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冷戦時代に聴いたソ連のジャズ(3)/憬れのマルチバンドラジオ

2014-04-05 20:02:48 | 地球おんがく一期一会


本題になかなか辿り着けない。当初の構想では、BCLの話はさっと流して次回あたりで出逢いの話に入るつもりだった。でも、少年時代のことを振り返ってみると、いろんなことが思い出されて止まらなくなってくる。私にとってのソ連ジャズはBCL体験抜きには語れない。また、ソ連にジャズを伝えたのもBCLで実体験した短波放送。タイトルを変えたい気持ちにもなってくるが、BCLのことをもう少し掘り下げてみようと思う。

さて、父親から借りた(奪い取ったという方が正しいが)2バンドのトランジスターラジオによる受信はすぐに限界に達してしまった。このラジオでは聴けない12MHz以上の周波数領域で飛び交っている電波を捉えて観たいという想いは日に日に募っていく。時は、まだ大型の家電量販店がなかった40数年前。東京の秋葉原にあたる大阪の日本橋はあくまでも問屋さん。街中の至る所に電気屋さんがあり、ラジオも普通にディスプレイされていた。

カメラ屋さんでもラジオは売られていて、中でもAM(中波)、FMの他にSW(短波)が4バンドの計6バンドの帯域が受信できる「マルチバンドラジオ」は垂涎の的だった。件のお店の前を通るごとに立ち止まってはずっと「恋人」に熱い眼差しを送っていたことが功を奏し、遂に誕生日のプレゼントという形であこがれのラジオが家にやって来ることになった。忘れもしない、ソニーのTFM-2000Fだ。価格は25,800円でレコード1枚の10倍くらいだが、当時のことを思うとけして安くはない。父もかなり無理をしてくれたのだろう。

このラジオは、上でも少し触れたとおり短波帯が4つのバンドに分割される形で1.6MHzから26.1MHzまでカバーされていた。厳密に言えば30MHzまでが短波帯なのだが、放送バンドの上限が26.1MHzなのでBCLで使うにはまったく問題がない。「その日」から家に居るときはラジオのチューニングダイヤルを回して(それこそ上から下まで)バリバリと音を立てながら世界中の放送局を追いかける毎日が始まった。

TFM-2000Fのキャッチコピーは「音楽マニアから海外局ハンターまで」ということで大型の筐体を活かした音の良さでも定評があったラジオ。実際にこのラジオは私自身の音楽ライフをとても豊かなものにしてくれた。ちなみに、筐体の大きさは幅29cm、高さ22cm、奥行10cmで重さは約4kgもあった。コンパクト化、スリム化が進む現在ではまず作られることのないラジオ。後に登場したラジカセもそうだが、当時のラジオは総じて筐体は大きくスピーカーから出てくる音も豊かだったように思う。

ちょっと脱線するが、60年代にポピュラーだった真空管を使ったテレビやラジオのことも思い出してしまった。テレビの家庭用のサイズは13インチが主流で、大型の19インチのテレビがあることはお金持ちの証でもあった。とにかく画面の大きさに圧倒されたのだが、大型スピーカーを含む木製のボディから出ていた柔らかい音が何とも言えず贅沢。真空管方式だから、スイッチを入れてもすぐに音は出ず、ボワーンという感じで音が大きくなっていく(スイッチを切った時は逆ですぐには音は消えない)のだが、あの暖かみのある音が終生忘れられない。利便性や経済性の追求のもとに進んだ小型化、軽量化により失われていったものはけして少なくない。

TFM-2000Fは溜まり溜まった欲求不満を一気に解消してくれた。とくに当初期待したとおり、14MHz以上の領域をカバーした「SW4」バンドはまるで異次元空間にある世界のようだった。欧州からの放送が混信や雑音も少なくクリアーに耳に飛び込んでくる。もちろん、ドイチェ・ヴェレの日本語も毎日聴くことができた。余りにも多くの電波がひしめき合っていた9MHz帯や11MHz帯の世界は、混信に加えて雑音も多く混沌としていた。だから、性能の低いラジオでも楽しめたのは近隣諸国からの強力な放送だけ。より遠くから、よりバラエティがあるものを求めた短波少年には住みずらかったことが実感された。



強力な武器を手に入れて、まず最初に夢中になったのが南アフリカから放送されていたラジオRSAだった。何故かというと、25790KHzといったこのラジオの最上限に近いとんでもない周波数を使っていて、かつ毎日強力に受信できたから。25600~26100kHzに割り当てられた11MB(メーターバンド)はまるでこの放送局のためにあるようなバンドだった。当時の南アフリカはアパルトヘイトの時代で世界のスポーツ界からも締め出されていたが、ターゲット地域ではなく、しかも日本人の少年リスナーに対しても印刷物の定期刊行など行き届いたサービスを提供していた。国が孤立状態にあったが故に対外的な気遣いをすることを多分に意識していたのだろう。

21450~21750MHzに割り当てられた13MBは欧州やアメリカ本国、そして石油生産で潤う中東地域からの放送が主体。とくに中東地域は100kWどころか500kWといったオイルマネーにものを言わせた大電力の送信機を使って極東地域にもアラブ音楽やコーランの朗唱を送り届けていた。しかし、このバンドの私的主役は日本時間の夕方に当たる欧州地域からの整った放送。オーストリア、スイス、ノルウェー、スウェーデン、チェコスロバキアといった国々から届く豊かな音楽が聴けるのも大きな魅力だった。夕方に高い周波数で欧州から届く電波にはひとつ特徴があって、あたかもエコーがかかったように聞こえた。時間帯によっては電波が地球も何周もしており、それらが干渉することが原因だと物の本で読んだ。



そんな欧州諸国の放送局の中でもっとも人気を博したのがとくに音楽番組が充実していたオランダのラジオ・ネダーランド。本国だけでなく、アンティル諸島のボネア島(ヤクルトのバレンティンの出身地キュラソー島の近くにある島)、マダガスカルの2つの中継局に強力な送信機を据えていたこともあり、日本でも受信しやすくて人気が高かった。ビートルズを生んだ英国のBBC放送にしろ、米国産ポップスとはひと味違った音楽が聴けたのが欧州からの放送の魅力でもあった。そして、欧州のジャズの紹介番組でマニアに人気があったのがドイチェ・ヴェレだった。

しかし、ハイバンド(14MHz以上)でも世界を圧倒的に支配していたのは、やはり米ソの2大国(冷戦のと当事国)だった。米国のVOAは西海岸に設けた送信所からソ連極東地域や中国に向けて、また、ソ連のモスクワ放送や自由と進歩放送などはそれに対抗する形で極東地域の送信所から北米大陸に向けてそれぞれ電波という名のプロパガンダ用ミサイルを飛ばし続けていた。日本人はまさにそれらのミサイルの弾道直下に居たわけだ。ただ、極東中継のおかげでアルメニアのラジオ・エレヴァンが米国向けに放送した番組を聴くことができたのは嬉しかった。

このように米国西海岸からの電波は太平洋を超えて日本に確実に届いていたのだが、東海岸からの電波をキャッチすることはターゲットが違う(主に欧州やアフリカ、中南米が対象)こともあり難しかった。そんな中で朝の時間に偶然届いたのがWNYWのコールサインで放送していた民放局の「ラジオ・ニューヨーク・ワールドワイド」。数多の宗教放送局が競って電波を出し合う中で貴重な情報を提供していた放送だったようだが、コンスタントに聴くことはできなかった。この局もご多分に漏れず時代の流れの中で役割を失って消えていく運命にあった。その放送の受信報告に対してヴェリカードを得たことは、佳き想い出のひとつとなっている。


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