和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

いらっしゃいと。

2011-12-31 | 詩歌
花森安治の「暮しの手帖」からつながって、この「茨木のり子の家」(2010年11月初版)という写真集を手にしました。
詩人の茨木のり子が亡くなったのが2006年。享年79歳。この写真集は撮影期間が2008年から2010年までとあります。
サッシではなく木枠にガラスが入った窓。あけたすぐそばに金木犀が咲いていたり、二階のやはり木組のガラス窓から下を見ると、紫陽花が咲いていたりします。庭のみかんの木。みかんの花。当時とかわらない近所の坂道の散歩道。書斎の曇りガラスは、模様が、おはじきのようなギザギザで、そのおはじきが卵型の大きさをしてガラス面をうめ尽くしている模様となっております。その窓の写真が、そのまま表紙にもなっておりました。木製で武骨な北欧の山門みたいな玄関ドア。一階の漆喰塗りの白い壁。食堂椅子は背もたれも座部も木製で、ていねいに使い古され、背は黒光りしておりました。二階の書斎の本棚も写されております。古いアルバムからの写真も。茨木さんの詩も写真の邪魔をしないように挿入されて。そこにならべられた詩は、まるで、この家からたちのぼる香りでもあるかのように読めるのでした。生前には発表されることのなかった詩集「歳月」の詩が入った箱と原稿も見ることができます。

最後には「伯母と過した週末」という宮崎治氏の2頁の文。
以下は、そこからの引用。

「茨木のり子は32歳のとき、従姉妹の建築家と一緒にこの家を設計した。施行は1958年・・・今年で築52年になるが、もしも伯母夫婦に子供がいたらこの家は間違いなく建て替えられていただろう。煙草の脂(やに)で変色した壁紙やファブリックには、長年暮らした余韻が今も色濃く残存している。・・・
門灯が灯る頃、伯母の家の呼び鈴を押すと、木製の扉の格子窓に伯母の姿が現れ、いつも【いらっしゃい】と小さな声で囁いて、暖かな空間へ招き入れてくれた。本や雑誌が山積みされた狭い階段を注意深く上ると、台所からはその都度違ったレシピの濃密な香りが漂っていた。・・・」
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キラキラと。

2011-12-30 | 地域
KAWADE夢ムック「花森安治」に、鶴見俊輔氏の文「花森安治讃」が2ページほどで載っておりました。気になった箇所

「私が京都にきて、1週間ほどして会った梅棹忠夫は、会いに行くと、花森安治編集の雑誌『暮しの手帖』を揃えていた。家の改築を何年もかけて自分でやるのだと言った。庭に大工道具が置いてあった。」(p18)

国立民俗学博物館の「梅棹忠夫 知的先覚者の軌跡」という冊子にも、鶴見俊輔氏の文があり、それは「同時代人からみた梅棹忠夫 新しい道を照らす人」という文でした。そこには、こうあります。

「京都で梅棹の家を訪ねると、庭に工作器具が置いてあって、五ヵ月計画で、家を改造すると言う。こんな学者にはじめて会った。家の隅には『暮しの設計』が積み上げられていた。自宅の改造に役にたつと言う。」


う~ん。この「暮しの手帖」と「暮しの設計」というのは
どうなんでしょうね。
たんなる、印刷まちがいなのか。記憶ちがいなのか。

それによって、梅棹忠夫と「暮しの手帖」との接点が
ひょとして、消えてしまうことも考えられる。

まあ、それはそうと、
ここでは、加藤秀俊著「わが師わが友」(中央公論社 C・BOOKS)から、
この箇所を引用しておきましょう。

「鶴見さんは、ほとんどわたしと入れかわりに東京工大に移られたから、いっしょにいた期間はきわめて短かったが、そのあいだに、わたしに、ぜひいちど梅棹忠夫という人に会いなさい、と熱心にすすめられた。鶴見さんによると、梅棹さんという人は、じぶんで金槌やカンナを使って簡単な建具などさっさとつくってしまう人だ、あんな実践力のある人は、めったにいるものではない、というのであった。まことに失礼なようだが、鶴見さんは、およそ生活技術についてはいっこうに無頓着、かつ不器用な人だから、鶴見さんからみると、大工道具を使うことができる、ということだけで梅棹さんを評価なさっているのではないか、ずいぶん珍奇な評価だ、とわたしはおもった。金槌やカンナくらい、誰だって使える。大工道具を使えない鶴見さんのほうが、率直にいって例外だったのである。
だが、それと前後して、わたしは雑誌『思想の科学』(1954年5月号)に梅棹さんの書かれた『アマチュア思想家宣言』というエッセイを読んで、頭をガクンとなぐられたような気がした。このエッセイには、当時の梅棹さんのもっておられた、徹底的にプラグマティックな機能主義が反映されており、いわゆる『思想』を痛烈に批判する姿勢がキラキラとかがやいていた。それにもまして、わたしは梅棹さんの文体に惹かれた。この人の文章は、まず誰にでもわかるような平易なことばで書かれている。第二に、その文章はきわめて新鮮な思考を展開させている。そして、その説得力たるやおそるべきものがある。ひとことでいえば、スキがないのである。これにはおどろいた。いちど、こんな文章を書く人に会いたい、とわたしはおもった。たぶん、鶴見さんが日曜大工をひきあいに出されたのは、鶴見流の比喩であるらしいということも、『アマチュア思想家宣言』を読んだことでわかった。」(p80~81)

