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「熱闘」のあとでひといき

「闘い」に明け暮れているような毎日ですが、面白いスポーツや楽しい音楽の話題でひといき入れてみませんか?

セント・ギガで知った「ハウスミュージック」/Mr.フィンガーズ(ラリー・ハード)の魅力

2014-08-11 00:16:29 | 地球おんがく一期一会


「セント・ギガ」といっても、ピンと来る人は殆どいないだろう。世界初の衛星放送によるデジタルラジオ放送局で、1991年3月の本放送開始から2003年に事実上消滅してしまうまで、空から地上に音を送り続けていた。当時WOWOW(BS5ch)と契約していた人は、副音声で音が流されていることに気付いていたかも知れないが、放送当時から陰のような存在の放送局だったと言っていいと思う。

では、そうして痕跡すらも残っていないような放送局のことを話題にしようと思い立ったのか。実はこのセントギガこそ、様々な未知の音楽との出逢いを与えてくれた、忘れ得ぬ想い出がいっぱい詰まった放送局だったから。自分自身の音楽人生を語る上で外すことのできないキーワードのひとつが「セント・ギガ」なのだ。

♪WOWOWのおまけだった「セント・ギガ」

今を遡ること30年前、結婚を機に実家からアパートに移り住みBS放送が受信できるTVを購入した。当時のNHKのBSは3ch(3系統)あり、ニュース、スポーツ中心、映画や音楽などのエンターテイメントにコンテンツが満載で、世界の最新情報を居ながらにして楽しめる番組編成。WOWOWも既に放送を行っていたが、有料放送ということでスクランブルがかかっており、画像は見えてもないも同然だった。

画面をわざわざギザギザにして見せることにしたのは、何を放送しているかをおぼろげながらわかるようにして契約者を増やすための策略だったときく。当時はイタリアサッカーのセリエAが重要コンテンツのひとつになっていて、人影が動く画面を見る都度に「スクランブル何とかならんかなぁ」と思ったものだ。結局は、放送局の策略にまんまと填まり、契約に至ってしまう。ただ、サッカーや映画を観ている分にはセントギガの存在に気付くこともないはず。毎月送られてくる番組表の片隅にあった「セントギガ」のことは少し気になっていたのだが。

「セント・ギガ」も有料放送なのでスクランブルがかかっている。しかし、時々ノンスクランブルの時間帯があり、試しに聴いてみるとジャズやボサノヴァがよくかかっていた。しかも、音質はCD並と言う謳い文句のとおりでFMラジオよりもいい。それでこちらも契約してみるかということになってしまった。

♪さまざまな出逢いを提供してくれたセントギガ

いざスクランブルが外れてみると、セントギガは「音の潮流」と称して一日中「波の音」を流しているような不思議な放送局だった。ニュースどころかトーク番組もなく、ある時間帯にまとまって音楽を流すというシステム。既往のプログラムから曲名まで秒刻みでタイムテーブル化されているラジオ局とはまるで違うコンセプトに面食らった。これでは契約者数が伸びないのは仕方ないなぁと思いつつも、音を流しっぱなしにしておくのがけっこう心地よかったりしたりする。当時はFMラジオでもDJが喋っている時間の方が長いような状態で、肝心の音は何処に?という感じだったから新鮮に聴くことができたのかも知れない。

でも、放送する側もあまりにも捉え所のない番組構成は不味いと悟ったのか、音楽に関しては少しずつ普通のラジオ番組のようなスタイルに変えていったように思う。たとえば、毎週日曜日の10時からは『オール・ザット・ジャズ』と題された90分間のジャズ番組がレギュラー化された。モダンジャズを中心としながらフュージョンも含むメインストリームジャズを独自の構成で紹介する番組で、先に4~5曲流してからまとめて演奏者と曲名のアナウンスがある。ブラインドフォールドテストみたいな形なので、リスナーは予備知識(偏見)なしに曲を聴くことができる。「喰わず嫌いはいけませんよ。」と諭されているような感じで新たな発見がいろいろとあった。とにかく、セレクションが面白く、ミンガスの「直立猿人」を平気でかけるのもこの番組くらいのも。

ちなみに、「オール・ザット・ジャズ」は1996年~1998年頃に放送された番組を殆どカセットテープにエアチェックしてある。一度は壊れて廃棄に至ったカセットデッキだったが、120本以上溜まったテープを処分するのがもったいなく思われ、結局新しいデッキを買い直した。オンキヨーのトレーが前に出てくるタイプのもので、CDプレーヤーの発想が活かされている。テープに収録されている1000曲以上の宝物を棄てなくて本当によかったと思った。それ以外の番組でも、「真のオルガンの女王」ローダ・スコットを知ったことが大きな収穫のひとつ。



♪Mr.フィンガーズとの幸運な出逢い

セントギガの音楽番組で本当に困ったのは、「オール・ザット・ジャズ」のような例外を除き、曲目のアナウンスがまったくないことだった。トークを入れることで音の潮流に棹をさしてしまうことを畏れたわけでもないが、どんなアーティストが演奏しているのかくらいは知りたかった。もちろん曲名を知ることは不可能ではなかった。放送された時間をメモって電話で直接問い合わせると教えてもらえる。でも、時間をチェックするのも電話をするのも面倒な時がある。今ほどネットが手軽に使える時代ではなかったとは言え、J-WAVEのように、曲目リストをホームページにアップしてくれていたら問題ないのにと何度思ったことか。

そのことを一番感じたのは、セントギガがもっとも力を入れていたと思われるハウス/ヒップホップ系の音楽だった。リズムは打込みでシンセを多用したコンピューターミュージック(当時はハウス音楽という言葉すら知らなかった)なのだが、FMラジオでは耳にすることのなかった未知の音楽。70年代のプログレやフュージョンで頻繁に耳にした電化サウンドとは一線を画した洗練されたサウンドに心惹かれることも多く、どんなアーティスト達が演奏しているのか手がかりがまったく掴めないことがもどかしかったのだ。

そんな紆余曲折を経て知ることができたひとりのアーティストがMr.フィンガーズことラリー・ハードだった。電話での問い合わせで教えてもらった「ミスター・フィンガーズ」というアーティスト名を頼りにCDショップへ。ちょうどタイミング良く、セントギガで聴いた曲も収録された『イントロダクション』が見つかった。デジタル技術で産み出されたサウンドにラリー・ハード自身のボーカルがミックスされたソフトな感覚のソウルフルなサウンドが心地よい。とくにリズムが打ち込みとは思えないグルーブ感を感じさせることが驚きだったが、ラリー・ハード自身が元々ドラマーだったことを知り納得だった。



