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映画とライフデザイン

大好きな映画の感想、おいしい食べ物、本の話、素敵な街で感じたことなどつれづれなるままに歩きます。

映画「KNEECAP/ニーキャップ」

2025-08-02 21:01:37 | 映画(欧州映画含むアフリカ除くフランス )

映画「ニーキャップ」を映画館で観てきました。

映画「KNEECAP/ニーキャップ」は実在するアイルランドのラップトリオが自らを演じた半自伝的映画である。でもドキュメンタリーではない。もちろんこのバンドの名前を聞くのは初めてだ。監督は元ジャーナリストのリッチ・ペピアットである。北アイルランド・ベルファストでは紛争が題材で映画化もされた。アイルランドは何かと英国とはもめ事が多い。宇宙人のような髪型をした若者2人とおじさん教師が歌う反英国的な歌詞のラップが基調である。思いのほか満席、今いい映画やっていないもんなあ。みんな消去法だろう。

北アイルランドのベルファストで生まれ育った若者ニーシャ(モウグリ・バップ/本人)とリーアム(モ・カラ/本人)は幼馴染み。ある日、ドラッグパーティーの会場から逃げ遅れ警察に捕まったリーアムは取り調べで英語を話すことを拒否する。怖い女刑事は通訳者として派遣されたアイルランド語教師のJJ(DJプロヴィ/本人)とともに話を聞く。

リーアムの手帳にある歌詞を見たJJはアイルランド語でラップをやることを2人に提案。ヒップホップ・トリオ「ニーキャップ」が誕生する。バンドは注目を集めるが、 過激な歌詞や政治色の強さが問題視されてしまう。しかも、教師のJJも活動が学校にバレるのだ。

リズミカルなラップのノリで映画を疾走させる。

北アイルランドは政治的にトラブルが多いエリアである。近年までアイルランド語が公用語でないと知り驚く。アイルランド語でラップを歌う3人組が政治や社会の圧力の狭間でバンド活動をする。映画を観ていてコミカルなタッチは好みであってもストーリーの流れはよくわからない。直線的ではなく、日常の断片が連なっていく構成の中にドラッグとSEXが混じっていく。18禁となるのはファックシーンの多さだろう。

筋を追う映画ではない。ストーリーの明確さよりも、キャラクターの個性と音楽のパワーで魅せる構成だ。登場人物(3人のメンバー、女性刑事、家族、恋人、マフィア集団)がいずれも個性的でストーリーが多少散漫でも飽きずに最後まで映像を追える。

⒈ユニークな登場人物

ともかく好き勝手に生きている若者2人の破天荒さに笑う。破茶滅茶としか言いようにない。家族とのふれあいに加えて失踪した父親の存在をうまくストーリーに織り込む。どうも創作のようだ。スポーツのようにファックしまくる彼女との漫才のようなかけ合いも楽しい。ステージ上での尻出しパフォーマンスや薬物使用描写により教師JJは学校をクビになる。妻との関係もユニークだ。この教師あがりのラッパーはてっきりプロの役者かと思ったらバンドの一員なのね。演技ナチュラルでうまい

怖い女性刑事とドラッグ絡みのマフィアが3人の動きを執拗に追う。映画「ブルースブラザーズ」で警察やネオナチなど色んな連中が追いかけるのを連想する。女性刑事はドラッグ捜査だけでなく、政治的活動も締め付ける。物語の緊張感を高めるため権力側の象徴として彼女の使い方が絶妙である。

⒉ラップのノリ

字幕ではカッコ書きになるアイルランド語とヒップホップのリズムが融合して耳触りがいい。挑発的で時に過激な歌詞は政治的なメッセージも強いけど軽やかだ。政治の話であっても説教くさくない。ライブでは観客を完全に巻き込む。ノリの良さで純粋なエンタメとしても楽しませてくれる。

この作品は筋書きの明快さではなく、登場人物と音楽の魅力で観客を引っ張る映画だ。正直言って映画のストーリーがようやくつかめるのは後半戦になってからだった。それでも楽しい。

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映画「私が見た世界」 石田えり

2025-07-28 19:56:17 | 映画(日本 2019年以降主演女性)

映画「私が見た世界」を映画館で観てきました。

映画『私の見た世界』はベテラン女優石田えりの初監督作品である。松山ホステス殺人事件の犯人・福田和子の逃亡劇が主題で、石田えり自ら主演、脚本、編集も兼ねている。自分のブログで長年アクセスが多いが「遠雷」である。若き巨乳を披露した石田えりも64歳となると、あのスーパーボディを拝むのはむずかしい。とはいえ、初監督祝のご祝儀を兼ねて映画を観たい気になる。