これから、図を描くということで、
花森安治さんと梅原忠夫さんとを比べてみたいのですが、
今日はここまで。


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暮しの余白。

2011-12-29 | 短文紹介
KAWADE夢ムック「花森安治」。
そこに掲載されている茨木のり子の文
「『暮しの手帖』の発想と方法」を、
私ははじめて読みました。
この文は、筑摩書房・筑摩文庫にある「茨木のり子集言の葉」1・2・3の収録作品一覧を検索してみても(本を持っていないので検索のみ・実際に手にして確認はしておりません)、その題は見あたらない。ということで、私にとって、この文と出合えたのは、ひとえに、別冊文藝の夢ムックのおかげ。
ありがたや。
ありがたや。

この文で、茨木さんはご自身の考えかたを述べて
「淡々として抑制のききすぎたくらいなのが散文としては美しいという考えかたがこちらにある・・」(p134)とありました。
うん、この文も抑制をきかせて書かれております。
最後の方に、さらりと、こんな箇所。

「一見、美しく確かなものの追及という、何気なさを装いながら、『暮しの手帖』がその底に絶えず持続させてきた【したたかさ】と【しぶとさ】は相当なものだが、読者はそれをどう読み、受けとめてきたか、これも大いに関心をそそられるところである。・・・・1969年から一年三か月かかってまとめられた【テレビの困った番組、読者投票】によれば教養・報道の部の、最悪番組第一位は、NHKニュースと出たことは、その一端をわずかに垣間みせてくれたような気がしている。
NHKは政府の放送局ではないかという不満を持って、42%の人びとが最悪番組第一位に選んだ。この結果は編集部としても意外で、予想もつかないことだったらしい。NHKニュースに漠然とした不満を持っていた人びとに対して、この数字のデータが投影されて、ますますしらじらしいものとして形をとって感じられ、波及していったことはまだ記憶に新しい。」

奥ゆかしくも、こういうテーマを文の最後にもってくる茨木のり子さんでした(うん。この箇所の引用は、書き漏らさないようにしなくては、読んだ甲斐がない)。
そして、「『暮しの手帖』も、長くついてきた読者も、戦後の世代をひっくるめて今、交替期にさしかかっている。」ことをすこし述べておわっておりました。この文は昭和48年掲載とあります。

さてっと、今日、古本屋から雑誌が届きました。
『暮しの手帖』のバックナンバーです。

第27号 昭和29年12月号 
第83号 昭和41年2月号

広島の尾道書房(画文堂)へと注文してありました。
先払いでしたので、ちょい日数がかかりました。
それが、今日とどいたというわけです。
どちらも、この茨木さんの文で触れている冊子。
(ちなみに、第28号はなかった)
値段はどちらも525円で
合計1050円+送料285円=1335円でした。

第83号が写真撮影の表紙です。
きれいだからって、最初にひらいた83号。
各文章の題と文との余白が、まぶしい。
まるで、胸元の白い衿(えり)が、
肌と着物の柄とをひきたてるように、
きりっとして見えました。
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新年の手紙。

2011-12-28 | 詩歌
「茨木のり子の家」を見てると、
ごく自然に、詩人と家ということを思うわけです。
すると、詩人と部屋へということで連想がひろがります。

そういえば、田村隆一の詩に、詩人の部屋というような詩があったなあ。
ということで、本棚から取り出してきて、
ありました。詩「水銀が沈んだ日」に

・・・・・

寒暖計の水銀が沈んだ日
ニューヨークのイースト・ヴィレッジにある
安アパートをぼくは訪ねて行った

階下は小さな印刷屋と法律事務所
詩人の部屋はその二階だが
タイプライターと楽譜が散らばっているだけさ

むろん 詩人の仕事部屋なんか
昔から相場がきまっている 画家や
彫刻家のアトリエなら 形の生成と消滅の

秘密をすこしは嗅ぐこともできるけれど
ここにあるのは濃いコーヒーとドライ・マルチニ
それにラッキー・ストライク
ぼくには詩人の英語が聞きとれなかったから
部屋の壁をながめていたのだ E・M・フォースターの肖像画と
オーストリアの山荘の水彩画 この詩人の眼に見える秘密なら
これだけで充分だ ヴィクトリア朝文化の遺児を自認する「個人」
とオーストリアの森と
ニューヨークの裏街と

・・・・・・・・・

うん。田村隆一の、この詩にならって、茨木のり子の家の写真を観まわしていたりします。
ところで、この「水銀が沈んだ日」は詩集「新年の手紙」にはいっておりました。詩集の装幀が池田満寿夫。

