ドーナツ畑の風に吹かれて

おかわり自由のコーヒーを飲みながら、廻る季節をながめて、おもったこと。

図書館がオンライン予約可になったので、調子にのりました。

2005-07-31 16:02:03 | 読書三昧
 相変わらず最近の作品読むのが自分の中ではやっている。
 いつもより早いサイクルで本読んでたら、好きな文章、作家の傾向がだんだんわかってきた。


「カスピアン王子のつのぶえ」C.S.ルイス(再読)
 ナルニアシリーズの2巻。やっぱおもしろいなぁ。でも、昔ほどの衝撃はない。汚れちまったかなしみだ。
 ファンタジー系は、世界観からまるごと頭の中に構築して読まなきゃいけないから、想像力フル回転。子供の時にそういうのを読む訓練しとくのはとてもためになるとおもう。
 

「タイムカプセル」生田紗代
 若い女性作家のを最近よく読むけど、それらと比べるとなんとなく見劣りしちゃうなぁ。チラシの裏的な感じがまだしてしまう。ぬるい、という感じ。
 就活中のいとこの描写が、就活生にはかなり痛い。けど、なんか一般的なイメージの域を出ていないような……。


「最後の息子」吉田修一
 ビデオ日記を軸に物語が進む。という構成がすごいとおもった。最後のあたりでぎゅっとくる。
 主人公のヒモ加減が絶妙。オカマの閻魔ちゃんの心理をうまく読んでくのだけど、閻魔ちゃんという人物には、ああ人間ってこうだよなぁ、となぜか切なくなる。
 最後の息子、というキーワードの登場の仕方にものけぞった。これをタイトルにしようとおもったことがすごい。
 表題作以外の2編は普通の青春ものって感じ。同じ本に収録されてる意味がよくわからない。


「パラレル」長嶋有
 長嶋有、大・最・高! 今もっともわたしの心をくすぐる作家だ。もぅ。
 この温度の低さは毎度たまらない。温度が一貫して低いからこそ、たまにある小さな違和感に敏感に気づくようになる。そういうものが、実は一番重要だったりするんじゃないのか、とか勝手に思って盛り上がっている。
 たまに出てくる気の抜けたネタもとてもいい(本作ではないが、「シータは木登り平気だよね」というネタがさらりと使われていた時の衝撃を、わたしは一生忘れないであろう)。このすっとぼけ感はなんなんだ。
 主人公のがっついてない感じも心地いいな。出てくる人たちが微妙にずれてる、そのずれ方も好みだ。真っ白い紙を使ってるのも好感度高い。そうだよね、この小説を本にするためにはどうしてもこの紙の白さでなければだめだよね、と激しくおもった。この本はぜひ手元におきたい。図書館で借りて読んだが、たぶんいつか買ってしまうだろう。


「ナラタージュ」島本理生
 やたらと評価高かったので読んだ。
 いちいちがわたしの感性をすり抜けていく小説だった。
 一生に一度の激しい恋、みたいなテーマだとおもうのだけど、恋する相手である学校の先生があまり魅力的でない気がする。主人公の友人連中だとか、付き合い出す男の子の方がよっぽど魅力的な気がするのだが。山場の作り方も安直なような。妊娠ネタと同じくらい安直なような。文章もやたらに硬いし、過去形多様だし。ナラタージュというのがそもそも過去語りみたいな意味らしいから、しょうがないのかもしれないけど。理生ちゃんもっとうまくなかったっけ? とおもってしまった。ただたんにわたしに合わなかったというだけの話だろうけれども、下手ということではなしに、ここまでわたしの感性をことごとく否定するように進んでいく小説は初めて読んだなぁとおもった。
 なんか、優等生的な気がしちゃったな。あと、演劇部が題材になっているところも、多分ひっかかりぽいんとになってしまったのだろう。演劇である必要性がまったく感じられんのだもの。


「となり町戦争」三崎亜記
 前評判よすぎて拍子抜け系。
 前評判なしに読んだならびっくりしただろうに。おもってたのと少し違ったし。もっと淡々としているのかとおもいきや、問題提起みたいな意識が想像以上に前面
に押し出されてたり、恋愛みたいなものも微妙に絡んだり。発想はたしかにすごいとおもうんだけど。でも、お役所仕事の書き方はさすがにうまかった。


