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後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「懐かしい平戸島の風景」

2025年08月09日 | 日記・エッセイ・コラム
懐かしい平戸島の風景です。
随分前に行った平戸島が懐かしいです。写真をお送りいたします。



「長崎の平戸島の教会の写真」

2025年08月09日 | 日記・エッセイ・コラム

長崎県の北西の海上に平戸島があります。幅の狭い平戸瀬戸の上に橋がかかっていて九州本土の平戸口と繋がっています。この平戸瀬戸へ面した平戸島の港は船の往来で繁栄した港町でした。この海峡は九州の南の海と玄界灘をつなぐ最短距離なのです。

奈良時代や平安時代には遣隋使や遣唐使の船の出発港としても重要でした。 現在は九州本土から観光バスで行ける上に、平戸市には昔の領事館、商館の跡やキリシタン関連の史跡が多いので、一つの観光スポットになっています。

私共も3回ほど訪問し、古い平戸の町並みを歩き、キリシタン時代の教会を訪ねたことがあります。そんな観光案内を以下に示します。Bba4142f87ef6ad3362f23356d1e39ae1 1番目の写真は手前が九州側で橋の向うが平戸島です。上と下の全ての写真は平戸写真画像集からお借りしました37212番目の写真は現在の平戸港です。木造の遊歩道が付いています。左の奥の方に領事館跡や商館跡があります。この港を見下ろすように平戸城があります。平戸城の見える反対側の高台に博物館があり、その隣には、風情ある茶室(閑雲亭)があります。感じの良い女性が綺麗なお点前でお茶をたててくれました。銘菓カスドースの甘さと共に家内と懐かしく思い出します。3番目の写真は平戸の風景です。このような小道を登って行くとキリシタン時代の教会の跡地に出ます。現在はカトリック教会とお寺とが並んで建っています。B134614番目の写真はキリシタン時代の教会の跡に建っている教会です。現在はカトリックの教会になっています。

ザビエルの来訪を喜んだ平戸領主、松浦隆信は平戸での布教活動を支援したのです。平戸滞在一カ月足らずの間に100人の日本人がキリシタンになったのです。しかしそれも禁教令の歴史で暗転するのです。

その後400年経って1949年(昭和24年)に平戸市にザビエル記念碑が出来ます。当時のローマ法王ピオ12世は特使の枢機卿を派遣し、除幕式を行ったのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「長崎の26聖人にまつわる話」

2025年08月09日 | 日記・エッセイ・コラム

長崎の観光名所の一つに日本26聖人像があります。今日はこの26聖人の事を書いてみようと思い写真を検索して、探していました。

そうしたら鮮明な写真に素晴らしい文章のついたブログを発見しました。

江島達也さんのブログ: http://hayabusa-3.dreamlog.jp/ です。

このブログの中から観光名所になっている、26聖人像の写真をお借りして以下に示します。(出典」は、http://hayabusa-3.dreamlog.jp/archives/51207384.html です)。

有名な彫刻家の船越保武氏が4年余の歳月をかけて昭和37年に完成した芸術作品です。余談ながら私はカトリックなのでこの像の前に立ったり、写真をみるのが好きです。祈っているのです。

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この26人は1597年2月5日、長崎の西坂で十字架にはりつけにされて殉教しました。

ローマ教皇ウルバノ八世は、1627年9月14日に、フランシスコ会関係殉教者23の列福を認めたのです。続いて同じ年の9月15日にイエズス会殉教者3名の列福も認めました。

それから235年後の1862年6月8日にローマ教皇ピオ九世により聖人と認められたのです。1862年といえばまだ江戸時代です。日米、日露なとの修好条約が出来、領事館が出来たころです。

尚、船越保武氏の作った着物姿のマリア様の像は東京のイエズス会修道院のミサのための堂の入り口にあります。以前、このブログでその写真を紹介しました。

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参考資料:出典は、Wikipedeanの「日本二十六聖人」です。

26聖人像の右側から左へ順に殉教者を説明します。

(以下、二十六聖人記念碑の右側から順に列挙)