♪『イントロダクション』から『バック・トゥ・ラブ』へ

Mr.フィンガーズ名義の『イントロダクション』は1992年の作品。ラリー・ハードが付け加えた女声コーラスを除き楽器演奏(コンピュータープログラミングとキーボード)と自身で詩を付けたボーカルを手がける。ラリー・ハードの音楽の特徴はデジタル音楽からは想像できないようなシンプルな構成にある。キーボードで弾くブロックコードだけでベーシックなライン(これがとっても魅力的!)を創り、そこに自身の歌と軽めのシンセを乗せているだけなのだが、肌触りがクールであるにも関わらず、豊かなサウンドになっている。

『イントロダクション』にすっかり魅了されたので、続いて1994年にリリースされた『バック・トゥ・ラブ』も手にする。しかし、この作品はちょっと期待外れな内容だった。前作に比べて、より聴きやすいサウンドになっているものの、例えば “on my way” や “closer” や “what about this love?” と言った曲で聴かれた(ソフトな中にも)骨っぽく感じられるような部分が薄くなっているように感じられたから。どちらの作品もハウスミュージックとしては例外的にメジャーレーベルからのリリースなのだが、2作目は多少とも売ることを意識したことで尖った部分が希薄になったのかも知れない。



♪『キャン・ユー・フィール・イット』で「原点」を知る

『バック・トゥ・ラブ』のあとも、ラリー・ハード/Mr.フィンガーズのチェックは続いた。2枚組の『ダンス2000』、そしてディープ・ハウス(と言うのだそうだ)「の世界で古典的な名曲とされる『キャン・ユー・フィール・イット』を手にする。どちらも、『イントロダクション』のようなトータルコンセプトアルバムではなく、1980年代に作られた実験的な作品を含むベスト盤。ただ、1990年代以降の作品の原点のような曲が含まれていて、魅力的なトラックもある。「原点」を知ることで、ラリー・ハードのミュージシャンとしての成長を知ることができるわけだ。



♪至福の作品『ラブズ・アライバル』

現在保有しているラリー・ハード(Mr.フィンガーズ)のCDでもっとも最近の作品は2001年リリースの “Love’s Arrival”。かなり前に手に入れたアルバムだが、どうもあまり真剣に聴いていなかったようだ。購入していたことすら忘れていた。ということで初めて聴く気分でCDトレイに載せたわけだが、1曲目を聴いて(もちろん私が持っている作品の中でということになるが)ラリー・ハードの持ち味が最高に発揮され、かつ円熟味も加わった作品であると実感した。

『イントロダクション』で聴かれたようなある種の「気負い」のようなものは消え、かと言って『バック・トゥ・ラブ』にあったかもしれない「妥協」もない。ソフト路線は一貫して変わらないものの、オープニングからフィナーレまでナチュラルにゆったりとサウンドが流れている。おそらく、メジャーレーベルを離れて自分自身が完全に納得できるサウンドを創り上げることに成功したのではないだろうか。妥協のないことが心地よさの源泉になっているように感じる。

1970年代にジャズに電化楽器が導入されたとき、「エレキには血が通っていないからダメだ。」という声が多くのジャズファンから聞かれた。でもその人達は、ラリー・ハードの作品を聴いても同じことが言えるだろうか。たとえアコースティックの楽器の演奏でも、目の前でどんなに驚異的なテクニックを披露されても聴き手の心を揺り動かさないことはままある。

コンピューターで音楽を創っているミュージシャンは、器楽のミュージシャンとは違った意味で厳しい世界に身を置いているとは言える。演奏技術の巧拙が問われない代わりに、ミュージシャン本人の感性を丸裸にしてしまうような恐ろしさがデジタルミュージックにはある。ラリー・ハードの音楽を聴いていてふとそんなことを思った。

前にも少し書いたように、セントギガのおかげでいろんな音楽に出逢えうことができた。そんな中でまず最初にラリー・ハードを取り上げたのは、セントギガのことを知らなければ、永久に出逢うこともなかった音楽がそこにあったから。一度は行方知らずとなった「ハヤブサ」のように、宇宙の彼方に散ってしまったセントギガの電波が再び地球に戻って来て欲しい。もう一度聴いてみたい音楽がたくさんあるから、そんな永久に充たされることのない馬鹿な願望を抱いてしまったりする。
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「奇蹟のコーラス」/ブエノスアイレス8とピアソラとタンゴ

2014-08-06 00:56:57 | 地球おんがく一期一会


東京恵比寿の「ラティーナ」の特別セールは年2回のお楽しみ。ここで手にしたアルゼンチンを中心とするラテンアメリカ産の音源は本当に内容が充実しているから。

最初は会社から送られてくる8ページくらいのリストを眺めても、どれを買えばいいか珍糞漢糞に近い状態だった。そこで、取った方法は(古典的だが)廉価の盤を集めた箱を物色しながら、演奏曲目、編成、そして面構え(これが決め手!)を見て面白そうな音源を買っていく。しかし、期待はいつもいい方に裏切られた。こんなお値段で申し訳ないなぁと思いながらも、ありがたく拝聴させていただくことにする。

そんなことを何サイクルか繰り返していくうち、文字の羅列にしか見えなかったリストも「顔と名前」がだんだん一致するような状態になっていく。そして、めぼしいものは事前にリストアップして当日店員さんに探してもらうところまで来た。とはいっても、廉価の盤を集めた箱の中身はやっぱり気になる。そこで目に留まったのが BUENOS AIRES 8 の “TANGOS” と銘打たれたCDだった。

「もしや?」と思って曲目を確認したら、「やっぱり!」だった。1970年代に彗星のように登場し、「奇蹟のコーラス」として音楽ファンに強烈なインパクトを残した8人組のコーラスグループ「ブエノスアイレス8(オーチョ)」の作品集だったのだ。彼らの名声を高めたピアソラ作品集『ブエノスアイレス午前0時』とタンゴの名曲を集めた『ア・プロ・タンゴ』(というタイトルだったことは後で知った)の2枚のアルバムを1枚に収めた2イン1の徳用盤。

どちらも音源(前者はLPで後者はCD)を持っているのであえて購入する必要はなかった。が、ピアソラ集はCDで持っていてもいいかなと思った、というよりもお値段の魅力に負けてしまった。それにしてもこのCD、コアなピアソラのファンなら買うかも知れないが、ブエノスアイレス8のことを知らない人はたぶんスルーだろう。というのも、写真のように彼らの「姿」がまったく見あたらないこともあり、混声8重唱による希有の傑作であることも判断する術がないから。