「彼女が語りはじめた彼は」三浦しをん
 この人の文章はあまり好きではないんだなぁ。必要以上に暗い、というか黒いから。
 でも、連作をこのような形でまとめあげ、一つのテーマに収束させていく力量はかなりのものだとおもった。普通にうまい。
 いろんな女に手を出しまくっているえらい学者先生と、その先生を取り合う女たちというのが中心にあるんだけれども、連作はそのさらに外側にいる人たちを順に主人公にしていく。その距離のとり方も素敵だ。それでいてテーマがばらつかないところも。連作って最近多いけど、これは連作であることを見事に生かしてる感じがしたな。
 重松清によれば、ここには「人の孤独について書かれてある」らしいけど、たしかにそんな感じがした。


「優しい音楽」瀬尾まいこ
 1時間で読了。いい話なんだけど、マイルドすぎてわたしにはどうも物足りない。でも、ここまで終始一貫のったりできるのは、それだけで一つの芸だとはおもう。

お父さんはつよい

2005-07-31 15:20:23 | 映画三昧
 最近、大作ばっかり見ている気がする。親にくっついて映画を見に行く率が高いということもあるかな(在宅プチニートだから家族といる時間が多い。高校さぼりまくってた時期を思い出す)。
 あと、ミニシアター系は、一度情報収集を怠ると今なにやってるのかわからないから見に行かない、ということになる。一度見に行くとそこの予告で知ったやつを見に行って、さらにそこの予告で知ったやつを見に行って……という幸せな散財スパイラルに陥るわけだけれども。


○スター・ウォーズ エピソード3(二回目)
 六本木ヒルズで妹と見てきた。妹もわたしと同じく親にスターウォーズ脳を作られたので、ある意味身の回りで一番スター・ウォーズの話が合う人間である。六本木ヒルズは、キャラメルポップコーンの香りがただよい、未来的な内装で、とてもディズニーランドのトゥモローランド的だった(いうなればスターツアーズ)。
 二回目となると、前半の説明的な部分はやや眠い。が、冒頭の宇宙船のシーンと、後半のアナキン君が暗黒メンになったあたりからはやっぱりすごい。アナキン君とオビワンの心理描写はとてもがんばっているとおもう。役者の演技もとてもいい。ヘイデン君は何もしなくても目力だけで存在感あるし、ユアンはいい演技してるとおもった。存在感も、演技力も、どっちも役者にとっては欠かせないことだよね。
 できれば吹き替え版も見たいなぁ。


○皇帝ペンギン
 フランス語でしゃべるペンギンドキュメント。わざわざ吹き替えの注意書きがないユナイテッド・シネマとしまえんまで行ったのに、吹き替え上映だった。超ショック。フランス語がききたかった。
 皇帝ペンギンは産卵のために20日間かけて南極の内陸まで並んで歩く。そして、120日間絶食で卵を守る。ペンギンはすごい。こんなにすごいことしているのに、容姿を見ているとちっともすごくない。ただの、足の短い変な鳥だ。それが地平線の向こうまで一列に並んで歩いている姿はなんかもうすごい。笑うしかない。そんな、笑うしかない姿でよちよち一生懸命歩いて、絶食して子供を守るなんて壮絶なことをやりとげる。このギャップがたまらない。けれども、彼らは別にわざとギャップを作ってやろうとしてるわけじゃない。どう考えても歩くのに不適切な足をそれでも一歩ずつ踏みしめて歩くことも、絶食することも、やつらにとっては当たり前のこと。そこに意図的なものが何一つないから、感動的なのだ。
 人間がそんなペンギンをフィルムにおさめようとすると、やたらと荘厳な音楽を鳴らしてみたり、思わせぶりな撮り方をしてみたり、セリフをしゃべらせてみたり、装飾的になりすぎる。「ディープブルー」や「WATARIDORI」を見た時もそうだけど、動物とか自然といったものは、はっきりいって存在しているという事実だけですごいので、その上にかぶさる人間の作為が全部邪魔くさい。NHK的に、淡々としたナレーションつけるくらいのテンションがちょうどいい。
 それにしても、そうやって人間が勝手な演出効果ねらって余計なものあれこれつけくわえてすら、ペンギンはすばらしい。なんでだろうと考えてみると、それは多分、ペンギンはそれらすべてを当たり前だとおもっているからだ。ことさらに悲劇ぶろうとも喜劇ぶろうともしない。そういう無自覚さの中に本当のおかしみとか本当のかなしみとかが宿るんじゃないかな。


