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「熱闘」のあとでひといき

「闘い」に明け暮れているような毎日ですが、面白いスポーツや楽しい音楽の話題でひといき入れてみませんか?

寛ぎの午後を弦楽四重奏で/ジオカローレのあくなき挑戦

2015-02-24 23:39:32 | 地球おんがく一期一会


幼少期からクラシック音楽に親しんできた私。ではあるが、主に聴いていたのは交響曲であり、協奏曲であり、ピアノ曲だった。室内楽はどちらかというと苦手で、中でも弦楽四重奏にはあまり関心を抱くことがなかった。ジャズはビッグバンドより断然少人数のコンボだから不思議ではあるのだが、たぶん音楽の性格も影響していたのだろう。

しかし、あることがきっかけで今やクラシックも小編成の室内楽中心に楽しむようになっている。とくにマイブームとなっているのは、今までハイドンやバルトークやラヴェルといった例外を除き、殆ど親しむことのなかった弦楽四重奏というから人生はわからない。



♪クラシック倶楽部で知った室内楽の楽しみ

さて、その「あること」だが、音楽とは全然関係なさそうな、いや関係のないNHKの朝ドラだった。現在再放送されている「梅ちゃん先生」になぜか填まり、朝のBS放送分を録画して毎晩観ていた。それは現在の「マッサン」までしっかりと続いている。

普通なら話はそこで終わってしまうのだが、録画予約をしているときにひとつの番組が目に留まったことからひとつの私的ドラマが始まった。その番組は朝ドラ2連発の20分前に終了となる「クラシック倶楽部」。月曜日から金曜日までの毎朝6時から55分間、日本国内で行われたリサイタル(室内楽や声楽の演奏会)の模様を届けてくれる番組。

ついでだからこちらも録音してみるかということで、朝ドラを観たあとに音楽も愉しむことになったのだが、これが驚きの連続だった。ひとつは、東京が中心とはいえ日本ではこんなにも多くの室内楽の演奏会が開かれているということを知らなかったこと。海外の有名な演奏家も頻繁に登場するなど、とてもレベルが高い演奏が毎晩のようにどこかで行われていることに気づいていなかった。

そして、もうひとつはクラシック音楽であっても、小さな編成による音楽の愉しみは、ジャズのライブ演奏と何ら変わらないということ。こうして日常的に室内楽に接していくうちに、とくに魅力を感じることになったのが弦楽四重奏だったというわけなのだ。その面白さについては後々に書いていくこととして、ひとつ確信を持ったことがあった。

それは、「弦楽四重奏団は最小規模のオーケストラであると同時に最大規模のソロ楽器である」ということ。それと楽器の奏法や演奏スタイルの変遷はあるにせよ、ハイドンの時代から現代に至るまで、弦楽四重奏はまったく編成を変えることなく続いていることも興味深い。弦楽四重奏は古今東西の作曲家達を同じ土俵に載せることができる最高の編成と言い換えることもできる。なぜいままでこのことに気づかなかったのだろう。



♪ジオカローレとの幸運な出逢い

前置きがすっかり長くなってしまった。年に2回、大学の同級生で集う飲み会がある。クラシック音楽よりも、そしてジャズよりも、ど演歌の方が似合いそうな業界で働いている仲間の集いなのだが、久しぶりに出席したひとりと音楽の話になった。もともと娘さんが大学のオケでコンマスをしていることは人づてに聞いてはいた。だから話題を音楽に振ってみたのだが、「娘が弦楽四重奏をやっていまして、近々演奏会がありますよ。」という予想をはるかに超える展開になってしまったのだった。

そんなわけで、2月21日の午後、東神奈川駅のカナックホールに足を運んだ。プログラムがまた驚き。第2楽章が「アンダンテ・カンタービレ」としてつとに有名なチャイコフスキーの弦楽四重奏曲は定番なのだが、ベルワルドとシベリウスの弦楽四重奏曲は滅多に聴けない曲。もちろんシベリウスはフィンランドを代表する作曲家で交響曲は有名だが、ベルワルドに至ってはクラシック音楽ファンでも知らない人が多い。スウェーデン人で大変魅力的な交響曲を書いている人ではあるのだが、その素晴らしさを知る人はまだまだ少ない。

プロの弦楽四重奏団は取り上げないような作品が2つ。しかしここがジオカローレの魅力ではないかとプログラムを見て思った。アマチュアだからこそ、珍しい作品に取り組むことができるとも言える訳だ。弦楽四重奏にはまだまだ隠れた名品があるはずだし、それを掘り起こすことが出来るのはプロの団体とは限らない。

