私の書く文章は長すぎて読みにくいという批評をよく頂きます。そこで今日は3つの部分に区切って、それぞれに小さな見出しをつけました。3つのどの部分から読んでも話が完結するように書きました。
(1)朝鮮の簡略化した歴史
日本人がよく知っている朝鮮の歴史は飛鳥、奈良時代に交流のあった百済、新羅、高句麗の三国だけです。その後のことはあまり学校では習いません。
その後はいろいろ戦乱があり、918年、後高句麗の豪族の健が新羅を滅ぼして王位を簒奪し、高麗を建国したのです。この高麗は現在の韓国の英語名のKorea になったのです。
この高麗は918年から、1392年に朝鮮王朝の開祖李成桂が開城で王に即位し李氏朝鮮が始まるまで続きました。
朝鮮の1392年以後の李氏朝鮮では焼き物の技術が発展します。
日本の歴史と朝鮮の歴史を比較すると非常に大きな違いがあります。
朝鮮は中国と陸続きです。いろいろな時代に中国大陸から強大な敵国が侵入し、北朝鮮のみならず南も占領されたのです。
北朝鮮は渤海、東丹国、元朝に支配され、特に元は朝鮮半島全部を支配し、日本へまで攻め込んで来ました。
一方、日本も秀吉の出兵により李氏朝鮮の首都、漢陽(現在のソウル)も陥落したのです。
それは1592年の 文禄の役(壬申の倭乱)と1597年の 慶長の役(丁酉の倭乱)です。しかし 李舜臣の活躍で日本軍は撃退されました。現在、韓国では李舜臣の銅像があちこちにあります。
さて話は変わって李朝の白磁のことになります。
(2)秀吉による朝鮮の磁器焼成技術の導入
日本では秀吉の朝鮮出兵まで磁器の焼成が出来ませんでした。
土器を焼いた須恵器という陶器しか出来なかったのです。それが連行されて来た朝鮮の陶工たちによって初めて磁器が焼成されたのです。それは革命的な技術革新でした。
この新しい技術には2つの絶対条件が要求されます。
(1)磁器になる岩石成分を多く含有する磁石(じせきと言い、ジシャクとは違う)を発見する技術。
(2)焼成する炉の熱効率を上げて摂氏1000度以上の温度が出る構造の焼成炉を作る技術。
この二つの技術が日本には無かったのです。
さて朝鮮から連行されて来た陶工達はどのようにして上の新しい技術を伝えたのでしょうか?
この問題を詳細に研究して発表している専門家がいます。彼は東京都の清瀬市郷土博物館の学芸員の内田祐治さんです。
以下は彼の2008年6月発表の研究論文(http://members3.jcom.home.ne.jp/nabari.u.y/imari.pdf)からの抜粋です。
佐賀県の一帯には、古来より須恵器からつづく窯が点在していました。その景観が一変する契機となったのが、秀吉による朝鮮半島への出兵でした。上にも書きましたが、文禄の役(1592 ~ 94)と慶長の役(1597 ~ 98)の結果として、磁器焼成技術が日本へ伝承されたのです。
この文禄・慶長の二度の役により、数多くの朝鮮人を日本人武将が国へ連行して来たのです。そのなかに陶工達もいました。
もともと朝鮮半島での戦は恩賞としての領地を与えられぬ戦です。
そこで朝鮮陶工を帰化させることにり、諸藩へ新たな窯業を興させ、それをもって恩賞に代えることにしたのです。それが秀吉の政策でした。
彼らは付き従った諸藩へ帰化し、各々の領主の庇護を受けて陶器の製造をはじめたのです。
それらは唐津焼、上野焼、高取焼、薩摩焼、萩焼と呼ばれる窯業地帯を形成させていったのです。
なかでも多数の朝鮮陶工をともない、後の唐津焼きの礎を築いたのが北九州の鍋島藩、平戸藩、唐津藩でした。
その陶工らは、松浦・佐賀・多久・武雄、平戸・諫早に陶土をみいだし、それぞれの窯を築いたのです。
やがて有田西部の乱橋に移住した李参平(日本名、金ヶ江 三兵衛)は、有田川上流の泉山の地で磁器原料となる磁石(じせき)を発見します。
上白川の天狗谷に窯を築き、磁器の試作を完成させたといいます。
これが我が国で磁器が初めて焼成された記録です。磁器焼成の新しい技術革新が起きたのです。
