またまたインスパイアされるのである(内田樹の研究室:ナショナリズムと集団性)。日本でナショナリズムに飛びつく人々というのは、想像しにくいが、要するに嫌韓流や「作る会」教科書に賛同するような人々を指すものと考えられる。従来の日本が、あまりにナショナリズムの点で遠慮し過ぎていた、無自覚であり過ぎたと考える、いわばプチナショナリストであろうか。
> 彼らがナショナリズムに飛びつくのは、「国民的統合が果たされると、自分にも受益機会がめぐってくるのではないか」と考えているからである。
ここいう「彼ら」とは、「受益機会から疎外されている」「弱者」を指している。実際のところは分からない(そもそも実証的な話ではないので)。あるいは、ホリエモンに喝采を送った若者をイメージすればいいのだろうか。でも、ホリエモンと嫌韓流では、方向性がばらばらだ。説明されていない事を推測するのは難しい。なにせ、社会学では、仮説は既に結論なのだ(反社会学講座)。
詮索はそれくらいにして、ここで考えてみたいのは、個人と帰属集団の関係だ。最近「愛国心」が言われて、どぎまぎするわけだが、細かい話はさておき、共同体一般への凝集力が希薄というのは事実だろう。
日本で「自由」とは、個人の人生の自由を指す。生き方における「勝手」至上なのだ。ただ、そう言うと「空気を読め」という最近の風潮が問題になる。空気を読むのは、集団における自分を非常に気にしていることになる。「勝手」と「空気読め」は、ともに今の二大風潮だ。当然両者は矛盾する。空気を読むのが大事な場では、勝手は批判の対象だ。空気読みが重視されるということは、集団への凝集性を意味するだろうか。そこは、無関係ではないが、どこか筋が異なる話のようだ。
空気を読む場とは、コミュニケーションが成立している場のことである。コミュニケーションや、お互いの役割が規定されていない、偶然の場(要するに公共空間)とかでは、異なるルールが混在することになる。そこでは、空気を読む人と、読まない人が混在する。逸脱や勝手は、批判の対象となりうるが、空気を読むべき場かどうかは、合意されていない。「公共のエチケットからの逸脱」は、あるとしても、それが留意事項かどうか合意されていない空間こそが、公共空間だ。相当な程度まで、ルールが共有されないと、空気を読むどころではなく、普通の交遊関係は、ルール共有が可能な私的小集団に限られる事になる。
「愛国心」が期待するのは、お互いに顔を見たことも無く、公徳心の基準がよく分からない人々の間に、共通の確固たる基盤を設ける事であろう。それは公共心の話と殆ど変わらない。
空気を読むかどうかは、行動の基準であるばかりでなく、収入にも関わる(収入に関わる社会集団の中での上昇に関わるからだ)。しかし、直接所属していない、見えざる共同体については、空気うんぬんの話になりにくい。
「情けは人の為ならず」とは、他人へ向ける情けが、めぐりめぐって、何らかの形で自分のところに戻ってくるという、社会性のことを言っている。直接自分の利益になるとは限らないと思うが、そもそも国が豊かであれば、自分も概ねその恩恵に預かれる。だから、自分が社会や経済に貢献することを、大勢がやると、ロングレンジでみれば、社会全体の改善や発展をもたらし、自分もその恩恵を被るという仕掛けである。
そこまでの洞察を、一般には要求できない。そこで、ことわざや教訓、あるいは断片的な注意の集合として語り伝えられてきたのだと思われる。人は一人で生きているのではないとか、人の間と書いて人間と読むとか、そんな具合である。
「共同体」というと、伝統とかうるさいよ、と言われそうだが、それなら「コミュニティ」でもいい(共同体と直訳の関係にあるけど)。コミュニティとは、空気を読む仲間内を越えた空間だ。
愛国心とは、コミュニティの上位基準を国に措くことだろう。うかつに、東アジアとか言われると困ってしまうから(笑
おそらく、愛国心強調より、まずコミュニティ教育が重要だろうと思う。人はコミュニティと共に生き、相互に助け合って生きていくことを、体験的に学ぶ事が望ましい。共同体的紐帯が、そうやって抽象的ではなく具体的なものとして理解される事で、背景にある「国」が見えてくるのではなかろうか。出来れば、国旗教育と、ノブレス・オブリージの奨めがあるとよい。
それにしても、「「日本国」というような幻想」と簡単に言ってしまう内田氏は、迂闊である。残念ながら、この種の「国」は、現実である。幻想なら崩せるが、現実は崩せない。例えば、長年愛し合った男女の関係は、幻想ではなく、記憶に過ぎなくても、それは現実だ。国という運命の中に、人々は生きてきた。それは虚構じゃない。(現人神とか)虚構の部分は崩れたが、それなら国破れて山河有りというのだ(日本は決して滅亡してはいないが)。その場合問題なのは、組織のモラルだ。ホリエモンのライブドアはある意味虚構だったが、それはモラルを欠き、嘘があったからだ。ライブドアの技術やサービスには本物の部分もあるのだ。