そんなことを考えながら開演を待っていると、4人のメンバーがステージに登場。ベルワルドの曲が始まった。ロマン派の時代に生きながらも、ドイツやオーストリアとは違った北欧風の味わいがあり、随所に仕掛けがある作品。比較的有名な交響曲第3番などで味わえる剛気な感覚とはまた違う面白さがあることを知ったのはひとつの発見だった。

次の曲はシベリウス。第2番や第5番などの交響曲を何度も聴いたお馴染みの人のはずなのだが、弦楽四重奏は別の人の作品のように感じるから不思議。しかし、ここも弦楽四重奏の楽しみなのだ。とくに印象に残ったのはチェロ奏者の活躍。両翼に位置するバイオリンとチェロが対話するかのような展開も面白いし楽しかった。

そして最後はチャイコフスキーとなる。やはり、この人は天性のメロディストだったことがよくわかる。ジオカローレは過去にこの曲を取り上げたことがあるそうで、そんなことからもこなれた演奏だったように感じた。だからという訳でもないが、いつの日かベルワルドとシベリウスにも再チャレンジして欲しいと思ったりもする。「マッサン」ではないが、一度じっくりと取り組んだ(仕込んだ)音楽にも熟成はあるはず。



さて、渋いプログラムにも拘わらず、500人収容のホールをほぼ満席にしたジオカローレ。次はどんな曲にチャレンジしてくれるだろうかと、早くも興味は次の演奏会へと向かっていく。私的にはいつの日か我が最愛のアーノルド・バックスの3曲の中からの1曲をリクエストしたい。

バックスは英国生まれながらアイルランドの気候風土をこよなく愛した情熱とロマンの作曲家であり、ロシア音楽のテイストを感じさせる骨太な面も合わせ持っていた人。交響曲やトーンポエム(管弦楽作品)で知られる人だが、実は室内楽作品に逸品が多い。とくに弦楽四重奏はオーケストラを聴いているような分厚いサウンドで迫ってくる魅力を備えている。そんなバックスの魅了を生で伝えてくれるのがジオカローレだったら嬉しいと思ってしまった。
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「アルゲリッチ 私こそ、音楽!」~世界最高峰のピアニストの素顔に迫る~

2014-10-25 23:33:24 | 地球おんがく一期一会


ラグビー観戦のない週末。ということで浦和のユナイテッド・シネマに映画を観に行った。タイトルは『アルゲリッチ 私こそ、音楽!』で、世界最高峰のピアニストのひとりとして名高いマルタ・アルゲリッチの「素顔」を三女のステファニー・アルゲリッチ(監督と撮影)が捉えた作品。

マルタ・アルゲリッチは1941年にアルゼンチンのブエノスアイレスで生まれたピアニスト。10代でデビューを果たしているが、1965年のショパンコンクールで優勝したことで世界的に有名になり、以後世界のトップピアニストであり続けている偉大な音楽家だ。ちなみにステファニーはアメリカ出身のピアニスト、スティーブン・ビショップ・コヴァセヴィッチとの間に生まれている。



しかし、彼女の人生を音楽記号に置き換えると、「恋愛」→「結婚」→「出産」→「離婚」のサイクルをリピート(繰り返し)記号で括ったような感じになってしまう。それも、繰り返しは3回以上あり、旋律はそのたびに変化する。また、「結婚」と「離婚」が「同棲」と「破局」になっている場合もある。

とまあ、こう書いただけでも映画にするには辛すぎる内容。もし、現在のクラシック音楽界で10指に入るピアニストの名前がキーワードになっていなかったら、観に行く方も痛い映画になってしまう。実際にオープニングで登場するご本人のありのままの姿を観るとファンはショックを受けるかも知れない。とうに白髪のお婆さんになっていることは知っていたけれど、まったく偉大な音楽家の生涯を描いた映画らしくない始まり方になっている。

でも、そこが実の娘であるステファニーの狙いでもあるのだ。世界中で絶賛され続けている「雲の上の人」をずっと間近に見てきて、インタビューにも一切応じることのない母親の素顔を知ってもらうことが映画製作の動機でもあるようなのだ。実際、世界的なアーティストが自身の姿をさらけ出すことに躊躇していないのだが、そのことは彼女の音楽そのものでもあることがわかる。



アルゲリッチのピアノ演奏から聴かれる音楽の魅力は、ほとばしる感性をありのままに爆発させたかのような情熱的なところ。プロの演奏家が何十年も積み重ねて得るものを、何事もなかったかのように一瞬にして自分のものにしてしまう。装うことを知らないし、また、できない。映像から伝わってくる姿と音楽が(レベルは度外視して)ぴったりと一致するから不思議。おそらく、その場での閃きを正確に音にできるようにテクニックに磨きをかけた人なのだと思う。