○フライ、ダディ、フライ
 主演が岡田くん&堤で主題歌がミスチルという、見るしかない映画。
 堤のだめっぷりがものすごかった。魂を感じた。そんなおやじのがんばる姿はなんだか爽快感。自分もがんばらなきゃならないなぁ、と思わせてくれる。
 おやじが戦っている相手は、世の中の理不尽、なのだとおもう。おやじの叫びに思わず涙してしまった。叫ぶくらいしかできない時がある。凡人だもの。ぼくら、平凡な大人だもの。
 おもった以上におもしろかった。ご都合主義的な展開はあるし、岡田くんは無駄にかっこよく描かれすぎな部分もあったが、映画をとんとん進めていって余計な事に煩わされないため、と取ればまあ気にならない。見た後、自分の中に異様に活力がみなぎる(それが持続するかどうかはまた別の話だけど)ので、元気がなくなったらまた見たい。

空もとべるはず、かもしれない

2005-07-28 01:56:16 | 日記
 明日の某書店三時面接のために、店舗見学に行くin汐留。
 新しいビル群はほとんど窓に覆われていて、薄いグリーンの窓ガラスに空が映りこんでいてとてもきれい。そんな空の鏡みたいなビルがいくつも建ってるものだから、空は限りなく狭いのだけれども、今日は低いところを白い夏の雲がいくつも流れているものだから、狭さと低さの相乗効果で、なんだかおそろしく空が近かった。空の中にいるようだ。と、おもった。高層ビルは好きだ。新宿の近くで育ったからだろう。わたしのふるさとにはウサギが美味しい山も子豚を釣る川もなく、かわりににょきにょきの高層ビルと関東平野の果てまでまっすぐ伸びる中央線に見守られて育った。中央線の東中野~吉祥寺間あたりの高架は、空とぶ電車みたいでとてもいい。

きみはぼくをそれていった。

2005-07-27 02:23:01 | 日記
 台風はどこに行ったんだろう。
 ニュースの人たちは、やっぱり被害が大きい方がうれしいのかな。一生懸命被害を探し出してそれを大々的に報道する。何度も何度も。まあ、多分視聴者がそれを期待してるってことなんだろう。わたしも単純に、せっかく台風来るぞって覚悟きめてるんだから派手にやっておくれよとおもう。実際被害にあったらコノヤロー! っておもうんだろうけども。まあ、そんなもの。



 孤独というのは、会いたい人が咄嗟に思いつかない状態をいうのかもしれない。
 だとしたら、わたしは現在進行形でそれだ、とおもった。自室で鋼の錬金術師のビデオを見ながら、ふと。その程度のものだ。孤独はわたしたちのあそび道具みたいなもの。
 ただ、会いたいと思う人がいる状態が孤独じゃないかといえばそうでもないような気がする。会いたいけど会えない、という状態は、場合によってはとてもとても破壊力がある。心に負荷をかける力。もしかしたらより有機的でより生々しい孤独なのかもしれない。もはや孤独という呼称は似合わないかも、でもそれに似た何か(孤独か、それに等しいもの、みたいな)。
 会えば楽しいだろうなとおもえる人は何人かいる。それはとても嬉しいこと。