フランシスコ吉(きち)
日本人大工。フランシスコ会員の世話をするため、一行に付き添い、道中で捕縛された。
コスメ竹屋
日本人、38歳。大阪で捕縛される。
ペトロ助四郎(またはペドロ助四郎)
日本人、イエズス会員の世話をするため一行に付き添い、道中で捕縛された。
ミカエル小崎(またはミゲル小崎)
日本人、46歳。京都で捕縛。トマス小崎の父。
ディエゴ喜斎
日本人、64歳。大阪で捕縛。イエズス会員。
パウロ三木
日本人、33歳。大阪で捕縛。イエズス会員。
パウロ茨木
日本人、54歳。京都で捕縛。レオ烏丸の兄。
五島のヨハネ草庵(またはヨハネ五島)
日本人、19歳。大阪で捕縛、イエズス会員。
ルドビコ茨木
日本人、12歳で最年少。京都で捕縛。パウロ茨木、レオ烏丸の甥。
長崎のアントニオ
日本人、13歳。京都で捕縛。父は中国人、母は日本人。
ペトロ・バウチスタ(またはペドロ・バプチスタ)
スペイン人、48歳。京都で捕縛。フランシスコ会司祭
マルチノ・デ・ラ・アセンシオン
スペイン人、30歳。大阪で捕縛。フランシスコ会司祭。
フェリペ・デ・ヘスス(またはフィリッポ・デ・ヘスス)
メキシコ人、24歳。京都で捕縛。フランシスコ会修道士
ゴンザロ・ガルシア
ポルトガル人、40歳。京都で捕縛。フランシスコ会修道士。
フランシスコ・ブランコ
スペイン人、28歳。京都で捕縛。フランシスコ会司祭。
フランシスコ・デ・サン・ミゲル
スペイン人、53歳。京都で捕縛。フランシスコ会修道士。
マチアス
日本人、京都で捕縛。本来逮捕者のリストになかったが、洗礼名が同じというだけで捕縛。
レオ烏丸
日本人、48歳。京都で捕縛。パウロ茨木の弟。ルドビコ茨木のおじ。
ボナベントゥラ
日本人、京都で捕縛。
トマス小崎
日本人、14歳。大阪で捕縛。ミカエル小崎の子。
ヨアキム榊原(またはホアキン榊原)
日本人、40歳。大阪で捕縛。
医者のフランシスコ
日本人、46歳。京都で捕縛。
トマス談義者
日本人、36歳。京都で捕縛。
絹屋のヨハネ
日本人、28歳。京都で捕縛。
ガブリエル
日本人、19歳。京都で捕縛。
パウロ鈴木
日本人、49歳。京都で捕縛。

「異国の香りあふれる美しい長崎、しかし原爆投下」

2025年08月09日 | 日記・エッセイ・コラム
長崎は異国の香りあふれる美しい街でした。しかし80年前の今日、原爆が投下され一瞬にして壊滅しました。
長崎は江戸時代の鎖国中も唯一貿易が許されていた街です。
今では国際交流が当たり前になった日本でも、長崎ほど国際色あふれる街は数少ないでしょう。そんな長崎には、国内外から観光客がたくさん訪れています。現在の長崎の写真をお送りいたします。
出典は、https://rlx.jp/journal/kyushu/44475 です。
この美しい長崎への原子爆弾が投下さたのです。
1945年(昭和20年)8月9日でした。
爆撃機B-29により投下された原爆は、広島へ原爆投下に続き、人類史上において実戦に使用された2回目の核兵器でした。
長崎市への原爆の 爆心地は長崎市松山町で、現在は平和公園となっています。
長崎は約36%が全焼または全半壊しました。
6番目の写真は香焼島から撮影された長崎原爆のキノコ雲です。(松田弘道撮影) 
7番目の写真は浦上天主堂跡に於ける慰霊祭です。(1945年11月23日) 
長崎市では被爆建物の保存よりも復興を優先的に実施します。そのため、浦上天主堂をはじめとする被爆建物のほとんどが取り壊され、原爆ドームのような被爆の状況を視覚的に理解できる遺構は少ないのです。
遺跡の文化財指定の機運が高まり、長崎原爆遺跡が2013年に国登録記念物、2016年に国史跡に指定されました。 
長崎への原爆投下は大きな悲劇でした。従ってそれにまつわる実に数多くの文學作品が生まれました。映画も数多く作られました。
下記に原爆投下を主題にした映画を示します。

