後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

老境に至って知る日本画の魅力(2)清冽、精神性の深い東山魁夷の世界

2016年09月09日 | 日記・エッセイ・コラム
東山魁夷の絵画は綺麗過ぎるほど美しいのです。すぐれて装飾的でもあります。
私の定義では芸術はまず人の心を打つことが肝要です。単に美しいだけでは芸術にはなりません。深い思索と精神性が加味されていなければなりません。
彼の絵画は日本画なのに西洋的な精神性が濃いと思います。その上、日本人の精神性も込められているのです。
それでは彼の精神性とは何でしょうか?
間違いを恐れずに言えば、ドイツ的なカトリックの信仰と、仏教、とくに禅宗的な静かな信仰心です。この二つが混然一体となっています。彼は風景画を描きながら、「祈り」を描き込んでいたのです。

東京美術学校卒業後すぐの1933年から1935年までベルリン大学に留学しました。寒くて暗いベルリンで芸術家になるための哲学、神学、美術史、ギリシャ文化、などを勉強したに違いありません。そして盛んに絵画制作にいそしんだのです。
彼がパリではなくベルリンへ留学したことが良かったと思います。パリに行った日本人画家のように印象派の模倣をする必要が無いのです。迷うことなく独自の画風を育てることが出来たのです。

なにせドイツの有名な画家と云ったらデユーラーしか居ないのですから。暗い細密な絵画をルネッサンス期に描いたデユーラーの記念館しかないのです。あとは暗い中世の宗教画を集めた美術館が数多くあるのです。
日本では東山魁夷のドイツ留学の影響をあまり言われていません。
しかし1971年に出版された彼のドイツ旅行記の「馬車よ、ゆっくり走れ」を読むと彼の若き日のドイツへ対する強い想いが書いてあります。
昔、スケッチをした街角に立って風景を描いているときの気持ちを思い出しているのです。
私は1970年前後に暗い寒いドイツに住み込んだ経験があります。とにかく冬が長く、低い雲が毎日空を覆い暗いのです。
そのようなドイツや北欧で馬車に乗ったようです。ゆっくり石畳を走る蹄鉄や車輪の音が、いろいろな思い出と響き合って書いてある随筆集です。
ベルリンの冬は暗く寒いのです。その風景が、そしてそこで学んだ宗教学や哲学が東山魁夷の絵画の精神性を深くしています。これが東山魁夷の精神性なのです。間違っているかも知れませんが、私にはそのように思われます。
下に彼の日本画を数点示します。

1番目の写真は 「緑響く」という題の日本画です。
1972年、魁夷は突然、白い馬を描き始めた。若葉が水面に映る川のほとり、山深い木々の間、ほの暗い森の中、紅葉の木々の間など、さまざまな風景の中に馬を置いた。それが、夢の中の出来事のような18枚の絵になったのだった。出典は、http://d.hatena.ne.jp/cool-hira/20110730/1311973474 です。


2番目の写真は、「行く秋」1990(平2)です。
・・・枯葉、落葉ということばには、一抹の淋しさがつきまとう。
だがここでは冬を目前に散り行く落葉樹の、たっぷりとした深みと実りを暗示させる。しきつめられた金のカーペットをかさかさと踏みしめるとき、きっと私たちには足の裏に、 燦然と輝く木々の生命の昇華を感じ取るのだろう。・・・この文章は、http://www2.plala.or.jp/Donna/kaii.htm より転載した文章です。

3番目の写真は、「年暮れる」という題の日本画です。
・・・これは生きている。屋根しか描いていないのに。人の静かなざわめきが聞こえて来る。カレンダーに描かれた彼の絵とは全く違う。荘厳な年が暮れるその姿が静かに描かれている。この画家を見直した絵である。・・・・ある人の感想文です。
出典は、http://blogs.yahoo.co.jp/cksbg258/15270923.html です。

4番目の写真は、「谿若葉」です。 制作:1984年、技法:木版画、サイズ:35.1x45.5
暗い杉の谷を背景に、若葉が明るく浮かぶ山の斜面。原画は兵庫県立美術館に所蔵。2000年の10月に販売された日本経済新聞出の東山魁夷アートカレンダー2001年の3月にも収録された作品。 一色ずつ色を重ねて完成する木版画は、日本画の彩色技法にも似ており、東山魁夷は生涯に渡り多くの木版画を制作しました。 出典は、http://東山魁夷.com/sakuhin/121.html です。

