ドーナツ畑の風に吹かれて

おかわり自由のコーヒーを飲みながら、廻る季節をながめて、おもったこと。

空を好きだとおもいすぎて泣きたくなりそうなくらい。

2006-08-28 17:02:14 | 日記
 昼間、ぼんやりした曇り空の気配ただよう部屋の中でぼーっとしていると、ここが世界の果てとつながっていることに気づく、というか、再確認をする。それは当たり前のことだから、知らなかったわけではないのだけど、あらためて、ああそうだなぁ、とおもう。
 総武線で行った荒川の向こう側、この前同期の子と行ったレインボーブリッジの見えるホテル(レディースプランで超堪能)、卒業旅行としてY女史と赴いたしまなみ海道、あの人と行った東京タワーの展望室。空が広いところで感じる開放感は、どちらかといえば解放感というようなもので、わたしの奥深いところと呼応する。たとえばオズの魔法使いを読んでいたわたしと。カンザスの空は、竜巻にまかれて、オズの国につながっている。たとえばドリトル先生を読んでいたわたしと。動物は話をするし、大きな蛾に乗って青い光に満ちた月に行くことができる。菅野よう子の音楽も、そんな風にして心の奥底に感じるどこかとおんなじ場所につれていってくれそうだから好きだ。
 Y女史としまなみ海道をサイクリングした折、下り立った島と島とを結ぶ大橋のふもとの公園は、階段状で、すぐそこが海だった。対岸のある海。視界が陸だらけの海。はじっこなのに、囲まれている、この不思議。なにもかものしがらみを振り切った場所で、ひどく自由だと感じた。今まで、ずいぶん自分のからだはいろいろなもののせいで重たくなっていたのだと知った。こんな風に軽やか気持ちで生きることもできるのだと。
 その感じは、わたしが心のそこに抱いている感覚、場所に、とても近かった。

 で、最近、そういう場所に行かなくても、たとえば部屋に一人でいるだけで、窓の外にそのようなものの気配を感じるようになった。
 この空は、結局のところ、わたしが思い描くような場所につながっている。自由でないと感じるのはわたしの勝手だ。たとえば、いつも仕事に行くのに乗っている電車とは反対方向の電車に乗り込むだけで、そこに行ける。不自由がっているわたし。どうしてそのようになってしまったのだろう。どうしてここから出て行くことをしないのだろう。いやなら明日から仕事にいかなければいい、それは行くことよりもとても簡単なのに(朝ベッドから出るのをやめればいい)。
 人とのつながりの一番希薄な時期だから、感じられるようになったのかもしれない。家を出て一人で寝起きするようになり、新しい家族はまだ登場していない。新しい家族の一員になったら、そこからもう出ることはないだろう(基本的には)。大事な時期だ。ステキな時期だとおもう。一人暮らしを始めた動機の一つが、「人生の中で一人暮らしをすることができる時期は案外短い」ということがある。結婚して子供のできた友人は、これからずっと気軽にふらふらするなんてことはできないのだろう、少なくともだいぶ長い間は。わたしにもいつか訪れることだ。いやだとかこわいとかは感じないが、ねえ、今を大切にしたいとおもうのだよ。まるでせかいの果てで暮らしているような。

 とても感覚的な話だ。着地点のない話だ。誰かと共有できたらとおもうが、そのような人、もういないのだろうな。思春期の頃はいたような気がする。それが思春期マジックとおもう。そうおもえば、なかなか悪い時期でもなかった。

