ドーナツ畑の風に吹かれて

おかわり自由のコーヒーを飲みながら、廻る季節をながめて、おもったこと。

きみはぼくをそれていった。

2005-07-27 02:23:01 | 日記
 台風はどこに行ったんだろう。
 ニュースの人たちは、やっぱり被害が大きい方がうれしいのかな。一生懸命被害を探し出してそれを大々的に報道する。何度も何度も。まあ、多分視聴者がそれを期待してるってことなんだろう。わたしも単純に、せっかく台風来るぞって覚悟きめてるんだから派手にやっておくれよとおもう。実際被害にあったらコノヤロー! っておもうんだろうけども。まあ、そんなもの。



 孤独というのは、会いたい人が咄嗟に思いつかない状態をいうのかもしれない。
 だとしたら、わたしは現在進行形でそれだ、とおもった。自室で鋼の錬金術師のビデオを見ながら、ふと。その程度のものだ。孤独はわたしたちのあそび道具みたいなもの。
 ただ、会いたいと思う人がいる状態が孤独じゃないかといえばそうでもないような気がする。会いたいけど会えない、という状態は、場合によってはとてもとても破壊力がある。心に負荷をかける力。もしかしたらより有機的でより生々しい孤独なのかもしれない。もはや孤独という呼称は似合わないかも、でもそれに似た何か(孤独か、それに等しいもの、みたいな)。
 会えば楽しいだろうなとおもえる人は何人かいる。それはとても嬉しいこと。

 一人で生きていきたいと、しびれるように思う瞬間がある。
 就職できなきゃ自立は無理だ、とおもってあきらめてきたが、もし万が一就職できたとしたら、自立できるかもしれない、物理的なことだけじゃなく、どちらかというと精神的に。もし就職できたら、ちょっと考えてみよう。と、某書店の二次面接通過の通知を受けておもったりした。すっかりあきらめていたのだけれども、初めて二次面接というものを通過したよ、嬉しい。本当にすっかり可能性ゼロと思い込んでいたのだけれども、まだまだわたしが就職するという未来もありえるのかな、そうなのかな、と久々に思う。だとしたら、その、低いひくーい可能性がもし実現したとしたら、一人で生きることにしてみようか。覚悟を決めて。
 何かこう自分以外のものに判断を託すクセが昔からある。受験の時にもこれと同じようなこと考えていた。受験に受かったらこうしよう、落ちたらああしよう、と。受験の結果を大学進学以上の選択に流用する。自分で決めないのは楽なことだ。面接官が決めてくれればいいとおもう。無責任に、他人事として。
 一人じゃなく、どういう形であれ誰かと生きようとおもっても、裏切られるのがオチだとおもう。予想というより、ほぼ事実として。もし一人で生きていく力がないとしたら、かわりにいつかくる裏切りの予感に耐える精神力を身につける必要がある。義務がある。というような気持ちになる。最近。諦観みたいなものだ。往生際が悪い人ほど苦しい。だから、なるべく苦しまないように、楽になれるように、あきらめたり割り切ったりするのは賢いことだ、とわたしは信じている。でなければ救いがない。正しいことがよいことだとは限らないし、正しさが救いだというパターンの方が実は少ないのではないかという気さえする。