映画は福田和子をモデルにした逃亡者「佐藤節子」を石田えりが演じる。カメラはほぼ一貫して彼女の視点(=主観ショット)で進行する。佐藤節子(石田えり)の顔はほとんど映らず、視線越しに出会った人々の表情や言葉を描く。

映画としての満足度はもう一歩、初監督ご祝儀と思えば仕方ない。

福田和子の逃亡劇についてはこれまでノンフィクション本や週刊誌記事などで何度も読んできた。だいたいアタマに入っている。スナックでの接客、顔の整形、客としてきた和菓子屋主人の家での居候、捜査に来た警察を感知しての自転車での逃走、ラブホテル勤務、売春旅館に身を隠すなど検挙に至る逃亡中の有名な出来事は網羅される。

逃亡先エピソードの扱いはどれも既知の事実の羅列に近い。「福田和子」という人物に迫る新解釈は乏しく、単なる再現に終始していた。自転車逃亡の場面はあっても逃亡のスリルや人間関係の深まりが描かれないのでドラマ的に深掘りされず淡白な印象を受ける。石田えりには見ていた世界を描くという意図があったと推察するが、感情移入しづらい状況が続き臨場感や緊張感を削ぐ結果にもなったのは残念だ。

GOROのグラビア『遠雷』では巨乳を活かした肉体派だったのがなつかしい。ずいぶんとお世話になった。映画『釣りバカ日誌』シリーズでは、明るくあっけらかんとした奥さん役がハマり役だった。さすがに年齢的にも身体で魅せることは現実的に難しい。60代の石田えりが、実年齢で演じるには無理のある30~40代の福田和子像を正面から演じることは避けたのも物足りなさの要因だ。

唯一の著名俳優は佐野史郎で、登場シーンも短い。他は無名俳優が多く、低予算体制がうかがえる。石田えり自身が制作費の一部を自腹で負担しているようだ。インディペンデントな制作スタイルで公開館も都内でひとつで商業的な回収は難しそうと感じてしまう。

お世話になった石田えりへの敬意や、挑戦する姿勢への応援の気持ちは強い。安いご祝儀で観たと思えば良かったと思う。

 

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インド映画「私たちが光と想うすべて」

2025-07-26 20:55:12 | 映画(アジア)

インド映画『私たちが光と想うすべて』を映画館で観てきました。

映画「私たちが光と想うすべて(All We Imagine as Light)」は2024年のカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞したインド映画だ。監督・脚本は女性監督パヤル・カパディヤである。インド映画といえば歌と踊りで3時間の上映時間につい尻込みしがちだが、この作品は2時間弱で収めているので気が楽だ。直近でインド経済に関する本を読む機会が多く、舞台となるムンバイの街を見てみたい気もした。オバマ元大統領が選ぶ年間ベスト10はその翌年自分が観に行くべき映画の指針のようになっている。この作品もそのひとつだ。

インド最大の都市ムンバイ看護師として働く年長のプラバ(カニ・クスルティ)と、年下のアヌ(ディヴィヤ・プラバ)。彼女たちは同じ病院の先輩後輩であり、ルームメイトとして共同生活を送っている。プラバにはドイツに行ってしまった夫がいるが音信不通状態。アヌはイスラム教徒の恋人と密かに付き合っており、宗教の壁に悩んでいる。

食堂で働く同僚が、再開発によって立退を迫られ、故郷へ戻ることを決意する。プラバとアヌは彼女と一緒に海辺の村へと遊びに行く。

大都市と田舎の海辺の村で現代インドの縮図を見せる。

猥雑な大都市ムンバイの片隅で生きている2人の看護師をクローズアップする。現地で社会問題となっているであろう外国への出稼ぎ問題やインドでは異端のイスラム教徒との恋都市開発に伴う立ち退きなどの話題が映画の根底に流れる。今まで観たインド映画のようなド派手な喧騒ムードはなく生活感あふれる映画になっている。その中で主人公2人の恋物語が描かれる。 

途中から海辺の村に舞台が移ると、幻想的なムードも醸し出す。個人的には興味深い話題が多く飽きずに観れたが、隣席のどこかのオバサンは途中から熟睡のようだった。

⒈ムンバイの猥雑な描写

ムンバイ市内を走る高架鉄道やその車内の風景、女性専用車両や通勤ラッシュの描写をここまで繊細に描いたインド映画は観たことがない。市場の雑踏、屋台や路上での食事、主人公2人が住む狭い台所がある寮の生活まで臨場感があった。観光目線でなくあくまで生活者の視点で切り取られた都市ムンバイがよくわかる。ゴチャゴチャした雑踏に併存して高層ビルが立ち並ぶ映像は、変わり続ける都市の姿を未知の自分にも教えてくれてうれしい。