アルゲリッチ生体験は一度だけある。ギドン・クレーメルとの来日公演で聴いたバルトークのヴァイオリンソナタは衝撃的だった。興奮の極みに達した瞬間、身体の中に電気が走ったような感じになったのは、このときが最初で(おそらく)最後。でも、実は曲が始まる前に指ならしにパラパラと弾いたバッハ風のフレーズがものすごく魅力的だったりした。どうかこのまま止めないで続けて!と叶えられるはずのない願いを込めてしまった。

さて、この映画のもっとも感動的なシーンは、フィナーレでそれぞれ父親の違う3人の娘達が母親を囲んで一同に会する場面。複雑すぎる過去を振り返ると言うよりも、母親の愛情を介して、本来は会うことさえ難しいはずの3人が、前向きに生きていこうよというような未来志向の爽やかなエンディングが強く印象に残った。
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FENで知ったラテンジャズの最先端/ポンチョ・サンチェスを運んだ西海岸の風

2014-08-27 23:33:33 | 地球おんがく一期一会


今でこそ南米音楽のリズムとエッセンスでスウィングする「サウス・アメリカン・ジャズ」に夢中になっている私。「ラテンジャズ」の枠で一括りにされている感のあるジャズではあるが、1940年代頃にアメリカで生まれたアフロ・キューバン・ジャズとはかなり毛色が違っている。しかし、そんなことが言えるのも今だからこそ。ラテンジャズの世界は実に奥が深いということを知ることができたのも、ほぼリアルタイムで追いかけ続けることになるポンチョ・サンチェスの音楽にFENのジャズ番組で出逢ったからに他ならない。

今はAFN(American Forces Network)と名を変えているFEN(Far East Network)は、アメリカ合衆国の成り立ちを反映するかのような多様な音楽を流し、日本の音楽ファンにも貴重な情報を提供してくれた放送局だった。アメリカンロックやカントリー&ウェスタンが流れる傍らで、ヒスパニック系の人々を対象とした『VIVA』という番組があった。もちろんスウィングジャズやイージーリスニングを流している時間帯もあったし、ソウルやディスコで盛り上がる時間帯ももちろんあった。

とくにスペイン語と英語のちゃんぽんでプログラムが組まれていた『VIVA』はいわばラテン音楽てんこ盛り、いやごった煮番組の面白さがあった。プエルトリコ系のサルサからコロンビアのクンビア、メキシコのマリアッチにドミニカのメレンゲとバラエティに富んでいる。「ヒスパニック」と一括りにされている人達でさえ、多種多様なバックグラウンドがあり、そんな人達が合衆国で生活している。時間帯ははっきりしなかったが、ラテン音楽にもいろいろあるんだなぁと感心しながら耳を傾けていた記憶がある。



しかし、FENの中で一番熱心に耳を傾け、そして深く印象に残っている番組は、夜の9時半から30分間ジャズを流している『ジャズ・ビート』。ローラ・リーという名前の女性がDJを務めていた、その名もズバリ!ジャズを聴かせてくれる番組だった。トークはどちらかというと倫理的なもので音楽の話は殆どなかったが、コンテンポラリージャズを含むセレクションが素晴らしくてカセットテープに録音して楽しんだりしていた。

中でも強く心を惹かれたのがマンボやボレーロ(これは絶品!)などのラテンリズムに乗ったポンチョ・サンチェスの演奏するジャズだった。当時(1980年代前半)のアメリカで話題になっていたのかどうかは不明だが、ポンチョはおそらくDJ女史のお気に入りでもあったのだと思う。イヴァン・リンスやジャヴァンといったブラジルMPBのファンにはつとにお馴染みのトランペット奏者、マルシオ・モントロヨスの音楽とともに何度もオンエアされていたから。

ポンチョ・サンチェスの音楽をじっくり聴きたいという思いは募る一方となり、そんなときに池袋のレコードショップ(たぶんHMV)で見つけたのが『ビエン・サブローソ』(日本語訳:「とっても美味しい!」)だった。ポンチョ・サンチェスがコンコード・ピカンテ・レーベルからリリースした2作目(1984年発売)にあたり、グラミー賞のラテンジャズ部門にもノミネートされた作品(であったことは後で知る)。レコードに針を下ろした瞬間、ホーンアンサンブル(トランペット、トロンボーン、サックスの3管)による哀愁感の漂うサウンドに意表を突かれるとともに強く引きつけられた。