 一人で生きていきたいと、しびれるように思う瞬間がある。
 就職できなきゃ自立は無理だ、とおもってあきらめてきたが、もし万が一就職できたとしたら、自立できるかもしれない、物理的なことだけじゃなく、どちらかというと精神的に。もし就職できたら、ちょっと考えてみよう。と、某書店の二次面接通過の通知を受けておもったりした。すっかりあきらめていたのだけれども、初めて二次面接というものを通過したよ、嬉しい。本当にすっかり可能性ゼロと思い込んでいたのだけれども、まだまだわたしが就職するという未来もありえるのかな、そうなのかな、と久々に思う。だとしたら、その、低いひくーい可能性がもし実現したとしたら、一人で生きることにしてみようか。覚悟を決めて。
 何かこう自分以外のものに判断を託すクセが昔からある。受験の時にもこれと同じようなこと考えていた。受験に受かったらこうしよう、落ちたらああしよう、と。受験の結果を大学進学以上の選択に流用する。自分で決めないのは楽なことだ。面接官が決めてくれればいいとおもう。無責任に、他人事として。
 一人じゃなく、どういう形であれ誰かと生きようとおもっても、裏切られるのがオチだとおもう。予想というより、ほぼ事実として。もし一人で生きていく力がないとしたら、かわりにいつかくる裏切りの予感に耐える精神力を身につける必要がある。義務がある。というような気持ちになる。最近。諦観みたいなものだ。往生際が悪い人ほど苦しい。だから、なるべく苦しまないように、楽になれるように、あきらめたり割り切ったりするのは賢いことだ、とわたしは信じている。でなければ救いがない。正しいことがよいことだとは限らないし、正しさが救いだというパターンの方が実は少ないのではないかという気さえする。

台風に閉じ込められた部屋で読む本はどきどきする。

2005-07-26 02:55:29 | 日記
 死にたいのとも少し違うなぁ、とおもいなおす。
 なんというか、もっと積極性に欠ける気持ちなのである。死ぬっていうのは、とても積極的な行いだからね。重度のうつ病の人は死ぬ元気すらないらしいじゃないか。

 それにしても最近の自分の日記がつまらない。わたしの中身がつまらないからだろうか。中身をつめたい。
 ところで、おもしろいというのは一体どういう基準なんだろう。考え始めたらわからなくなってきた。おもしろさ、とは、どこからくるのか。文章に限定したとしても、なんだか難しい問題だ。ある文章を読んで、即座に「おもしろい」とか「おもしろくない」とか判じることは簡単なのに。
 今なんとなく思いつくことは、具体的だったり唯一無二だったりする内容はおもしろいような気がする。抽象論はあまりおもしろくない。あと、悲劇よりは喜劇に傾いている方がおもしろいような気がする。人生なんて、結局おしなべて悲劇なのだから、かなしいことをかなしく書いても仕方ないのである。喜劇風味に書く方がかえって悲劇は際立つし、そういう際立たせ方の方がすくなくともわたしは好きなのだ。
 何より大事なことは、自意識が過剰でないこと。ここでいう自意識というのは多分普通で使うよりも若干広義になっているとおもうけど。自己主張と言い換えてもいいかな。とにかく、そのようなもの。そんなのは「チラシの裏」なのであって、ただそれだけを塗りたくった文章は他人に読ませる価値がない。しかし、文章というのは表現のツールであって、表現っていうのはつまり自己主張で、ここら辺矛盾してくるんだけども、なんだろう、自己満足にならないということだろうか。よくわからない。よくわからないが、わたしは多分他人の自意識におそろしく敏感で、過剰に嫌悪している。おそらく同族嫌悪だけど。で、自分の自意識も邪魔だなーとおもう。なくなればいいのに。

 こういうことをグルグル考えていると、じゃあ自分は一体どんな文章を書きたいのか、書けばいいのか、わからなくなってくる。文章、というのは、ここに書く日記くらいならまだいいんだけど、つまるところ小説のこと。理想ばかりをもてあそんでもしょうがないので、不完全だろうが自分が嫌悪する自意識むき出しの文章になってしまおうが、とにかく書けばいいのだ、が、それができないのでウンウンうなっている。特に今、生きる気力すらないのに、小説書く気力がどこにあろうか。どんどん書けなくなるなぁ。でも、多分わたしにとって書くことは生きることと同じこともしくはそれ以上なのだから、なんとか書けるようになりたいのである。多分、どうやって生きようと考えるよりは、どうやって書こうと考える方がわかりやすいしやりやすいし楽しいし。結局、わたしが生きている上でのすべての行動の動機はここから来ているような気がする。商業作家になるかなれるかという問題とはまったく関係ない次元の話なのである。