⒉都市開発による立ち退き

中国や香港映画では20年ほど前から、立ち退きや都市再開発が社会問題として映画に描かれてきた。今まさにインドで現在進行形であることを実感する。中国では「立ち退き=儲かる」の構図があった。ところが、映像を見ると違和感がある。インドでは「追い出されること」にすぎず、再開発の恩恵を受けるのは不動産業者や一部の所有者だけのようだ。必ずしも住民は得をしていないことが調べるとわかった。ムンバイの高層化の波は確実に進んでおり、その陰で故郷に戻る人々がいる。食堂で働いていたパルヴァティの存在がその象徴なのだ。

⒊海辺の村と幻想的描写

映画の終盤で描かれる海辺の村は、海、森、洞窟もムンバイの喧騒とは対照的な静けさに満ちている。寝泊まりする場所はオンボロだけど、癒しを感じさせるシーンもある。ムンバイより南下した場所に位置するアラビア海に面する村が舞台のようだ。アヌはイスラム教徒の恋人との禁断の恋を貫き現地で落ち合いプラバは2人の情事を目撃する。

映画のいちばんの見どころは、海辺でプラバが溺れて死にかけた男を助けた後のシーンだろう。まったくの第三者なのに、目覚めた男が突然「夫のように」に話し出す場面は、狐につままれるような気分になる。それまでファンタジー的要素はまったくなかったので「アレ?」という感じだ。ネタバレになるので男のセリフは言わないが、ここであえて幻想的表現で癒しを演出する。現実と幻想の境目をなくす美しい瞬間だった。

⒋インド映画らしさとダンス

ムンバイの猥雑さと海辺の村の安らぎのコントラストがいい。両面で現代インドを感じさせる。2時間の上映時間にするためインド映画らしい歌って踊っての喧騒シーンは最小限だ。それでもさりげない「インド映画らしさ」を残している。海辺の村の部屋で音楽に乗って踊るシーン、ラストに向けて海の家の店員が踊るシーンなど自然に身体が踊ってしまうリズムが心地よい。これまでのインド映画と違う側面をみた感じだ。

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18年目の雑感(320万blogの9位)

2025-07-23 16:57:38 | Weblog

gooブログももう終了の時期が近づいてきた。

丸17年が過ぎて終了間際になったこの時に昨日あっと驚くようなことが起きた。なんと3,200,000ブログ中9位と言う過去最高の順位を記録した。

直近は映画の記事しか書いていない。午前中に何気なく確認したら異常なアクセスがある。原因となった記事は2000年に書いた「傷だらけの天使」だ。これはおかしい!もしかして中山麻理が亡くなったんじゃないだろうか?と予測して、ネット検索すると確かに彼女がなくなっていた。残念である。

我々が小学校の時巨人の星とサインはVはクラスのほぼ全員が見ていた。サインはVでヒロインの岡田可愛のライバルが中山麻理だった。その中山麻理が、突如として、ヌードになるのだ。ものすごいものを隠していた。爆乳だった萩原健一と水谷豊の傷だらけの天使でストリップダンサーを演じた。その記事にとてつもないアクセスがあった。

goo終了間際にこんなこともあるんだなと驚いた。早く引っ越さないでよかった。

 

 

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映画「IMMACULATE 聖なる胎動」シドニー・スウィーニー

2025-07-19 08:37:25 | 映画(洋画 2022年以降主演女性)

映画「IMMACULATE 聖なる胎動」を映画館で観てきました。

映画「IMMACULATE 聖なる胎動」はアメリカからイタリアに渡った修道女をめぐるホラー映画。「鬼滅の刃」に映画館が占領されてたいした新作もなくお休みしようかと考えている矢先に、日経新聞の映画評で名著「批評の教室」北村紗衣が5つ星をつけている。通常であれば絶対スルーの映画なのになぜか気になる。

北村によれば、清純なはずのキリスト教の修道女が悪徳にふけったり、悪魔に取り憑かれたりする様子を描いたエクスプロイテーション映画(センセーショナルできわどい題材を扱う低予算映画)だそうだ。東映のエロ路線で1974年の「聖獣学園」という多岐川裕美が唯一脱いだ映画があったのを思い出す。なんとなくアナロジーを感じて、気がつくと映画館に足が向く。

イタリアの修道院へとアメリカから招待された敬虔な修道⼥・セシリア(シドニー・スウィーニー)が修道⽣活に慣れた頃、セシリアが処⼥であるにも関わらず妊娠していることが発覚する。ショックを受けるセシリアに対し、彼⼥を次の聖⺟マリアとして崇め、妊娠を祝福する同僚たち。

しかし、⾚いフードを被った謎の集団が現れるようになると、修道⼥の⾃殺や拷問を⽬撃するなどセシリアの周囲では奇妙なことが起こり始める。⾝の危険を感じたセシリアは、頑なに外出を許可しない神⽗たちの⽬を盗んで修道院を抜け出そうとするのだが…。(作品情報引用)

途中から自分にはついていけないホラーの展開になっていった。

多岐川裕美のデビュー作で美乳をさらけ出した「聖獣学園」とこの映画にアナロジーを感じる。修道院内の怪しげな雰囲気はいかにも禁断の女の園を匂わせる。厳格な掟や沈黙のルールは「性的抑圧」がメインだ。「聖獣学園」のように純潔や神への信仰が歪められて支配と暴力に転化する構造はおなじである。カトリック教会が聖母マリア崇拝を通じて女性へ母性や処女性の押しつけていることに対する反逆が主人公の狂気につながっている。怖い!

