「熱闘」のあとでひといき

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藤沢嵐子/「タンゴの女王」に出逢うまでの長い道程

2014-04-01 01:30:10 | 地球おんがく一期一会


未だに所有するタンゴのレコード/CDはピアソラのものを除けば10枚にも満たない私。でも、ジャズファンになる前に熱中していたのは実はタンゴだった。振り返れば小学校の高学年の頃でFM放送が高い音質を活かした「音楽専門放送」とも言われていた時代。NHK-FMで毎週2時間、夜の8時からラテン音楽を届けてくれる番組があった。

その名も「ラテンタイム」(だったと記憶)で、月に1回はタンゴの回。大岩祥浩さんが案内役を務められていた放送をオープンリールのテープレコーダー(デッキではない)に録音して何回も聴いていた。当時はまだジャズがさっぱりわからん珍だったのにタンゴに惹かれたのはなぜだろうか。理由はよくわからないが、どこかに心に響くものがあったのだろう。

そして、これも何故か?なのだが、一番印象に残っているアーティストはピアソラだった。大岩さんが「タンゴ殺しとも呼ばれていた...」というような形で紹介されていたことを今でも忘れない。「ブエノスアイレスの夏」といった曲がかかっていたことを思い出す。今でこそ「タンゴ=ピアソラ」なのだが、当時の私には後に一大ブームが起こる事なんてことは考えにも及ばなかった。と言うのは大嘘で、中学生になるかどうかくらいのガキにそんなことが思いうかぶわけがない。

実はもうひとり名前が鮮明に記憶に残っている人がいる。それは、グラシエラ・スサーナ。アルゼンチン出身の女性歌手で、日本にやって来て歌謡曲を歌い人気を博した人だ。スサーナの姉も「クリスティーナとウーゴ」のクリスティーナとして日本で高い人気を誇ったフォルクローレ歌手だった。でも、私にとってのスサーナは大岩さんがタンゴの若手有望女性歌手として紹介された(由緒正しき)スサーナ。だから、彼女の日本語の歌を聴いたとき、同じ名前の別人だと信じて疑わなかった。

そんなタンゴ熱もいつしか冷めてしまう。中学生になってからはサンタナに熱中し、真夜中に聴いたMJQでジャズに開眼し、クロスオーバー/フュージョンの荒波に呑まれて新譜を追いかけるという音楽人生を歩むことになる。当時発売されたピアソラの『リベルタンゴ』もちょっとガッカリの内容。イタリア録音でドラムセットが入っているのだが、アメリカのドラマーがこの役割を命じられたらたぶんぶち切れていただろうなと思った。「アディオス・ノニーノ」には惹かれたものの、あまりよくわからないままレコード棚の中に眠っている。



時は流れて出逢ったのがタンゴ史上最高の歌手と讃えられるカルロス・ガルデル。東京は神田の神保町にあった新世界レコード社でロシア方面の音源を物色中に目に留まったのが「ザ・キング・オブ・タンゴ」と題された2枚のCDだった。ちなみにこれらの音源はSP時代に活躍した歌手の録音を独自のポリシーで復刻している「プリマ・ヴォーチェ」のシリーズの中の2枚。カルーソーやシャリアピンといった大歌手に混じって、ポピュラー音楽界から唯1人セレクトされたのがガルデルだったのだ。ガルデルの歌声の素晴らしさもさることながら、ギター伴奏のタンゴというところに新鮮な魅力を感じた。

そんな具合でタンゴと完全に離れてしまったわけではないし、嗜好は変わってもラテン音楽好きであることに変わりなく現在に至っている。だからいつかの段階で「藤沢嵐子」が記憶に留まっていいはずだった。もちろん、ラテン音楽の紹介本では少なからず見かける名前で必ず絶賛のコメントが付いている。でも実際に歌を聴いてみないと印象に残らないのも無理からぬ話。だから、そのまま日本人でアルゼンチンの人たちを熱狂させた偉大な歌手のことは知らずに終わった可能性が大だった。あの日の深夜に偶然ラジオのスイッチを入れなかったら。

じっくりと音楽を楽しませてくれるラジオ番組が少なくなっている昨今にあって、NHKラジオ深夜便の「ロマンティック・コンサート」は貴重な番組と言える。「今夜はタンゴの女王、藤沢嵐子の歌をお楽しみ頂きます。」というアンカーの紹介で、そういえばそんな人が居たなぁと軽い気持ちで番組を聴き始めた。時間が時間だけにすぐに寝てしまうだろうと想いながら。



しかし、1曲目が始まるや否や、切れかけた頭の中のスイッチが完全にONになってしまった。スペイン語でタンゴを歌っている、それも本格的な発音で。この瞬間に「タンゴの女王」がアルゼンチンの人たちを魅了したことが紛れもない事実だったことを実感させられたのだった。そして、番組が進むにつれ、むしろ日本人ならではの(アルゼンチン人には出せない)魅力をタンゴに付け加えることができたのではとすら思うようになった。

藤沢嵐子は当初クラシックの歌手を目指していたものの、家庭の事情などがあってポピュラーシンガーになりタンゴに出逢ったとある。ドイツリートにしろイタリアオペラにしろ、クラシック音楽の世界では発音がダメだったら(日本人なのに頑張っているというようなことは一切なく)門前払いを食らってしまう。それはアルゼンチンタンゴでも同じだろう。もちろん才能もあったのだろうが、歌うからには本場で受け容れられるものを目指すという妥協を許さない努力が実ったというべきか。藤沢嵐子は現地の人たちに「わざと日本人のように振る舞ってウケを狙っている」とまで言われたそうだ。これこそ最高級の賛辞に他ならない。

藤沢嵐子の歌をもっと聴きたい。しばらくしてベスト盤がもうすぐ出るという情報が得られた。それから少し時間がかかったがこうして2枚組のCDを聴いている。1枚目は初復刻を含むオルケスタ・ティピカ東京の伴奏が主体。鮮明度が少し欠ける録音だが、熱のこもった熱い演奏と歌が聴ける。そして意外といい味が出ているのがサンバ(フォルクローレ)の「ママ・ビエハ」。この人は何を歌っても成功できた人だったのだろうなと思う。

しかし、この2枚組の聴き所は録音がクリアになった2枚目のトラック1から12まで。さらに言うとエルネスト・ビジャビジェンシオ・ギター四重奏団が伴奏した6曲だと思う。ガルデルの歌を聴いて何となく感じていたこと(タンゴの歌はギター伴奏の方が栄える)がここで確信に変わった。もちろん、素晴らしい歌声あってのことだが。あの日偶然にラジオのスイッチを入れていなかったら永久に藤沢嵐子は我が家にやってこなかったと思うと、何だか複雑な気持ちになってしまう。

藤沢嵐子とスサーナ。方や本場を目指して海を渡り、方や菅原洋一に誘われる形でタンゴとは無縁の東洋の国にやってきた。そして、どちらも異国の地で成功を収めた。ただ、この流れ(文脈)で行くと藤沢嵐子の方が断然エライという結論になってしまいそう。でも、ところがどっこい、本格的な発音の日本語ではなくてもスサーナの歌だって魅力的なのだ。「地球の裏側にある遠い遠いお国からやって来て頑張ってるね!」と暖かいまなざしを送る優しさを持つ国が地球にひとつくらいあってもいい。

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