 ところで、台風に閉じ込められた部屋で読む本はどきどきします。
 というのは、多分、小学校の頃、夏休みにドリトル先生を読んでいた時の印象があまりにも強いからなのだが、わたしにとって一番幸福な読書というのはあのようなものだった。そんな感じで生きていきたいなぁ、と漠然と思う。ささやかだけど、特別で、派手じゃないけど、最高にエキサイティング。

おぼろ

2005-07-25 03:49:19 | 日記
 最近、今まで生きてきた中で一番死にたいなーとおもう。
 生きているのに一番必要なのは「夢」だ。ぐるぐる考えて結局王道に行き着いた。多分、王道というのは行き着く先のことなのだろうと、最近はおもう。
 わたしには夢がない。
 生きていてもしょうがないのである。だから死ぬことをおもう。生きていることがどうしようもなさすぎて、死にたいとおもう。
 多分、実際に手首切るための原動力としては弱すぎるので、しないだろうけど。このどうしようもなさを抱えて生きていくというのもまた不毛だな。と、ぐるぐる考えている。いつまでこのぐるぐるは続くのだろう。

 自由は、素敵だが、それは多分「夢を追うことを妨げられない」状態なのであって、夢のない人にはあんまり関係がない。フリーターなんて自由っぽい身分になってもちっとも嬉しくない。誰かわたしのためにレールを敷いてくれ。ギブミーレール。なんて、情けないことまで考え出す始末。誰かの敷いたレールの上を進む人生なんて、と言える人がどれだけ健全かってことだ。


 最近、子供を生むのもいいかもしれないと考えている。
 多分、生き物としての存在理由は子孫を残すことだろうから、それを果たすためなら生きていける気がする。自分を変えるために子供がほしいというのもずいぶん自分勝手で、生まれてくる子に申し訳ないような気もするけれども。自分の中の、生き物としての、まっとうな本能を信じたいのだ。こんな理屈を考え始める以前から、彼の子供がほしいなという気持ちはあった。その、自分の中にあったノーリーズンな部分を信じたい気がする。それくらいしか、信じることができて、その価値もあるもの、がない気がする。割と本気である。生まれる頃には大学も卒業してるし(多分)、などと、逆算してみたりする。


 逃げることすら、それが人生の目的となるのであれば、大歓迎したい。多分わたしは逃げる努力すら放棄している。だから、人生がちっともおもしろくないんだ。

そうだ、京都いこう

2005-07-18 03:35:24 | 日記
 8ヶ月病院でがんばった祖母が今日の朝、息を引き取った。ここ何年かはずっと調子が悪かったし、何度か入退院を繰り返した末のことでもあり、我々家族は何年もかけてこの日のための準備をしてきたようなものだ。心の準備もそうだし、実際的な生活のいろいろのことも。
 ずっと寝たきりで、ただ痛い痛いって言ってたから、早く楽になってほしいなぁ、というのが家族の総意だった。本人も、意識がはっきりしてる時はそんなようなことを言ってた。なので、意識が戻らないまま眠るように迎えた最期は、そんなに悪いものではなかったとおもう。何度か「奇跡の復活(と看護婦さんたちに呼ばれていた」も遂げたり、十分がんばったとおもうし。

 隠居して、一通り人生のあれこれをやり終えた後、本人も周りもきちんと時間をかけて覚悟した上での死は、おもったよりも安らかだな、と感じた。涙は出たが、かなしいというのと少し違った。しょうがない、というと悪く聞こえてしまうが、人間はそういうもんなんだということに素直に得心が行く、そんな感じ。喪失感はもてあましてしまうほどの途方のなさじゃなくて、手のひらサイズの、これからずっと手の中で愛でていくのにちょうどいい大きさだと思った。
 さっそく駆けつけた祖母の友人たちの雰囲気もそんな感じで、祖母のそばでお酒を飲みながら祖母の思い出話をする姿は、かなしいというのと少し違って、人間てーのは切ないなとおもった。

 わたしはしばしば死にたくなるけど、いろんなことをやりのこしたまま唐突に居なくなるのはイクナイ、やめよう、とおもった。多分、そういう場合に周囲に与える喪失感や悲しみは、祖母が周りに与えたものの比ではない。それはよくない。死というのは多分、本人よりも周りにとって大問題だとおもうので。
 死んでしまえば、生きてる人間が何を考えているかなんて、もう本当にどうでもいい、関係のないことなんだと、ズーンと実感した。こうすればきっと喜ぶとか、そういうのは、生きてる人間の脳内補完でしかない。それがいなくなるということなんだと、おもった。それについては、これからじっくりと考えていきたい。

