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後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

でいしゅう著、「狩猟の趣味の深さ(5)勢子と撃手の緊迫した連携」

2016年10月09日 | 日記・エッセイ・コラム
まえがき、
このブログではいろいろな方に寄稿をお願いして、時々寄せて頂いたものを掲載しています。
今回は、「狩猟の趣味の深さ」という連載記事をでいしゅうさんという方にお願いいたしました。
でいしゅうさんとはネットの上で友人になりました。私自身は狩猟はしたことがありません。ただ好奇心はあります。
ですから でしゅうさんに頼んで書いて頂いているのです。毎回、今迄知らなかった面白い話を送って下さいます。
でいしゅうさんは 奥深い狩猟という趣味を生涯続けている方です。
人間性が良い方です。毎年、猟期になると狩りのための車を大型フェリーに積んで北海道に移り住みます。エゾシカを狩るためです。
その話が面白いので狩猟について気楽な連載記事を私のブログの為に書いて下さいと数週間前にお願いしました。
今日は本州でのイノシシ猟と鹿猟における勢子と撃手の緊迫した連携の見事さが書いてあります。
お楽しみ頂けたら嬉しく思います。
===でいしゅう著、「狩猟の趣味の深さ(5)勢子と撃手の緊迫した連携」 ===
日本鹿(以降は鹿)は狩猟の対象として大きなウエイトを占めてきた。一時は自然の変化により大量死(栃木県日光)もあり、その雌鹿が保護されてきた。しかし科学的見地の無い保護政策により森林の荒廃(大台ケ原)を招き、森林経営に甚大な被害を与えた。
今日では雄雌ともに狩猟の対象とされ、1日につき1頭/1人が捕獲数となっている。
しかし、ハンターの数から計算すると、今後も爆発的に増加するだろう。そして、狩猟の対象として鹿は人気が無い。猪に比べれば美味しくないからである。魚釣りで言う所の「外道」となって来ている。

「鹿猟」としての狩りを我々はしない。猪と鹿を狩るのである。
親方所有の山でグループ猟、巻狩りを行う。複数の山が含まれているが、猪や鹿の寝る場所は決まっている。風の当らない羊歯の深い場所である。
まず親方の家で打ち合わせをする。跡見(足跡や食事の跡)をした者が報告し、どの辺に居るか予測する。そして放犬の位置を決め、逃げるだろう経路も予測するから過去の経験や洞察力が必要だ。ところが我のグループのようにマチ(待ち伏せて撃つ者)が3名のグループでは予測される逃げ道全てに配置出来ない。比較的に真ん中で待つ者は勢子が通り過ぎると、最も外へ移動する。山の頂上付近は足の良い若者(50歳)が行く。私は足が悪いので道の近くと配慮してもらう。その代り、連絡を受けると車で山向こうへ走行する。こうして持ち場が決まるとスタート時刻を定め、それまでに配置に着く。猟犬もGPSを装着されると意味が分かっているので、興奮して鳴く。1年生の犬には防牙用のベストを着せる。
スタート時刻になると勢子さんが確認する。泥舟さんOKですか?一郎さんOKですか?
OKの返事が全て揃うと「では放犬します、安全に気を付けて下さい」と無線が飛ぶ。
もう誰も返事はしない。猟は始まったのである。
勢子は低位置から犬を放つ。この犬達にはGPS発信機が装着されているので、勢子には位置が把握でき、違う方へ犬達が行くと修正する。次から次へと寝屋を襲うが空である。
犬達が臭いを拾うと「◎○で臭いが有るぞ、気を付けて」と無線が飛んでくる。
そして「出た!16貫ぐらいの猪や。三郎さんの方へ行く」猪は一目散で逃げ、犬達が後を追う。ワンワンキャンキャンと山はひっくり返したような騒ぎになるが、一つ隣の山に居る私には聞こえない。
そして無線が「泥舟さん下や!そっちへ犬が走っている」と喚いてきた。嬉しさ半分と、責任感に緊張する。再度銃の安全offを確かめる。猪が飛び出した場所と、待っている場所をイメージして、飛び出しそうな獣道を推測する(予断なので誤る場合もある)
微かに犬の鳴声が聞こえた。猪は目の前のはずである。
出た!予測した獣道をやって来る。一度は羊歯で見えなくなったが、ガサガサとしている。見えた!!もう15メーターだ。ドーン、猪から血が噴き出た。一瞬停止するとズルズルと羊歯の中へ逃げ(?)込んだ。私はその位置から動かずに、銃の狙いを合わせている。
3分ほど経ても逃げないので、ぐっと近づいた。ポケットの小石を投げても動かないので、羊歯を分けて確認すると死んでいた。
無線機は呼び続けている。一発で終わったので、多分OKと思っているようだが、私の報告を待っている。
「泥舟です、コケました」
おめでとう、と言って貰う。勢子長が「午前はこれでやめます。皆さん揚げて下さい。三郎さんともう一人猪を吊りに行って下さい」それぞれの射手(マチ)は銃から弾を抜き、助力の者以外は山を降りる。私は手頃な雑木を切り、担い棒を作った。助力に2名が来て猪を褒め「良い所に当たっている。さすが蝦夷鹿撃ちやな」と言ってくれるが、偶然そうなったのはよく承知だ。
1シーズンに2回ぐらいしか、この様な場面はありません(はっきりと断言)98㌫は寒さに震えて、山中で精神修養です。
山から親方の家まで近いので、そのまま運んだ。臓物を抜き、心臓やレバーは欲しい者が貰う。撃った私が一番の権利だが、食べないので権利を譲った。刺身で美味しいそうだ。
前の小川で猪の体温を冷やす。これで肉質がグッとよくなる。
昼飯を食べながら、勢子さんが面白く解説してくれた。やっぱり蝦夷鹿撃ちだとヨイショしてくれ、面はゆい。えらいプレッシャーだよ。
その年の初手柄だと皆さんにカツ丼を奢る事になる。既に無線を聞いていた親方の奥さんが手配してくれていた。嬉しいような、そうでないような・・・・。

