後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

下らないブログ記事の実例・・・今日の散歩道

2011年09月15日 | 日記・エッセイ・コラム

私が何処を散歩したという情報には何の価値もありません。全くつまらない話です。自分の日常茶飯事を一生懸命書いても誰も興味を持ちません。そういう記事を下らない落書きと言います。

つまらない話とは思っていても、祈りながら書いています。読んで下さっている方が、静かな雑木林の広がる平林寺を散歩している気分になって頂けることを祈っています。

平林寺の中は清浄な空気です。 林の中の道には涼しい風が吹いていました。

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秋の旅へのお誘い(2)秋の白い雲のかなたへ

2011年09月15日 | 旅行記

空を見ると秋らしい白い雲が浮かんでいます。雲のかなたに憧れの土地や、夢が広がっています。そのような思いに誘われて旅に出ることもあります。

秋になると旅心が湧いてくるのは白い雲のしかも知れません。雲のたたずまいを見て何故か美しいと感動します。そして人生の過去の悲しかったこと、楽しかったことなど思い出します。

若い頃は美しい雲を見て、未来の夢が実現するような気分になったものです。そして楽しい気分になったものです。白い雲を見るとその頃の心のゆらめきを思い出します。雲は人々へいろいろなことを語りかけているのです。

旅に出なさいと呼んでいるようでもあります。

今回、西の方へ旅したときに撮った雲の写真をお送りします。

(これらの写真はこの下に掲載したJackさんにまつわる記事へ捧げる意味もございます。)

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Jackさんのさわやかな生涯、美しい孤独な死、その人の墓を庭につくる話(1)への補足

2011年09月15日 | 日記・エッセイ・コラム

Zonサノバビッチさんとは何度かメールの交換をしました。

以下に頂いたメールの文章を抜粋して皆様へお送りします。「Jackさんのさわやかな生涯、美しい孤独な死、その人の墓を庭につくる話(1)」と題する昨日の文章の背景を説明した部分です。日本人がお墓にこだわり過ぎるような気もしますね。

・・・・・・前の部分省略・・・・ところで、ジャックさんのお墓のこと、、。・・・英国では、日本人には信じられないかもしれませんが、「お墓」というものの観念が希薄です。
お墓のない家もたくさんあります。ジャックさんのご家庭もそうでした。きちんとした家なのですけれど。
ですから、遺灰をどうするかという段になりますと、その辺にまいておくとか、ちょっと教会の墓地に土地を買って、埋めてもらうとか、いうことになります。
日本では、たとえ灰にしろ、人間の灰を自宅の庭に埋めるなどということは出来ないでしょうね。法律違反です。
私も死後、自分の灰がどうなるのか、ということに関しましては、まだ何も決めておりません。
今のままだと、そこいらに捨てる、ということになるでしょうね。

・・・以下省略・・・・・・・・・・・・・

尚、Zonサノバビッチさんは30年以上の間、絵描きだったそうです。その後、13年間勤め人になって今年退職されたそうです。

私はZonサノバビッチさんの人生もさわやかで心豊かなものであると感動しています。10年前に無くなった友人の命日に「思い出の記」を書いて友人を讃えているのです。

最後に、いろいろお願いをしたZonサノバビッチさんへ感謝の意を表します。有難う御座いました。

藤山杜人


Jackさんのさわやかな生涯、美しい孤独な死、その人の墓を庭につくる話(2)

2011年09月15日 | 日記・エッセイ・コラム

ブログを通して知り合ったZonサノバビッチさんはロンドンに永らく住んでいます。その方がイギリス人のJackさんという方と知り合い、とても親しくなりました。Jackさんの死後、その遺骨をご自分の家の庭に埋め、その上に石灯籠を置きました。石灯籠がお墓の代わりになりました。孤独な方でしたので自然にそのようになったそうです。

ガンの治療を断り、静かに逝ったJackさんの死に方は見事でした。美しい亡くなり方でした。Zonサノバビッチさんがそのようなコメントを私のブログへ寄せて下さいました。

Jackさんは宗教とは縁の無い人でした。しかし美しい逝き方をしたそうです。生前どのような生活をしていたのか不思議に思っていました。そんな折に、Zonサノバビッチさんが、「Jackさんのこと」と題する一文と共に写真を私へ送って下さいました。

それにしてもこのようなJackさんを友人に持ったZonサノバビッチさんの生涯もさわやかなものだと感じました。彼は鏡のようにJackさんの人生を写し出し、鏡自身も同じ人生を送りたいと思っているようです。

いろいろな意味で考えさせる文章です。

2回に分けて連載しましたが、今日のが完結部です。末尾に9月9日という執筆日が書いてあります。Jackさんが丁度10年前のこの日に亡くなったそうです。ZonサノバビッチさんはJackさんの思い出を永久に忘れないことでしょう。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。藤山杜人