わたしはわたしの味方である、これだけは覚えておく。

2006-08-20 10:48:19 | 日記
 泣くと次の日、まぶたにシャドウがうまくのらない。ほれ、見たことか、とn時間前のわたしが言う。
 奴が岡山に行ったら2、3は泣かなければいけないであろうことはわかっていたし、わかっててもどうしてもそれを阻止できないということもわかっていたし、そしてああ結局この問題は別れることでしか決着がつかないのだなと再確認することもわかっていたし、だから全部織り込み済みのことなんだけど、やっぱり疲れる。n年前のわたし(たち)が様子を見に来る。うんうん、やっぱりそうなったか。だってわたしもそうだったもん、とn年前のわたし(たち)が言う。そういう時やつは「仕方ないんんだから仕方ない」と言うよね、仕方ないのはわかってるけどわたしが悲しんでいるということにちょっと心を痛めてくれたらそれでいいのにね、わたしが悲しいのは我慢するのが当たり前とおもわれているのが悔しくてとてもかなしいよね、それをうまく伝えることはいつまでたってもうまくならないから電話は長引くし長引けば長引くほどどうしようもないんだよね、ずっとずっと何年も待ってたことを意味がないって言われてるみたいでまったくひどい徒労感におそわれて自分に絶望してしまうんだよね、とn年前のわたし(たち)が口々に言う。みんなわかっているのだ。みんな知っているのだ。n年前のわたし(たち)と今この瞬間のわたしはとても密接につながっている。
 泣いても意味ないよ、とn年前のわたし(たち)が教えてくれる。うん、知ってる。そう、まあ、それでもやめられないならしょうがないけどさ、わたし(たち)はわたしの味方だよ。うん、それも知ってる。
 もういつ別れることになってもしょうがない、だけどわたしが別れると決める必要もない、そのときがきたら抵抗せずにそうしよう、とn年前のわたしが決めて、それ以降のわたし(たち)はその決定を大事に守っている。わたしが決めたことだから。だからしばらく泣いたあとは、そのときが来るのを静かにまつのだ。n年前のわたし(たち)が泣き止むまでそばにいてくれる。時間がたてば感情が沈静化するのを、もちろん、n年前のわたし(たち)は経験から知っているし、それをわたしにおしえてくれる。
 わたしだけがわたしの唯一の味方だ、とある時発見した。だからわたしは、大事なことはn年前のわたしと相談して決める。その決定をn年後のわたしに伝える。そうするようにしてい以降、わたしは後悔というものをしたことがない。だって全部わたしが決めたことだから。そしてわたしはいつだって、「絶対に」わたしの味方だから。

 長く付き合うと新鮮さがなくなる、というのは、付き合い始めのドキドキ感がなくなる、というようなぬるいレベルのことではなく、2人の間に生じる感情すべてが見知ったものとなるということだ。悲しみも悔しさも、もう全部一度以上味わったことしかでてこない。それ以上はないのだ、ということに安心を覚えるか、絶望感を覚えるか、それは人によって違うだろうけど。とにかくそういうこと。ぜんぶ知ってるし、ぜんぶわかってる。だから今さら悲しんだりする必要はちっともないはずなのだが、一応儀式として泣いたりわめいたりする。でも、あとには引かない。予定調和だから。全部。
 疲れたなぁ。でも別れるのも疲れそうだから、疲れた時はなにもしないのが一番いいよ、とこれもn年前のわたし(たち)がおしえてくれる。わたしは素直にそれに従う。


 というわけで、これから同期の子とレインボーブリッジの見えるホテルでレディスプランを堪能してくるのさ。夏休みは、つくるもの。

今日がんばれば明日はお休み。

2006-08-17 11:21:42 | 日記
 昨日は体調悪くてぐだぐだでDVDつけっぱなしでうたうた寝てしまう。かろうじて化粧落としてお弁当箱は水につけてあったけど、それ以外はぜんぶほっぽったままで、なんかもうあーってなって、そのまま朝まで寝る。
 まあ、睡眠時間が長くなったので朝はそこそこさわやかだったかもしれない。お風呂に入ってぼーっとして、痛みをやりすごしていた。
 社会人&一人暮らしを始めて5ヶ月くらい。仕事はいつまでたってもへっぽこだ。一人暮らしは、どんどん手を抜き始めた。毎日、生きるのに精一杯で、ちっとも人にお見せできない感じのぐだりぐだり感。普通のことをしているだけなのに、普通のことも満足にできないのか、と。自分にまともにごはんを食べさせることもできないのかと。遅番の日の夜ごはんは毎度毎度おそば。ゆでるだけ。それもどうよ。それすらできない時はおかしがごはんて。おかしはごはんじゃないよー。
 でも、それでも一応自分はがんばっているんだ、とりあえずその場しのぎでもなんでも、自分のかせいだおかねで家賃を払ってごはんをたべて、本を買っているのだ、とおもう。この冷蔵庫も電子レンジも薄型テレビもわたしが買ったのだ、とおもう。この生活は未熟ながらわたしが自力でくみたてているのだ、とおもう。そうおもうといとおしい。ような気もしないでもないかもしれない。この前のボーナスで買った腕時計をじっとながめる。せめて人並み程度にがんばろう、とおもう。おとななんだからな。ちゃんとしよう。自分にいいわけできる程度には。