午後の狩りで鹿が出たが、親方からの無線で逃がした。
午前の猪を解体する時間が無くなるからだ。これほど鹿には魅力を感じない。
駆除中、写真を撮ると鹿は穴に埋めるチームが有ると聞いている。
私達も鹿を撃つと犬が鹿の臭いを覚えて、鹿ばかり追うようになる。こうなると鹿専門の犬になるので嫌う。走る鹿はゲームとして面白いが、撃ちたくない。食べないのに撃つのは殺生だと思っているからです。食べてあげれば供養です。

鹿猟で書くつもりでしたが、ほとんど鹿猟はやって無いのです。猪の「ついでに」獲ってしまうだけなのです。
写真は でいしゅうさんが仕留めたイノシシです。(続く)

昭和天皇のお墓に参り、明治維新後の日本の歴史を想う

2016年10月09日 | 日記・エッセイ・コラム
どういう理由か知りませんが私は墓参りが好きです。趣味と言ってもよいほど好きです。
車で通りかかった農村のお寺の裏の墓地にフラリと入ります。眠っている人々の生きていた時代の様子を想像しながら散歩するのです。
それから本堂の前に行ってご本尊様に手を合わせます。
数日前も昭和天皇のお墓を参拝しました。
この場所は八王子の西端にある武蔵野御陵と呼ばれています。多摩御陵とも言います。高尾の手前で甲州街道から右に曲がると喬木が並木になっている気持ちの良い参道が続きます。その奥に広い駐車場があり、後は数百メートル歩きます。深い森の中の参道です。
この場所は気分が爽快になるので何度も来ては散歩を楽しむ場所です。
武蔵野の深い雑木林の奥の武蔵野御陵には昭和天皇と香淳皇后のお墓が並んでいます。
その左隣の多摩御陵には大正天皇と貞明皇后のお墓が並んでいます。
写真で示します。

1番目の写真は昭和天皇の稜です。

2番目の写真は香淳皇后の稜です。

3番目の写真は大正天皇の稜です。

4番目の写真は貞明皇后の稜です。

5番目の写真は4つの稜墓の配置図です。

明治維新を1867年としますとそれ以後、現在までの日本の歴史は2つの時代に大別できます。
昭和20年、1945年の完膚無き敗戦までの78年間の戦争に明け暮れた「戦争の時代」とそれ以後の「平和の時代」の2つの時期に大別されるのです。「平和の時代」は1945年から現在の2016年までの71年間続いています。
「戦争の時代」とそれ以後の「平和の時代」はほぼ同じ年月が流ていたのです。

昭和天皇はこの「戦争の時代」の20年間と「平和の時代」の43年間に在位していました。
私が国民学校に入学すると教室の前に昭和天皇と皇后の写真がありました。
昭和という時代が始まるとすぐに満州事変や日中戦争が始まります。軍部は天皇にすぐ戦争は終わると言いながら泥沼の戦争になったのです。そして真珠湾攻撃です。初戦は勝っていた日本はその後、玉砕につぐ玉砕です。
そして4500人の特攻隊が敵艦へ突っ込んで行ったので。昭和天皇の心痛は想像に余りあります。
そして玉音放送です。
朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
・・・・
帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク
且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ
惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス
爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス・・・

昭和天皇はほんとうに国民の犠牲に心を痛めていたのです。
・・・戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク・・・

そして敗戦です。
戦後。すぐに昭和天皇は全国の津々浦々を訪問します。それは悲しい旅だったに違いありません。私も荒廃した仙台の街のお立ち台に立ってソフト帽を振っている姿を見ました。

昭和という時代の苦しみと悲しみは高齢者の皆様の心に刻み込んであります。
その後、昭和天皇は1988年までこの日本の復興と高度成長を見ていたのです。
少しばかりお心が安らかになられてと思います。
皆様は昭和天皇をどのように思っていらっしゃるでしょうか?
昭和天皇のお墓に参りながら想ったことを書いてみました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)