後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

中村真人氏の撮ったアウシュービッツ

2009年01月14日 | 写真

中村真人氏のアウシュービッツ訪問記には写真も多く掲載れています。文章も感動的です。またそれへ若い日本人から多数のコメントが有ります。

この様な若い日本人を持ったことにホッとしています。誇りに感じています。ここには写真3枚だけを選んでご紹介します。やはり原文をお読みください。http://berlinhbf.exblog.jp/ の中の多数の記事からはカテゴリー分類の「ユダヤ人」の項目をクリックするとこれらの写真が全て出てきます。

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異国の魅力にとりつかれて住み着く人々(4)ベルリン路上の人々が好きになって8年住む

2009年01月14日 | 日記・エッセイ・コラム

 とにかくこんなに内容の豊かなブログは見たことが無い。中村真人氏の書いている「ベルリン中央駅」(http://berlinhbf.exblog.jp/ )というブログだ。

開けて、手当たり次第にエッセイのページを立ち読みのように読み飛ばしてみる。するとその瑞々しい情感と、ものを見る確かな視座に思わず座り込んで熟読することになってしまう。中村氏はまだ30歳前後の若い男性だ。ベルリンに8年住み着いて、「路上観察者」と称して文筆活動を展開している。ベルリンの芸術、文化、歴史、から森鴎外のことまで実に広い話題を満遍なく取り上げている。

1936年生まれの私はベルリンというとヒットラー帝国の首都、連合軍の徹底的な空襲、高い陰惨な壁で分けられた二つのベルリン、1989年の壁の崩壊、、、となにか血なまぐさい歴史をつい思い出してしまう。用がなければ避けて通る街だ。

戦後生まれの中村氏にはそのような暗い連想が無かったのかも知れない。とにかくちょっとしたキッカケからベルリンに住み着いてその人々の生活を描き続ける。

ベルリンの輝く芸術や歴史を紹介している。ヨーロッパ文化の香を身近に感じさせてくれる。ヒューマニスティックな文章で描いているので心が温まる。勇気が出る。そのようなブログです。

先日転載許可のメールを送った。まだ何処を選んで、どのように編集するか決めてませんが、とにかく何処か使わせてくださいと。返事が来た。何処をどう使っても良いという快諾の返事。それから何処を転載するか考え始めた。内容があまりにも多岐にわたり、どれも名文なのだ。最後に決めたのが以下の内容。

始めと終わりにテアガルテンの冬景色の写真を1枚ずつ出す。間に小さく3枚の写真を出すことにした。ヒットラーによってアウシュービッツへ送られ、殺された子供の追悼展示列車の写真である。展示列車は2輌。ドイツの幾つかの駅で展示された。それに関する中村氏の文章も転載する。

かつてドイツと日本は軍事同盟を結び第二次大戦を一緒に戦った。その友人がユダヤ人を大量に殺したのだ。戦前に生まれた日本人として全く無縁な出来事とは思われない。ドイツ人というヨーロッパの外国人が勝手にしたことだから日本人には関係ないとも思う。しかし、テアガルテンの冬景色の中に身を置いて、殺されたユダヤ人の冥福をはるかに祈りたいとも思う。

写真のながにAnfangenwagenという字があるが、「囚人列車」の意味である。その時刻表の冊子の表紙である。原文では写真がもっとあり、その下に文章が説明文としてついていた。写真の何枚かは省略して文章だけを繋ぎ合わせたので分かりにく部分が出来てしまった。ご寛容のほどをお願いいたします。

なを中村氏はアウシュービッツも訪問してブログで紹介しています。

=======中村真人のブログより=========

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ベルリンへ戻った翌週、久々に新聞を見ていたら、ちょうどベルリンに「記憶の列車

(Zug der Erinnerung

)

という展示列車が来ていて大きな話題になっていることを

知った。これは、ナチスによるホロコーストの犠牲になったヨーロッパ中の子供たちを

追悼する移動展示で、昨年11月にフランクフルトを発って以来、ドイツ中の都市を

巡回し、これからベルリンの5つの駅で展示されることになっていた。

主催者側は当初ベルリン中央駅での展示を希望していたが、ドイツ鉄道(DB)

