後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

桜桃忌、太宰治をとりまく家族の苦悩と悲しみの深さ

2018年06月18日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は太宰治が亡くなって70年。彼を偲ぶ桜桃忌です。お墓のある三鷹市の禅林寺は毎年多くの太宰ファンが参拝に訪れています。桜桃忌は今日の6月19日で俳句の季語になっています。

そこで今日は太宰治(本名、津島修治)を取り巻く家族たちの悲しみを書いてみようと思います。

1番目の写真は銀座のバー・ルパンで撮った元気だったころの彼の写真です。この写真は有名な写真なので皆様もご存知だと思います。写真家、林忠彦の代表作です。

私は以前に太宰治(津島修治)を取り巻く家族たちのことを書いたことがあります。
今日取り上げる人々は太宰の結婚の仲人をした井伏鱒二と兄の津島文治と、乳母がわりの越野タケ、そして妻の美知子と3人の子供、愛人の太田静子と子供のことです。
それでは以前に掲載した記事の抜粋を順々にお送りいたします。
(1)「太宰治が死んで悲しむ5人、その一;恩人、井伏鱒二の悲しみ」(2013年06月03日に掲載)
・・・昭和23年、太宰治と山崎富栄が心中したのです。
井伏鱒二は「荻窪風土記」で彼の死について次のように書いて悲しんでいます。
・・・・少なくとも自棄っぱちの女に水中へ引きずり込まれるやうなことはなかったろう。・・・
井伏鱒二は太宰治が大学入学のために上京した直後から作品を読んであげ、生活の上でも親身の世話をしてくれたのです。
彼ほど太宰の才能を高く評価した文学者はいませんでした。
大学を退学になり行きづまった太宰を郷里へ連れ帰ろうとした兄の津島文治を、説得して執筆を続けさせたのも井伏鱒二と檀一雄でした。
初婚相手の初代と離婚した太宰の、荒れた生活に心を痛め武蔵野病院の精神科へ無理に入院させたのも井伏でした。
昭和13年、甲州の御坂峠の天下茶屋に太宰を呼び寄せて生活を一新させたのも井伏でした。
そして甲府の石原美知子と見合いをさせ、井伏の自宅で結婚披露宴をしたのです。その結婚は太宰にしばしの間、幸せな家庭生活を経験させたのです。

2番目の写真は井伏鱒二です。
しかし太宰治は恩人の井伏に秘密で、愛人太田静子との関係を続けていたのです。
そして昭和23年、太宰治と山崎富栄が心中したのです。
以下はその太宰の遺書です。
======妻に宛てた太宰の遺書(抜粋)=========
「美知様 誰よりもお前を愛していました」
「長居するだけみんなを苦しめこちらも苦しい、堪忍して下されたく」
「皆、子供はあまり出来ないようですけど陽気に育てて下さい。あなたを嫌いになったから死ぬのでは無いのです。小説を書くのがいやになったからです。みんな、いやしい欲張りばかり。井伏さんは悪人です。」・・・

