後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「パリの寸描、その哀歓(6)緊急事態 SOS」

2016年12月07日 | 日記・エッセイ・コラム
まえがき、
この欄ではいろいろな方々に原稿をお願いして記事を書いて頂いています。
今回はフランスやドイツに長く住んで子育てを経験したEsu Keiさんに寄稿を頼みました。ご主人の仕事のため1974年から1984年の間滞在しました。
日常の生活で感じたことを飾らず素直な、そして読みやすい文章で綴ったものです。

連載の第6回目は、「緊急事態 SOS」です。日本の病院の緊急体制を考えさせられます。
お楽しみ頂けたら嬉しく思います。
====「パリの寸描、その哀歓(6)緊急事態 SOS」、Esu Kei著=======
私の歯はひどく弱い。20代の始め頃に病気をして、入院手術して数か月後に、それまでは質の良い歯だと折り紙つきだった歯が一挙にボロボロになってしまった。親戚の外科医によれば手術の影響ではないかと言われている。歯ばかりでなく、いろいろな症状も出ていたからありうることらしい。元々は歯は丈夫で、子供のころから虫歯になど一度もなったことがなかったから、磨き方もそれほど念入りであったわけではないし、それが祟ったということもあろう。丁寧な歯医者さんの治療のおかげでよくなったもの、「歯で苦労しそうな人だな」という医師の予想通り、結婚して子供ができた頃からまた急激に歯が悪くなった。引っ越す先々で、いろいろな国のいろいろな歯医者さんのお世話になることになった。上手な人ばかりではない。
フランスにいた頃のこと、歯科に通っているにもかかわらずどうにも具合が悪い。歯が良くならず、ひどくなっているような気さえして、医師を変えるべきかどうか迷っていた。治療が痛い上、治療後の痛みで食事が取れないことが多く、医師に言うと、虫歯が進んでいるので我慢してもらうしかないという。ある日、別の患者さんが居合わせたことがあって、その人が、「こんな治療受けられない、帰ります。」と怒っているのを見て、やはりと思った。
夫の会社のマダム・ムリエに話すと、優秀な歯科医を紹介するといってくれた。歯科医としてはもちろん、口腔外科医でもあるので信頼してよいという。少し遠いが、ちょうど9月からは次男も幼稚園に通うことになっていたので、思い切って変わることにした。
今回の医師は冗談好きな年配の人で、口髭を蓄え、余裕たっぷりに見える。
「確かにあなたの歯はとても弱いので少し苦しめることになるかもしれない。痛かったら天井まで飛び上がってよろしい」などと言いながら、治療は丁寧で、麻酔も殆ど使わないのである。もちろん治療中も一度も飛び上がることはなかったし、治療後もご飯が食べられないなんてことはなかった。
そんな医師の治療でも、痛くなるときはあった。ある日治療を受けた後、夕方までなんでもなかったのに、夜になって恐ろしく痛くなってきた。9時半過ぎのことで、もちろん診療時間はとうに終わっている。どくんどくんと顎の深部で何事か起きて、顎が壊れてしまいそうな痛みである。尋常の痛みではない。朝まで待てるというような痛みではないのである。大急ぎで電話帳を繰って、歯科のSOSドクターを探す。子ども達はもう寝ている時間だったが、夫はすっかりご機嫌に酔っ払っているので、タクシーを呼んでSOS医に飛んでいく。「これは、充填したところにガスがたまってしまったんだ。すぐ詰め物をはがしましょう。」と言って、したたかに麻酔を打って処置してくれた。少し休むように言われて、ソファで横になっているうちにすっかり眠ってしまった。医師が「眠れるくらいになったなら大丈夫だから、お帰りなさい。」と起こしてくれなかったら、朝まで眠ってしまったかもしれない。タクシーを呼んでもらって痛み止めと、かかりつけの歯科医あてのメモをもらって帰宅したのは深夜に近かった。
翌日、かかりつけ医に電話をすると、予約はなかったがすぐ来るようにといわれた。
SOS医のメモをもって、前夜の騒動を話すと、「それはかわいそうに。恐ろしい痛みだったでしょう。気をつけていても、稀にそういうことが起きてしまう。」熱を測って、「少し熱もあるようだ。」と抗生物質を処方され、歯はその日は殆どいじらず、「家に帰って、すぐ抗生剤を飲んで、今日はベッドで寝ているように。子ども達の面倒はご主人に見てもらいなさいよ。」カードに自宅の電話番号を書いて、「痛くなったら時間外でも、夜中でも遠慮せずに電話していいですよ。」と言ってくれた。もちろんそんなことは2度は起きなかったし、翌週のアポイントの時はすっかり元気になっていて、ご自宅の電話番号はお返しするのである。この歯医者さんにはフランスを離れるまでずっとお世話になった。
それにしてもありがたいのは各科のSOSドクターの存在だ。日本で夜中に我慢できないほど歯が痛くなったらどうすればよいのだろうか?救急車?それとも朝まで頬をおさえて唸りつつ待つのか?我が家では息子が脳膜炎をおこしたときにも、夜中にSOS小児科医のお世話になった。(続く)