いきなりホラームードで飛ばしていくというより、ジワリジワリ修道院内の不穏な雰囲気を出していき、ホラー映画独特のドキッとさせるシーンも控えめながら出てくる。その後で「処女懐胎」の場面になっていく。信仰心が厚い修道女が妊娠するのだ。何それ?!と思いつつ映画を観終わっても父親のヒントはない。今まで一度も男性と接したことがない処女であるのにイエスを妊娠したマリアと同じように主人公が修道院でもてはやされるようになる。子どもは人工的に造られた存在なのであろうか?よくわからない。

その後で修道女の粛清が起きる。修道院が行っているのは、宗教という仮面をかぶった極秘の人体実験としか思えない。この実験の成否に関するリスク要因は即排除対象になるのか?まったく意味不明でこのあたりからついていけなくなる。最終局面のスプラッター的転調が異質で完全なホラー展開女性の身体を使って理想を実現しようとする冷酷な支配者たちを敵視する。お腹が大きい主人公は耐えられなくなっていく。

ネタバレなので言えないがクライマックスはすごい衝撃だ。ホラー好きな人にはいいだろうが自分には無理。シドニー・スウィーニーは狂気の熱演だった。これまでと違う路線で製作にも加わる。もともとホラー好きなのかな?

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映画「ストレンジ・ダーリン」ウィラ・フィッツジェラルド

2025-07-16 21:35:00 | 映画(洋画 2022年以降主演女性)

映画「ストレンジダーリン」を映画館で観てきました。

映画「ストレンジ・ダーリン」はアメリカの田舎町を舞台にしたクライムサスペンス映画で監督・脚本は JT モルナーである。物語は全6章+エピローグで構成され、時系列をシャッフルして進行する。予告編では男が女のクビを絞めるシーンが映り、連続殺人事件の犯人をめぐるクライム映画の雰囲気を感じさせた。出演者も無名だしスルーしそうだったのに評判は悪くない。他に優先的に観たい映画もなくピックアップする。

山道を車で逃げている1人の女(ウィラ・フィッツジェラルド)は恐怖の表情でケガを負っている。それをライフル銃を手にした1人の男(カイル・ガルナー)が追っている。森の中へと駆け込んだ女は老夫婦が暮らす家を発見すると必死にドアを叩いて「助けてください」と叫ぶ。

場面は夜のモーテルのシーンに戻る。2人の男女が一夜をともにするかどうか言葉を交わす。そこで女は問い「あなたは、シリアルキラーなの?」男は「まさか」と答える。

先がまったく読めないストーリーで逆転劇を楽しむスリラーだ。

これもネタバレ厳禁なので注意してコメントする。6つのチャプターと最後のエピローグで構成されて、チャプターの順番は「3→5→1→4→2→6」となる。時系列の前後のさせ方が無駄なく、緻密に計算つくされていて抜群の構成力である。

冒頭では女性が男性に追われているように見え、典型的な「女性被害者×男性加害者のシリアルキラーもの」と思い込ませる。ところが、各チャプターで状況が逆転して被害者と加害者の立場がどちらなのかわからなくなる展開は予想外で、途中から面白さが加速する。

⒈優勢・劣勢の入れ替わり

この映画は構造の緻密さと逆転劇を楽しむ作品である。それぞれのチャプターの中でも男女の優勢劣勢が逆転する場面の連続だ。具体的にはモーテルのシーンで「女が刃物で追い詰める →女性の完全勝利→ 男が拳銃で逆転」の構図などシーンごとに逃げ場のない立場の男女逆転が連続するのがスリリングだった。

最後まで観客に「どちらが本当の被害者か加害者か」を考える余裕を持たせず変化するのだ。考える映画というより、振り回される体験型サスペンスとしてスリルを楽しむしかない。立場が入れ替わることで緊張感を最後まで維持している。

⒉登場人物と脇役

男が首を絞めたりクルマで追ったりする「逃げる女」と「追う男」の男女2人の構図のはずなのに途中で立場がわからなくなる。元来の2人のプロフィール詳細は知らなくてもいい気がする。楽しむべきはこの逆転劇だからだ。

