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後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

金属製の重い飛行機が何故浮き上がるのでしょう?

2009年08月26日 | うんちく・小ネタ

船が水に浮く。飛行船が空に浮かぶ。どちらも船や飛行船の比重が水や空気より軽いから浮くのですね。比重が軽いのですから船や飛行船は止まっていても浮いています。これは誰でも理解出来ますね。

ところが何十トンもある重い飛行機は空気をり比重が重いのに、空に浮き上がり飛んで行けます。何故でしょうか?そこで今日は、所沢航空発祥記念館へ調べに行きました。

屋外には下の写真のような、いかにも重そうな軍隊の輸送機が置いてあります。こんなにも重そうな物体が本当に空に浮き上がりことが出来るのでしょうか? とても信じられません。027

記念館の一階左の方に、飛行機が浮き上がる原理を発見したスイスの物理学者、ベルヌーイの等身大の像があり、1758年に実験で証明した「ベルヌーイの定理」を説明しています。

「流速の早い流体は、遅い部分の流体より圧力が低い!」という定理です。誰にでも簡単な実験で確かめることが出来ます。下の写真はその実験です。ベルヌーイ管というガラス管の中を気体を左から入れ、右から取り出します。

このガラス管の真ん中部分は細くなっていて、其処にU字の形をした細いガラス管がつないであります。U字管の右端は太いガラス管の部分につなであります。U字管の中には色をつけた水が入っていて、U字管の左右で圧力差が出来ると色着きの水柱が上下します。

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この図では左から右方向へ気体が流れているので、色着きの水柱は右が下がり、その分、左が上がります。このベルヌーイ管の水柱の左右の差は気体の流れ速度が大きくなるに従って大きくなります。

この図の左下には、飛行機の羽根の断面図があります。翼の上面が凸になっていて下面が平になっています。ですから翼の上を流れる空気の速度(線速度)が下側より大きくなります。

すると翼は上の方へ吸い上げられます。そのためには飛行機は走っていなければ浮き上げれません。止まれば墜落の始まりですね。

この現象は直感的に、あるいは体感的には理解し難い現象です。しかし誰も否定出来ない科学的定理です。ベルヌーイという人が発見した定理です。

しかしライト兄弟が始めてこの原理を応用して風洞実験を重ね、1903年にエンジン付きの飛行機を発明したのはそれから250年も後でした。

ヨットが風上45度の方向まで登れるのはやはりベルヌーイの定理のお陰です。しかしヨットが風上へ登れることはベルヌーイがこの定理を実験で発見するよりも、何百年も前から経験的に分かっていたことです。飛行機を作ったライト兄弟はベルヌーイの定理を勉強したということは強調されていません。むしろ軽くて馬力の大きなエンジンを付けたことがよく強調されています。科学の独創的な発見も重要ですが多くの人々の経験の積み重ねによる知恵も重要と思います。日本では現在でも安く、安全な航空機用エンジンが作れないのは経験の積み重ねによるノウハウの蓄積が無いからです。科学は経験で確立した技術を後から説明することしか出来ないこともあるのです。しかし科学的原理から出発した技術開発は成功の確率が高いことも一般です。ここに技術と科学の本質的な違いがあるのです。

皆様は、如何お考えでしょうか?  (終わり)


個人的な家族愛は国籍や人種を超越する

2009年08月26日 | インポート

現在の日本は経済的に豊かになり、日本人が世界の各国に定住しています。そして、やがては年老いて外国の土に眠ることになるでしょう。私のネットの上での友人もアメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、インドネシア、ネパール、タイ、中国などに住み着いてブログを書いている人が居ます。ブログの内容を読むと外国の人々と結婚して子供も出来て幸多い人生を送っている人も居ます。あるいは外国の文化に魅了され、人々を愛するあまり永住を決心している人も居ます。ブログの内容を読むと、いずれは日本へ帰って来ようという考えが無いようです。外国の土になるのが自然と思っているのです。個人的な家族愛が国籍や人種を超越しているのです。

戦後、「日本人の国際化」が政府の政策や社会運動の目標になっていた時代がありましたが、日本人の国際化は既に達成されたと思います。

しかし30年前、60年前に日本人がアメリカの土になったり、中国の土になるのは現在のように容易なことでは無かったのです。それには時代が影響し、現在とは異なる困難と悲しみがあったのです。そんな例を記録して置きたいと思います。

@日本へ帰らない中国の残留孤児達の育ての親への愛

1980年代末、北京でのこと。日本の新聞には戦争残留孤児が続々と帰って来たというニュースが溢れていた。

筆者を北京へ招待した周教授が庶民向けの北京ダック専門店へ招待してくれた。

その周教授が言う、「日本の新聞には残留孤児帰国の記事が多いそうだが、どう思う?」私が答える、「大変結構なことではないですか」。周教授が言う、「それが中国では困るのです。中国人に大切に育てられた日本人の子供は帰る決心がつかないのです。生みの親より育ての親というでしょう。日本に帰れば経済的に助かる。それが分かっていても、名乗らない孤児の方が多いと思いますよ。私の知り合いにも名乗らない人がいます。帰らないで中国に骨を埋める決心をしている残留孤児を中国人は尊敬しています」と。

日本の新聞はニセの残留孤児も名乗り出たと報ずる。しかし、名乗り出ない残留孤児も多くいることを、なぜ報道しないのだろう。報道のバランスとは両方の事実を報じることではないか。

       @中国に永住している残留技師

自分の残留事情を日本の本屋から出版した人もいる。岩波新書の「北京生活三十年」を書いた市川氏である。満州にいた市川氏が残留技術者として北京市へ移り、三十年間、同市重工業部で機械技術の仕事をしてきた体験記である。

市川氏は東北大学の同じ研究室の先輩であったため、M教授から中国で消息不明になった市川さんの安否を調べてくれと頼まれた。1981年のことである。北京へ行った折に中国政府の金属工業省に調査を頼んだ。4、5日して開催された人民大会堂での歓迎会の折、市川氏が現れた。小生は市川氏へM教授が心配していることを伝えた。

「恩師のご恩は忘れたことがありません。しかし、中国に骨を埋めることにしたとお伝えください」と言って、並んでご馳走を食べた。あまり話さず、ニコニコして食べるだけである。

彼は帰ろうと思えばいつでも帰れる立場にあったはずである。そうしなかったのは中国の独立と建国へ日本人として貢献したかったらしい。中国人へ対する愛着や愛情がそうさせたに違いない。

皆様の知り合いにも外国に住み着いて、外国で人生を終わりにした方がいらっしゃるのではないでしょうか?きっとその動機は「愛」に違いありません。愛は国家や人種を超越するとお思いになりませんか?

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。 藤山杜人