ポンチョ・サンチェスは名前からラテン系であることは察しがついていたが、LA近郊で生まれたメキシコ系アメリカ人だとは知らなかった。道理で(緊迫感のあるNYではなく)カリフォルニアの青い空を感じさせるようなサウンドが飛び出してきたわけだ。FENで流れていたのはこのLPに収められた曲であり、そのレコードが日本にも入ってきていたことに感謝したい気持ちになった。このレコードには何度も何度も針を下ろし、そして、そのときからポンチョ・サンチェスはずっとアイドルであり続けて現在に至っている。



2枚目に手に入れたポンチョのアルバムは実質的なデビュー作に当たる『ソナンド』。この作品はポンチョが偉大な師として仰いだカル・ジェイダーの突然の死を乗り越えて作り上げた感動作でもある。「チュニジアの夜」に始まり、ダンソンの名曲「ソナンド」や「アルメンドラ」からボサノバタッチで演奏されるミシェル・ルグランの「夏の想い出」まで。ただし、編成はコンガ、ボンゴ、ティンバレスの3人の打楽器奏者、ピアノ、ベースにトランペット、バルブ・トロンボーン、サックス2本という9人編成でドラムを含まないアフロ・キューバン・スタイル。「本格派」の枠組みの中にウェストコースト風味が乗っかった(アフロ・キューバン・ジャズとは少し違った)ユニークなサウンドがポンチョ・サンチェスの魅力だと言うことを知る。(その後、ディスカバリーから出た本当のデビュー作も手に入れた。)

ヴァイブラフォン奏者で1950年代からずっと西海岸でラテンジャズを演奏してきたカル・ジェイダー。ポンチョ・サンチェスのプロミュージシャン(コンガ奏者)としてのキャリアは、1975年にカル・ジェイダー・バンドのコンガの椅子に空きができたことに始まる。一説によれば、ステージ上でコンガ奏者が突然いなくなり、途方にくれていたカル・ジェイダーのもとに志願して現れたポンチョが「救世主」になったのだという。この話はちょっとできすぎのような気もするが、アメリカらしいサクセスストーリーといえる。

ただ、ポンチョはカル・ジェイダーのバックで演奏する傍ら、ラテンジャズから徐々に離れていく師とは裏腹に、正当派のアフロ・キューバン・ジャズを追求する構想を練っていたように思われる。1982年のカル・ジェイダーの突然の死(公演先のフィリピンで客死)でその構想の実現が早まったような気がしてならない。まずはNYで活躍する重鎮たちに認められることがポンチョの目標だったに違いない。2作目の『ビエン・サブローソ』ではサックスが1本になり、8人編成の盤石のポンチョバンドが完成した。



ポンチョ・サンチェスの3枚目は1985年にリリースされた『エル・コンジェーロ』(コンガ奏者)。トランペットがスティーブ・ハフステッター(穐吉敏子=ルー・タバキン・ビッグバンドのメンバーで知られる)から名手サル・クラッチオロ、トロンボーンがマーク・レヴァイン(ラテンジャズのピアニストでもある)からアート・ヴェラスコに代わり、バンドが一気に強化された。もし、このメンバーで『ビエン・サブローソ』が録音されていたら間違いなくグラミー賞(ラテンジャズ部門)に輝いていただろう。私感ながらサウンドの魅力は前作に譲るが、ホーンセクションの実力は明らかにこちらが上。ちょっと残念な気もするが仕方ない。

ポンチョ・サンチェスは、その後音楽監督に秀逸なピアニストでもあるダビッド・トーレスを迎え入れてさらにバンドの強化を図る。念願のティト・プエンテやモンゴ・サンタマリアとの共演も果たし、ティト・プエンテ亡き後はラテンジャズの王位を継承。さらに近年はR&Bやソウルのスーパースター達と共演して「グレイト・アメリカン・ミュージック・ヒーロー」の地位を確実なものにしている。

しかし、正直に告白すると、私自身がもっとも愛するポンチョ・サンチェスはチャーリー・オトウェルがピアノを弾いていた初期のシンプルな演奏スタイルの時代。アルバムで言えば、ここで紹介した『ソナンド』から『エル・コンジェーロ』までのあたりになる。NYの本格派も一目置く超正当派のスタイルでありながら、ウェストコーストの空気感に充ちた切々と流れる哀愁感漂うサウンドに惹かれることがその理由だと思う。だからこそローラ・リー女史にも愛されただろうし、新しい音楽を求めていた音楽ファンをレコード店に走らせたのだと思う。
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「気まぐれ飛行船」に乗ってひときわ高く舞い上がった夜/第二夜「オール・ブルースは永遠に」