そのストーリーを楽しむ上で2人以外の脇役の使い方が絶妙である。女が逃げ込む家の老人夫婦やホテルの従業員など一見無関係の第三者が巻き込まれる。追う警官までも罠にはまって状況がさらに混乱する。脇役が単なる背景ではなく、逆転のきっかけとして重要に機能していた。

⒊舞台設定のリアリティ

日本では防犯意識や近所の目が厳しく、軽い暴力沙汰でも警察がもっと早く出動する。日本ではこの映画と同じシナリオは成立しにくい。このストーリーはアメリカの田舎で「人目がない」設定で無法地帯に見えてくる。だからこそ、これだけ殺人が連続しても実際に“あり得そう”に思わせる説得力があった。

大衆受けする大ヒット作にはならないけど、のちのち「スリラーの傑作」として語り継がれるカルト映画になる素養がある。あのスティーヴン・キングがこの作品を称賛したのも「観客を欺く構造」が強いから納得できる。

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映画「バッド・ジーニアス(リメイク)」カリーナリャン

2025-07-15 19:13:20 | 映画(洋画 2022年以降主演女性)

映画「バッドジーニアス」を映画館で観てきました。

映画「バッド・ジーニアス」は同名のタイ映画のアメリカ版のリメイクだ。タイってこんなに近代化したのかと驚いた作品だ。優秀な高校生がカンニングで答えを教えるのが気がつくとビジネスにエスカレートするタイ映画だった。ストーリーはすんなりいかず、途中からのハラハラドキドキ感がよかった。その時のおもしろさを期待して、二匹目のドジョウを狙って映画館に向かう。アメリカ版ではアジア系のカナダ人のカリーナ・リャン主演である。

コインランドリーを営む父・モウ(ベネディクト・ウォン)と二人、裕福とはいえない家庭で暮らすリン(カリーナ・リャン)。全科目で毎年学年トップの成績を収め、常人離れした頭脳の持ち主だった。高校2年への進級時、リンは一流大学への最短コースとなる名門私立高校から破格の奨学金付きの特待生として迎え入れられる。

転入早々、彼女の案内係のグレース(テイラー・ヒックソン)と仲良くなるが、グレースは落第ギリギリの劣等生。そんな親友を助けるため、試験の最中にリンは消しゴムに答えを書いてこっそり渡してグレースに解答を教え、好成績を取らせてしまう。その才能に目を付けたのが、グレースの恋人のパット(サミュエル・ブラウン)。リンが進学を夢見るジュリアード音楽院の理事も務める富豪弁護士を父に持つパットは、リンの頭脳で学校の落ちこぼれ達を救済する“危険なビジネス”を持ちかけてくる。

期待したほどではなかった。

というより途中で訳がわからなくなりまったく理解ができなくなった。アメリカ版ではSATの試験システムでの集団カンニングが焦点になる。前作では試験の舞台が「タイの一教室」から「国際会場へ」と移る。今回も「カンニングの規模と難易度」がエスカレートする基本的な考え方は同じ。でも、消しゴムを使った古典的カンニングから大きく飛躍しすぎて頭がついていけない

この映画では高校生たちがガラケーを持っている。説明はないが、時代設定は今よりも前ということなのか?実際にSATカンニング事件があったらしい。 SAT特有の“時間差受験”が背景を理解しない日本人には分かりにくい。アメリカではタイムゾーンを跨ぐ国際受験が実際に問題になったことがあるそうだ。

「先に試験を受けて答えを外に送る → 後の時間帯に受ける人に伝える」というスキームは実話がもとになるようだ。突然他人のなりすましで外国人を装った受験の話となると、映画ではルールや仕組みの説明がほとんどないので理解しづらい。

ジョークやコメディーの要素は全くなく、残念ながら頭が混乱したままで映画は終わってしまった。

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映画「スーパーマン」デヴィッド・コレンスウェット

2025-07-12 05:09:37 | 映画(洋画:2022年以降主演男性)

映画「スーパーマン」を映画館で観てきました。

映画「スーパーマン」デヴィッド・コレンスウェットがスーパーマンを演じるジェームズ・ガン監督の新作。ここのところアメコミの新作は遠慮してきたけど、スーパーマンだけは別格だ。小学校の時、再放送のTV「スーパーマン」に惹かれて興奮して見ていた。「弾丸よりも早く、機関車よりも強く、高いビルもひとっ飛び」そんなイントロの勇姿は忘れられない。

それなのでスーパーマンの映画化はずっと観ている。2016年の「バットマンvsスーパーマン」以来だ。主役のデヴィッド・コレンスウェット「ツイスターズ」に出演しているようだが影が薄い。実質初めてだ。