せっかくだから、このなかにある「新年の手紙(その二)」の出だし

  元気ですか
  毎年いつも君から『新年の手紙』をもらうので
  こんどはぼくが出します
  
そういえば、この詩集には、家というのがよく登場しているのでした。
たとえば「詩神」。これは短いので詩全文引用

     詩神

 茂吉のpoesieの神さまは
 浅草の観音さまと鰻の蒲焼

 かれには定型という城壁があったから
 雷門へ行きさえすればよかった

 ぼくの神経質な神は
 いつも不機嫌だ 火災保険もかけてない

 小さな家と
 大きな沈黙

「人間の家」という題の詩もあります。

   人間の家

 たぶん帰りは遅くなるだろう
 おれはそう言って家を出た
 おれの家は言葉でできている
 古い戸棚には氷河が
 浴室にはまだ見たこともない地平線が
 電話かれは砂漠と時間が


うん。この「人間の家」は、もうすこし引用してみましょう。


 ドアを開けたって部屋があるとはかぎらない
 窓があるからといって室内があるとは言えないのだ

なんてありまして、「人間の家」の詩の最後の2行は

 むろん おれの家はきみの言葉でできていない
 おれの家はおれの言葉でできている

さてっと、詩集「新年の手紙」をめくってから
あらためて「茨木のり子の家」をひらきはじめる。
それはそれは、何とも贅沢な気分。


おいおい、まだ年賀はがきも書いてない癖して。
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だから決めた。

2011-12-27 | 詩歌
「茨木のり子の家」(平凡社)という写真集を見ていると、
自然に、茨木のり子の詩が浮かぶわけです。
ここでは、【家】というキーワード。


文春ネスコ編「教科書でおぼえた名詩」という本があります。そのはじまりには、

「本書は、昭和20年代から平成8年までに日本の学校でつかわれた中学・高校の国語の教科書・1500冊あまりから、だれでも一度は耳にしたことのあるなつかしの詩歌をよりすぐった愛唱詩歌集です。・・・」とあります。

この「教科書でおぼえた名詩」に、茨木のり子の詩は2篇。「わたしが一番きれいだったとき」と「自分の感受性くらい」が並んでいて、2篇の詩の前に、与謝野晶子の詩「君死にたまふことなかれ」がありました。

「君死にたまふことなかれ」についてでは、最近読んだ中西輝政著「日本人が知らない世界と日本の見方」(PHP研究所)にこんな言葉がありました。「『君死にたまふことなかれ』は反戦ではなく、『家』の問題を詠んだものです。」(p175)

ちょっと話題が横滑りするようですが、ここにも『家』が登場しているので、ていねいに引用していきます。

「戦後の歴史教科書に、与謝野晶子の反戦歌が出てきますね。日露戦争のところで必ず紹介される『君死にたまふことなかれ』です。しかし本来あれは、反戦歌ではありません。与謝野晶子は、じつは大変な【軍国主義者】だったのです。第二次世界大戦のとき、自分の四男が海軍軍人として出征する際、その息子の武運を願う歌を詠んでいます。『水軍の 大尉(だいい)となりて我が四郎 み軍(いくさ)に征(ゆ)く 猛(たけ)く戦へ』と。
『君死にたまふことなかれ』は反戦ではなく、【家】の問題を詠んだものです。『弟は長男だから、死ねば家が途絶えてしまう。だから戦争に行っても、死んではいけない』。そういう思いが主題です。家への思いが先にあり、なぜ長男である弟を兵隊に取るという、バカなことをするのか。次男三男なら、いくら死んでもかまわない。むしろ口減らしになる、とまではいわないが、長男は大事な跡取り、というのは与謝野晶子に限らず、戦前までの日本の常識です。・・・」(~p176)

うん。与謝野晶子や茨木のり子の詩を反戦歌というだけで見る浅薄さ。

ちなみに、「茨木のり子の家」の本で、家の写真を見ただけだと、テレビが、この家にはないようだなあ(この話題は、詳しく語ると長くなりそうなのでここまで)。テレビといえば、最近完結したNHKの「坂の上の雲」を、私はわくわくしながら見ておりました。今年の放映では、旅順攻撃が出てきておりました。
与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」には題のわきに、「旅順口包囲軍の中に在る弟を嘆きて」という言葉があるのでした。すこし詩から引用してみます。


  堺の街のあきびとの
  旧家をほこるあるじにて
  親の名を継ぐ君なれば、
  君死にたまふことなかれ、
  旅順の城はほろぶとも、
  ほろびずとても、何事ぞ、
  君は知らじな、あきびとの
  家のおきてに無かりけり。


こういう詩を国語で教えるのは、教師の力量を問われから難しいだろうなあ。ところで、詩「わたしが一番きれいだったとき」の最後はというと、こうでした。

 わたしが一番きれいだったとき
 わたしはとてもふしあわせ
 わたしはとてもとんちんかん
 わたしはめっぽうさびしかった

 だから決めた できれば長生きすることに
 年とってから凄く美しい絵を描いた
 フランスのルオー爺さんのように
                 ね


うん。茨木のり子は、2006年(平成18)2月、自宅で死去、享年79歳とあります。平均年齢からいえば、もうすこし長生きしてほしかったけれど、その家で、暮らしに根ざしながらも、昇華された「凄く美しい」詩を書いた。