5番目の写真は、「緑のハイデルベルグ」、1971年 です。
ライン河の支流ネッカー河のほとりに位置するハイデルベルク。初夏の緑に覆われた山腹の古城はドイツ・ルネサンスの重厚な面影と典雅な趣をあわせ持っています。街並みの景観の価値を重んじ、保存に努めるヨーロッパの落ち着いたたたずまいをとらえた東山魁夷の代表作です。

6番目の写真は、「道」です。
戦後、1947年の第3回日展で「残照」が特選を得たことが転機となり、以降、風景を題材に独自の表現を追求した。1950年に発表した「道」は、草の間を前方へとまっすぐに伸びる道、そして緩やかに右へ曲がり細くつづく道。それだけを描く作品で、単純化を極めた画面構成に新機軸が示されている。この「道」は種差海岸のスケッチがもとになっていると言われているが、東山魁夷の出世作として有名な作品です。

====参考資料=================
船具商を営んでいた父・浩介と妻・くにの次男として1908年に横浜市に生まれる。1999年に92歳で逝去する。
父の仕事の関係で3歳の時に神戸西出町へ転居。兵庫県立第二神戸中学校(現兵庫高校)在学中から画家を志し、東京美術学校(現東京芸術大学)日本画科へ進学。結城素明に師事。在学中の1929年第10回帝展に「山国の秋」を初出品し、初入選を果たす。美術学校を卒業後、ドイツのベルリン大学(現フンボルト大学)に留学。1940年には日本画家の川小虎の娘すみと結婚。1945年応召し、熊本で終戦を迎える。召集解除後は小虎、母、妻が疎開していた山梨県中巨摩郡落合村(現南アルプス市)に一旦落ち着く。11月に母が死去すると千葉県市川市に移り、その後1953年には大学の同窓・吉村順三設計による自宅を建て、50年以上に亘りその地で創作活動を続けた。
戦後、1947年の第3回日展で「残照」が特選を得たことが転機となり、以降、風景を題材に独自の表現を追求した。1950年に発表した「道」は、前方へとまっすぐに伸びる道それだけを描く作品で、単純化を極めた画面構成に新機軸が示されている。北欧、ドイツ、オーストリア、中国にも取材し、次々と精力的に発表された作品は、平明ながら深い精神性をそなえ、幅広い支持を集めた。1960年に東宮御所、1968年に落成した皇居宮殿の障壁画を担当した。1970年代には約10年の歳月をかけて制作した奈良・唐招提寺御影堂障壁画「黄山暁雲」は畢生の大作となった。・・・・以下省略。・・・・詳細は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%B1%B1%E9%AD%81%E5%A4%B7 にあります。
代表作:
•『残照』(1947年、東京国立近代美術館収蔵)
•『道』(1950年、東京国立近代美術館収蔵)
•『光昏』(1955年、日本芸術院収蔵)
•『青響』(1960年、東京国立近代美術館収蔵)
•『曙』(1968年、財団法人北澤美術館収蔵)
•『年暮る』(1968年、山種美術館収蔵)
•『花明り』(1968年、個人所蔵)
•『白馬の森』(1972年、長野県信濃美術館・東山魁夷館収蔵)
•『濤声』『山雲』『黄山暁雲』(1975年、唐招提寺障壁画)
•『朝明けの潮』(1968年、皇居新宮殿壁画)
•『夕星』(1999年、長野県信濃美術館東山魁夷館蔵) 絶筆
随筆集:
•『わが遍歴の山河』(新潮社、1957年)
•『私の窓』(新潮社、1961年)
•『森と湖の国 北欧画集』(美術出版社、1963年)
•『白夜の旅』(新潮社、1963年、のち新潮文庫、1980年)
•『風景との対話』(新潮選書、1967年)
•『朝明けの潮』(三彩社、1968年)
•『京洛四季』(新潮社、1969年)
•『馬車よ、ゆっくり走れ』(新潮社、1971年)
•など多数。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)