昼間、ぼんやりした曇り空の気配ただよう部屋の中でぼーっとしていると、ここが世界の果てとつながっていることに気づく、というか、再確認をする。それは当たり前のことだから、知らなかったわけではないのだけど、あらためて、ああそうだなぁ、とおもう。
総武線で行った荒川の向こう側、この前同期の子と行ったレインボーブリッジの見えるホテル(レディースプランで超堪能)、卒業旅行としてY女史と赴いたしまなみ海道、あの人と行った東京タワーの展望室。空が広いところで感じる開放感は、どちらかといえば解放感というようなもので、わたしの奥深いところと呼応する。たとえばオズの魔法使いを読んでいたわたしと。カンザスの空は、竜巻にまかれて、オズの国につながっている。たとえばドリトル先生を読んでいたわたしと。動物は話をするし、大きな蛾に乗って青い光に満ちた月に行くことができる。菅野よう子の音楽も、そんな風にして心の奥底に感じるどこかとおんなじ場所につれていってくれそうだから好きだ。
Y女史としまなみ海道をサイクリングした折、下り立った島と島とを結ぶ大橋のふもとの公園は、階段状で、すぐそこが海だった。対岸のある海。視界が陸だらけの海。はじっこなのに、囲まれている、この不思議。なにもかものしがらみを振り切った場所で、ひどく自由だと感じた。今まで、ずいぶん自分のからだはいろいろなもののせいで重たくなっていたのだと知った。こんな風に軽やか気持ちで生きることもできるのだと。
その感じは、わたしが心のそこに抱いている感覚、場所に、とても近かった。
で、最近、そういう場所に行かなくても、たとえば部屋に一人でいるだけで、窓の外にそのようなものの気配を感じるようになった。
この空は、結局のところ、わたしが思い描くような場所につながっている。自由でないと感じるのはわたしの勝手だ。たとえば、いつも仕事に行くのに乗っている電車とは反対方向の電車に乗り込むだけで、そこに行ける。不自由がっているわたし。どうしてそのようになってしまったのだろう。どうしてここから出て行くことをしないのだろう。いやなら明日から仕事にいかなければいい、それは行くことよりもとても簡単なのに(朝ベッドから出るのをやめればいい)。
人とのつながりの一番希薄な時期だから、感じられるようになったのかもしれない。家を出て一人で寝起きするようになり、新しい家族はまだ登場していない。新しい家族の一員になったら、そこからもう出ることはないだろう(基本的には)。大事な時期だ。ステキな時期だとおもう。一人暮らしを始めた動機の一つが、「人生の中で一人暮らしをすることができる時期は案外短い」ということがある。結婚して子供のできた友人は、これからずっと気軽にふらふらするなんてことはできないのだろう、少なくともだいぶ長い間は。わたしにもいつか訪れることだ。いやだとかこわいとかは感じないが、ねえ、今を大切にしたいとおもうのだよ。まるでせかいの果てで暮らしているような。
とても感覚的な話だ。着地点のない話だ。誰かと共有できたらとおもうが、そのような人、もういないのだろうな。思春期の頃はいたような気がする。それが思春期マジックとおもう。そうおもえば、なかなか悪い時期でもなかった。
総武線で行った荒川の向こう側、この前同期の子と行ったレインボーブリッジの見えるホテル(レディースプランで超堪能)、卒業旅行としてY女史と赴いたしまなみ海道、あの人と行った東京タワーの展望室。空が広いところで感じる開放感は、どちらかといえば解放感というようなもので、わたしの奥深いところと呼応する。たとえばオズの魔法使いを読んでいたわたしと。カンザスの空は、竜巻にまかれて、オズの国につながっている。たとえばドリトル先生を読んでいたわたしと。動物は話をするし、大きな蛾に乗って青い光に満ちた月に行くことができる。菅野よう子の音楽も、そんな風にして心の奥底に感じるどこかとおんなじ場所につれていってくれそうだから好きだ。
Y女史としまなみ海道をサイクリングした折、下り立った島と島とを結ぶ大橋のふもとの公園は、階段状で、すぐそこが海だった。対岸のある海。視界が陸だらけの海。はじっこなのに、囲まれている、この不思議。なにもかものしがらみを振り切った場所で、ひどく自由だと感じた。今まで、ずいぶん自分のからだはいろいろなもののせいで重たくなっていたのだと知った。こんな風に軽やか気持ちで生きることもできるのだと。
その感じは、わたしが心のそこに抱いている感覚、場所に、とても近かった。
で、最近、そういう場所に行かなくても、たとえば部屋に一人でいるだけで、窓の外にそのようなものの気配を感じるようになった。
この空は、結局のところ、わたしが思い描くような場所につながっている。自由でないと感じるのはわたしの勝手だ。たとえば、いつも仕事に行くのに乗っている電車とは反対方向の電車に乗り込むだけで、そこに行ける。不自由がっているわたし。どうしてそのようになってしまったのだろう。どうしてここから出て行くことをしないのだろう。いやなら明日から仕事にいかなければいい、それは行くことよりもとても簡単なのに(朝ベッドから出るのをやめればいい)。
人とのつながりの一番希薄な時期だから、感じられるようになったのかもしれない。家を出て一人で寝起きするようになり、新しい家族はまだ登場していない。新しい家族の一員になったら、そこからもう出ることはないだろう(基本的には)。大事な時期だ。ステキな時期だとおもう。一人暮らしを始めた動機の一つが、「人生の中で一人暮らしをすることができる時期は案外短い」ということがある。結婚して子供のできた友人は、これからずっと気軽にふらふらするなんてことはできないのだろう、少なくともだいぶ長い間は。わたしにもいつか訪れることだ。いやだとかこわいとかは感じないが、ねえ、今を大切にしたいとおもうのだよ。まるでせかいの果てで暮らしているような。
とても感覚的な話だ。着地点のない話だ。誰かと共有できたらとおもうが、そのような人、もういないのだろうな。思春期の頃はいたような気がする。それが思春期マジックとおもう。そうおもえば、なかなか悪い時期でもなかった。