・大庭秀雄『長崎の鐘』1950年木下惠介『この子を残して』1983年
・大澤豊『せんせい』1983年
  • 黒木和雄『TOMORROW 明日』1988年
  • 黒澤明『八月の狂詩曲』1991年
  • 有原誠治『NAGASAKI 1945 アンゼラスの鐘』2005年
  • 青木亮『二重被爆』2006年
  • 木村威夫『馬頭琴夜想曲』2006年
  • スティーブン・オカザキ 『ヒロシマナガサキ』(原題「WHITE LIGHT/BLACK RAIN: the Destruction of Hiroshima and Nagasaki」2007年,ドキュメンタリー)-2007年8月6日、HBO局にて全米放送され、話題を集めた。
  • 日向寺太郎『爆心 長崎の空』2013年
  • ジェームズ・マンゴールド『ウルヴァリン:SAMURAI』2013年
  • 山田洋次『母と暮せば』2015年
  • 松本准平『長崎-閃光の影で-』2025年
今日は長崎の原爆投下の記念日です。それで長崎の原爆投下にまつわることを書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「懐かしいオハイオの夏の写真」

2025年08月08日 | 写真
茫々67年前の夏に私オハイオ州立大学に留学しました。22歳の暑い夏でした。
懐かしいのでオハイオの夏の写真をお送り致します。
写真はインターンットからお借りしました。1番目の写真はオハイオ州立大学の建物です。残りの写真はオハイオの夏の風景です。

「夏の海の風景」

2025年08月08日 | 写真
夏の海の風景の写真をお送りいたします。
風景写真はインターネットからお借りしました。
 

「夏がくれば思い出す納涼祭り、夜店、風の盆」

2025年08月08日 | 日記・エッセイ・コラム
昔は夏の暑さに負けずにこの季節を楽しく過ごしたものです。納涼祭りや夜店、そして盆踴りを楽しんだものです。それらは夏の風物詩です。詩情豊かな夏の文化です。
今日はこの夏の風物詩を私が撮った写真とともにお送り致します。
まず始めは我が町、小金井の納涼祭りと夜店の写真をお送り致します。

1番目の写真は小金井の駅前広場の納涼祭りの様子です。
2番目の写真は小金井の納涼祭りに浮かれる子供達の様子です。
毎年、毎年、子共たちが何処からともなく沢山集まって嬉々として楽しんでいます。
昔は裏の京王商店街に酒屋があり、肉屋、お茶屋、本屋、電気屋、蕎麦屋、2軒の寿司屋、中華そばや、錠前屋、クリーニング屋がありました。そして道端では魚の浜焼き屋や軽トラでやって来る焼き鳥屋までありました。銀行の駐車場にビアガーデン・小さな舞台が設けられ大勢の人々で賑わったものでした。
そんな騒がしい納涼祭りとは別に静かな行事があります。
灯篭流しや精霊流しです。亡くなった先祖を想い故人の冥福を祈ります。
私どもも富山県を訪れて見た「おわら風の盆」の写真を示します。
3番目の写真は富山市八尾町の「おわら風の盆」の写真です。
写真は富山市の観光ホームページ(http://visit-toyama.com/jp/entry.php?nid=20001)からお借りしました。
4番目の写真は富山市八尾町の「風の盆」の全体の様子です。
盆踊りは元来、帰ってきた先祖の霊魂を慰めるために始まったといいます。
数年前に見た八尾町の「風の盆」は非常に静かで優雅でした。珍しい胡弓の音色に哀調さえ感じます。帰ってきた先祖の霊魂を慰めようとする踊り手の気持ちが心に伝わります。

今日は小金井市の納涼祭りや夜店、そして八尾町の「風の盆」の光景をまとめてご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「8月になると思い出す暑い日の玉音放送とM教授の言葉」

2025年08月08日 | 日記・エッセイ・コラム
今年も8月になりました。野山にはいろいろな百合が毎年、毎年同じように咲いています。
しかし80年前の8月15日には昭和天皇の玉音放送があり日本は敗北したのです。悲惨な沖縄戦、広島と長崎の原爆投下の後でした。
私は疎開先の田舎の小学校の校庭で玉音放送を聞きました。帰りに田圃のあぜ道を歩きながら子供心にも敗戦の悲しみを噛みしめていました。
暑い日でした。太陽が田圃のあぜ道を歩いている私に容赦なく照り付けていました。
疎開先の農家の庭に強烈な印象を与える山百合の花が咲いていました。そんな百合の花の写真を探したらよく似たものを見つけました。奥多摩で自分で撮った写真です。その写真をお送りします。疎開先の農家の庭に咲いていたあの日の百合は1番目の写真のような花でした。
あれから80年の月日が流れました。私の人生にもいろいろな事がありました。しかし8月が来るたびに日本の敗戦のことをいろいろ考えるのです。
太平洋戦争は日本民族の歴史で初めての敗北です。外国の軍隊に占領されたのも初めてです。
当時は仙台市に住んでいましたがアメリカ兵が沢山歩いていました。ジープが走り回っていました。
仙台にあった第二師団の広い跡地はアメリカ軍の河内キャンプになり日本人は立入禁止です。
仙台市の郊外の日本軍の施設や飛行場もアメリカ軍に占拠されました。
仙台で焼け残った民間の立派な家々も接収されてアメリカ軍の将校の家族が住んでいます。
ずうと後になって私は大学生になりました。卒業論文の指導をしてくれたのはM教授でした。ある時、M教授の自宅に招待されました。
建築家のライトが設計した暖炉のある立派な家でした。奇跡的に焼け残ったのです。M教授が「この家もアメリカ軍に接収されました」と言ったのです。我々はアメリカ軍を非難しました。そうしたらM教授が静かに言ったのです「戦争に負けるとはそういうことなのです」と。
M教授の顔には深い悲しみがありました。南の島々で戦死した自分の学生たちのことを考えていたのかも知れません。
私は「戦争に負けるとはそういうことなのです」という言葉を忘れません。