映画が始まってすぐスーパーマン(デヴィッド・コレンスウェット)はメトロポリスの街でコテンパンに敗北して 遠く南極の氷原に叩きつけられる。氷の要塞「フォートレス・オブ・ソリチュード」で身体を養生して再起をはかり街に戻る。デイリープラネット新聞社ではクラークケントの同僚ロイス(ローレン・ブロズナハン)はスーパーマンを応援しているが形勢はよくない

大富豪のレックス・ルーサー(ニコラス・ホルト)は現場に出ずに情報戦と代理戦争で手下をコントロールする。スーパーマンの弱点は研究し尽くされて闘い方を見破られる。スーパーマンもやられっぱなしだ。また、ルーサーは自ら利権を得ようとするボラビア国が隣国へ侵攻するのを後押しして世界を混乱させようとする。

形勢不利のスーパーマンの逆襲が見ものだ。

今回の「スーパーマン」は、従来のような「無敵の救世主」にはならない。悪の親玉ルーサーの一味にスーパーマンが序盤から中盤過ぎまでコテンパンにやられる。 正義の力で乗り越えられない現実を突きつけられる構造が斬新だ。しかも、ルーサーはTV放送を通じてスーパーマンは宇宙からの侵入者で悪者だとのプロパガンダを一般市民に植え付ける。絶体絶命がずっと続いていく構造だ。

⒈強い敵と国際情勢とのアナロジー

バットマンも2012年の「ダークナイトライジング」で破産させられたり、トムハーディが仮面をかぶった悪の親玉に対決で敗れてマスクを剥がされる衝撃な場面があった。今回スーパーマンもいきなりの敗北に続き形勢はずっと不利だ。スーパーマンの戦い方、弱点、心理パターンを軍事科学者やAIが解析しているのだ。

南極にある住処を悪玉ルーサーに荒らされてしまう。襲撃で完全に無力化されたスーパーマンは守るだけで精一杯だ。ルーサー陣営の策略で世論もスーパーマンに不信感を持つ。デイリープラネットのロイスたちが孤立しないようにするので手一杯だ。逆転するまで、時間がかかる。

ルーサーが支援する仮想の国ボラビアが隣国への侵略に進む構図はロシアのウクライナ侵攻を思わせる。  ボラビア侵攻×現実のメタファーで国際情勢のリアルさを言わんとする。レックス・ルーサーを演じるのはニコラス・ホルトクリントイーストウッドの直近の傑作「陪審員2番」の主役で配信スルーだけど傑作だった。どこかで観たことあると思った。

⒉近未来テクノロジーの恐怖

ルーサーの一味にはムチャクチャ強い蜘蛛女(スパイダー・アマルガム)がいる。身体には自己修復ナノポット+神経制御用のナノインターフェースが入って、人間離れした生体兵器となっている。しかも、ルーサーはスーパーマンのクローンという代替まで投入して対決までさせるのだ。

映画の途中で「ナノポット」のセリフを観て、AIが人間の頭脳を超越する「シンギュラリティ」を2045年と予言しているレイ・カーツワイルの本を連想する。人間の体内に埋め込まれるナノポットが人間の頭脳を超人化させる記述がある。思わずうなった。加えて、スーパーマンのクローン人間も登場して未来に向けての技術の進化と人間性の喪失を描く。テクノロジーに依存した兵器は制御が効かなくなり暴走する。実際に恐ろしい未来が来なければいいけど。

⒊周囲の支えと愛犬クリプト

クラークケントの同僚ロイスはスーパーマンの正体を知っている。言論操作で窮地に堕ちるスーパーマンを助けようと頑張る。演じるローレン・ブロズナハン「アマチュア」で主人公の妻役だ。キスシーンは多い。今回は愛犬クリプトが大活躍だ。クローン兵士や蜘蛛女からスーパーマンの命を守る。

スーパーマン側には味方が思ったよりも多かった。これだけ敵が多いとアメコミ的な味方もそれなりにでてこないと助かるわけがないのだ。ヒーロー集団「ジャスティスギャング」のアフリカ系のハイテク捜査員やボルビアの危機を助けに行ったグリーンランタンの連中だ。スーパーヒーローだけが悪玉退治に関わっていないことがこの映画の特徴かもしれない。

敵だか味方だか良くわからず気がつくと味方になるパターンもある。アメコミキャラを読み込んで映画のキャラに反映する団体戦が好きなジェームズガン監督なのかもしれない。このあたりはオタク以外は調べないとわからない。映画内で見るクルマにトヨタのマークがあった。関税で大騒ぎの中見つけると思わずうれしくなる。

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映画「夏の砂の上」オダギリジョー

2025-07-09 08:39:31 | 映画(日本 2022年以降 主演男性)