2014-08-24 23:03:55 | 地球おんがく一期一会


素晴らしいジャズに出逢うのは深夜と決まっている。かどうかは人それぞれだが、私の場合は深夜にジャズを流してくれるラジオ番組がなかったら、その魅力を知るのにもっと時間がかかったに違いない。

以前のブログにも書いたとおり、深夜放送(近畿放送-KBS京都-の「ミュージック・オン・ステージ」)から流れてきたMJQ(モダン・ジャズ・カルテット)の演奏が、真綿が水を吸い込むように自然に心の中に染みこんでいったことでジャズの素晴らしさがわかったからそう言いたくなる。ジャズの面白さをたっぷり教えてくれた油井正一さんの『アスペクト・イン・ジャズ』も毎週火曜日の深夜1時からの放送だった。

でも、なぜ深夜なのだろうか? ラジオのスイッチを付けたままでベッドに入り、明かりを消すと部屋の中には空気と音しか存在しないような状態になる。夜の静寂の中、音に集中できる環境ができあがったところに、幸運にも耳に中に飛び込んでくる音が琴線に触れるものだったら最高だ。聴き手に過度な緊張感を強いることのないリラクセーションミュージックでもあるジャズだからこそ深夜がよいのかも知れないと思ったりもする。

さて、「気まぐれ飛行船」から流れてきた音楽でも、ひときわ強く印象に残っているのはマイルス・デイヴィスの「オール・ブルース」。ジャズの不朽の名盤のひとつに数えられる『カインド・オブ・ブルー』のB面最初(CDでは4つ目)に収められた曲だ。ビル・エヴァンス(ピアノ)とジミー・コブ(ドラム)が刻むゆったりした6/8のリズムをバックに、シンプルなテーマの提示のあとマイルス(トランペット)、キャノンボール・アダレイ(アルト・サックス)、ジョン・コルトレーン(テナー・サックス)、エヴァンスの順でアドリブが展開される11分30秒のブルース。

片岡義男さんに「今夜はまずマイルス・デイヴィスのオール・ブルースをかけます。」と言われても、それがマイルスの代表的な名盤の中の1曲だとは知らないからピンとこない。しかし、曲が始まり、マイルス、キャノンボール、コルトレーンとソリストが変わって行くにつれて、不思議な感情が沸き起こってきた。「このまま飛行船にずっと乗っていたい(どうか演奏が終わらないで欲しい)。」といった祈りにも似た願望。それくらい気持ちがよくて神経が昂ぶり、結局眠れない夜になってしまった。この夜に聴いた「オール・ブルース」は、今でも鮮明にそのときのことを思い出すことができるくらいに特別の存在だったのだ。「気まぐれ飛行船」に乗ってもっとも高く舞い上がったのは、この夜をおいて他にない。



♪『ビッグファン』で初めて知ったマイルス

マイルス・デイヴィスが亡くなって四半世紀が経とうとしている。過去(の大きな栄光といくばくかの挫折)を振り返ることなく、ジャズの枠組みをも超えた自己の音楽を追究してきたマイルス。そんな偉大なイノベーターが残した多くの作品の中で、音楽ファンが最初に耳にするのはおそらく1950年代後半のオリジナル・クインテットの作品群になるのではないだろうか。中でもモダンジャズ黄金期に金字塔を打ち立てた「マラソンセッション」として名高い4部作(『ワーキン』『スティーミン』『リラクシン』『クッキン』)は外せないと思う。

ここで、マイルスとコルトレーンの魅力を知り、あとはさらに遡ってパーカーと共演し『クールの誕生』などのセッションが行われた1940年代後半頃までをディグする。あるいは、逆に『マイルストーンズ』から『カインド・オブ・ブルー』へと進み、ハービー・ハンコック(ピアノ)やウェイン・ショーター(テナー・サックス)らが加わった第2期黄金クインテットを聴いて抽象派的な魅力を満喫するのもよい。いきなり、『カインド・オブ・ブルー』でもいいわけだが、そのお膳立ての部分をある程度知っていた方が「不朽の名盤」の価値がより鮮明になると思う。

しかし、1970年代前半にジャズに開眼した私の場合は、ちょっと事情が違っていた。最初に耳にしたマイルスの音楽は当時発売された『ビッグ・ファン』と名付けられた2枚組アルバムからの1曲。ソースは民放FMで夜の11時から放送されていたケン田島さんがDJを務めた「ミュージック・スコープ」という番組。オープニングにはデイブ・ブルーベックの7拍子の曲「ミュージック・スクエア」が使われていて、CBSソニー(コロンビアレーベル)の新譜を紹介する番組だった。看板スターのマイルス・デイヴィスの久々のレコードということで、「グレイト・エクスペクテイションズ」がセレクトされてオンエアされたのだ。