あれから80年たちましたが毎年8月になると必ず思い出す言葉です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

ゴッホの「夕方のカフェテラス」 へのコメント

2025年08月07日 | 日記
山田陽子さんより、

内容のある投稿をありがとうございます、楽しませていただいています。
ところで、ゴッホの聖書画「善きサマリア人」はご覧になったことはありますか?とても素晴らしいです。
日本では公開された事はありませんが、後藤様なら
海外でご覧になったのではないかと。

因みに私はカトリック信者です。

「涼しげな北海道の夏の風景」

2025年08月07日 | 写真
涼しげな北海道の夏の風景です。
写真は、「涼しげな北海道の花園の写真」を検索して、インターネットの写真から選びました。


「夏になると妻が思い出す鎌倉」

2025年08月07日 | 日記・エッセイ・コラム
鎌倉は家内が生まれ、そこで終戦の年まで育った場所でした。終戦時は国民学校2年生でした。
家内の話を聞いてから、私も彼女の昔の家の近所を何度か散歩しました。そして鎌倉の中をいろいろ歩き回りました。
家内が鎌倉生まれで小学校まで住んでいた処は長谷寺の近くで現在の鎌倉文学館の下でした。幼稚園は六地蔵の傍にあった聖母幼稚園へ行っていたそうです。その幼稚園を探したら名前は変わっていましたがありました。
通っていた小学校は御成小学校です。現在も当時のままの門がありましたので写真を撮りました。
1番目の写真は御成小学校の門です。御成小学校は海蔵寺や寿福寺に行く途中にあるので何度も行きました。戦前の校門と講堂が残っています。
2番目の写真は現在の鎌倉文学館学館です。
そこは当時、妻は加賀様山と呼んでいて、別荘の庭やその周囲の丘や草原で毎日のように遊んでいたそうです。
3番目の写真は昔家内の家のあった場所です。1975年頃迄は当時のままの2階建ての家が残っていました。
そして自宅から路地を抜けて、江の電の線路を渡ると由比ヶ浜です。夏になると親類の若者や子供達が海水浴に来て、何日も泊っていきます。
4番目の写真は由比ヶ浜です。
家内の父親は横須賀の海軍の経理学校で教えていました。一応佐官待遇だったようですが自由な思想の持ち主で陸上競技や野球を楽しんでいました。
鎌倉は終戦まで大規模な空襲が無かったので、戦前の余裕のある楽しい生活が続けられたのです。
鎌倉に行く度に家内が元気はつらつになるのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「夏になると思い出す特急つばめと東海道本線の旅」

2025年08月07日 | 日記・エッセイ・コラム

夏になると特急つばめと東海道本線の旅を思い出します。懐かしい特急つばめと東海道本線の旅の思い出を書きたいと思います。昭和16年から戦後にかけての思い出です。

昭和11年に生まれた私は毎年夏になると特急つばめに乗って兵庫県の田舎にある父の実家へ行ってました。父の実家は曹洞宗のお寺です。父母と兄弟3人で1週間ほど泊まりました。

当時住んでいた仙台から上野までは蒸気機関車だったので煤煙でシャツが真っ黒になったものです。

それが東京駅で「つばめ号」に乗り換えると煤煙がなく素晴らしいのです。窓を思いきり開けて涼風が楽しめるのです。

新幹線の開通の後あの懐かしい「つばめ号」は消えて無くなりました。

しかしインターネットには写真が残ってい.ます。その「つばめ号」の写真を示します。

超特急「燕」は東京~大阪間568kmを、それ以前の特急「富士」に比して2時間半近く短縮する,8時間20分(表定速度68.2km/h)で走破し、「超特急」と称されました。