 祖母のように、全部きちんとやりおえて、安らかに周りの人に送ってもらえるような死に方がしたいとおもう。あと何十年か後に。

 無理を言って某氏にうちまで来てもらった。かなしくないとか言ってはいるが、平気というわけではもちろんなく、とても心細かったので。
 わたしはこれからも生きていく。ということを、確認したかったのだ、多分。
 近いうちに家族になるのだろうけど、どっちが先に死ぬのかなぁとぼんやり考える。すべきことをし終えた穏やかな日々に到達してからなら、どっちだってかまわないのかな、と思ったりする。

 ああ、家族というのは不思議だなぁ。孫のわたしは、祖母の人生の最後の最後の登場人物。わたしが死ぬ時、孫がいたとして、どのような存在としてわたしは孫の目に映るのだろう。そうやって、連鎖していくのだな。

 祖母は京都が好きだった。元気な時には、毎年秋の、一番いいシーズンに京都に旅行に行った。小学生くらいの時、連れて行ってもらったことがある。祖母とのよい思い出。わたしは初孫なのでとてもかわいがってもらえた。
 今度から、京都に行く時には祖母の分も楽しもう、とおもった。

「もう疲れた誰か助けてよ!」

2005-07-16 04:04:50 | 日記
 最近、サークルに行く時はいつも「久しぶり」になってしまう。今日は昼間に選考があったから、その勢いで2週間ぶりにサークルにも顔を出したのだった。
 母と某氏と面接官のおじさんしか話す相手のいない日々だから、急にたくさんの人がいる場所にいくと疲れる、気がする。でも、行く前に心配していたほどではないのだ、いつでも。久しぶりにみんなに会えたのは結局うれしかったし、久しぶりに能ができてうれしかった。プラスマイナスで考えたらあきらかにプラスだ。
 ただ、たまったストレスと疲れはすでに自分では認知できなくなっているというのがY女史との共通の見解で、どうでもいいことで突然黒いドロドロが体内からあふれてとまらなくなったりする。針の先でツンとつつかれたように。ツン、ぷくぅ、でろでろ。
 久しぶりにY女史と二人でしゃべってたら、すっかり自分がなにをしたいのかわからなくなってた。今自分がなにしゃべりたいのかさえよくわからない。結局わたしはなんのために人と会話をするのだか。途方にくれるなぁ。いろんなことをぐるぐる考えなければならなくて、筆記試験のたびに謎の性格検査をされて、そこまでしてもなおぜんぜんぶれない確固たるものなんてのはそうそうないので、どんどん空っぽになっていく。しまいにはヘナヘナのペシャンコだ。ぷくぅ。いい加減に生きて何が悪いのか。人間には「粘り強い」か「あっさりしている」か、どっちかしかないのかい? と反抗する気力すらそろそろなくなってきた。筆記で性格試験やるのが、多分就活の中で一番きつい、と最近おもう。
 みんな、いろんなこと考えて確固とした目的と手段を携えて生きておられますか? 人間ってあんがい何にも考えずに生きてるもんなんじゃないのかなぁ。もう考えるの疲れたのよー。
 

「だけど死にたくもない」

2005-07-14 03:02:21 | 日記
 家族と某氏以外の人間とまともにしゃべってないなぁ、最近。授業もサークルもサボってるから当然だけれども。というか、あまり人と会いたくないという理由で引きこもっているわけだけれども。
 なんかもう、自分がだめすぎて、きちんと生きてる人たちの前に出られない。合わす顔がないという気持ちになる。寝過ぎというだけでは説明つかないような頭痛と、空腹時特にひどくなる吐き気(で、何か食べても結局吐くのである。イヤ循環)も外に出たくない原因。単純に体調悪いということ。
 卒論書くくらいしかしなきゃいけないことないんだから、やればいいのに。
 そろそろ本格的にやばいのよ。間に合うのかしら。本当に間に合うのかしら。この子本当に卒業する気あるのかしら。