遺書では恩人の井伏鱒二を悪人と書いています。
(2)「太宰治が死んで悲しむ5人、その二;子守の越野タケさんの困惑と悲しみ」(2013年06月04日掲載)
・・・かつて太宰治は「金木のごじゃらし(恥さらし)」と言われていたのです。
近年はその生家、「斜陽館」が観光資源になって津軽地方の経済が助かっているので、太宰治の悪口を言うひとは少なくなりました。しかし尊敬されてはいないようです。
尊敬と云えば、むしろ青森県知事を3期9年も務め、その後衆議院議員や参議院議員を務めた兄の津島文治氏のほうが皆に尊敬されています。
太宰治の子守をしていた越野タケさんも、彼の中学生以後の放蕩と4回もの自殺や心中未遂事件の噂に困惑し、悲しい思いで過ごしていました。
彼女は小作の年貢米の代わりに津島家の子守になったのです。太宰が2歳の時でした。その家で、我が子のように愛した修治が、「金木のごじゃらし」と言われて非常に心を痛めたに違いありません。
太宰治は1909年生まれで、1948年に心中して果てました。
越野タケは1898年生まれで1983年に85歳で亡くなっています。
1944年に太宰治は30年ぶりに越野タケさんを訪ね、会っています。この時、太宰は35歳でタケさんは46歳でした。
この30年ぶりの再会を太宰は「津軽」という小説で以下のように書いています。
・・・それから立ちどまつて、勢ひよく私のはうに向き直り、にはかに、堰を切つたみたいに能弁になつた。
「久し振りだなあ。はじめは、わからなかつた。金木の津島と、うちの子供は言つたが、まさかと思つた。まさか、来てくれるとは思はなかつた。小屋から出てお前の顔を見ても、わからなかつた。修治だ、と言はれて、あれ、と思つたら、それから、口がきけなくなつた。運動会も何も見えなくなつた。三十年ちかく、たけはお前に逢ひたくて、逢へるかな、逢へないかな、とそればかり考へて暮してゐたのを、こんなにちやんと大人になつて、たけを見たくて、はるばると小泊までたづねて来てくれたかと思ふと、ありがたいのだか、うれしいのだか、かなしいのだか、そんな事は、どうでもいいぢや、まあ、よく来たなあ、お前の家に奉公に行つた時には、お前は、ぱたぱた歩いてはころび、ぱたぱた歩いてはころび、まだよく歩けなくて、ごはんの時には茶碗を持つてあちこち歩きまはつて、庫(くら)の石段の下でごはんを食べるのが一ばん好きで、たけに昔噺(むがしこ)語らせて、たけの顔をとつくと見ながら一匙づつ養はせて、手かずもかかつたが、愛(め)ごくてなう、それがこんなにおとなになつて、みな夢のやうだ。金木へも、たまに行つたが、金木のまちを歩きながら、もしやお前がその辺に遊んでゐないかと、お前と同じ年頃の男の子供をひとりひとり見て歩いたものだ。よく来たなあ。」と一語、一語、言ふたびごとに、手にしてゐる桜の小枝の花を夢中で、むしり取つては捨て、むしり取つては捨ててゐる。
・・・両肘を張つてモンペをゆすり上げ、「子供は、幾人。」
 私は小路の傍の杉の木に軽く寄りかかつて、ひとりだ、と答へた。・・・

3番目の写真は晩年の越野タケさんです。

4番目の写真は青森県の小泊にある太宰治と越野タケさんの銅像です。

(3)「太宰治が死んで悲しむ5人、その三(完結編);妻、美知子、長兄、文治、愛人、静子、それぞれの苦悩と悲し」(2013年06月05日 掲載)

このブログでは 「太宰治が死んで悲しむ5人」という題目で井伏鱒二、子守だった越野タケ、兄の津島文治、妻、津島美知子、そして愛人だった太田静子について私自身の断片的な感想を書いています。なるべくそれぞれの立場から見た太宰治への想いを書きたいと思っています。
津島家の当主としての長兄、文治は太宰の数々の恥じさらしな事件の後始末に翻弄されました。
昭和23年に太宰が死んで一番ホッとしたのは文治だったと思います。
しかし自分が青森県知事として、あるいは衆議院や参議院の議員として活躍し、年月が流れるにしたがって不幸な弟への思いは変わっていった筈です。
嫌なことは年月とともに次第に忘れ、39歳の若さで夭折した実弟の憐れさを感じた筈です。なにせこの弟ほど自分を頼りにした人はいなかったのです。
可愛いと思うからこそ最後までその生活の面倒をみたのです。その可愛いさを思い出すと他人へは言えない悲しみを感じていたに相違ありません。その悲しみは年月とともに深まった筈です。

5番目の写真は兄の津島文治さんです。

(4)「太宰治記念館、「斜陽館」と兄・津島文治の苦悩」(2013年06月02日掲載)
斜陽館は太宰治が生まれ東京帝国大学に入学するまで住んでいた青森県の津軽平野にある大きな家です。
占領軍の農地解放、小作人制度廃止で大地主の津島家が没落し、昭和23年に当主の津島文治氏が同じ金木町の角田唯五郎氏に売り渡しました。
昭和22年、太宰治の「斜陽」という小説が大ベストセラーになったので買い取った建物を、角田氏は昭和23年に斜陽館という名前の旅館にしました。
小説、「斜陽」の甘い、そして悲しい男女の物語と、太宰治の文章世界に魅了された人々が宿泊し、併設されてあった太宰治展示館を見て帰りました。
この経営方針は始めは成功しましたが、その後、次第に客足も減り、最後は、斜陽館は廃屋同然になっていました。
その後、昭和51年に黒滝氏が買い取りました。
平成8年には、金木町が地域の活性化のためにこの家を買い取り、1億5千万円をかけて復元工事を完成し、太宰治記念館として一般公開しているのです。
この金木町の企画は大成功のようで、この「斜陽館」を訪れる観光客が後を絶たないのです。
私も2013年5月30日に訪れました。