季節感。

2006-08-16 01:25:45 | 日記
 ごみを捨てようと外に出たら、外は部屋の中よりも涼しかった。プチショック。クーラー使わずに、窓2面開けて、扇風機と換気扇を全開にして、風はばびばび通ってるはずなのに、やっぱり部屋の中には昼の熱気が残存する。
 それにしても、毎日冷えすぎた地下で働いているから、夏という感じがしない。今年は冷夏なんだとずっとおもっていたんだけど、暑い暑い言ってる人もいる。こっちは冷えるのがこわくて、ひじが出せない。常に七分丈の上着がかかせない。そんなことしてる間に、お盆が過ぎたら、もう夏も終わりじゃないか。どうしたんだ。なついあつはどこにいった。最近、朝起きるとタオルケットが横っちょにいってて、なんにもかけない状態で、暑いどころか寒いと感じる。冬の朝でもあるまいし。
 しかし、近頃の空はいい。低くて遠くて、ラピュタがいくつも隠れていそうで、高架の電車で通勤する間中、車窓に釘付けだもの。
 ポケモンスタンプラリーの子供たちは、途切れる気配がない。

お散歩大臣荒川アンダーザブリッジ

2006-08-15 02:33:08 | お散歩大臣
 お盆とかちっとも関係ない日々ですが。
 今日は普通に公休だったから、お盆休み中のY女史とおでかけ。
 下北沢に集合して、おしゃれカフェに連れてってもらう。落ち着いた店内、インテリアとかカップとかも凝ってて、二人でおしゃべりするにはとても落ち着く感じ。おされかふぇって落ち着かないんじゃないかと勝手におもっていたけれど、自分に合ったとこ探せばいいんだな。まあ、一人でオシャレカフェに入って楽しみつくす自信はないけど。それなりにいいもんだとおもった。今日の収穫。
 その後、わたしと同じく河に萌えを感じるY女史なので、こんな天気のいいくっきり晴れた日なのだし思い切って荒川行きを提案したらあっさりオーケーが出たから、この前行った荒川にもう一度行くことに。何度来ても、荒川の荒川力はすごい。Y女史もわかってくれたようだ。空の広さと、東京から隔てられた悲しみと安心感を存分に堪能しながら、ぼうっとして、それからゆっくり橋を渡る。わたった後は土手に腰を下ろし、しばしば河原の犬たちと川面と空飛ぶ高速道路を堪能する。時折、飛行機が飛んでいくのが見える。空が広くてはっきりしてるから、飛行機がぽつんと脈絡なく空に浮かんでいるのがよくわかる。なんて、孤独と不安に根ざした安心の場所だろう。懐かしい気がするのはなぜなんだろう。ここに来ると子供のころに読んだ「オズの魔法使い」を思い出す。知らない土地に放り出された不安感と、その異世界を妙にリアルに近しく感じていた子供の頃のわたしの気持ちと。
 存分に荒川を堪能してから、駅まで歩き、駅前の安いチェーンの居酒屋で夕ご飯。さわがしい居酒屋でしゃべるのは、落ち着いたカフェでしゃべるのとまた違った安心感がある。どんなことをしゃべったって、この喧騒にまぎれてしまうんだから、せいぜいしゃべりたいことをしゃべってしまおう、という気持ち。それができる相手でもあるし。久々に、自分が作ったのではない、味のあるご飯を食べたナーとおもった。安いチェーンの居酒屋のごはんに感動できる自分はとても安上がりでかわいらしいとおもう。
 総武線で我らがホームタウン新宿に戻る。しゃべり足りなかったので、本屋に併設されてる深緑色の禁煙カフェで延長戦。本屋を物色してやっと帰路につく。
 彼女から聞いたヘヴィな話は2つ。ぐぅの音も出ない。どうしたらいいかわからなかった。下手ななぐさめはもはや通用しない次元だとおもった。今日とにかく楽しく過ごすこと、できることはしようと常に心の準備をしておくこと、できたのはそれくらい。どうしたら、よかったんだろう?