日本盤ならさしずめ「奇蹟のコーラス」の他にもレコード(あるいはCD)の帯に「衝撃」とか「究極」といった文字が踊っていたはず。時にちょっと大仰では?と思わせるところのある日本盤の「帯」だが、「チャマメのピアソーラ」に釣られてチャンゴ・スパシウクを知る愉しみもあるわけだから一概に悪いとは言えない。さて、家に帰ってさらに驚いたことには、解説が一切ない。チャブーカ・グランダの珠玉の『未発表作品集』の例を挙げるまでもなく、録音データの不備に泣かされることが多い中南米産の音源とはいえ、彼らは「芸術的価値」というものをどう考えているのだろうかと愚痴のひとつも言いたくなってしまう。



♪ブエノスアイレス8との出逢い

1970年代当時、一世を風靡していたアカペラのコーラスグループがあった。「ダバダバ」コーラスとしても知られる8人組のスイングルシンガーズ。ブエノスアイレス8はそのタンゴバージョンという形で紹介され方だったと記憶。元々タンゴは大好きだったので、FMラジオから流れてきた「衝撃のコーラス」のことは今でもしっかり覚えている。しかし、当時は1ヶ月に買えるレコードはお小遣いに相当する1枚だけ。いつしか彼らの歌声のことも記憶の彼方に行ってしまっていた。

しかし、ブエノスアイレス8というグループがあったことだけはしっかりメモリーに残っていたようだ。1990年代に入った頃のある日、輸入CDショップで “Buenos Aires 8” と名付けられたCDが目に留まった。ジャケットには確かに Vocal Group と表示されていて収録曲もタンゴの名曲ばかりだから「やったぁ!」と思った。10年以上も前にふと彼らの歌声を耳にした時の記憶が蘇る。しばらくはこの声に出逢った70年代当時のことを思い出しながらタンゴを愉しんだ。ただ、この時点では彼らが珠玉のピアソラ作品集を出していたことを知らなかった。だから本当の素晴らしさはわかっていなかったことになる。



♪ブエノスアイレス午前0時

今で言うSNSの先駆けとなったのがパソコン通信だった。そこでは、90年代前半頃、電話回線を通じて音楽ファンによる熱き議論がたたかわされていた。私は少し出遅れて90年代半ばからの参戦だったが、ニフティサーブのフォーラムを通じていろいろなコアな方々と知り合うことができた。『アストル・ピアソラ 闘うタンゴ』の著者の方と知己を得たのもこの頃だ。

件のフォーラムでブエノスアイレス8のCDを見つけたことを話題に出したら、ある日メールが届いた。「渋谷の中古レコード店に彼らのピアソラ作品集のレコードがありますよ」と。早速、タワーレコードのすぐ傍にあったシスコに赴き、指定された場所にあったレコードを捕獲した。タンゴを聴き始めた頃からピアソラは好きだったので、しばし濃密な音世界を愉しんだ。でも、これも今にして思えばだが、このときも彼らの真価を理解するところまでには至らなかった。

♪”Tanguisimo” でピアソラ黎明期の音のシャワーを浴びる

ジャズよりもずっと先にタンゴに親しんだ私。だが、今に至るまで純タンゴのCDは1枚も持っていない。ピアソラの作品は1974年に出た『リベルタンゴ』から数えて10枚以上持っているものの、すべて五重奏団として確立された『ニューヨークのアストル・ピアソラ』以降のものばかり。『闘うタンゴ』を読んで、いつかは伝説の八重奏団の演奏を聴いてみたいと思っていた。ようやくそのときがやってきたのは今年の1月だった。

新宿のタワーレコードでアルゼンチン音楽のコーナーを覗いていたときに目に留まったのが厚いブックタイプのボックスセット。ピアソラの1945年から1961年までの録音が収められた9枚組の作品集の “Tanguisimo” だった。当然のことながら、1955年の八重奏団の演奏も入っている。フランスの Chant du Monde から出ているので内容も間違いないだろう。これは確かに「宝の箱」だった。伝統的なスタイルのタンゴから出発しながら、そこに飽き足らず八重奏団で「革命」を起こし、着々と不滅の五重奏団へと進化を遂げていくピアソラの姿がしっかりと捉えられている。アメリカ滞在時に、意に沿わぬ仕事をこなしながらも、シアリングサウンドに挑戦していたことを知ったのも驚きだった。



話はブエノスアイレス8から逸れるが、『ニューヨークのアストル・ピアソラ』までの時代のピアソラを聴き込んでみると、1955年の八重奏団の創設がいかにタンゴにとって革命的だったかがわかる。変革の時代のイントロ的な色合いを持つ ”Lo que vendra” のサウンドがまるでプログレッシブロックのような感覚で耳に届くから不思議。伝統的なオルケスタ・ティピカを強化したバンドネオン×2、ヴァイオリン×2、ピアノ、コントラバスの編成にチェロとエレキ・ギターを組み合わせたのが八重奏団の編成。だが、そんな中で、まるで強固な伝統様式にひとりで立ち向かっているかのようなエレキ・ギターの存在感が際立っている。後の五重奏団でも(試行錯誤を経て)しっかりエレキ・ギターが生き残ったところに、ピアソラの「革命」に対する並々ならぬ情熱を感じざるを得ない。

しかし、黎明期のピアソラのシャワーをしばらく浴び続けたことが、実は私自身の音楽観にある種の変化をもたらしていたようだ。そのことを知らしめてくれたのが、『タンゴス』で久しぶりに聴いたブエノスアイレス8によるピアソラ作品集だった。イントロを耳にした瞬間から、それまでに感じたことがなかったものがたくさん見えてきたから不思議。ひとつ確実に言えることは、ピアソラの音楽は究極まで練り上げられたものだということだ。ひとつ間違えば破綻に繋がりかねない世界を鍛え抜かれた「奇蹟の」八重唱団が緻密に再現していく。それも、ピアソラ本人も気付かなかったかも知れない新たな魅力を付け加えることを忘れていない。ちょっと大げさだが、ブラジルで世界一になったドイツ代表のサッカーにマラドーナやメッシの奔放さも加わった強力なチームの完成と言ってしまおう。

♪「奇蹟のボーカル」の秘密を解き明かす

ブエノスアイレス8のサウンドはいかにして生まれたのだろうか。国内盤で出た『ブエノスアイレス午前0時』に載っている高場将美氏の解説がとてもわかりやすく素晴らしいので、そのまま引用させていただく。