今日の挿し絵の写真は記事の内容とは関係ありません。私の好きなマネーの油彩画3点です。

1番目の写真は「笛吹く少年」 1866年、161×97cm 、 オルセー美術館(パリ)です。

2番目の写真の作品は友人の女流画家ベルト・モリゾを描いた肖像画「すみれの花束をつけたベルト・モリゾ」(1876年)。

3番目の写真の絵画は「フォリー・ベルジェールのバー」です。
50歳を迎えた1882年、マネが晩年に残した最後の作品です。翌1883年、左足の手術が原因で同年4月30日にこの世を去ります。享年51歳。

エドゥアール・マネの人物像;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%82%A5%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%83%8D
ギュスターヴ・クールベと並び、西洋近代絵画史の冒頭を飾る画家の一人である。マネは1860年代後半、パリ、バティニョール街の「カフェ・ゲルボワ」に集まって芸術論を戦わせ、後に「印象派」となる画家グループの中心的存在であった。しかし、マネ自身が印象派展には一度も参加していないことからも分かるように、近年の研究ではマネと印象派は各々の創作活動を行っていたと考えられている。

真珠湾攻撃と同時に東南アジアを占領、両方を忘れない

2016年12月07日 | 日記・エッセイ・コラム
今より75年前の12月8日に日本軍は真珠湾を奇襲攻撃し、アメリカの誇る太平洋艦隊を攻撃しました。それが太平洋戦争の始まりです。
今年はオバマ大統領が広島の原爆慰霊碑に献花しました。そして安倍総理とオバマ大統領が揃って真珠湾攻撃の犠牲者のハワイでの慰霊式に参列する予定です。
これで日本とアメリカの真の和解が出来るとマスコミが報道しています。
「真珠湾」「真珠湾」と何度もマスコミに出ているので、それを見た多くの人は、開戦と同時に、英国領だった香港、シンガポール、マレーシア、ビルマなどを日本軍が武力占領したことを忘れてしまっています。
その上、オランダ領のインドネシア、ボルネオも占領し、アメリカ領のフィリピンでは激戦をしてマッカーサーをオーストラリアに敗走させたのです。

日本はアメリカを怒らせただけでなく、イギリス、オランダを怒らせ、大規模な太平洋戦争になったのです。
一方、フランス領だったベトナム、ラオス、カンボジアは真珠湾攻撃の前年に占領してしまっていたのです。

当時の日本の経済力や工業力を考えればこれほど無謀なことはありません。
当然、アメリカは日本中の都市を焼け野原にして1945年9月2日に太平洋戦争は正式に終了したのです。
終戦間際にアメリカの要請でソ連が満州、樺太、千島列島へ侵入し悲劇をさらに大きくしたのです。

太平洋戦争の開戦は真珠湾攻撃だけでは無かったのです。同時にアジア諸国に戦争を拡大したのです。
あまりにも無計画、戦略性の欠如、国際外交の大失敗などの多くの反省すべきことを残し大日本帝国は壊滅してしまったのです。
最近のマスコミは「日米の真の和解」とお祝いムードですが、何か軽薄な感じがします。
そこでこの大きな悲劇がどうして起き、戦争がどのように進んで行ったかをもう一度、簡略に示しておきます。