 昨日、帰ったらなんだか疲れていて、体よりも精神的にどうやらドロドロ疲れていて、ほとんど何の用意もすまさずにベッドに倒れこみ、起きたら部屋が昨日のままでなんだか鬱ダナーとおもった。知らないうちに停電が起きて、復旧していた。我が家は大丈夫なところにあったっぽいけど。なんだかなーとおもった。久々に、睡眠過多の頭痛がした。今日はキャンセルしようかと、正直おもっていた。でも、帰ってきて、わたしのあたまは非常にすっきりしている。どろどろしてたストレスがすっかり抜けている。心なしか日ごろ悩まされている肩こりも軽くなったような?
 気の合う友達と会うというのは、本当に大事なことだ。この前M姫の新居に遊びに行った時にも感じたけれど。Y女史は散歩の趣味が合うとても貴重な友人。今日は、久々に彼女と一緒に散歩できてとても楽しかった。彼女くらいしか通じない話題もいくつかあって、それを話せたこともとても大きい。普段、いかに周りとコミュニケーション不全に陥っているか痛感した。職場の人たち、尊敬できるいい人たちばかりだけど、どうもなじめない。友人になれそうな要素はかけらもない。ちょっとはプライベートな話もできるようになるとだいぶ楽なんだろうけど。なるべく、友人と会う機会を逃さないようにしよう、とおもった。
 ああ、今はひさびさにとてもリラックスした気分。明日仕事に行くのもちっともイヤじゃない。いつも、こんな気分でいられたらいいのになぁ。

思い出逆行。

2006-08-04 01:35:43 | 日記
 なんだかここのところ高校の頃のことばかり思い出していて、なんでかなーっておもったんだけど、多分あれだ、某氏が岡山の田舎に帰るから。高2の夏、一ヶ月近く音信普通になった時の記憶がよみがえってきてるのだ。あの不安、いっそ恐怖感。毎日泣いて、それこそ涙の海におぼれたまま過ぎてしまった17の夏。振り返って考えると、あの夏以前のわたしは恋と呼んで差し支えない感情を知っていたのではないかとおもう。今は、知らない。見失ったまま、永遠に、損なってしまった。恋とはもうわたしにとって、不安や恐怖とイコールのしろものだ。
 好きって気持ちを、みんなはさぁ、自明のものとして、ちっとも疑いのないものとして、自分の中に認識できるのかな。わたしには、よくわからないんだよ。どれをそう呼んでいいものだか。もともとわたしの中にないのか、それともあるけどそれと認識できないだけなのか。
 高校を卒業する時に、友情という概念もよくわからなくなった。今かろうじて信じているのは、「いつでも味方だ」と言ってくれた、もうすぐ母親になる彼女と、今はもういないけれどあの秋の日にわたしのために泣いてくれたあの日のあの二人。あとはもう、人様の優しさにおすがりしているのみ。
 青春、青春っていうのは、損なうってことなのかもしれんね。でも、もしももう一度、掛け値なしに信じるという行為が行えるのなら、なにもかも捨ててもかまわないかもしれない。と、おもう。さびしい。こんな日に、村上春樹を読むのはちょっとよくなかったかもしれない。
 