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山本夏彦と茨木のり子。

2011-12-26 | 地域
「茨木のり子の家」(平凡社)を見れてよかった。
磁石が砂鉄を引き寄せるように、さまざまなことをひきよせてくれる一冊です。まるで、詩集の余白が吸引力をはっきするような味わい。
まずは、枝をのばす前に、幹を確認しておきましょう。
KAWADE夢ムック「花森安治」に、茨木のり子の文「『暮しの手帖』の発想と方法」が掲載されていて、それを読み。思い浮かんで古本の「茨木のり子の家」を注文した、というわけです。

さてっと、「『暮しの手帖』初期の『自分で工夫して建てた家』『坪一万七千円の家』『専門家の建てた十六坪の家』それから別冊として1950年に出された『すまいの手帖』『美しい部屋の手帖』など溜息とともに何度読んだかわからない。・・・」(p138)と茨木のり子さんは書いておりました。

思い浮かぶのは、山本夏彦でした。
どうして、夏彦は工作社を設立したのか、なんだか、それが氷解したような気がします。

1950年(昭和25年)、建築関係書籍出版の工作社を設立。
1955年(昭和30年)インテリア専門誌『木工界』を創刊する。『木工界』はその後1961年(昭和36年)に『室内』と誌名を変更。2006年(平成18年)3月号で一旦休刊するまで、50年にわたって発行された。
1959年(昭和34年)『木工界』に『日常茶飯事』と題してコラムを連載開始。

KAWADE夢ムック「花森安治」には
その山本夏彦の文も掲載されておりました。
すこし引用するとしたら、ここかなあ

「花森は『暮しの手帖』の毎号の文章を依頼原稿を除きすべて自分で書いた。編集部員の書いた文には朱をいれた。表紙も目次もレイアウトも自分ひとりでした。昔の職人の最後の人といわれたゆえんである。」(p128)

ところで、茨木のり子さんは、無事に家を建てました。
「茨木のり子の家」のあとがきは、宮崎治さんが書いております。
はじまりは
「茨木のり子は32歳のとき、従姉妹の建築家と一緒にこの家を設計した。施工は1958年・・・第二詩集『見えない配達夫』が刊行された年であり、それ以降の詩はすべてこの家で書かれたことになる。・・この住居も茨木のり子の作品の一つと言えなくもない。今年で築52年になるが、もしも伯母夫婦(茨木のり子夫婦のこと)に子供がいたらこの家は間違いなく立て替えられていただろう。・・・」

「茨木のり子の家」には手書きの家の配置図や平面図があります。
そこには洗濯機のとなりにアイロン台と書かれておりました。
もう一度「『暮しの手帖』の発想と方法」へもどると、こうあります。

「暮しの手帖研究室とメーカーとの合作になるアイロン台もきわめて使いよく、このアイロン台を一定の場所に置くために、一昨年、一畳半ほどのスペースを部屋をぶち抜いて継ぎ足した。男性にはあるいはわからないことかもしれないが、
  アイロンをかける場所が一定しないこと、
  戸車が軋むこと、
  プラグがぐらつくこと、
  水道栓のパッキングがゆるみ、
  たえずぽたぽた水が垂れること、
これらの不備の、精神に及ぼす悪影響は測りしれない。そんなことは一切気にかからないという女傑も居ることは居て、羨ましくもなるのだが、こちらはそうはなれなくて精神衛生上のためにも、正常に戻さねばという欲求が強い。ヒューズが飛んだとき、あるいはちょっとした電気器具の修理など女でも気軽にできなければならないと思う。それらは学校教育や家庭教育のなかで、知識としてではなく手仕事として教えておいてしかるべきものだが、そうなっていず・・・」(p139)

ここまでが、読みなおすと、当然のように、
「茨木のり子の家」をひらく前の予備知識となっております。
そう。「暮しの手帖」の、読者がここにおり、
それが、たまたま詩人だったわけです。
この写真集「茨木のり子の家」には、ちゃんと書斎の本棚も写されております。詩集の本にまじって、ありました。雑誌「暮しの手帖」。

明日も、「茨木のり子の家」をひらいていきます。
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八勝堂書店さん。

2011-12-25 | 地域
昨日古本屋に注文した本が今日届く。はやいなあ。
しかも、冊子小包。私は、郵便局関連は日曜日は配達しないものだと思っていたので、うれしい誤算。歳末なので遅れてくるかと思ってもいました。うれしいなあ。
あんまり、うれしいので、
古本屋の紹介。
ネットの「日本の古本屋」で注文しました。昨日です
10:25に「日本の古本屋」より「注文内容の確認」のメール。
10:33に古本屋より「本日書籍を発送します」というメール。
あれれ、はやい。そして本が届くのも速かった。
ということで、その古本屋さんはというと

