全ての民族文化には優劣が無いと言います。それは文化人類学の基底をなす一番重要な考え方です。私はそれを信じています。
この考え方をいろいろな民族が信じている宗教にあてはめて考えてみると次のようになります。
「世界にはいろいろな宗教がありますが、それらのあいだには絶対に優劣は無いのです。全く平等なのです!」
従って一神教と多神教に優劣はありません。原始宗教にも高等宗教にも優劣は絶対にありません。偶像崇拝と非崇拝にも優劣がありません。
とかく一神教で偶像崇拝をしないイスラム教が一番高等な宗教だと言う人がいますが、それは根本的に間違っています。優劣の無いものに一番高等だと言うこと自体が間違っているのです。
そしてどのような宗教を信じていても、人間の金銭欲や他人を支配しようとする支配欲などあらゆる欲望から逃れることが難しいものです。
一番高等なイスラム教を信じている民族が中東で残酷な殺戮を繰りかえしている様子を見れば人間の欲の深さがしみじみと分かります。
「キリスト教における偶像崇拝と原始宗教的な部分」と題する3月18日の記事の要約を示します。
・・・キリスト教は建前では一神教ですが、信仰の実際を観察すると多神教的な部分があると言えます。ですからキリスト教を一神教であると断定することは間違いのようだと思っています。 「偶像崇拝と非崇拝」についても建前と信仰の実際は異なるのが自然なのだと思っています。 お釈迦さまは涅槃に入るとき遺骨は野に捨てよと言われました。そして一切の像を作っていけないとおっしゃいました。そのお釈迦さまの教えはこの世の人間には厳し過ぎたのです。仏教国には仏像が溢れています。・・・・
今日はこの記事の続編として、キリスト教のなかのカトリック宗派の原始宗教的な信仰の実態をご説明したいと存じます。
カトリックのミサではイエスさまの肉体の一部を食べるのです。パンの一片を肉体の一部と信じて食べるのです。ミサの終わりのほうで信者は行列をつくり祭壇の前に進み、神父さまからパンの一片(聖餅)を一人、一人が掌にいただくのです。以前は神父さまが口に直接食べさせてくれました。
この時、神父さが「キリストの体」と言うのです。ミサで一番重要なことはこの聖餅を受けることなのです。イエス様の肉体の一部が自分の体に入り守ってくれるのです。
ある原始宗教では先祖の遺骨を細かな粉にして、スープのようにして飲みます。そうすると先祖の骨が飲んだ人を守ってくれるのです。
カトリックの聖餅を食べることはこの原始宗教と形の上ではよく類似しています。
プロテスタントの諸宗派はこの原始的な行為を嫌います。時々、聖餅を貰うことがありますが、それはイエスさまの肉体のシンボルとして貰い、食べるのです。絶対にそれを肉体そのものだとは考えません。ところがカトリックでは肉体そのものだと考えるのです。原始的です。原始宗教のようです。
さて、ここからがこの記事で主張したい考え方です。
「人それぞれ、いろいろな信仰の実態がありますが原始宗教的な部分が含まれているのが普通なのです」
例えば日本の仏教では修験道と混淆した宗派があります。
誤解を恐れずに書けば、原始宗教的な信仰の実態があった方が人々を惹きつけるのです。
私は時々、自分に縄文人の血が流れているのではないかと感じることがあります。原始生活に憧憬を感じるのです。そして原始宗教の世界に興味があるのです。そのせいで私はカトリックが自分の考えかたや感性に合っているのだと思うことがあります。
プロテスタント宗派の教義は合理的で、かつ近代的なようなので、私の感性に合わないのでしょう。むしろロシア正教の方が私の感性に合っています。
結論です。宗教を原始宗教とか高等宗教に分けて考えるのは大きな間違いです。偶像崇拝はいけなというのも間違いです。偶像崇拝のおかげでお釈迦さまの教えや、キリスト教の聖書に近づくことが多々あるのです。偶像崇拝を信仰の補助的役割にしている限り、それは良いことなのです。
以上で私の主張したいことを全て書きましたので、「キリスト教における偶像崇拝と原始宗教的な部分」と題する記事は終了といたします。
今日は日曜日なので、これからミサに行きます。今日は、棕櫚の葉を手に持ってイエスさまを歓迎する儀式をしてから会堂に入ります。その歓迎にもかかわらず、イエスさまは5日後の金曜日に十字架にかけられて処刑されたのです。その故事を再現するのもカトリックの特徴なのかも知れません。
今日の挿絵代わりの写真は3月17日に京王フローラルガーデンで撮った花の写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)