(1)開戦に至るまで(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%AE%E5%B9%B4%E8%A1%A8 より抜粋しました)
1937年(昭和12年)7月7日に始まった日中戦争(支那事変)によって、日本は満州事変以来の日本の中国占領を急速に進めていました。
これを警戒する英米仏と日本の関係は急速に悪化したのです。
そしてアメリカ合衆国は航空機用燃料・鉄鋼資源の対日輸出を制限し、日本の締め上げたのです。
それでも日本は中国から撤退しません。
それどころか日本は、ヨーロッパにおいて第二次世界大戦を始めたドイツ・イタリアと1940年に日独伊三国軍事同盟を締結します。
そしてドイツに協力的なフランスの政権と合意し、仏領インドシナへ進駐したのです。
怒ったアメリカは石油輸出全面禁止などの経済封鎖でこれに答えます。
その後数度にわたる日米交渉も難航し、アメリカは1941年(昭和16年)11月26日、ハル・ノートを日本側に提出します。
これを最後通牒と理解した日本は、12月1日の御前会議で日米交渉の打ち切りと日米開戦を決定したのです。
12月8日、択捉島からハワイ真珠湾へ向けて出撃していた大日本帝国海軍連合艦隊は真珠湾攻撃をしました。

(2)開戦後の東南アジアの武力占領の経緯
12月8日;
日本、英米に宣戦布告(太平洋戦争(大東亜戦争)開戦)。 開戦の詔書(米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書)が発せらます。
真珠湾攻撃と同時に、日本軍は、英領マレー半島のコタバル、タイ南部のパタニとシンゴラ(ソンクラ)に上陸(マレー作戦の開始)。広東省から英領香港攻撃開始(香港の戦い)。

同じ日に中華民国国民政府、日独伊に宣戦布告。
米領フィリピン上空で航空戦(フィリピンの戦いの開始)。

12月10日 マレー沖海戦。グアムの戦い。日本軍、ルソン島北部(アパリ、ビガン)上陸。グアム、タラワ、マキン占領。
オランダ、日本に宣戦布告。
12月11日 日本軍、ウェーク島攻略失敗(ウェーク島の戦い)。
12月12日 日本軍、香港九龍市を制圧、英軍は香港島へ逃走。
12月15日 日本軍、ペナン島占領。
12月16日 日本軍、マレー半島アロールスター占領。
12月16日 日本軍、北ボルネオ(コタキナバル)に上陸。
12月16日 戦艦「大和」が竣工。
12月20日 日本軍、フィリピンミンダナオ島ダバオに上陸。
12月21日 日本政府、タイと攻守同盟を締結(日泰同盟)。
12月23日 日本軍、ウェーク島占領。
12月25日 日本軍、香港島を制圧、香港のイギリス軍降伏。
1942年(昭和17年)[編集]

1月2日 日本軍、ルソン島マニラを無血占領。
1月8日 連合軍、タイ攻撃開始。
1月11日 日本軍、マレー半島クアラルンプール占領。
日本、オランダに宣戦布告。
1月15日 日本軍、英領ビルマ(現ミャンマー)攻撃部隊がタイに集結。
1月23日 日本軍、ニューブリテン島ラバウル占領。
1月24日 バリクパパン沖海戦。
1月25日 タイ、英米に宣戦布告。日本軍、バリクパパン占領。
1月27日 エンドウ沖海戦。
1月31日 日本軍、タイからビルマ侵攻開始。マレー半島ジョホールバル占領。
2月 アメリカ人スティルウィルが中国国民党軍参謀となる。
2月1日 日本軍、シンガポールの石油施設を砲撃。米機動部隊、マーシャル諸島来襲。
2月4日 ジャワ沖海戦。
2月7日 日本軍、シンガポール北東のウビン島に牽制上陸。
2月8日 日本軍、シンガポール北西海岸より上陸(シンガポールの戦い)。
2月14日 日本軍、蘭領東インド(現インドネシア)スマトラ島パレンバンを落下傘部隊で占領。
2月15日 シンガポールの英豪軍が降伏。
以下省略します。

毎年12月8日がめぐって来ると私は真珠湾攻撃と同時にアジアの諸国での米・英・オランダとの戦いを想うようにしています。
アジアの国々を戦争に巻き込んで多数の犠牲者が出たのです。
そして玉砕していった日本軍の将兵や戦没者に想いを馳せます。
中国大陸では何百万人から何千万人の犠牲者が出たのです。何という大きな悲劇だったのでしょう。
12月8日は真珠湾だけの日ではないのです。アジア全域での戦争拡大の日なのです。
頭を垂れてこの大きな悲劇を想う日です。

昨日はそんなことを想いながら東久留米市の石塚園芸の温室の中でシクラメンの花々の写真を撮っていました。
平和の大切さを願う写真としてお送りいたします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)