『ビッグ・ファン』は『イン・ア・サイレント・ウェイ』を皮切りにジャズファンを震撼させた『ビッチズ・ブリュー』でエレクトリック・ジャズ路線を邁進していたマイルスの待望のアルバムだったことが注目を集めた大きな理由だったと思う。LPの4面に1曲ずつという長尺の作品が収められたレコードだったが、なぜか他の番組でも紹介されたのは「グレイト・エクスペクテイションズ」ばかりだったように思う。

油井正一さんが唯一評価されていた「ロンリー・ファイア」は放送するにはちょっと捉え所がない感じだし、マクラフリンのギターと中間部でのマイルスのバラード演奏が魅力的な「ゴー・アヘッド・ジョン」や躍動的な「イフェ」にしても長すぎて放送では流し辛い。この作品の実体は、『ビッチズ・ブリュー』や『オン・ザ・コーナー』から選に漏れたセッションの寄せ集めだったという点はさておいても、電波に乗せる上での苦渋の選択が変わり映えのした「グレイト・エクスペクテイションズ」になってしまったであろうことは想像に難くない。

でも、何故かこの曲は初めて聴いた時から強く印象に残るものとなった。小泉文夫さんの『世界の民俗音楽』でラヴィ・シャンカールの音楽に興味を抱いた当時の私にとって、インド音楽の楽器(シタール、タブラ、タンブーラ)を使ったサウンドが耳を惹いたのだと思う。しかし、『ビッグ・ファン』を含め、当時のマイルスの作品はダブル・アルバム(2枚組)で4000円なので常に予算オーバー。『ビッチズ・ブリュー』を横目に結果的に手にしたのは『イン・ア・サイレント・ウェイ』だったのだが、この作品には針を下ろした瞬間に鳥肌が立つという希有の体験のオマケが付いた。



以上が、私のマイルス初体験。だから、残り物を寄せ集めた駄作と酷評されてはいても『ビッグ・ファン』は忘れ得ぬ作品と言うことになる。それはさておき、『イン・ア・サイレント・ウェイ』に付いていた解説の紙の裏にCBSソニーから発売されているマイルスのレコードがリストアップされていた。そこで目を留まった『ルグラン・ジャズ、マイルス・ミーツ・コルトレーン』という作品。ちなみに、コルトレーンはサンタナ&マクラフリンの『魂の兄弟達』経由で知っていて、『至上の愛』のLPも持っていた。

「へぇ-、マイルスってコルトレーンと一緒にやっていたのか。」と呟いたのだが、場所が自宅の中で本当によかった。もしレコード店のジャズのコーナーでこんなことを言おうものなら、中に居た人の全員の視線は一瞬にしてその声の主の方向に向かっただろうし、何人かは卒倒したかも。そして、もうそのレコード店には恥ずかしくて行きづらくなったはず。でも、1970年代の始め頃にジャズを聴き始めた少年にとっては、インド音楽も混じっている電化されたマイルスと『至上の愛』のサックス奏者がかつて一緒に演奏してなんて想像の範囲を超えていた。

だからこそ、予備知識ゼロの不意打ちのような状態で出逢った「オール・ブルース」の世界に素直に入り込めたのだと思う。もともとラヴェルのボレロが大好きだったこともあり、どこかその音楽に通じる世界(同じパターンの繰り返しの中に器楽演奏の変化が色を添える)があることに惹かれたのかも知れない。気まぐれ飛行船での初体験のあと、タイミングよく『アスペクト・イン・ジャズ』で何夜かに渡ってマイルス・デイヴィスの特集が組まれた。そこで聴いた『マイルス・アヘッド』も強く心を捉えた作品。ということで、『イン・ア・サイレント・ウェイ』と『カインド・オブ・ブルー』に『マイルス・アヘッド』を加えた3作品が私的マイルスのベストスリーでずっとあり続けている。



♪改めて『カインド・オブ・ブルー』の魅力について

モード・ジャズを語る上で必ず引き合いに出されるのが、この『カインド・オブ・ブルー』とジョン・コルトレーンの『ジャイアント・ステップス』で、録音されたのも同じ1959年。そんな歴史的な背景は抜きにしても、私的ジャズベスト10アルバムには必ずこの2つが入る。後者の魅力についてはすでに過去のブログに書いたとおりで、オープニングからエンジン全開となって駆け抜けるようなコルトレーンのソロがすべてといった作品に仕上がっている。