落ちた場所。

2006-08-02 01:30:58 | 日記
 みくしにかまけてずいぶん間が空いてしまった。けれども、考えてるのは同じようなことだな……。仕事、やめたーい。というような。いや、なにか目的があって、そのために仕事やめたい、ならいい。多分なんにもなくて、なんにもないのに「とりあえず」仕事だけがあるのがイヤなのだ。やるせないのだ。「とりあえず」のために週五日って、ねぇ。どうよ、と。むなしさが募るよ。毎朝、反対方向の電車を心底うらやましくながめてしまうよ。山の手線にたどり着くと安心する。どこまで乗っても結局渋谷に運ばれるのだもの。あきらめがつくというもの。
 休日は、自分が今日はきっちりと休んでいるんだということを自分に思い知らせるためにあれやこれやする。この前の休みは荒川まで一人で散歩に行った。荒川の向こう側の、他人事みたいに連なる東京と、空を横切る高速環状線は、日常からわたしをへだてるので、ひどく心細くて安心な気持ちになった。曇り空のよく似合う心持ちがした。で、昨日は海老名まで同期の子に会いに行く。彼女はわたしと対照的に、とにかく仕事がしんどく忙しく、いろいろ考える暇とか余裕ははっきり言ってないのだそうだ。いかにもつらそうである。わたしのしんどさとはまた別の、ひどくまっとうなしんどさだ。わたしの場合は、多分仕事がスカスカだから余計に考えてしまうのだ。ヒマだからいけないんだよ、とバイトのOさんにも言われたものさ。
 そのように、休みの日を、きっちり休んでることを思い知らせるという用途くらいにしか使えないというのは、休むために働いているのだか、働くために休んでいるのだか、よくわからなくて気持ちわるい。結局、わたしの人生の究極目標はなんなのだ? というような気持ちになる。むなしい。くるくるからまわりしている。回ること自体が目標のように。

 某作家のサイン会が先日行われた。そこに来ているのはかなり熱の入ったファンで、作家さん本人を目の前に泣いてしまったりする。人生の中で、その作家さんだけが救いだったのだろうとおもう。光だったのだろうとおもう。そういう結びつき方をする作家さんとファンの人たちを見て、うらやましいとおもう。その作家さんに出会わなければ自殺してたかもしれないような、孤独な生き方をしてきたのであろう(まあ、これは極端な例かもしれないけど、でも本当にそんなことを思わせる光景だったのだよ)ファンの人たちをうらやましいとおもうのは、ちょっと軽率というか、不謹慎かもしれないけど。そのように、人生すべてをかけて、その人を目の前にしたら感動のあまり泣いてしまうような、感情の使い方を、できるものならしてみたいとおもうのだった。まわりから見たらかなり異様な、その作家とファンの交流だったわけだけど、他の人みたいに「うわー。ちょっと異様だよね、こわいよね」という風にはおもえなかった。あの人たちの気持ち、わかるもの。劣等感がデフォルトになってしまってる状態、その生き辛さ。うらやましかった。なぜ自分がそこに混じれないのか、逆にくやしくおもうほど。わたしだって、救われたいよ、そんな風に。
 「あなたは、あの人たちが落ちた穴には落ちなかったってことだよね。別の穴に落ちたんだよ。で、その別の穴には別の作家さんがいたりするんじゃない? 長嶋有とか好きなんでしょ」
 アルバイトのO氏に言われたわけだが、まあ、そうなんだろうね。わたしの落ちた穴は別の穴。誰かが、救ってくれるだれかが、わたしの落ちてる穴にもいるのかなぁ。いないのかなぁ。あの人たちが落ちた穴よりは深くも暗くもないのかもしれない。しかし、自分の落ちた穴があんまり深くないなぁ、暗くないなぁ、ということにコンプレックスを抱くというのも、なんだか救いのない話だ。けっきょく、人は、どうあってもコンプレックスを持つし、だれかを羨むし、救われることなんてできないってことなんだろうかね。自分のことを全人類に当てはめて考えすぎかな。みんなはもっと、ちゃんとしているんだろうか。