映画「夏の砂の上」を映画館で観てきました。

映画「夏の砂の上」は長崎を舞台にしたオダギリジョー主演の物語。原作は90年代後半に作られた長崎出身の松田正隆の戯曲で、監督脚本は玉田真也である。オダギリジョーは妹から突然17歳の娘を預けられ共同生活をはじめるリストラされた男を演じる。2005年に長崎を舞台にした「いつか読書する日」という田中裕子主演の傑作がある。坂の多い長崎の町を自転車でさっそうと走る田中裕子が強烈なインパクトを残した自分の好きな映画だ。どうしても比較して観てしまう。

 長崎の雨が降らない夏。幼い息子を亡くし、妻・恵子(松たか子)と別居中の小浦治(オダギリジョー)は、勤めていた造船所の職を失ったあと無気力な日々を送っている。そんな彼のもとに、妹・阿佐子(満島ひかり)が17歳の娘・優子(髙石あかり)を連れて訪ねてくる。福岡でスナックを任せられる話があり、優子をしばらく預かってくれというのだ。姪との突然の同居生活が始まります。

優子は高校に通わず、スーパーのバイト先で年下の先輩・立山(高橋文哉)と親しくなる中、治との生活にも慣れていく。しかしある日、優子は恵子と治が言い争う場面に遭遇する。

映画としては普通。オダギリジョー演じる主人公の男の哀しさが根底に流れる。

直近では長崎に造船所がある三菱重工の株価も最高値を更新して絶好調のはずだけど、この映画では造船所がつぶれて主人公が職を失う。現代の設定にすると少し違和感はある。

ひょうひょうとしたオダギリジョーには味がある。元の同僚に妻を奪われる情けない役だ。それなのに妻の浮気相手の奥さんから詰め寄られるシーンは気の毒。これでもかというくらいツキがない

高石あかりは醒めた変わった女の子の役柄だったのに、おじさんの面倒は私がみると言い切るダメ男のおじさんに情を移すセリフは印象に残る。松たか子はわざとだと思うがこれまでになくどん臭く地味だ。満島ひかりは最初と最後だけベラベラしゃべって台風のように去っていく。いかにもあっている役柄だ。

⒈時代を経てもかわらない長崎の町

長崎には3回行ったことがある。市電と坂が印象的な造船所のある町という印象が残る。長崎が舞台の「いつか読書する日」と同じ長崎の坂道、階段、細い路地、約20年たっても見た目はほとんど変わっていない。細い路地の奥だと重機も入らないので坂の途中にある主人公の家は再建築が難しいのではないだろうか。結果として古い家のまま住み継ぐしかないのだ。町並みとしては大きくは変わらない。坂道や路地の雰囲気で長崎の空気感が味わえるだけでも映画を観た甲斐がある。

⒉いつか読書する日との比較

田中裕子牛乳配達とスーパーのレジ打ちを掛け持ちで働いていた。預かった姪もスーパーでバイトしている。田中裕子が坂を駆け巡る姿に躍動感を感じた。一方でオダギリジョーは逆でいかにも無気力感が強い「いつか読書する日」岸部一徳が川で溺れた子を助けようとおりていった階段で、高石あかりがたたずむシーンに2人に共通する去っていく感覚をおぼえた。顔に哀しさが感じられる高石ひかりに大物の素質ありと感じる。

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映画「桐島です」 毎熊克哉&高橋伴明

2025-07-07 08:51:22 | 映画(日本 2022年以降 主演男性)

映画「桐島です」を映画館で観てきました。

映画「桐島です」は過激派による爆弾事件で長きにわたり指名手配されていた桐島聡の物語である。桐島聡の指名手配のポスターは誰もが見たことがあったであろう。高橋伴明監督がメガホンをとり毎熊克哉が主演で桐島聡を演じる。自分は学生運動世代の後の世代だけに活動家は学生時代から嫌いな人種である。現在でもリベラルという名で金儲けする左翼人はひたすら嫌い。それなのに指名手配にも関わらず長い間逃げ切っていた桐島聡に強い関心を持っている。

今年3月に足立正生監督古舘寛治主演で「逃走」と言う作品が作られ鑑賞した。どちらも「逃走中の真実は完全には分からない」ことを前提に、証言や想像で空白を埋める。映画館には70代前後と思しき男性が大半で、思ったよりも観客は多い。その中で夫婦で来ているカップルの女性は元活動家のような鋭角的風貌の顔つきだった。同じ桐島聡を巡って2作連続で映画ができた。前作も観ているので、比較をしながら映像を追う。

(作品情報を引用して桐島聡の末路を確認)

2024年1月26日、衝撃的なニュースが日本を駆け巡った。1970年代の連続企業爆破事件で指名手配中の「東アジア反日武装戦線」メンバー、桐島聡容疑者(70)とみられる人物が、末期の胃がんのため、神奈川県内の病院に入院していることが判明した。