  西池袋 八勝(はっしょう)堂書店さん

うん。注文したのは初めての古本屋でした。
冊子小包で郵便切手が貼ってあります290円。
ちなみに、たのんだ本は
  「茨木のり子の家」(平凡社・定価1800円税別)

これが初版カバ帯付900円。それに送料が250円で、1150円。
きれいで、新刊といってもいい一冊。
私への宛名は手書き。
うん。手書きで郵便切手が貼ってあるのはいいですね。

その本をひらいて、さっそく楽しみました。
感想は、寝かせてから
ということで、今日はここまで。
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ムック花森安治。

2011-12-24 | 短文紹介
文藝別冊のKAWADE夢ムック「花森安治」。
素敵な冊子です。
クリスマスにちなんでいえば、
丸い大きなクリスマスケーキに例えたくなります。
ひとりで、全部食べようとすると、お腹をこわしそう。
まずは、すこしづつ切り分けて、食べます。
というので、読み始めたのが

 鶴見俊輔の「花森安治讃」
 津野海太郎の「時代の空気 ロゲルギストと花森安治」

この二つの文は、対で楽しめる内容。
津野さんの文は、花森安治をもうひとつ大きな地平線へと
置き直す試みなのじゃないかと、面白かったなあ。
次に読んだのが、

 茨木のり子の「『暮しの手帖』の発想と方法」

茨木のり子さんの、この文は始めて。
読めてよかった。そこに出てくる
暮しの手帖のバックナンバーは、とりあえず買えるのを古本屋へ注文。
あと、そういえば、昨年かに出ていた写真集らしい「茨木のり子の家」というのも、古本屋へと注文することにしました。
さてっと、茨木のり子さんの文には

「淡々として抑制のききすぎたくらいなのが散文としては美しいという考えかたがこちらにあるものだから、そういう尺度からすると・・」(p134)

という箇所など、自身のことを語っていたりするので、楽しめます。
うん。古本で「茨木のり子の家」が来るのが楽しみ。
その台所を見てみたいとおもったりするのは、このムックの文によります。

家といえば、
鶴見俊輔氏の文に

「私が京都にきて、1週間ほどして会った梅棹忠夫は、会いに行くと、花森安治編集の雑誌『暮しの手帖』を揃えていた。家の改築を何年もかけて自分でやるのだと言った。庭に大工道具が置いてあった。」(p18)

これなど、茨木のり子さんの文に出てくる

「『暮しの手帖』初期の『自分で工夫して建てた家』『坪一万七千円の家』『専門家の建てた十六坪の家』それから別冊として1950年に出された『すまいの手帖』『美しい部屋の手帖』など溜息とともに何度読んだかわからない。特に1954年から19回以上にわたって連載された【台所研究】から学ばされることが多かった。それらを取捨選択し、自分たちで設計図を引き、設計家に見てもらうと何一つ訂正されずにパスした。その人に専門的なことはすべて依頼してでき上がった家である。」

そういえば、どちらも大阪出身でしたっけ?
関西と【暮しの手帖】の関係は、案外深いのでしょうか。
それにしても、大工と『暮しの手帖』が結びつくんですね。
私には知らないことばかり。
ムック冊子の最後に掲載されている
「『暮しの手帖』152冊ダイジェスト」には
昭和27年(1952)の欄に
「千葉千代吉によるカレーの作り方。作家の志賀直哉は記事を見て自作。うまくできたことを喜び、『暮しの手帖は役に立つ』と会う人ごとに宣伝。このカレーは志賀家の定番メニューとなったという。」(p215)とあったりします。


うん。楽しいクリスマスケーキは、今日はこのへんで、
いちどに食べるわけにもいきません。


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あけましておめでとうございます

2011-12-23 | 他生の縁
文藝春秋2012年1月号に年賀状特集。
パラパラめくれば、「母・佐藤愛子の困った年賀状」という箇所が、見るだけで大笑い。写真年賀状の珍傑作。新年早々、笑うかどには福が来たる。という見本。



私は、「花森安治のデザイン」(暮しの手帖社)をおすすめしようと思っております。うん。この切り口からなら、すんなりといけそうです。
それが、「年賀状」。

「花森安治のデザイン」には、暮しの手帖の表紙ばかりか、ページのカットも、ていねいにひろわれており。なんと、「読者への年賀状」のページまでありました。

さてっと、佐藤愛子さんの写真年賀状にかぎらず、最近は写真の年賀状がふえているようです。「花森安治のデザイン」は、それへも見事に、適応しておりました。その表紙撮影という箇所には、こんな文があります。

「1958年、44号から、今まで描き続けていた表紙を写真に変える。撮影はいつも大変だった。・・構図は花森の頭の中だけにある。口出しは許されなかった。真上からの撮影は、花森美学の一つである。スタジオの天井は、屋根裏からカメラが構えられるよう、四角く切り取られていた。表紙用写真は、タイトル文字を組み合わせるため、ものの位置を微妙に動かして、何カットも撮る。・・・時間はかかり、深夜に及んだ。・・細部まで手を抜かない姿勢は、どの仕事でも全く変わることがなかった。」(p44)