「つばめ」の食堂車は「みかど」が営業を請け負い,洋食を提供しました。
開業日の定食メニューは,スープ,伊勢エビのゼリーかけ,牛肉の松茸ソース,七面鳥の蒸焼き温野菜添え,果物,珈琲で〆て一圓三十銭でした。

さて大阪の梅田に着くと今度は阪急電鉄に乗り換えます、更に能勢電鉄に乗り換えて父の実家へ着くのです。

東海道本線ではあちこちで途中下車して観光しました。熱海の温泉街や名古屋城。そして伊勢神宮や熱田神宮などに懐かしい思い出があります。


私の「昭和の思い出」として特急つばめと東海道本線の思い出をお送り致します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「夏祭りと花火大会そして私のお盆の墓参り」

2025年08月07日 | 日記・エッセイ・コラム
夏の行事としては夏祭りと花火大会が代表的です。夏の風物詩です。またお盆には祖先の霊を祀ったお墓に花や線香をあげに行きます。 七夕や海水浴やプールも夏の行事です。甲子園の野球大会も夏も行事です。
夏祭りは疫病退散を願う意味もあり各地で神輿を担いだり踊ったりと熱気あふれるます。
花火大会では打ち上げ花火や仕掛け花火をして多くの人が夏の風物詩として楽しんでいます。
お盆には祖先の霊が帰って来ます。家族が集まりご先祖様を祀る大切な行事です。
七夕では笹飾りをしたり短冊に願い事を書いたりする行事です。
遊びでは海水浴やプールに行きます。夏の暑さをしのぎ水辺で涼むことができます。
そして甲子園で夏の高校野球の全国大会があります。
それはそれとして私は妻の実家の墓参りに行きます。運転免許を昨年返上するまでは毎年行きました。
家内の実家のお墓は日野市の大昌寺にあります。何度も墓参りに行きました。
大昌寺は浄土宗知恩院末のお寺で、江戸開府の前年、慶長7年(1602)、八王子の大善寺の開山である中秀助給和尚が隠棲の場所として建立したといわれています。
江戸時代、大昌寺の梵鐘は日野宿に時を告げ親しまれていました。
日野宿の名主を務めていた、新選組の育ての親である佐藤彦五郎(家内の親戚)の子孫の墓もあります。妻もその子孫の一人です。
毎年この大昌寺に墓参りに行くと時の流れの早いことに驚いたものです。

その大昌寺と妻の実家のお墓の写真をお送り致します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「日本の夏の風物詩」

2025年08月06日 | 日記・エッセイ・コラム
春夏秋冬、四季のある国・日本。日本語には「風物詩」という言葉が存在する。それは「その季節をあらわす代表的なもの・こと、または季節に感じさせるもの」だ。日本でその季節になったらよく食べるものや見られる風景、風習などがある。

https://www.fun-japan.jp/jp/articles/12727 の目次
日本の夏の風物詩:自然
日本の夏の風物詩:夏のファッション
日本の夏の風物詩:夏のアクティビティ
日本の夏の風物詩:夏の祭りやイベント
日本の夏の風物詩:夏ならではのアイテム
日本の夏の風物詩:料理・スイーツ・飲み物

「夏の風物詩は海水浴の光景」

2025年08月06日 | 写真
夏の風物詩は海水浴の光景です。幼少の頃の楽しかった海水浴の光景を懐かしく思い出します。
一番懐かしいのは仙台の近所の荒浜や菖蒲田や桂島の、そして野蒜海岸や宮戸島での少年の頃の海水浴の思い出です。
インターネットで検索して桂島と宮戸島の風景写真を探しました。
1番目の写真は現在の桂島の海水浴場の風景です。
2番目の写真は海開き後の宮戸島の海水浴場の風景写真です。
3番目の写真は海開き前の茅ケ崎の海水浴場の写真です。
4番目の写真は昔から有名な大磯の海水浴場です。海開き後は人で溢れる海水浴場です。
5番目の写真は海開き前の茅ケ崎の海水浴場の写真です。夏を待ちきれない若者達がサーフィンを楽しんでいる光景です。

こんな光景を海水浴の光景を思い出すと不思議に若かった頃の元気が湧き出して来ます。皆様も暑い夏をお元気でお過ごし下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)