実務上の理由から拒否したため抗議行動にまで発展していたことも知った。

その他、DBは、この列車の走行や駅に停泊させるための料金を請求してきたらしい

が、何しろドイツ鉄道の前身は、かつてナチスと手を組んでホロコーストの実行に

協力したドイツ帝国鉄道だけに、「記憶の列車」の主催者側は余計ナーバスにな

っていたのかもしれない。

先週火曜日のこの日、「記憶の列車」は東のリヒテンベルク駅に停まっていた。

展示車両は2両で、一度に中に入れる人数が限られていることもあってか、かなりの

行列ができていた。どうしようかと思ったが、とりあえず並んでみることに。結局、

寒い中1時間以上待つことになり、風邪をこじらせてしまうのだが・・・

狭い車内は人であふれていた。これはギリシャのIoanninaという町のゲットーで

強制連行された後、アウシュヴィッツで殺害された女の子に関するパネル。

消えたユダヤ人家庭の跡を探し求める、高校生の授業の研究発表も展示されて

いた。

展示の最後の方で、捕虜を収容する列車の時刻表というのを見つけた。

1943517日より有効」とあり、発行元はドイツ帝国鉄道。

例えばこのページはシュテティン発、ベルリン・シュテティン駅行きの列車の時刻表。

これを見ただけではわからないが、一体どういう人が乗せられて来たのかと思う。

広々とした博物館で見るのとはまた違う感覚がある。犠牲になった子供たちの大部分が家畜用の貨車で運ばれていった事実も、訪れる者は想起することになるだろう。

参考

アウシュヴィッツへの旅(1) - Different trainsに乗って -

11月にポーランドを旅した主目的は、クラクフに住む友人に会ううことの他にもう一つ、そこから遠くないアウシュヴィッツを訪れることだった。アウシュヴィッツ訪問は、いつの頃からか自分の漠然とした願いになっていたのかもしれない。実は7年前のちょうど今頃、友達と初めてクラクフを訪れたときにもそのチャンスはあった。だが、日程的にやや厳しかったことの他に、せっかく町を案内してくれるポーランド人の知人に「アウシュヴィッツに行ってみたい」とはなかなか言い出せなかったのだ。

前にも少し書いたように、ベルリンに長くいると、かつてここに住んでいたユダヤ人の存在に気付かされることが少なくない。例えば、住宅街の道に何気なく埋め込まれている「つまずきの石」によって(冒頭の写真。後で詳しく書きます)。今回クラクフに行く前、このブログではかつて多くのユダヤ人が強制収容所へと送られたベルリンの2つの場所を紹介した。グルーネヴァルト駅の17番線(写真)と橋の下の貨物駅(Putlitzbrücke)という2つの鉄道駅。

もし、鉄道という19世紀に人間が生み出した高度にシステマチックな輸送手段が存在しなかったら、ナチスによる計画的なホロコーストは実現不可能だったに違いない。そして、万単位の規模のユダヤ人を秘密裏のうちに運ぶために必要な鉄道や警察が、ベルリンにある総合司令部から組織化されていたという事実にぶつかる。これらを思うと、やはり鉄道を使った私のポーランド行きは、ベルリンからアウシュヴィッツへと強制輸送されたユダヤの人々をいくらかでも追憶する旅でありたいと思った。

以下省略しました。----藤山杜人


フィラデルフィアの盲目のジャズピアニスト

2009年01月14日 | 日記・エッセイ・コラム

あれは1976年の頃。こみいった昼間の仕事の疲れを背負ってホテルへ帰る。ジャズでも聴いてくつろごうと思った。ホテルの裏の薄暗い酒場へ独りで入る。

ジャズピアノが店なかに響いている。テンポの早い曲が丁度終わり、哀愁をおびたスローな曲を歌い上げるように弾いている。とにかく席につき、一層薄暗い片隅を見ると,

細面の端正な顔立ちの白人が一人でピアノを弾いている。目をつぶっている。自分のピアノに陶酔しているのか何時までも目を開けない。ピアノの上には譜面が無い。ふと足元を見ると大きな黒い盲導犬が幅広い皮帯を背にして座っている。先ほどまで見えなかったが、暗さに目が慣れたので見えたのだ。

若い黒人のウェイトレスがメニューを持って来る。この店のお勧め料理を聞くと、「タートル・スープ」だという。亀のスープとは面妖な。くどくど聞くとやはり本当に亀だという。昔この辺の黒人奴隷がひもじくて湿地帯の亀を捕って食べていたという。

ところがその美味さを白人が知るようになってフィラデルフィアの名物料理になったのだと説明してくれる。黒人は今でもよく食べるの?もう食べません。白人だけが高級料理としてレストランで食べるだけです。黒人が昔食べていたと良く知っているね?

あの盲のピアニストに教わりました。彼は時々言っています、「Jazzは苦しい生活を強いられていた黒人の音楽です。昔、そんな人々の魂から生まれた音楽です」。

成程、それでピアノが黒人の魂の歌声のように聞こえたのか。

タートル・スープはコンソメのように澄んだスープで底にカメの肉の細切れが少し沈んでいる。味は薄めのスッポンのおすましにコショーを入れ、塩を強めに効かせたような味である。亀はスッポンに違いないと勝手に合点する。

タートル・スープが本当にフィラデルフィアの名物料理かは知らない。その後何人かのアメリカ人に聞いたが誰も知らないと言う。

その後、あちこちでジャズを聴くたびにフィラデルフィアの盲目のピアニストのもの悲しいジャズとタートル・スープを思い出している。あの男は私と同じ位の年恰好に見えた。今では年老いたピアニストとして一層、悲しくてそして陽気な、Jazzを歌い上げているのだろう。フィラデルフィアの薄暗い酒場で。(終わり)