年賀状には、絵や写真やカットをいれず、
言葉だけの年賀状を書いている方。
そういう方にも、おすすめします。

「花森安治のデザイン」には「手書きの文字」のページもあります。
文字のサイズに配置にと、花森安治の一点一句をおろそかにしない表現は「新聞広告版下」のページをご覧になれば、これまた年賀状の文字配置への格好のひらめきをひきだす視覚効果バツグン。

以上、おすすめはさまざま。
この「花森安治のデザイン」を身近に置くと
いろいろな、切り口からの発見が待っており、
願わくば、
あなたの、一太刀をお聞きかせ願いたくなる、
そんな魅力の一冊。


追伸
いまだ、私は年賀状を書くわけでもなく、
こんなことを、ブログに書き込んでいる。
うん。
この文で、ブログをご覧になっている方々への
出せない年賀状のかわりとさせて頂きます(笑)。



追々伸

最初に登場した文藝春秋1月号には「著名人36人 年賀状に書き添えたい一言」という箇所もありました。そこにドナルド・キーン氏も書いております。はじまりは
「私は正直言って、年賀状に添える一言に特別の思いはありません。近年は秘書が撮った写真を印刷した年賀ハガキをみなさんに送っています。」
おわりは
「特に思い入れのある言葉はないと冒頭に書きましたが・・・私はとにかく年賀状には心をこめて、『あけましておめでとうございます』と書くでしょう。」
そういえば、「花森安治のデザイン」にある、読者と仕事でお世話になった方へ毎年送っていた年賀状のページ(p158~159)には、カットとともに、ローマ字やひらがなで『あけましておめでとうございます』という文字がどれも共通しておりました。『賀春』『謹賀新年』とかの漢字は一切ナシ。
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来年のブログ目標。

2011-12-22 | Weblog
私は、ネット書店BK1の毎日更新される新着書評欄を楽しみにひらいている一人です。いろいろな方の書き込みを読める楽しみ。そこに、昨日、粕谷一希著「内藤湖南への旅」(藤原書店)の書評が載っておりました。評者は塩津計さん。その最後に、こんな箇所がありました。


「なお、ついでながら、本書で一番気に入ったのは「書痴の条件」として粕谷一希氏が掲げた以下の五つの点である。
1」欲しい書物が街のどのような本屋に行けばありそうか、一種の嗅覚があること。
2」衝動買いを辞さない。欲しい本を見つけたときは、値段や財布を気にしない。とにかく欲しい本は手に入れる。カネはあとから自然になんとか工面がつく。
3」「本はよむものではなく、もつものである」と東畑精一は名言を吐いたが、本を貯えること自体が楽しいし、価値あることだという思念があること。
4」本はそれぞれ個性的な表情をもっている。装丁、版型、見返し、奥付、文字や文字の配列など。それを識別することが楽しい。
5」本は友人である。身近によく整理された書棚にある本は、不断に対話出来る。こちらの気分でその日の相手はことなるし、同じ本でも身近になったり離れたりする。次第に生身の人間より、本の中の著作家のほうが身近になってくるという。
・・・」

うん。ここで、私の注目は、3番と5番(笑)。

う~ん。書痴というのは、
『本はよむものではなく、もつものである』なのか。わかりました。
それなら、買っても読まないなどと、つぶやくのは、書痴さんに笑われてしまいますね。恥ずかしい。来年のブログからは、こんなつぶやきは、きっぱりやめよう。

つぎ5番目の
「本は友人である。身近によく整理された書棚にある本は、不断に対話出来る。」とあるじゃありませんか。せめて、今年の最後まで、少ない本なのだから、「よく整理された書棚」は夢じゃない。ということで、
来年のこのブログ目標は「整理と対話」。
うん。鬼よ、笑わないでください。

それにしても、5番の言葉
「こちらの気分でその日の相手はことなるし、同じ本でも身近になったり離れたり」というのは、何とも書痴の地平は、洋々としているなあ。
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息を呑むような。

2011-12-21 | 古典
今日。新刊の「花森安治のデザイン」(暮しの手帖社)が届く。
すばらしい一冊。
大橋鎭子さんは「おわりに」で、こう書いておりました。
途中から引用

「・・それと共に、『暮しの手帖』の表紙画や、誌面のレイアウトも手がけるデザイナーでした。このたび、誕生100年の記念として、編集者としてその生涯を送った花森安治の生きがいであり、よろこびであった『暮しの手帖』の表紙原画すべてと、カット、手書き文字、新聞広告の版下などの一部を一冊にまとめ、皆様にお目にかけたいと思います。これらは、普段は決してお見せすることのない印刷前のものですが、それだけに、花森の筆づかいや気持ちが、直に感じられます。この原画の数々は、すべて長い間、暮しの手帖社で大切に保管して参りました。・・・」

