映画とライフデザイン

大好きな映画の感想、おいしい食べ物、本の話、素敵な街で感じたことなどつれづれなるままに歩きます。

数学的思考の技術  小島寛之

2011-03-09 19:29:54 | 
「数学的思考の技術」は小島寛之という経済学者が書いた本だ。
新書で彼の書いた本はいくつか読んだことがある。正直さほど感銘を受けたわけではない。娘の受験にあたり「高校への数学」の増刊号を見ていて、彼の書いた本があった。あれ!と思ったら、同一人物だった。
なるほど彼は東大の数学科出身であった。「高校への数学」の増刊ではいわゆる受験の難問を扱っていた。その彼が書いた「数学的思考の技術」を読んで久々にピクンと来た。これはいい。
大量に発刊される新書の中ではずばぬけておもしろい。意見が一致することが多かった。

最近は行動経済学の本が多い。それにつながる本かと第1章を見て思った。
「給料があがらないのはなぜか」
「だらしない人の経済学」
「勝ち組は運か実力か」

そういう議論がなされる。これ自体は目新しいものではない。
でも彼一流のやさしい論じかたで読みやすい。しかし、この本の凄味は第2章以降だ。

「不況時は正義感が仇となる。」とする。まさにその通りだ。
「市民は当初、バブル期に無軌道な投資をした銀行や大企業を仮想「悪者」として足並みをそろえる。。。。無謀な土地投資をした金融機関を糾弾し、借金で行かなくなった大企業の救済にブーイングした。。。でも市民は、この段階ではまだ、自分の職と所得は確保され続けることを疑ってさえいない。彼らの大多数は、この投資銀行や大企業とは直接関係ないからだ。
けれど、経済社会では、対岸にいる人など一人もいない。仮想「悪者」を叩いたことから湧いてくる災いは、巡り巡って自分に降りかかってくるのだ。
経済社会は、すべての歯車が複雑に噛み合っていて、遠くの歯車が壊れることで、すべての歯車が動かなくなるからだ。それこそが不況や恐慌なのだ。」

まさに同意見だ。バブル崩壊に至るプロセスでは、マスコミが徹底的にバブルつぶしをした。
久米宏はテレビ朝日でまあよくここまでいうものだ。とバブルつぶしをした。久米の後ろで同じようにコメントしていた左翼系某大新聞社の論説者も同様である。そもそも某大新聞社の人間にはまともなのがいない。それにのった大衆も大衆だ。野口悠紀雄という経済学者もバブル時の論調は異常だった。彼も今でこそ涼しい顔をしているけどバブルつぶし先鋒で日本経済つぶしの代表かもしれない。(彼のビジネスノウハウ本はおもしろいけど)
そういう出来事を短く端的な文章で小島氏は表現した。

そのあと環境問題にもメスが入る。
「環境にやさしいは必ずしも人の生活に優しいとは限らない」とする。
環境に優しいことをするとめぐり巡って、自分たちに不幸をもたらすかもしれない。

環境問題の異常な論じ方にはいつも嫌気がさしている。正直異様なコンプライアンスの順守と同じくらい嫌気がさしている。これを「欲望の二重一致がない」という論じかたで解いている。
読んでいてすっきりする。

でもこう続ける。
「前世紀の終わりごろから。。。。先進国の市民はこれ以上の経済的便益よりも、むしろ環境の改善を求めるように嗜好が変化した。。。。その結果多くの企業は、自社の生産が環境を配慮くしたものであることをアピールすることに関心を持ち始めた。。。。企業は「環境配慮企業イメージ」を打ち出すことになった。これまでの企業は。。。。環境を平気で犠牲にしてきたが、今度は同じ利潤動機から、環境配慮を目指すようになったのは、驚くべきことであり、前世紀の経済学者には想像もつかない展開であった。」

なるほど自分の会社も「環境配慮イメージ」を打ち出すのに必死である。ある意味会社のトップはこのように割り切って「環境配慮」と訴え続けるのである。やはりこのくらいの割り切りが必要なのであろう。頭の中には金儲けの事しかないのに、偽善的顔をしてれば、たっぷり儲けられると理解した経営者たちは、天皇崇拝から民主主義信仰に転向した戦後日本の支配者と同じかもしれない。

同様に不況脱出の景気政策も「環境配慮」に変わったと論じる。これまでの景気対策が環境破壊型の公共事業が中心であったのが、大きく転換したと著者は続ける。そして今後の検証の結果「環境配慮」型の経済政策が「環境破壊型」の公共事業と同じような効果があるのならば、既存の経済政策に逆転の発想をもたらす可能性があるとする。

環境への配慮が必ずしも生活に優しいと限らないと言っておきながら、環境配慮型の経済の動きは今後いい影響をもたらすととじるのは見事だ。

彼は宇沢弘文門下生のようだ。もともと数学科出身で数理的経済学の業績を作った後、公害問題で目指すモノを変えていく。その「宇沢ワールド」を語りながら、経済社会の理想を語る。
「GDPが内容を問わない単なる「数」にすぎず、必ずしも我々の幸せを表わしていない」と

ただ、なじめなかったのは都市設計者が「機能優先」で都市の設計をすることを著者が批判するくだりで、建築界の鬼才ル・コルビュジェを登場させる。
ここでジェイコブスの魅力的な都市の4条件を述べる。1.街路の幅が狭い2.古い建物と新しい建物の混在3.各区域が2つ以上の機能を持つ4.人口密度が高い。その都市設計の正反対としてル・コルビュジェを名指しで批判する。でも著者はル・コルビュジェの設計した建築作品をちゃんと見ているのであろうか?彼が設計した建築作品のほとんどが「機能優先」で設計した作品には私は思えない。むしろポストモダンのはしりでもあるわけだから。

村上春樹理論を数学でとらえるのはおもしろいし、確かに著者の言う通りと思う。だが、同じ村上春樹ファンである自分からするとあまりなじめなかった。ここはもう少し読み進めてもいいかなと思った。

いろいろ言ったが、再読に値する本だと思う。
コメント
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