それに比べると『カインド・オブ・ブルー』は至って穏やかな雰囲気で全編が貫かれていて対照的だ。そして、「ソー・ホワット」の演奏が始まった瞬間からラストの「フラメンコ・スケッチ」が終わるまで、異常とも言える緊張感に包まれた完成度の極めて高い作品に仕上がっている。「無駄な音は一つもない」という表現でもまだ物足りない。「一音たりとも削れる音がない」と言いきってしまいたいくらい。さらなる驚きは、レコードのA面3曲はすべて「テイク1」がそのままマスターとなり、B面の2曲も2回しか録音が行われていないという。

しかし、『ジャイアント・ステップス』はタイトル曲にしても(ダメテイクに近いものも含めて)ボツテイクが3つあり、決定打が出るまでにかなりの時間を要している。同じ頃に生まれた不朽の名盤2枚がまったく違ったプロセスでレコードになったことはとても興味深い。マイルスだったら「ジャイアント・ステップス」は一発で決めたかも知れないと思いつつも、そもそもマイルスはこんなに忙しい素材は選ばないだろうとも思う。また、「オール・ブルース」は本来は4拍子だったが、マイルスはスタジオに入ったときに「閃き」で6/8に変えたそうだ。それがほぼ1発で曲に仕上がってしまうのがマイルスだし、素材自体がシンプルだからこそ可能とも言える。

だからマイルスはコルトレーンよりエライとは単純に言えないところがジャズの面白い所だとおもう。なぜなら、出てきた結果はどちらも等しく感動的な仕上がりになっているから。『カインド・オブ・ブルー』でマイルスの(共演者の能力を最大限に引き出す)天賦の才能を知り、『ジャイアント・ステップス』で努力の人だったコルトレーンがたっぷり汗をかいたことを知る。

さて、『カインド・オブ・ブルー』でのマイルスを除くMVPはピアニストのビル・エヴァンスをおいていない。とくに顕著なのは「オール・ブルース」で、3人のソロイストのバックでニュアンスに富んだ味付けを試みているプレーは聴けば聴くほど味わい深くなっていく。最後のソロが控えめに感じられるのも、3人のバッキングにエネルギーを集中させることで言いたいことは言い尽くし、あとはどう収めるかと言うことになったのではなかったのだろうか。

このセッションが行われたとき、既にエヴァンスはマイルスのバンドを退団し、ピアニストはウィントン・ケリーに替わっていた。でも、ミュージシャンシップで素晴らしい作品が出来上がってしまうところに面白さを感じる。エリック・ドルフィーは「音楽は終わると消えてしまい、二度と取り戻すことはできない。」と言ったけど、40年くらい前にラジオで聴いた音が今も確かに頭の中に残っている。同じはずの音に対して、変わらないもの、新たに気がついたことといろいろと想いをめぐらすことは音楽を聴く大きな楽しみのひとつだ。
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「気まぐれ飛行船」に乗ってひときわ高く舞い上がった夜/第一夜「ホットなサルサとの出逢い」

2014-08-22 00:57:53 | 地球おんがく一期一会


ティーンエージャーだった昔々、素晴らしい音楽と出逢う場所は「音楽専門番組」とは限らなかった。作家の片岡義男さんがDJを務めていた「気まぐれ飛行船」も忘れ得ぬ音楽との出逢いを提供してくれた番組のひとつ。民放FMで月曜日の深夜1時から放送していた番組で、夜遅い時間帯だったが高校2年生から3年間、毎週楽しみに聴いていた。その頃片岡さんのお相手を務めていたのはジャズ歌手の安田南さん。「大人のお話」にどぎまぎしたりしながら耳を傾けていたことも今となっては懐かしい。ちなみに、火曜日の同じ時間から放送していたのが油井正一さんの『アスペクト・イン・ジャズ』だった。

「気まぐれ飛行船」はジャンルにとらわれずに、さまざまな音楽を紹介してくれたことも大きな魅力だった。なかでも2夜、絶体に忘れることができない特別のフライトを経験することができた。ひとつは当時(70年代半ば)米国のNYを中心に熱く燃え上がっていたサルサ。そして、もうひとつは、その10数年前に同じNYで生まれたマイルス・デイヴィスの不朽の名盤に収められたクールなジャズだ。

♪サルサとのちょっと複雑な出逢い

ジャズよりもずっと前に親しんでいたのがラテン音楽。両親の述懐によれば、父がマンボ系のレコードをかけたとき、物心ついた頃の坊やはゴキゲンであったとか。小学校の高学年の頃にはNHK-FMで放送されていた「ラテンタイム」を毎週のお楽しみで、ピアソラのタンゴに出逢ったのもその頃。ラジオで「ラテン」という名の付いた番組は殆ど聴いていたから、ラテン音楽のことはよく知っているはずだった。