その大切に保管してあった品々を、一冊に収めた感触がすてきなのです。
たとえば、私などは、芹沢介作品の展覧会のイメージがわいてきます。
民芸品を、ひとつひとつの置き場にこだわって、展示されている会場風景。
それをまるごと一冊に封じ込めたような濃密な空間をページをめくるごとに味わっているような気分にひたれました。居ながらにして、個展の息づかいが伝わってくるような醍醐味を醸し出しているのですが、創作の現場に、こっそりと立ち会っているようなゾクゾク感があるのでした。ありがたい一冊。
この気分がなんであるのかを、確かめたく、文藝別冊のKAWADE夢ムック「花森安治」を、おもむろに、ひらいたりして、気分を静めようとしておりました。お笑いください。

大橋さんは「おわりに」で、こうも書かれておりました。


「表紙は、その号の編集があらかた終わった頃に、『今日は、表紙を描くぞ』と宣言して、小さな部屋に入って描かれるのでした。表紙は、その雑誌の顔、商品ですから・・・途中で見ることは絶対禁止。みんなで息を呑むように待っています・・・」

うん。誕生100年を記念して、まさに、
息を呑むような一冊が、ここにできあがっておりました。
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出ておいで。

2011-12-20 | Weblog
今日は、本年度最後の新刊本の注文をした。
それはそうと、読まなかった本ばかりでした。
そのなかで、
まずは、吉村昭の関連で読み返したい本として、

  吉村昭著「三陸海岸大津波」(文春文庫)
  「つなみ 被災地のこども80人の作文集」(文芸春秋8月臨時増刊号)
  「吉村昭が伝えたかったこと」(文芸春秋9月臨時増刊号)
  森健著「『つなみ』の子どもたち 作文に書かれなかった物語」(文芸春秋)

あれ、4冊ともが文芸春秋なんだ。
「子供の眼」ということで、この4冊をむすんで読み返してみたい。

本は読めませんね。
ということだけでも、わかりました。
そういうときは、詩をひらいていたりします。
身近にある詩集は、杉山平一著「希望」。

    出ておいで

  カメラを向けると
  口を閉じて
  髪に手をやり
  とり澄ます

  心を文字にしようとすると
  飾ったり誇張したりする

  本当の顔よ心よ
  恥ずかしがらずに
  出ておいで


『子供の眼』と詩『出ておいで』と。

さてっと、WILL2月号が出ました。
はやいなあ、もう2月号だなんてね。
特集のはじまりが、中西輝政氏。
昨年と違い、中西氏の文は読み返したいと思います。

   
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贅沢な悩み。

2011-12-19 | Weblog
毎日新聞に、恒例の書評子による、2011年「この3冊」が
12月11日と18日に掲載されておりました。
うん。本を選ぶという贅沢な悩みを満喫(笑)。
本屋にいって、単行本を捜すという
ふるまいをしなくなって久しい私は、
こういう書評を眺めて、読みたい本を選ぶ、
というのが楽しみ。

さてっと
篩(ふるい)にかけて、買わずにすます消去法。
たとえば、三浦雅士氏の「この3冊」の最後は
篠山紀信著「ATOKATA」(日経BP社)
評は「震災の跡を撮影したものだが、これまでの篠山の仕事をはるかに抜く。じっと見つめるほかない。とりわけ巻末の十八枚の人物写真が胸を打つ。」
とあります。う~ん。書店でなら、ページをさ~とながめられるのだろうか。
それとも、密封されているのだろうか?
などと思いながらも、定価6090円に躊躇して、
やっぱり消去法の対象に(笑)。

つぎ気になったのが、
宮崎市定著「史記列伝抄」(国書刊行会・3780円)
これは、丸谷才一氏が2番目に推しております。
こうあります。
「司馬遷は講釈の話芸を取入れたというのが『史記列伝抄』の訳者の持論で、その呼吸で訳してある。とにかくおもしろい。岩波文庫の訳とくらべてみれば、すぐにわかる。今年一番の好読物。このすばらしい企画を立てた、中央公論の編集者、佐藤優は偉かった。」

ちなみに、井波律子氏は3番目に推しております。
そこから
「司馬遷『史記』列伝の『伯夷列伝第一』から『春甲君列伝第十八』までの翻訳と、訳者の『史記』関連の論文七篇を併録する。明快な訳文と、独創性あふれる論文とをあわせ読むと、『史記』世界が新しい角度から浮かびあがってくる。」

こうして、書き写していると、やっぱり買おうかなあと(笑)。
え~と。三浦雅士氏は2番目に推していたのが
宮崎市定著「中国史の名君と宰相」(中公文庫・940円)
それは
「全集未収録論文を編集したもの。通史として読める。中国史の要は宋、日本史の要は室町。宋代で極まる経済力が蒙古を刺激し、ユーラシアを横断する世界帝国を現出させたのだ。中国の今後を考えれば宮崎は必読文献の筆頭。礪波の解説がいい。」