=======Zonサノバビッチさん著、「Jackさんのこと」(続き)=======

下の写真の右端に立っているのが第二次大戦中の英国空軍時代のJackさんです。

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ジャックさんの育たれたご家庭は、元より宗教的な香りのするお宅ではなかったそうです。

従って、ジャックさん、生涯に於て一度も、ご自分の意志で教会に行かれたことはないと思います。

そういう、ジャックさんの宗教を頼むところのない生き方は、この様な特異な戦時中の経験で、培われたのではないでしょうか。

宗教を何ら積極的に否定するものではないけれど、関心がないという方が当っているでしょう。

私、ジャックさんの「逝き方」に感動したと言いましたが、それは、見た目に美しかったということもありますが、それよりも、ジャックさんが、自分の死に対して、何も「見返り」を期待しておられなかったというところに、美しさを覚えたということです。

死ねば、「天国に行ける」とか、「お父さんとお母さんに会える」とか、そんなことです。

「何かよく分からないけど、行ってくるわ」、そう言いながら「バイバイ」と手を振って、微笑んで行かれたのです。享年88歳。

私は、そこに痛く感動したのです。美しさを感じたのです。

因みに、その二年程前に、ジャックさん、膀胱に癌細胞が見つかったとき、「もう年寄りだから」という理由で、一切の治療を拒否されています。

例えは適切ではないかもしれませんが、死刑を宣告された人が、潔く絞首台に向かわれたのと同じことです。

私、よく思います。人間に宗教が存在するのは、又は必要であるのは、人間が「自分は何れ必ず死ぬ」ということを知っているからではないでしょうか。

自分は、今これほど人生を楽しんで、「幸せ」であるのに、何れそれも消え失せて、自分が、謂わばこの世から蒸発して、凡てなくなってしまうという考えに耐えられないのですね。

でも、たとえ、死んでも、まだ「来世」というものがあると考えれば、気が楽になります。自分の身体が無くなっても、何かが残ると信じることが出来れば、「死」が恐くなくなります。自分がなくなってしまったのに、他の人はまだ現世を楽しんでいる、と思っても、何も腹立たしくありません。

そして、実際問題として、そういう風に考える方が、人間は死ねば終りと考えるより、遥かに詩的で美しいですね。

人間が「死」をこれほど恐れるのは、勿論、生きている間のことです。一旦、死んでしまえば、何がその後に起ろうとも、又は何も起らなくても、もうどうしようもない訳ですから、逆に、苦しむこともありません。

ジャックさんの様に、「美しく」死ねれば、それは占めたものです。

ここで、少し私の至らぬ考えを述べてみることにしますと、私、何でもいいから、それを信じて、心の安らぎを得ることが出来、しかる後、安らかに「逝く」ことが出来れば、そういう生き方は、十分立派だと思います。

その「何でも」というのは、キリスト教とか、仏教とかいう宗教であることが多いのですが、勿論、「鰯の頭」でも、それこそ「何でも」構いません。他の人に迷惑を及ぼさない限り、です。

まあ、大多数の人の生き方は、こういうものでしょう。

安らかに生きられるためには、従って、安らかに逝けるためには、「何か」が必要なのです。

賢明な大人の生き方です。

只、ジャックさんには、そういうことが必要ではなかっただけのことです。

競馬が殊の外お好きで、毎日、場外馬券場に行っておられましたから、「競馬」がその「何か」であったのかも知れません。それと、私の様な「友達」、。

因みに、ジャックさんのお父様も、ほぼ同じような亡くなり方をされたと、聞きました。

お父様、ロンドンでも有数の高名な美術商であったということですが、「ガールフレンド」が、そこいら中に沢山おられて、結果、ジャックさんには、会ったこともない異母兄姉が多く、、。

古き時代の大旦那。私、一度、是非御目にかかってみたかったですね。

ある日、突然首に大きな腫瘍が出来、その一ヵ月後に、やはり「美しく」亡くなったそうです。癌であったとか、。

ジャックさん、元より身寄りとてないお方。没後の処置は凡て私がしました。

そして、その遺灰は、全身、私のグリニッジの家の庭に埋め、その上に灯篭を置きました。10年前の今日、99日のことです。

それを見るにつけ、ジャックさんのことをしみじみと思い出します。

最後に、。

人間に「死後の世界」があるというのは、ある人間が「逝く」時、その人の全くあずかり知らないところで、その人とは完全に別の「個体」が生まれるというのなら、私にも分る気がします。

そういうのを「霊魂」というのですか。 September  2011 (完結)