「楽器の編成で、もっとも単純であって表現力の大きなものは、弦楽四重奏でしょう。その楽器を、声楽に当てはめてみると、第1バイオリン=ソプラノ、第2バイオリン=メゾ・ソプラノ、ビオラ=テノール、チェロ=バス~という風になると思います。しかし、人間の声は楽器とちがい、特に男女の混声による音色のちがいはバランスをとりにくいものです。そこで……いわゆるドラマチックソプラノには、高い声域をより軽く出すことができるソプラノ・リジェーラを重ねてやります。メゾ・ソプラノはアルトと共調することによって深みを増します。この編成の中核をなすテノールも2声にした方が、厚みが出ます。そして最低音のバスと上声部との融合のために、バリトンの力強さを補ってやる。~これで、合唱としては、ほぼ理想的な形と言える八重唱が出来上がりました。」

さて、『タンゴス』の後半はタンゴ名曲集。緊迫感に充ちた前半のピアソラに比べるとリラックスした雰囲気で楽しめる。定番の「ラ・クンパルシータ」が入っていないところに彼らの「拘り」を感じるが、それは別にしても一風変わったタンゴではある。そこでふと気がついた。彼らにとってはピアソラが第一で、その音楽を極めていく過程でタンゴに対する眼差しも変わっていったのではないかということ。

そう考えると、ブエノスアイレス8の登場は少し早過ぎたのかもしれない。もし、彼らがそのままタイムスリップしてピアソラブームが巻き起こった時代にやって来たら、世界中で絶賛の嵐が巻き起こったのではないだろうか。ピアソラ作品集の完成度の高い世界に何度も触れると、残念で仕方ないという気持ちを抱いてしまう。

やはり、このグループはしかるべき形で「復活」を果たすべきだろう。もちろんオリジナルメンバーでは無理だから、せめて音源だけでもまともな形でカタログに残る形になって欲しい。このまま埋もれてしまったらピアソラファン、タンゴファン、いや音楽ファンにとっても大きな損失だと思う。
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ジョイス・モレーノ@コットンクラブ/躍動感溢れる白熱のライブ

2014-07-21 12:23:29 | 地球おんがく一期一会


地元開催のワールド杯では散々な結果に終わったブラジル・サッカー。でも音楽大国としてのブラジルは元気いっぱい。50年近いキャリアを誇るジョイス・モレーノの東京・丸の内コットンクラブでのライブ(2014年7月12日)は、意気消沈気味の日本のブラジルサッカーファンに元気を与えるような素晴らしい内容だった。

♪ジョイスとの出逢い、そして想い出

ジョイス(現在はジョイス・モレーノと改名)は1948年リオ・デ・ジャネイロ生まれの生粋にカリオカ。70年代後半から80年代中盤にかけて、ジャズ/フュージョンに熱中した流れでブラジルのMPB(Musca Popular Brasileira)を追っかけていたから当然名前は知っていたし、当時2枚のLPを購入している。

でも、サンタナに導かれる形でフローラ・プリンやアイルト・モレイラの音楽に心酔し、イヴァン・リンス、ミルトン・ナシメント、エドゥ・ロボ、ジャヴァン、アジムス、ジョルジ・ベン、ジルベルト・ジル、エルメート・パスコアルと言った人達を追いかけた。そんな流れの中に居たのがジョイスだった。というわけで、音楽に惹かれはしたものの熱烈なファンになるところまでには至らず現在まで来ている。だから現在のバンドのメンバーに関心を持つことがなかったら、ジョイスはそのまま「ブラジルの素晴らしいミュージシャンのひとり」で終わってしまっていた可能性が高い。



7月の第1週の土曜日だった。とあるSNSのコミュニティに入ったことが縁で2ヶ月に1回開催されているイベントに参加。日本でブラジル音楽(とくにミュージシャン関係)のことを語らせたら世界一の方を中心とした5~6人のメンバーが各人の好きな音源を持ち寄り、大音響で楽しもうという集まりだ。そこでのアフターアワーズセッション(というと聞こえはいいが、要は単なる飲み会)でジョイス来日の話題が出た。ピアニストにエリオを加えてから、ジョイスの音楽はとみに充実度が増しているという。

「エリオ」にすかさず反応した。「エリオって、エリオ・アウヴェスですか?」。後で少し紹介するが、エリオ・アウヴェスはブラジル出身でもっとも愛するジャズ・ピアニストのひとり。そうとなれば絶体に行かなければならない。スケジュールを確認したら、翌週の土日がコットンクラブで、その後はブルーノート東京でライブがあるという。翌日、コットンクラブの予約の状況を確認したら土曜日の1stは既に満杯で慌てて2ndに予約を入れる。



♪ライブの前に久しぶりに聴いたジョイスの音楽

手持ちのLPは1983年の録音された “tardes cariocas” と1985年の録音された “saudade do futuro” の2枚。前者にはエグベルト・ジスモンチ、後者にはミルトン・ナシメントがゲストで参加している。また、アレンジを手がけるのは名手ジウソン・ペランゼッタなので、イヴァン・リンスなど上質のブラジル最新の音楽に心酔していた頃の佳き想い出が蘇る名演集と言った感じ。

さらに、ライブ前日には帰路に新宿のタワレコへ寄り道して『フェミニーナ』(1980年発表)と『水と光』(1981年発表)もゲットして聴いてみる。ひとまずエリオ・アウヴェスのことはおいといて、頭の中には当時毎日のように聴いていたブラジルMPBのアーティスト達の音楽をいっぱい詰め込んでコットンクラブへと向かった。



♪オープニングからエンジン全開だった白熱のライブ!

