいている稀勢の里です。

4番目の写真は調布市の深大寺です。

5番目の写真は深大寺で豆を手に持った玉鷲です。

(2)節分と豆まきの歴史
日本の伝統的な行事はほとんど全てが中国から伝承されたものです。
豆まき や七夕も中国の道教から伝えてられ、初めは宮中での行事でした。
節分や豆まきは中国の宮中の風習でした。
江戸時代になると将軍家や 一般庶民も 節分行事をやりはじめたのです。
このように豆まきは邪気を追い払うために、古くから行われていたのです、
文献に現れる最も古い記録は、室町時代の応永32年(1425年)正月8日(節分)を記した文書があるそうです。
宮中の『看聞日記』には鬼を打ち払う為に豆をまいたと書かれているそうです。このことから室町時代には既に都の公家や武家で豆まきが習わしになっていたことがわかります。
その20年後に編纂された辞典『壒嚢鈔』(1445年または1446年成立)巻一の八十三には、宇多天皇の時代(867年-931年)、鞍馬山の僧正が鬼が出て来て都を荒らすので、炒り豆(大豆)で鬼の目を打ちつぶし、災厄を逃れた伝説が記されているそうです。
豆には生命力と魔除けの呪力が備わっているという信仰があったのです。
豆を撒き、撒かれた豆を自分の年齢(数え年)の数だけ食べるという習わしもあります。

(3)豆まきのような伝統行事を大切にする女性と全然関心の無い女性
日本には春の七草に始まって、節分と豆まき、雛祭り、春のお彼岸と墓参り、端午の節句、七夕と星祭り、お盆の灯篭流し、秋のお彼岸と墓参り、秋の七草、除夜の鐘、年越しソバなどなどの伝統行事があります。
このような伝統行事を大切にする女性と全然関心の無い女性とがいます。
どちらが良いか優劣はありません。
しかし私個人の好みを書けば伝統行事を大切にする女性が好きです。なにか奥ゆかしい女性のように感じるのです。
これは勿論偏見です。しかし西洋の文化のバレンタイン、ハローウィンなどだけを大切にする女性には疑問を感じます。
それに関連して最近、ス-パーで日本の伝統行事に必要な品々を大々的に売っています。大変良いことです。
しかし節分の前に豆まき用の煎り豆が山のように積んであったのです。これでは日本中の鬼が恐れをなしているのではないでしょうか。恵方巻という物が全国的に流行しているのも可笑しなことです。

節分で豆をまく稀勢の里と玉鷲の話から脱線してしまいました。終りにします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)