そしてその約50年後正保三年(1646)、酒井田柿右衛門が赤絵に成功したのです。
なお李参平の十四代目の子孫の金ヶ江三兵衛は現在でも磁器を制作しています。
国産赤絵の成功を契機に、藩は一方で磁器製法の秘術を守り抜くために有田皿山へ番所を設け商人の直取引を禁じ、他方で海上輸送の焼物の集積港である伊万里津へ買い付けの場を定め、販売の制度を確立してたのです。それで伊万里焼という名がついたのです。
美しい絵模様のついた磁器はやがていろいろな藩で焼成されるようになり藩財政を潤したのです。そして江戸時代の外国貿易の主要な輸出品になっていったのです。
その詳細は是非、清瀬市郷土博物館の学芸員の内田祐治さんの研究論文をご覧ください。
(3)朝鮮本土の李朝白磁の特徴
それはさておき日本で現在でも尊重されている朝鮮本土の李朝白磁の写真を見てみましょう。
李朝の陶磁器は、初期には粉青沙器が主流でしたが、17世紀以後は白磁に変わりました。
中国の元、明の白磁の影響を受けたものですが、17世紀には色が青味がかり、李朝末期には濁った白色に変わったのです。
李朝では、磁器の製造は官窯でである工匠が行っていました。
1752年に広州に分院の官窯が作られ生産の中心になっていましたが、1883年に分院が民営化され官窯の歴史は終わったのです。
下絵付はありましたが、上絵付はありませんでした。
コバルト顔料で下絵付した青花も作られましたが、コバルト顔料が不足したため、鉄絵具で下絵付する鉄砂や銅絵具で下絵付する辰砂(赤茶色)も作られたのです。
しかし、李朝白磁の95%以上は他の色による装飾がない純白磁であり、江戸時代に日本で作られていたような華やかな色絵磁器は李氏朝鮮には存在していません。以上の解説文は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%9C%9D%E7%99%BD%E7%A3%81#mediaviewer/File:Baekja-White_Ceramic.jpg から抜粋いたしました。
さて李朝の白磁は素朴で暖かみがあります。その上、上品な感じがします。見る人の心をなごやかにするのです。私も好きです。現在の日本人も尊重していますので、その写真を示します。
1番目の写真は李朝初期の白磁壺です。
1番目の写真の出典は上の解説文の出典と同じです。
2番目は李朝初期の白磁皿です。3番目は初期の白磁徳利です。4番目は李朝中期の貝文大徳利です。5番目は李朝後期の大白磁徳利です。1番目の写真以外の写真の出典は、http://www.nakamaga.com/newpage11.html です。
ついでに6番目、7番目、8番目の写真に世界遺産の済州島の王宮やお寺の写真を示します。観光客用に作ったものですが、韓国人の王宮の様子が理解出来て興味深い写真です。彼等はやはり中国の王宮やお寺に憧れていることが分かるのです。写真の出典は、http://mdavinci.exblog.jp/7132453/ です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料============
李 参平(り さんぺい、生年不詳 - 明暦元年8月11日(1655年9月10日))は、 朝鮮出身の陶工で、有田焼(伊万里焼)の生みの親として知られている。日本名は金ヶ江 三兵衛(かながえ さんべえ)。現在も直系の子孫が作陶活動などを行い、14代まで続いている。
現在の14代の陶芸家のホームページは下記をご覧くださ。
http://toso-lesanpei.com/owner/index.html
・・・ 十四代金ヶ江三兵衛の挨拶・・・・
草創期の有田焼から感じる陶工たちの想いと技術を蘇らせ、李参平の子孫として日々精進しております。
そして、その作陶活動から韓日文化交流の架け橋のひとつになりたいと思います。
また来る2016年は「有田焼発祥400年」という節目の年です。 ・・・以下省略