 多分いま、人生で一番ハードル低く生きてる。大学卒業してフリーターになったら、多分もっと下がる。ほとんど海抜0メートルになるであろう。結局、わたしはそれを望んでいたのだな、ずっと。
 たしか中学生の時に思ったのだけど、高校受験があって、それが終わると大学受験があって、それが終わると就活して、それが終わると会社でいろんな仕事をして、これは大雑把な話でそれぞれの時代にそれぞれこまごまとしたやらなきゃならないことがあって、そういうやらなきゃならないことに追われていくことでしか生きていけないんだろうか、ということ。未来のために今しなければならないこと、をし続けるということは、永遠に、今のためには生きられないってことなんじゃないか、と。そこに思い至った日、わたしは本気で人生に絶望したのだった。そこから逃れること、少なくともそれをストレスと感じないような生き方を、ずっと探していたのではないかな。
 もう少しでそれが叶うのではないかと、実はちょっと思っている。居場所と引き換えに、自由を得るかもしれない。
 それは幸せなのだろうかね。
 幸せと安息のどちらかが得られれば結果オーライなんだけどもな。

 某氏といることが気楽なのは、多分「ために」何かしなくていいからだとおもう。先のことを計算しなくていいからだとおもう。わたしはどうしてもあざとさが抜けないので、友達といる時には結局いつも先のことを計算してしまってるような気がする。友情を、分析したり比較したり、自分に有利にするためのいろいろを考えてしまってるような気がする。そんな資格はないのに、と、今の自分を振り返っておもうのだな。だから最近、人と一緒にいるのがいやなのかもしれない。と、自己補完。

 この前、某書店の店舗見学のために笹塚に行った時、某氏についてきてもらった。行きは普通に電車で行って、帰りはバスに乗ってみることにした。一時間に一本あるかなきかの新宿行きバスは乗客が誰もいなくて、乗り損なって「あー!」って叫んで指差したら停留所でもないところに停まってくれた。ありがとうございますと言って乗り込んだら「今日は貸切だよ」と、運転手のおじちゃんのナイスな一言。結局新宿まで貸切だった。降りる時に「今日は貸切でのご乗車ありがとう」なんて、運転手のおじちゃんにお礼言われたのは初めてだよ。
 自分たち以外誰も乗っていないバスはなんだかいつもと違ってすっかりくつろいだ空間で、親しみやすいおじちゃんが運転してると思うとますますそんな気分が強くなって、頭の中には猫バスのテーマ曲が流れていた。たとえば、世界がそんな風であったなら。ハードルの高い低いなんて考えずに、生きていけたかもしれないのになぁ。

「スター・ウォーズ エピソード3」 伝説の終わりの記録

2005-07-11 01:40:13 | 映画三昧
 スターウォーズが楽しみすぎてまったくなにも手につかないような状況に陥った。まったく、わたしはなんの前触れもなく正気を失うので困ったものだ。たしか「ロード・オブ・ザ・リング」の時もそうだった。「東京タワー」の時もそうだった。最初から見たいとは思っているのだが、公開が近づいてくると、ある時突然見たさがマックスになって、人としてどうなのという風になってしまう。今回も、なんだか挙動不審になって旧三部作を一生懸命見返したりしてしまった。これはもう初日に見なければ気が済まない……! という衝動を抑えきれず、某氏を巻き込んで公開初日の新宿プラザに突撃することとする。本当は日中、ダースベイダーの格好をした人やライトセイバーを持った人たちに囲まれて見たかったのだけれども、某氏の都合が合わないということで、どうにか自制。某氏がバイト終わった後、オールナイト上映に行くことにする。
 それにしても先走って、上映の2時間前くらいに現地入り。某氏はわたしの好きにさせておくのが最良と判断したようで、黙ってつきあってくれた。ほとんど誰もいやしねーロビーにて、マックをもしゃもしゃ食べながら(某氏の夜ご飯)、待つ。壁の向こうから、どがーん、ぴゅーんぴゅーんてな感じのおなじみの効果音と、ジョン・ウィリアムズでしかありえない音楽と、ウーキー族の雄たけびが聞こえてくる。
 上映一時間前くらいになってぼちぼち人が集まり始める。0時15分からの回なんて、見終わった後電車ないのに、よくこれだけ人が集まるなーと、自分のことは棚に上げて思った。
 結局、約1000くらいある客席は7割がた埋まった。この時間でこれはちょっとすごい。さすがにコスプレした人なんかはいなかったけれども、始まりと終わりには歓声と共に拍手が……。ただお祭り騒ぎしたいだけの酔っ払いが騒いだだけかもしれないけれど、映画見るのに拍手が出るっていうのは、いいなぁ、とおもった。それだけの映画なんだ、スター・ウォーズは。