6番目の写真はその時撮った斜陽館です。

7番目の写真は斜陽館の内部の様子です。
さて太宰治(津島修治)は家族にとってどんな人間だったのでしょうか?
それは1923年の父の死後、津島家の当主になり、兄として太宰治の共産党シンパ活動を諌め、金銭の支援をし続け、4回もの心中事件の後始末をした当主の島津文治氏の生涯を見ればよいと思います。
太宰治は中学校入学以来、数々の問題を起こし、津島家から勘当されていました。それが許されたのは母が昭和17年に亡くなった後でした。そして結婚して家族を持っていた太宰治一家は昭和20年7月に金木へ疎開してきたのです。
生活の上では「失格者」だった太宰を終始温かく世話をしたのが兄の文治だったのです。
勘当しても世間は津島家の息子と言いますから面倒を見ないわけにはいかなかったのかもしれません。この兄、文治の保護は太宰治が昭和23年、玉川上水へ身投げして愛人と心中するまで続いたのです。
この兄は、政治家として立派な人だったようで青森県知事として1947年に当選し、3期9年間も知事をつとめました。
知事になる前の1946年には衆議院議員になっていますし知事辞任後の1958年から衆議院議員として2期務め、1965年から参議院議員として2期半務めました。
いろいろな業績を残したが十和田湖畔の3人の裸婦像、「乙女の像」は文治氏が青森県知事のとき高村光太郎氏に依頼して製作されたものです。
尚、太宰治は1946年の兄の衆議院選挙運動にはリュックサックを背負って駈けずり回ったそうです。それは世話になった兄への唯一つの恩返しでした。津島文治氏は1898年生まれ、1973に亡くなりました。・・・
太宰と奥さんの美知子の娘の津島佑子さんは作家として良い作品を残しました。山梨県の母、美知子の実家のことを書いた「火の山ー山猿記」という名作を残しました。
さて、最後に、一番書きにくい妻、美知子と愛人、大田静子の苦しみと悲しみを取り上げないわけにはいけません。
この二人は立場が違います。美知子は井伏鱒二の媒酌で結婚した名家出身の女性です。一方、静子も育ちの良い文学少女で、「太宰の愛人」の一人だったのです。
私は美知子夫人へ同情を禁じ得ません。悲しみの深さ、無念さを考えると何も言えません。
何と言っても一番苦労したのは奥さんでしょう。女としてこのような男と結婚した不幸なほど悲惨なものはありません。見合いをさせ、自宅で結婚式披露宴をした井伏鱒二さんも一生悲しみ、負い目に思っていたに相違ありません。
この妻の美知子は心中事件のあと30年経過してからやっと、「回想の太宰治」という本を出しています。
一方、大田静子は太宰治に関する本を一切出していません。
太宰治の死後すぐに井伏鱒二らが静子を訪問して「斜陽」の印税、10万円を渡したのです。実は、「斜陽」の物語は静子が提供した日記通りだったのです。
そして井伏鱒二は静子が今後一切、太宰に関することを書かないという誓約書を取ったのです。

太宰の本妻の娘、次女里子(津島佑子)と、愛人の娘、太田治子も作家として世に出ております。
太宰治の孫の淳さんは自民党の衆議院議員です。
いろいろありますが、あまり長くなるので止めます。

今日は太宰治を偲ぶ桜桃忌です。太宰治をとりまく家族の苦しみと悲しみを書いてみました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)


非常に困難な北朝鮮の非核化と国連による査察

2018年06月18日 | 日記・エッセイ・コラム
 日本には原発が稼動中で、国連の査察対象施設が250カ所もあり、世界最大の「非核兵器国」なのです。このため、日本には20名から25名の国連派遣の査察官が常駐、とくに青森県の六ヶ所村の再処理工場には常時数名の査察官が張りついています。このようにして日本が核兵器を作らないか厳重に監視しているのです。
この監視員の派遣元の国連の国際原子力機関( International Atomic Energy Agency、略称:IAEA)は本部はオーストリアのウィーンにあります。またトロントと東京の2ヶ所に地域事務所と、ニューヨークとジュネーヴに連絡室があります。
北朝鮮がこのIAEAの査察を受け入れたら、どんな困難な問題がおきるのでしょうか?