今回のジョイス・モレーノのライブのテーマは『RAIZ(ハイズ)』で英語に直すと『ルーツ』ということになる。彼女が「ジョイス」だった時代、すなわちデビュー当時からの音楽活動を振り返りながら「現在の音楽」を披露するというプログラム。頭の中では数日間鳴り響いていたジョイスの80年代前後の音楽のボリュームがじわじわと上がっていく。

そして、定刻(20時)を僅かに過ぎたところでジョイスがバンドのメンバー3人を引き連れてステージに登場。ドラマーはジョイスの旦那様でもあるトゥチ・モレーノ、ピアノはお目当てのエリオ・アウヴェスでベースは今回が初来日となるブルーノ・アギィラール。全員が位置についたところで間髪入れずにジョイスの素敵な声によるカウントのあと演奏が始まった。ギターを爪弾きながら元気いっぱいの声で歌うジョイスのバックを腕達者な3人のミュージシャン達が支える。

ここでそこまで頭の中を支配していた「懐かしのMPBのジョイス」は完全に吹き飛んで行ってしまい、ひたすら前を向いてドリブルを仕掛けるかのような強力な音楽が1時間にわたって展開されることになる。それにしてもこの地の底から沸き立つような躍動感溢れるリズムはどこから来るのだろうか。ドラム? 「No」、ベース? 「No」、ピアノ? 「No」。答えはジョイス以下4人のメンバー全員としか考えようがない。

中心は曲によってギターを持ち熱唱するジョイス・モレーノで間違いない。でも、他のメンバーも俺にボールを渡せと言わんばかりに波状攻撃的なドリブル突破を仕掛ける。テーマは後ろ向きともとれるのに、後ろを振り返ることは誰もしない、あくまでも前進あるのみの強力なサウンドだ。サッカーのブラジル代表も本当はこんな音楽、ではなくてサッカーがしかたかったのではないだろうか。サッカーファンでもあるのでついついそんなことを想ってしまった。

ジョイスは語り(流ちょうな英語を話す)も上手なのだが、とにかく1分たりとも音楽に費やす時間を無駄にはしたくないように見える。そうとしか考えようがないくらいに、曲が終わると間髪入れずにカウントとともに怒涛の演奏が始まる。ここで強く感じたのは、リズムや感覚を完全に共有するもの達のみが達成することができる強固な一体感。寄りかかるものは相互の楽器ではなく、メンバー全員が身体の中に持っている体内時計みたいなリズム感。初加入のベーシストも思いっきり歌っていて、チームに完全に溶け込んでいたようだ。

ブラジル音楽に限らず、ラテンアメリカ音楽に共通するのは、感性が共有できているミュージシャン達によって構築される魔法のような一体感。サッカーに例えれば、自由勝手に動いているように見えながらも、戦術が完全に共有されてマジックのようなパスが繋がりあっと言う間にゴールに迫っているといった感じ。ムシカ・ジャネーラのホローポのように最初は誰の演奏(歌)を聴けばいいのかさっぱりわからない音楽もあるが、ブラジル音楽でも同じことが起こる。欧州スタイルの決めごとが支配しているような組織的で流れるようにパスが繋がるサッカーとはバックグラウンドが違うわけだ。

高揚感と心地よさに包まれた、あっと言う間の1時間だった。そして、グループの自由闊達な音楽を聴いていて、それはおそらく入念なリハーサルを重ねた結果ではないかと言うことに気付いた。各自のやることが決まっていて出るべきところもわかっている。だから一聴するとバラバラに見える演奏なのに、4人から強固な一体感溢れる音が産み出される。

そう考えると、サッカーのブラジル代表は明らかにリハーサル不足であったのではないかと感じる。「能力の高い選手が揃っているから多少ツメは甘くても誰かが何とかしてくれる、それに俺たちは世界が畏れるセレソンなのだから。」そんな意識が多少ともあったことがドイツに見破られて想定を越える敗戦に繋がったのではないだろうか。傷が少し浅かったとは言え、オランダ戦でも同じような光景が繰り返されたことを観てその想いはより強まった。

そんなことは別にしても、こんなに密度が濃くて爽快感に満ちたライブには滅多に出逢えない。いや出逢ったことがないと訂正しよう。素晴らしい時間を与えてくれたジョイスと3人のメンバーに感謝あるのみだ。



♪エリオ・アウヴェスのファンからは次への期待を込めて

あくまでもライブの主役はジョイス・モレーノ。それは重々にわかっていてもホンネをいうとエリオ・アウヴェスのソロをじっくり聴きたかったというのが正直なところ。エリオが本来指向しえいる音楽はブラジルテイストの入ったアメリカンスタイルのジャズ。だから、このライブではチーム一丸となってタイトな音楽を構築するメンバーの役割に徹しなければならないことは致し方ない。エリオのジャズは彼自身のトリオでじっくり楽しむべきものと言うこと。果たして、この日コットンクラブを埋めたファンにエリオが俊英ジャズピアニストの1人でもあることがどの程度まで認知されただろうか。

サウス・アメリカン・ジャズ(ジャズに南米スタイルのスウィング感を持ち込んだ新しいスタイルのジャズ)を追いかけている私にとって、2000年になる前に入手したエリオ・アウヴェスの『トリオズ』は衝撃的な作品だった。1997年の米国録音でジョン・パティトゥッチとアル・フォスターがリズム隊を務めたアメリカン・トリオとニウソン・マッタとデュデュカ・ダフォンセカ(1曲のみパウロ・ブラガが参加)がリズム隊を務めたブラジリアントリオの2つのピアノ・トリオの演奏が楽しめる作品。

だから2つの『トリオ』という訳だが、若きエリオ(1966年サンパウロ生まれ)の実質的なリーダー作品でもあり、華麗なるタッチを持ち味とした流麗としたスタイルのソロ演奏が楽しめる作品にもなっている。名録音技師のルディ・ヴァン・ゲルダーが製作に携わっていることも話題となった Reservoir Music の “NEWYORK PIANO” シリーズの中の珠玉の1枚。

とくに、アルバムのオープニングを飾るシダー・ウォルトンの名曲「ボリビア」は「エリオはこの1曲でキマリ!」と言ってしまいたくなるくらいに、シンプルで美しいテーマをモチーフに、ブラジリアンテイストの軽いタッチによるめくるめくようなアドリブがたっぷり楽しめる。バックを支えるジョン・パティトゥッチ(プッシュ系でソロも披露)とアル・フォスター(ナチュラルなサポート系)が、対照的なスタイルながらも「重鎮」として若く才能を強力にバックアップしているからもうたまらない。

エリオはホメロ・ルバンボなど強力なブラジル系出身のミュージシャン達との共演も多く、ブラジリアン・ジャズには欠かせない逸材。次こそは、彼自身のトリオでゆったりした気分を味わいたい。ジョイス・モレーノに対する最高レベルの満足感とエリオ・アウヴェスに対する大いなる期待感を胸に抱いてコットンクラブを後にした。
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冷戦時代に聴いたソ連のジャズ(4)/BCLで世界中の音楽に親しむ