男は数十年前から「ウチダヒロシ」と名乗り、神奈川県藤沢市内の土木関係の会社で住み込みで働いていた。入院時にもこの名前を使用していたが、健康保険証などの身分証は提示しておらず、男は「最期は本名で迎えたい」と語った。報道の3日後の29日に亡くなり、約半世紀にわたる逃亡生活に幕を下ろした。

桐島聡は、1975年4月19日に東京・銀座の「韓国産業経済研究所」ビルに爆弾を仕掛け、爆発させた事件に関与したとして、爆発物取締罰則違反の疑いで全国に指名手配されていた。最終的に被疑者死亡のため、不起訴処分となっている。

桐島聡の人間味に焦点を合わせる作品だった。

女性の梶原阿貴との共同脚本だったせいか元活動家の高橋伴明が作るにしては足立正生監督作品に比較して思想的な肌合いは抑えられる。いきなり「実話に基づく」という文字が映る。逃走中の空白期間と孤独を描くために、80年代〜90年代〜2010年代と細かく時代を追う。空白を断片的な証言によるショットで埋めていく。女性目線が入ることで観客層が男中心でも男の論理に閉じなかった構造になる。工務店時代や宇賀神証言の小さなエピソードが人間の優しさを醸しだす。

⒈連続爆破のきっかけ

1974年9月の三菱重工爆破事件の負傷者を搬送する実録フィルムがいきなり映る。大道寺将司を始めとした連続爆破事件の首謀者たちが喫茶店でダベリ合うシーンに移っていく。大道寺はここまで死亡者をだす酷いことになると思っていなかったという。強烈な違和感を感じながらその会話を聞く。その中の1人が桐島聡と相棒宇賀神寿一(奥野瑛太)の親玉黒川芳正だ。

黒川の首謀で鹿島建設の作業所を狙った後に間組本社と大宮工場の爆破を計画し実行した。映画のセリフによると、理由は戦時中の中国での建設会社の土木作業員への扱いについてだ。戦後30年経って経営幹部はとっくに切り替わっている。なんでまた戦前の話を持ち返すのか、鋭角的に話をする首謀者黒川の話は聞いていて、ひたすらむかついてしまう。

それにしても、学生運動をやってた連中はなんてクズなんだろう。自分の同世代に近い佐藤優や百田尚樹の本を読むと、当時同志社ではまだ学生運動が残っていたようだが、我が母校ではその気配はほぼなかった。

⒉桐島の思想に関する中途半端さ

「逃走」足立正生監督自身の学生運動の経験を踏まえた強い思想性が感じられる。逆に同じ題材なのに、桐島の思想の薄さと戻れたはずの道を選ばなかった不器用さを感じさせる。結局、桐島は「思想が強かったから逃げ切った」のではなく、むしろ思想の空白と中途半端さがあったからこそ逃げ切れたと自分は感じる。 

ただ、桐島聡が亡くなった時元の盟友宇賀神「桐島は公安に勝った」と言った。高橋伴明監督も宇賀神が古い思想の物差しを最後まで持っていた人物とする。刑を受け出所した宇賀神のこれからの居場所を確保するかのように当時の行為を完全に否定しない。謎の女を演じる高橋恵子がのたまう言葉も似たような余韻を残すものだった。



⒊桐島がライブバーで知り合った女性像
桐島聡がライブバーに通っていたという証言をもとに両作品で親しくなった女性が出てくる。「逃走」では謎めいた優しさをもった美女だ。桐島の正体を知っていると匂わせるセリフがあった。結果的に結婚詐欺の常習犯だったと伝えられる。「桐島です」ではギターで「時代遅れ」を弾き語りをする女性ミュージシャンのキーナ(北香那)だ。ミュージシャンのキーナは桐島に惹かれるが、桐島が自ら繋がりを断つ。彼女は桐島の正体を知らない。周囲にこんな女性がいたのであろうか?

⒋女性目線の入った脚本

女性脚本家梶原阿貴の視点で「ささやかな人間味」をひろっているのがいい。思想と優しさが同居する人物像には女性脚本家の視点が生きている。桐島聡が大学時代の恋人(高橋伴明恵子の孫)からふられるシーン「あなたは時代遅れよ。私は普通に上場企業に就職したい」という現実の声がでてくる。そこで桐島は「労働者の搾取を救う」と一応言うが、実質言い返せないのだ。こんな場面は「逃走」ではなかった。

一時期行動をともにした仲間の宇賀神寿一の証言を引き出す。2人が離れる前に金欠の宇賀神に桐島が仕送りの一部を引きだして渡した優しさあふれるエピソードだ。また工務店生活での逸話も生活者としての桐島を強調するものだ。いい奴だったんだなと自分に思わせてくれるのは良かった。キネマ旬報によると梶原阿貴活動家の娘だったらしい。桐島聡の指名手配の写真の隣に父の顔があったと知ると驚く。この映画には適切な起用だったと感じる。

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