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> 彼らがナショナリズムに飛びつくのは、「国民的統合が果たされると、自分にも受益機会がめぐってくるのではないか」と考えているからである。
ここいう「彼ら」とは、「受益機会から疎外されている」「弱者」を指している。実際のところは分からない(そもそも実証的な話ではないので)。あるいは、ホリエモンに喝采を送った若者をイメージすればいいのだろうか。でも、ホリエモンと嫌韓流では、方向性がばらばらだ。説明されていない事を推測するのは難しい。なにせ、社会学では、仮説は既に結論なのだ(反社会学講座)。
詮索はそれくらいにして、ここで考えてみたいのは、個人と帰属集団の関係だ。最近「愛国心」が言われて、どぎまぎするわけだが、細かい話はさておき、共同体一般への凝集力が希薄というのは事実だろう。
日本で「自由」とは、個人の人生の自由を指す。生き方における「勝手」至上なのだ。ただ、そう言うと「空気を読め」という最近の風潮が問題になる。空気を読むのは、集団における自分を非常に気にしていることになる。「勝手」と「空気読め」は、ともに今の二大風潮だ。当然両者は矛盾する。空気を読むのが大事な場では、勝手は批判の対象だ。空気読みが重視されるということは、集団への凝集性を意味するだろうか。そこは、無関係ではないが、どこか筋が異なる話のようだ。
空気を読む場とは、コミュニケーションが成立している場のことである。コミュニケーションや、お互いの役割が規定されていない、偶然の場(要するに公共空間)とかでは、異なるルールが混在することになる。そこでは、空気を読む人と、読まない人が混在する。逸脱や勝手は、批判の対象となりうるが、空気を読むべき場かどうかは、合意されていない。「公共のエチケットからの逸脱」は、あるとしても、それが留意事項かどうか合意されていない空間こそが、公共空間だ。相当な程度まで、ルールが共有されないと、空気を読むどころではなく、普通の交遊関係は、ルール共有が可能な私的小集団に限られる事になる。
「愛国心」が期待するのは、お互いに顔を見たことも無く、公徳心の基準がよく分からない人々の間に、共通の確固たる基盤を設ける事であろう。それは公共心の話と殆ど変わらない。
空気を読むかどうかは、行動の基準であるばかりでなく、収入にも関わる(収入に関わる社会集団の中での上昇に関わるからだ)。しかし、直接所属していない、見えざる共同体については、空気うんぬんの話になりにくい。
「情けは人の為ならず」とは、他人へ向ける情けが、めぐりめぐって、何らかの形で自分のところに戻ってくるという、社会性のことを言っている。直接自分の利益になるとは限らないと思うが、そもそも国が豊かであれば、自分も概ねその恩恵に預かれる。だから、自分が社会や経済に貢献することを、大勢がやると、ロングレンジでみれば、社会全体の改善や発展をもたらし、自分もその恩恵を被るという仕掛けである。
そこまでの洞察を、一般には要求できない。そこで、ことわざや教訓、あるいは断片的な注意の集合として語り伝えられてきたのだと思われる。人は一人で生きているのではないとか、人の間と書いて人間と読むとか、そんな具合である。
「共同体」というと、伝統とかうるさいよ、と言われそうだが、それなら「コミュニティ」でもいい(共同体と直訳の関係にあるけど)。コミュニティとは、空気を読む仲間内を越えた空間だ。
愛国心とは、コミュニティの上位基準を国に措くことだろう。うかつに、東アジアとか言われると困ってしまうから(笑
おそらく、愛国心強調より、まずコミュニティ教育が重要だろうと思う。人はコミュニティと共に生き、相互に助け合って生きていくことを、体験的に学ぶ事が望ましい。共同体的紐帯が、そうやって抽象的ではなく具体的なものとして理解される事で、背景にある「国」が見えてくるのではなかろうか。出来れば、国旗教育と、ノブレス・オブリージの奨めがあるとよい。
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それにしても、「「日本国」というような幻想」と簡単に言ってしまう内田氏は、迂闊である。残念ながら、この種の「国」は、現実である。幻想なら崩せるが、現実は崩せない。例えば、長年愛し合った男女の関係は、幻想ではなく、記憶に過ぎなくても、それは現実だ。国という運命の中に、人々は生きてきた。それは虚構じゃない。(現人神とか)虚構の部分は崩れたが、それなら国破れて山河有りというのだ(日本は決して滅亡してはいないが)。その場合問題なのは、組織のモラルだ。ホリエモンのライブドアはある意味虚構だったが、それはモラルを欠き、嘘があったからだ。ライブドアの技術やサービスには本物の部分もあるのだ。
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