ドーナツ畑の風に吹かれて

おかわり自由のコーヒーを飲みながら、廻る季節をながめて、おもったこと。

「だけど死にたくもない」

2005-07-14 03:02:21 | 日記
 家族と某氏以外の人間とまともにしゃべってないなぁ、最近。授業もサークルもサボってるから当然だけれども。というか、あまり人と会いたくないという理由で引きこもっているわけだけれども。
 なんかもう、自分がだめすぎて、きちんと生きてる人たちの前に出られない。合わす顔がないという気持ちになる。寝過ぎというだけでは説明つかないような頭痛と、空腹時特にひどくなる吐き気(で、何か食べても結局吐くのである。イヤ循環)も外に出たくない原因。単純に体調悪いということ。
 卒論書くくらいしかしなきゃいけないことないんだから、やればいいのに。
 そろそろ本格的にやばいのよ。間に合うのかしら。本当に間に合うのかしら。この子本当に卒業する気あるのかしら。

 多分いま、人生で一番ハードル低く生きてる。大学卒業してフリーターになったら、多分もっと下がる。ほとんど海抜0メートルになるであろう。結局、わたしはそれを望んでいたのだな、ずっと。
 たしか中学生の時に思ったのだけど、高校受験があって、それが終わると大学受験があって、それが終わると就活して、それが終わると会社でいろんな仕事をして、これは大雑把な話でそれぞれの時代にそれぞれこまごまとしたやらなきゃならないことがあって、そういうやらなきゃならないことに追われていくことでしか生きていけないんだろうか、ということ。未来のために今しなければならないこと、をし続けるということは、永遠に、今のためには生きられないってことなんじゃないか、と。そこに思い至った日、わたしは本気で人生に絶望したのだった。そこから逃れること、少なくともそれをストレスと感じないような生き方を、ずっと探していたのではないかな。
 もう少しでそれが叶うのではないかと、実はちょっと思っている。居場所と引き換えに、自由を得るかもしれない。
 それは幸せなのだろうかね。
 幸せと安息のどちらかが得られれば結果オーライなんだけどもな。

 某氏といることが気楽なのは、多分「ために」何かしなくていいからだとおもう。先のことを計算しなくていいからだとおもう。わたしはどうしてもあざとさが抜けないので、友達といる時には結局いつも先のことを計算してしまってるような気がする。友情を、分析したり比較したり、自分に有利にするためのいろいろを考えてしまってるような気がする。そんな資格はないのに、と、今の自分を振り返っておもうのだな。だから最近、人と一緒にいるのがいやなのかもしれない。と、自己補完。

 この前、某書店の店舗見学のために笹塚に行った時、某氏についてきてもらった。行きは普通に電車で行って、帰りはバスに乗ってみることにした。一時間に一本あるかなきかの新宿行きバスは乗客が誰もいなくて、乗り損なって「あー!」って叫んで指差したら停留所でもないところに停まってくれた。ありがとうございますと言って乗り込んだら「今日は貸切だよ」と、運転手のおじちゃんのナイスな一言。結局新宿まで貸切だった。降りる時に「今日は貸切でのご乗車ありがとう」なんて、運転手のおじちゃんにお礼言われたのは初めてだよ。
 自分たち以外誰も乗っていないバスはなんだかいつもと違ってすっかりくつろいだ空間で、親しみやすいおじちゃんが運転してると思うとますますそんな気分が強くなって、頭の中には猫バスのテーマ曲が流れていた。たとえば、世界がそんな風であったなら。ハードルの高い低いなんて考えずに、生きていけたかもしれないのになぁ。