しかし、ある日、それは大きな勘違いであったことを思い知らされる。番組は同じ「ラテンタイム」でDJを務めていたのは谷川越二さんだった。谷川さんの番組はご本人のキャラクターそのままに、「これぞラテン音楽!」のイメージを外すことのない楽しくロマンティックなものが多かったと記憶している。しかし70年代前半のある日の放送はちょっと様子が違った。ファニア・オールスターズが残した名盤で、サルサの歴史を語る上で絶体に外すことのできない『ライブ・アット・チーター』に収録された音楽が約2時間にわたって取り上げられたのだ。

当時のラテン音楽の番組で聴くことができたのは、ブラジルならサンバやボサノヴァであり、アルゼンチンならタンゴであり、アンデス地方(+アルゼンチンやチリ)ならフォルクローレであり、メキシコならマリアッチであり、米国産ならマンボやルンバであり、アルパなら(ベネズエラではなく)パラグアイと決まっていた。ラテン音楽に興味を持っていた音楽少年は、それがラテン音楽のすべてであると信じて疑わない状態だった。サルサはおろか、ブラジルには北東部(ノルデスチ)の音楽があり、コロンビアにはクンビアがあり、ペルーにはクリオーヤ音楽があり、そしてベネズエラにはメレンゲやホローポあるなんてことは知るよしもなかった。

それが、いきなりNYラテンのしかもサルサなのである。ソフトな語り口が持ち味の谷川さんが、当時の米国でもっとも熱い音楽だったサルサを取り上げる。そのギャップに戸惑うと同時に、何だか裏切られたような気持ちになった。こんなエキサイティングなラテン音楽を隠していたなんて!と。もちろん谷川さんが悪いのではなく、問題にすべきは当時の日本でのラテン音楽の紹介のされ方だった。先に書いたような音楽がラテン音楽だと思っている人達にサルサが生まれた背景を説明するのには(ちょっと大仰だが)膨大なエネルギーと時間を要する。ラテンジャズにしても、マチートとパーカーやガレスピーの出逢い(結論は結局「パーカーはエライ!」で終わる)からなかなか先に進まない状況が続いていたから。



♪オスカル・デ・レオンのサルサが頭の中に鳴り響いた夜

そして、次にやって来たのが、「気まぐれ飛行船」に乗った特別の夜だった。片岡さんの「今日はサルサをかけます。」のアナウンスの後に流れてきたオスカル・デ・レオンの歌声と演奏。「サルサ」ということでイメージされた元気いっぱいのファニア・オールスターズの演奏とはちょっと違った塩っぽいサウンドだ。とくに憂いを含んだようなトランペットとトロンボーン(各2本ずつ)のアンサンブルが強く心を捉える。そうか、この(陽気さだけではない)陰の部分がサルサの魅力なのかと、夜の静寂の中で聴いた音に魅了されたのだった。

この出逢いは「決定打」となったものの、そのままサルサへの「直行便」に乗ったわけではなかった。今にして思えば70年代は駆け出しの少年音楽ファンにとって、百花繚乱の「何でもあり」だった時代。追っかけたくなる魅力的な音が溢れていた。中でも熱中したのは旬だったクロスオーバー/フュージョン。本格的にサルサを追いかけるようになったのは、フュージョンがほぼ煮詰まってしまった80年代前半まで待たねばならなかった。

そんな俄かファンにとって最高の指南役を務めてくれたのが1983年に刊行された河村要助著の『サルサ天国』だった。サルサという音楽の本質を伝えてくれるという意味でこれ以上の本はないと言っていいだろう。オスカル・デ・レオンは(サルサでは主流の)プエルトリコでも(クンビアの本場の)コロンビアでもなく実はベネズエラの出身。レコード店で見つけた ”El Oscar de la Salsa” のオープニングを飾る曲が10年近く前に深夜のFMラジオから流れてきた曲だと分かったときはアドレナリンの上昇を抑えることができなかった。

結局、最終的に追っかけたのは高度なアレンジで緻密なサウンドを聴かせてくれたルイス・ペリーコ・オルティスになってしまったが、それも「気まぐれ飛行船」に乗ってオスカル・デ・レオンに出逢ったお陰。ホーンのサウンドが強烈な太陽を感じさせるストレートなものだったらスルーだったかも知れない。本当に不思議な一夜ではあった。でも、やっぱり夜の静寂にフィットする音楽はクールなジャズだと思う。(続く)
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