 
 感想としては、CGの扱い方が新三部作の中で一番こなれているように感じた。冒頭の宇宙での戦闘シーンは圧巻。このシリーズはいつも冒頭に気を使ってる感じがとてもいい。
 アナキン君がダース・ベイダーになるという結末を観客の誰もが知っているという状況で映画を作ることは、案外大変なんじゃないかなぁ。結末を知っている映画をここまで楽しんで見ることができるというのはすごいとおもった。ひたひたと近づいてくる悲劇の予感がたまらなかった。そして、どんどんエピソード4とつながっているさまざまなこと。やはり旧三部作ファンの方が、感じるところが多かったのではないかな。
 アナキン君がダース・ベイダーになってしまうまでの心理描写について、強引なんじゃないかみたいな意見もいろいろあるようだけど、わたしはこんな感じなんじゃないかなと素直に納得した。多分。ダークサイドっていうのはそもそも理不尽な代物なんだ、と。
 アナキン君がベイダーの仮面をつける時、悲しげな音楽が使われていたのが印象的。大々的に物々しく帝国のマーチを流したりするのかなーと思っていたから。ベイダーの誕生は共和国にとっての悲劇であったし、本人にとっても悲劇だったんだ、と思わせてくれた。あと、もっと前のシーンになるけれども、ジェダイの人たちが不吉な予感について話し合っていた時(かなりうろ覚え)に静かな音楽が使われていたのもうまいなぁとおもった。いつもだったらいかにもまがまがしく不吉な音楽を使っていたのではないかと。いい意味でいつものスターウォーズらしくない雰囲気のシーンがいくつかあって、それが、これがシリーズの最後なんだ、特別なんだ、という緊張感を生んでたように思う。
 ルークとレイアが誕生してから、エピソード4の時代までの20年間、オビ=ワンとヨーダはずっと息を潜めて待ってたんだなぁ、と思うと、なんか泣けてくる。エピソード4・5・6が今までとぜんぜん違う作品に見えてくる。ああー。
 戦闘シーンもすごかった。映画史上最長の剣術シーンとルーカス自身も語っているようだけど、すごかった。ぜんぜんあきなかったし。+悲壮感で、もう文句のつけようがない。
 役者としては、オビ=ワン役のユアンさんがよかったようにおもう。アナキンとパドメは、二人の愛情がなんだか稚拙に見えてしまって、もう少しがんばれたんじゃないかとちょっと残念。パドメさん、エピソード1の時が一番きれいだったような。うーぬ。ルーカスはラブストーリーが苦手なのだろうか? と思ってみたものの、エピソード4・5・6でレイア姫が反発しながら結局ハン=ソロに引かれてしまうところとかはそんなに違和感なく描けてるとおもうんだけどなー。アナキンとパドメの関係は、わたし的にシリーズ最大の難点って感じ。物語のキーポイントであるだけに惜しい。

 あと一回は見る。もしかしたらそれ以上劇場に足を運んでしまうかもしれない。わたしが生まれる前からの伝説のクライマックスだもの。子供の頃、ヒマになるとスターウォーズのビデオを繰り返し見ていた。もはや、わたしの体に染み付いているスターウォーズの空気。それが、終わるのだ。いやー、もう。
 スターウォーズの世界観は、なんか、種族の違う人たちが普通に一緒に生活してる感が好きだった。人間も、そのほか奇妙な形した生き物たちも、ドロイドも、なんか自然に分け隔てない感じが、好もしかった。
 ルーカスは作らんって言ってるけど、せっかく用意してあるなら、エピソード7・8・9も我々に見せてほしい。子供と一緒に映画館に行くさ。