う~ん。この宮崎氏の2冊は、買うべきか。
贅沢な悩み。ちなみに宮崎市定は、私は読んだことないのでした。

まず。読みたいと思ったのは
山崎正和氏が推薦の
鷲田清一著「『ぐずぐず』の理由」(角川選書・1680円)
これは、山崎氏が11日の書評としてとりあげて、18日の「この3冊」では、
丸谷才一著「持ち重りする薔薇の花」のつぎ2番目にあげておりました。
では山崎氏の『ぐずぐず』評。

「オノマトペを素材に言語の現象学を徹底して展開した力作だが、これまた問題領域の広さ、例証の量の膨大さ、分析への飽くなき執念に圧倒される。阪大総長の激務の暇を盗んだ仕事と聞いたが、端倪すべからざる知的膂力(りょりょく)というほかはない。」
これに、
11日の山崎氏の書評とダブルで、ぐっと読みたくなりました(笑)。
うん。
まずは『ぐずぐず』を読んでからにしよう。
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ただの『評論家』。

2011-12-18 | 短文紹介
なべさんが、このブログのコメント欄に、「一億総評論家」の本を指摘してくださいました。ありがたい。ということで、今日は、そのことについて語れます。
ちなみに、
大宅壮一氏の言葉は、ネット検索ですぐに捜せます。

テレビに至っては、紙芝居同様、否、紙芝居以下の白痴番組が毎日ずらりと列んでいる。ラジオ、テレビという最も進歩したマスコミ機関によって、『一億総白痴化』運動が展開されていると言って好い。
— 「週刊東京」1957年2月2日号 - 大宅壮一

というのが、見つかります。
さてっと、

大宅壮一氏が、一億総白痴化と書いたのが1957年。
中西輝政氏が、一億総評論家と書いたのが2011年。

まあ、他の方が言っているかもしれず。
おおまかには、白痴化から50年たって評論化へ、
という筋道をたどれるんじゃないか。
テレビ・ラジオによる白痴化が
そこに登場する語り手による評論化へ
という道筋。
なんとも、わかりやすい。
では、あらためて、中西輝政氏の
その言葉が登場する場面を引用しておきます。
平成23年8月発売の中西輝政著「国民の覚悟」。
その最後の方にありました。

「日本には『能力のある人』はたくさんいます。
しかし、『心のない日本人』が多すぎます。
テレビのチャンネルをひねれば、竹中平蔵さんのように
ペラペラ喋れる評論家は山のようにいます。
しかし、著名人に限らずどの人も、
日本人の心をどこかに置き忘れてきたかのような、
ただの『評論家』にすぎなくなっています。
つまり【一億総評論家】になってしまっていますから、
日本のことを、その将来のことを
真剣に考えた発言や政策が出てこないのです。」(p268)


うん。このテーマは、考えさせられます。
たとえば、こうしてブログに書き込みをしている、
というのも、りっぱに一億総評論家会員であります(笑)。
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お世辞の毒を入れてみた。

2011-12-17 | 詩歌
杉山平一著「希望」に、詩「処方」というのがありました。

   処方

 本当の心を注射して
 絆創膏のように切手を貼って
 送ったが
 効かなかったらしい
 お世辞の毒を入れてみた

 元気が出てきました
 と返事がきた



さてっと、ボンヤリとしていると、詩の余白に思い浮かぶのは、
杉山平一著「詩と生きるかたち」(編集工房ノア)にあるところの
「竹中郁氏の手紙」という文でした。
なあに、切手からの連想で、手紙つながり。
そこには、こんな箇所がありました。

「以後、竹中さんはお便りに、よく私の詩の欠点を指摘して下さった。大戦後でも、若い人から贈られた詩集の受取りに、欠点苦言を書き添えるといっておられた。歯に衣をきせぬそれを怨みに思った人もかなりいたらしい。」(p302)


それにしても、ふだん手紙を書かない者としては、
たまに、貼る切手はぶきっちょな感じになります。
「バンソウコウのように切手を貼って」
というのは、何だか手紙を出しているなあと思うのですが、
「お世辞の毒を入れてみた」
というのが、何だかどのようなものか、
読んでいるうちに、わからなくなってきて、
うん。毒がまわってくるようです。


もうひとつ、別の詩を。
詩集「希望」に「木の枝」というのがあります。
最初の3行は省略して

   若いときは
   背のびをすると
   本当に高くなることがあります

   読んでもいない本を
   友だちの前で読んだふりをしたため
   帰ってから本当に読み
   少し賢くなったことがあります

うん。今年の私のブログ
休まず続けるぞ。と言っていたのに
けっこう休んでおりました。
最後まで読まずに、読もうという
希望ばかりを書いておりました。

ちょうど、師走ですが、
97歳の杉山平一氏の詩集「希望」には
「約束」という詩もありました。

  約束

 遠い土地からの電波に応えて
 わが家のチューリップも
 赤の花を着けた

 北の国へ白い鶴も
 翼をひろげて旅立った
 仲間を連れて

 忘れていた
 忘れていた
 私にも約束があった
 応えねば
 急がねば
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