2014-04-12 20:05:52 | 地球おんがく一期一会


ワールドバンドラジオは私のBCLライフ、いや生活自体も変えた。朝は起きてから学校に行くまで、夕方も帰ってきてから寝るまで、ラジオのチューニングダイヤルを4つの短波帯にまたがって上から下へ、下から上へ、そして上から下へとひたすら回し続けた。お陰で何度かダイヤルが空回りするようになってしまい、ラジオがその度に修理工場に入院した。また、自宅周辺に(文字通りの)ロングワイヤのアンテナを張り巡らしたりして、たまたま社宅だったから大目に見てもらえたのかも知れないが、本当にやりたい放題だった。

◆日本短波クラブに入会

ラジオのダイヤルを回していればいろんな放送が聴ける。とはいっても、やはり自分が聴いている放送の電波はどこから飛んで来ているのかなどなど、知りたいことは山ほど出てくる。そこで、BCLとは何たるかを深く知るために、件の新聞記事で紹介されていた日本短波クラブに入会した。会員番号は3267番。ちょうど同じ頃入会したT君という同い年の少年がいて、文通して情報交換したりしていた。ちなみにT君はアマチュア無線用の通信型受信機(トリオの9R59DS)を所有する本格派で、BCLとしてのレベルも高く羨望の的だった。

日本短波クラブは月に1回、会報を発行していた。その内容は、海外放送に関わる最新情報や受信のテクニックの紹介はもちろんのこと、会員が1ヶ月の間に受信した放送の記録を集めて周波数順にリストアップすることに重きをおいていた。後者は会員の報告をもとに構成されているのだが、誰でも受信できるような放送局のものは採用されない。掲載されるのは、受信が難しい放送局や、日本での初受信と言ったような話題性があるものに限られるという暗黙の了解があった。毎月レポートを眺めるだけでも、日本には世界中の至る所から電波が届いていることに驚かされた。と同時に、自分も会報に載るような報告をしてみたいと思うようになった。

こうなると必然的に聴取の対象は、日本語放送などの国際放送よりも、各国の国内向けの放送ということになってくる。いつしか、中南米やアフリカの放送や近隣のアジア地域でも珍しい国からの電波を追い求めるようになっていた。何回かクラブに報告を送って初めて自分の会員番号が会報に載った時はとても嬉しかった。当時、BCLの話題は電気関係の雑誌にも載っていた。たいていの記事は初心者向けなのだが、「電波技術」という雑誌のレポートはひと味違っていた。いつしか「電波技術」にもレポートを送るようになっていたのだが、ある日突然、雑誌社から現金書留が送られてきた。少しテーマ性を持たせた内容のレポートが雑誌の記事になり、その原稿料を頂いたというわけだ。でも、「自分が好きでやっていることをただ書いただけなのに...」という感覚で、なぜお金がもらえたのかが理解できなかった。その後2回ほど500円から700円くらいの受け取ったと記憶している。

◆ベリカード(受信確認証)のこと

BCLを話題にするなら、後に空前のBCLブームをもたらす上で起爆剤になったベリカード(Verification Card:受信確認証)についても触れておかなければならない。前にも書いたように、短波は時間帯によるだけでなく、季節、そして経年でも伝わり方が違うという性質がある。通信衛星を使う必要がない代わりに、電波を送るにあたって絶えず電離層の状態を確認する必要がある。といっても電離層の状態を直接知ることはできないため、その確認は電波の受信状態をモニタリングしながらの間接的な方法になってしまう。したがって、国際放送を行っている放送局にとっては、ターゲットの地域で自分達の送った電波が確実かつクリアに受信できているかが大きな関心事となる。そこで役に立つのがリスナーから送られてくる受信状態に関する技術的な情報(受信報告書)。放送内容に対する意見や感想が関心事の国内放送の局との大きな違いはここにある。

ベリカードは、そういった貴重なレポートを送ってくれた人へのお礼といった形で送られるようになった経緯がある(と記憶)。ひとつ前のブログにも少し紹介したが、ベリカードは綺麗でお国ぶりが反映されたものが多い。ただ、国際放送局もより確実な情報を得る目的で各国にモニターを配置するようになったため、欲しいのは受信報告よりも放送内容に対する意見や感想の方になっていく。サービスの余力がある国際放送局はまだしも、国内放送局の場合は外国から送られてくるベリカードを要求するような受信報告はかえって迷惑だったりする。でも、珍しい放送を受信したことの証が欲しいコアなBCLは、どうしてもベリカード(あるいはベリレター)が欲しい。そこであの手この手のいろんな「テクニック」が開発されることになった。

ベリカードの返送には当然郵送料がかかる。そこでIRC(International Reply Coupon)と呼ばれる返信用の切手と交換できるクーポンを2~3枚同封することが常識となった。また、レポートも放送関係者ではなく、技術に関心を持っている「チーフ・エンジニア」に送る方が喜ばれて効果的というような方法を見つけた人も居た。英語が通じない国も多いので、日本短波クラブではフランス語やスペイン語の受信報告用紙を会員向けに販売していた。中には、ベリカード欲しさにクラブの会報などに載ったレポートを利用して受信報告書を捏造する輩まで現れた。このため、ベリカードを受け取るべき人が受け取れないという事態まで発生し問題になった。

かくいう私も、当初は海外から送られてくるベリカードに魅力を感じたひとりだ。でも、ベリカード熱は割と早く冷めてしまった。受信報告書を書くためには、放送局に受信内容を確実に確認してもらえるような内容を記録しなければならない。ダイヤルを回している間にも、克明にログ(記録)を取る必要があり、さらにその後レポートを仕上がるのに手間がかかる。さらに、BCLに熱中するうちに、別のことへと興味関心が移っていったことも大きい。それは、自由気ままに世界中から届く音楽に耳を傾けるということだった。



◆世界の民俗音楽

私が少年時代に熱中した音楽番組のひとつに小泉文夫さんが案内役を務めた「世界の民俗音楽」があった。小泉さんは日本における民俗音楽研究の第一人者で、自ら録音機材を担いで世界中を回り貴重な音源の収集に奔走した人でもある。BCLをやることにより、興味を持った世界の音楽を毎日聴くことができるのだ。人が未知の音に接したときにとる態度は、「ヘンな音」で興味を持たずに終わってしまうか、「なぜこの音なのか?」が気になって探求するかのどちらか。「世界の民俗音楽」に魅了された少年は、BCLラジオを通じて飛び込んでくる「ヘンな音」の背景には何があるのか?により強い興味を抱くことになる。もっとも、異文化を「エスニック」という言葉で片付けてしまうこと自体が「ヘンなこと」で、立場が変われば欧米の音楽も立派なエスノ音楽なのだが。