今日はこの問題にたいするニューヨークタイムスの次のような見解記事を読んでみましょう。
「北朝鮮核検証、これまでで最も広範囲な査察になるだろう」、2018-05-07
http://japan.hani.co.kr/arti/international/30515.html
北朝鮮、核施設40~100カ所、核弾頭16~60発と推定。
核兵器開発できないイランとは全く異なる。 
NYT(ニューヨークタイムス)「IAEA調査官全員の300人でも足りない」
 朝米首脳会談の最大のイシューである北朝鮮非核化の主要争点は、核兵器、核施設、核物質に関する透明な査察と検証だ。ドナルド・トランプ大統領と金正恩委員長の会談を控えて、非核化検証作業が核廃棄の歴史で最も広範囲な査察活動になると見込まれている。
 2015年のイラン核協定の時、細部事項を交渉したアーネスト・モニーズ元米エネルギー長官は「北朝鮮はイランが簡単だったように見せるだろう」と話したとニューヨークタイムズが6日報道した。それほど北朝鮮の核能力は、イランに比べて広範囲で高度化され、査察・検証にも困難が伴うという話だ。
 北朝鮮は昨年9月までに6回の核実験を行い、11月には大陸間弾道ミサイル(ICBM)火星-15号を試験発射し、「国家核武力完成」を宣言した。だが、北朝鮮が核兵器・施設・物質をどれだけ持っているかは正確に把握されていない。米国のランド研究所が出した報告書によれば、北朝鮮には寧辺地域をはじめ40~100カ所の核施設がある。核関連の建物は400棟に達し、このうち少なくとも2棟の建物に原子炉があり、そのうち1カ所は核兵器の原料であるプルトニウムを製造していると推定される。

米国核科学者協会の「2018北朝鮮核能力報告書」で、昨年末基準で北朝鮮が生産した核分裂物質はプルトニウム20~40キロ、高濃縮ウラニウム250~500キロと分析した。また、北朝鮮が年間に核弾頭6~7発を製作できる核分裂物質生産能力を持っているとし、これまでに完成した核弾頭は16~32発程度と推定した。一方、中央情報局(CIA)は保有核弾頭を約20発、国防情報局(DIA)は約60発と把握している。これは3年前にイランが米国・ドイツ・中国など6カ国と核協定を結んだ当時、10カ所あまりの核施設があるだけで核弾頭の開発には成功できない状態であったこととは大きな違いだ。
 そのために北朝鮮の非核化検証には約200カ国で活動する300人あまりの国際原子力機関(IAEA)調査官の規模より多くの人材が必要かもしれないとニューヨークタイムズは見通した。特に、国際原子力機関の調査官は核物質の移動経路や核燃料生産装備に関する専門家であるだけで、核兵器を扱う訓練は受けていないと同紙は指摘した。2003~2004年、米国のイラク大量殺傷兵器追跡を指揮したデービッド・ケイ博士は「率直に言って(北朝鮮核査察のための)人材集団に制約がある」と話した。
 このような障害を跳び越えるには、北朝鮮が保有した核兵器と施設、物質をすべて公開し、検証に全面的に協力しなければならない。だが、ニューヨークタイムズはこれに対する展望は懐疑的だと主張した。金正恩委員長は最近、豊渓里(プンゲリ)核実験場の閉鎖を外国の専門家たちとマスコミに公開すると明らかにした。(終り)

以上のように北朝鮮の核兵器、核施設、核物質の査察と検証は非常に複雑で長期間の作業になるのです。
数年を要することは誰の目にも明らかです。
北朝鮮の完全な非核化は一朝一夕では出来ないのです。日本人も根気よく長い目で見なければなりません。
第一、北朝鮮はいまだに国連のIAEA調査官を受け入れると発表していません。
それなのに日本政府は国連のIAEAの査察の費用を出すと発表しているのです。先走りのし過ぎです。困ったものです。

今日の挿し絵代わりの写真は昨日、三鷹市の花と緑の広場で撮って来た花の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)