◆あるBCL少年の1日

民俗音楽に興味を持ったBCL少年の朝は早い。早朝でまだ近隣諸国が放送を始めていない時間帯はアフリカや南米方面からの電波を捉えるチャンスでもある。トロピカルバンドとも呼ばれた5MHz帯(60メーターバンド)では西アフリカ方面からの安定した電波が届いていた。発展途上国の放送局は概ねニュース以外の時間には音楽を流しているだけの場合が多いが、ここが狙い目なのだ。9MHz帯(31MB)や11MHz帯(25MB)ではブラジルやアルゼンチンと言った南米からの電波が届く。雑音や混信との戦いでもあるのだが、現地から届く歯切れのいいスペイン語やポルトガル語に混じって聞こえる音楽がまた魅力的だった。

学校が終わって帰宅してからまたラジオのスイッチがONになる。夕方から夜にかけては、13MBや16MBの高い周波数では安定して聞こえる欧州方面、60MB(5MHz付近)、49MB(6MHz付近)、31MB、25MBで聞こえる南米方面がターゲット。ちなみに地球の裏側の南米大陸は朝のため、東のブラジル、ウルグアイ、パラグアイから西のチリ、ペルー、エクアドル、コロンビアといった具合に時々刻々と放送が始まる国々からの電波が届く。総じて南米方面の局は出力が小さいため、安定した受信は望めない。しかし、日によっては普段は聞こえない放送も入るので、そんな日はダイヤル回しにも熱が入る。東洋の5音音階の旋律にも通じるところがあるアンデス風味の音楽は格別だ。

夜になると、近隣諸国の放送や海外からのアジアに向けた放送が始まることで、25MBや31MB
は大変な賑わいを見せる。そんな混雑を避ける形で、ターゲットは東南アジア(ベトナム、マレーシアなど)から南アジア(インド、パキスタンなど)のローカル放送に移る。夜も更けてくると、アフガニスタンやソ連の中央アジアからの放送が良好に聞こえてくるようになり、部屋の中は日本とは違ったアジアが満喫できる状態になる。さらに深夜の時間帯には近隣諸国の放送が終わった間隙をつくかたちで欧州やアフリカ方面からの電波が浮き上がってくる。

とにかくラジオのダイヤルを回しているだけで世界を自由に飛び回っているような感覚を味わえることがBCLの醍醐味。そんな毎日を送っているうちに、感覚的に季節や時間帯でどの国からどの周波数帯で電波が届くかがわかるようになっていた。また、ラジオから流れてくる音を聴いて、それがどの地域からのものなのかも掴めるようになっていた。隣国同士でいがみ合ってはいても、両者の音楽が特別違ったものではなく、影響し合っている部分だってある。電波という媒体を通じて自由に地球上を飛び回る音楽が思わぬ形で国際交流、ひいては相互理解を促したことだってあるはず。



◆興味関心は中央アジアからコーカサス地方へ

いろいろな音楽を聴く中で、とくに興味関心を抱くことになったのはソ連の中央アジアからコーカサス地域(シルクロード)の音楽だった。ソ連は広大な国土をカバーするために短波を最大限に活用していた国だった。各地にある送信機からは、中央のモスクワ放送の電波だけでなく、地方局が独自に制作した放送の電波も送られていた。それらの放送は、モスクワからの放送とは違い、ローカルカラーを色濃く反映した音楽を流していてより魅力的だった。

カザフ共和国のアルマアタ(アルマトイ)、キルギス共和国のフルンゼ、タジク共和国のドゥシャンベ、ウズベク共和国のタシュケントからの電波は安定して日本に届いていた。また、襲い時間帯にはコーカサス地方のアゼルバイジャン、グルジア、アルメニアからも電波が届く。アフガニスタン、トルコやイランも含めた中近東地域からの音楽がとりわけ心に響いたし、昼間から良好に聴くことができたインド、パキスタンの音楽、そしてクウェートからのアラブ音楽も刺激的だった。

◆空前のBCLブームに想うこと

私がBCLを始めたのは1969年だが、それから数年を経た70年代中盤には状況が大きく変わっていた。史上空前とも言われるBCLブームの到来で、電気店にところ狭しと多くのメーカーがこぞって製作したBCL用受信機が並ぶという、今ではとても信じられないことが起こっていた。火付け役は前にも書いたとおりベリカードだった。単刀直入に言うと、「BCLをやってベリカードを集めよう」に集約される。本来のBCLの目的は、興味を持った国の情報収集であったり、語学学習だったり、音楽などの異文化に触れたりすることだった。マニアックだが、珍局を求めてダイヤルを回すというのもありだと思う。でも、ベリカードをもらったら一丁上がりではブームも長続きするはずがない。

せっかくのBCLブームなのに、それがうまく国際交流の促進とか外国人との相互理解という方向に発展していかなかったのが残念に想えてくる。島国で海外を体験する機会が乏しい日本なのだから、電波の力を借りない手はなかった。それはさておき、中近東やコーカサス地方の音楽の楽しみを知ったBCL少年のその後だが、「ブーム」に反比例する形でBCLからは遠ざかっていくことになる。大学生になった頃には、永年の酷使でBCLラジオも瀕死の状態となり手放してしまった。このままBCLから完全に離れていたらソ連のジャズとも出逢うことはなかったわけだ。皮肉にも「ブーム」が去った頃に秋葉原で入手した通信型受信機が新たな路を切り拓くことになった。
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冷戦時代に聴いたソ連のジャズ(3)/憬れのマルチバンドラジオ

2014-04-05 20:02:48 | 地球おんがく一期一会


本題になかなか辿り着けない。当初の構想では、BCLの話はさっと流して次回あたりで出逢いの話に入るつもりだった。でも、少年時代のことを振り返ってみると、いろんなことが思い出されて止まらなくなってくる。私にとってのソ連ジャズはBCL体験抜きには語れない。また、ソ連にジャズを伝えたのもBCLで実体験した短波放送。タイトルを変えたい気持ちにもなってくるが、BCLのことをもう少し掘り下げてみようと思う。

さて、父親から借りた(奪い取ったという方が正しいが)2バンドのトランジスターラジオによる受信はすぐに限界に達してしまった。このラジオでは聴けない12MHz以上の周波数領域で飛び交っている電波を捉えて観たいという想いは日に日に募っていく。時は、まだ大型の家電量販店がなかった40数年前。東京の秋葉原にあたる大阪の日本橋はあくまでも問屋さん。街中の至る所に電気屋さんがあり、ラジオも普通にディスプレイされていた。

カメラ屋さんでもラジオは売られていて、中でもAM(中波)、FMの他にSW(短波)が4バンドの計6バンドの帯域が受信できる「マルチバンドラジオ」は垂涎の的だった。件のお店の前を通るごとに立ち止まってはずっと「恋人」に熱い眼差しを送っていたことが功を奏し、遂に誕生日のプレゼントという形であこがれのラジオが家にやって来ることになった。忘れもしない、ソニーのTFM-2000Fだ。価格は25,800円でレコード1枚の10倍くらいだが、当時のことを思うとけして安くはない。父もかなり無理をしてくれたのだろう。

このラジオは、上でも少し触れたとおり短波帯が4つのバンドに分割される形で1.6MHzから26.1MHzまでカバーされていた。厳密に言えば30MHzまでが短波帯なのだが、放送バンドの上限が26.1MHzなのでBCLで使うにはまったく問題がない。「その日」から家に居るときはラジオのチューニングダイヤルを回して(それこそ上から下まで)バリバリと音を立てながら世界中の放送局を追いかける毎日が始まった。

TFM-2000Fのキャッチコピーは「音楽マニアから海外局ハンターまで」ということで大型の筐体を活かした音の良さでも定評があったラジオ。実際にこのラジオは私自身の音楽ライフをとても豊かなものにしてくれた。ちなみに、筐体の大きさは幅29cm、高さ22cm、奥行10cmで重さは約4kgもあった。コンパクト化、スリム化が進む現在ではまず作られることのないラジオ。後に登場したラジカセもそうだが、当時のラジオは総じて筐体は大きくスピーカーから出てくる音も豊かだったように思う。

ちょっと脱線するが、60年代にポピュラーだった真空管を使ったテレビやラジオのことも思い出してしまった。テレビの家庭用のサイズは13インチが主流で、大型の19インチのテレビがあることはお金持ちの証でもあった。とにかく画面の大きさに圧倒されたのだが、大型スピーカーを含む木製のボディから出ていた柔らかい音が何とも言えず贅沢。真空管方式だから、スイッチを入れてもすぐに音は出ず、ボワーンという感じで音が大きくなっていく(スイッチを切った時は逆ですぐには音は消えない)のだが、あの暖かみのある音が終生忘れられない。利便性や経済性の追求のもとに進んだ小型化、軽量化により失われていったものはけして少なくない。

TFM-2000Fは溜まり溜まった欲求不満を一気に解消してくれた。とくに当初期待したとおり、14MHz以上の領域をカバーした「SW4」バンドはまるで異次元空間にある世界のようだった。欧州からの放送が混信や雑音も少なくクリアーに耳に飛び込んでくる。もちろん、ドイチェ・ヴェレの日本語も毎日聴くことができた。余りにも多くの電波がひしめき合っていた9MHz帯や11MHz帯の世界は、混信に加えて雑音も多く混沌としていた。だから、性能の低いラジオでも楽しめたのは近隣諸国からの強力な放送だけ。より遠くから、よりバラエティがあるものを求めた短波少年には住みずらかったことが実感された。



強力な武器を手に入れて、まず最初に夢中になったのが南アフリカから放送されていたラジオRSAだった。何故かというと、25790KHzといったこのラジオの最上限に近いとんでもない周波数を使っていて、かつ毎日強力に受信できたから。25600~26100kHzに割り当てられた11MB(メーターバンド)はまるでこの放送局のためにあるようなバンドだった。当時の南アフリカはアパルトヘイトの時代で世界のスポーツ界からも締め出されていたが、ターゲット地域ではなく、しかも日本人の少年リスナーに対しても印刷物の定期刊行など行き届いたサービスを提供していた。国が孤立状態にあったが故に対外的な気遣いをすることを多分に意識していたのだろう。

21450~21750MHzに割り当てられた13MBは欧州やアメリカ本国、そして石油生産で潤う中東地域からの放送が主体。とくに中東地域は100kWどころか500kWといったオイルマネーにものを言わせた大電力の送信機を使って極東地域にもアラブ音楽やコーランの朗唱を送り届けていた。しかし、このバンドの私的主役は日本時間の夕方に当たる欧州地域からの整った放送。オーストリア、スイス、ノルウェー、スウェーデン、チェコスロバキアといった国々から届く豊かな音楽が聴けるのも大きな魅力だった。夕方に高い周波数で欧州から届く電波にはひとつ特徴があって、あたかもエコーがかかったように聞こえた。時間帯によっては電波が地球も何周もしており、それらが干渉することが原因だと物の本で読んだ。



そんな欧州諸国の放送局の中でもっとも人気を博したのがとくに音楽番組が充実していたオランダのラジオ・ネダーランド。本国だけでなく、アンティル諸島のボネア島(ヤクルトのバレンティンの出身地キュラソー島の近くにある島)、マダガスカルの2つの中継局に強力な送信機を据えていたこともあり、日本でも受信しやすくて人気が高かった。ビートルズを生んだ英国のBBC放送にしろ、米国産ポップスとはひと味違った音楽が聴けたのが欧州からの放送の魅力でもあった。そして、欧州のジャズの紹介番組でマニアに人気があったのがドイチェ・ヴェレだった。

しかし、ハイバンド(14MHz以上)でも世界を圧倒的に支配していたのは、やはり米ソの2大国(冷戦のと当事国)だった。米国のVOAは西海岸に設けた送信所からソ連極東地域や中国に向けて、また、ソ連のモスクワ放送や自由と進歩放送などはそれに対抗する形で極東地域の送信所から北米大陸に向けてそれぞれ電波という名のプロパガンダ用ミサイルを飛ばし続けていた。日本人はまさにそれらのミサイルの弾道直下に居たわけだ。ただ、極東中継のおかげでアルメニアのラジオ・エレヴァンが米国向けに放送した番組を聴くことができたのは嬉しかった。

このように米国西海岸からの電波は太平洋を超えて日本に確実に届いていたのだが、東海岸からの電波をキャッチすることはターゲットが違う(主に欧州やアフリカ、中南米が対象)こともあり難しかった。そんな中で朝の時間に偶然届いたのがWNYWのコールサインで放送していた民放局の「ラジオ・ニューヨーク・ワールドワイド」。数多の宗教放送局が競って電波を出し合う中で貴重な情報を提供していた放送だったようだが、コンスタントに聴くことはできなかった。この局もご多分に漏れず時代の流れの中で役割を失って消えていく運命にあった。その放送の受信報告に対してヴェリカードを得たことは、佳き想い出のひとつとなっている。

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