和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

口述筆記の幸福。

2019-05-31 | 本棚並べ
「松田道雄の本16 若き人々へ」(筑摩書房)
をひらくと、桑原武夫先生に関する文があった。

昭和23年に仙台から京都へと帰られた桑原武夫に
ついて、松田道雄との関連を紹介した文には、

「・・私はすでに先生の六人のお子さんの主治医
になっていた。私の診療所と先生のおうちとは
数百メートルしか離れていなかった。
お子さんが熱をだすたび私は自転車で往診したが、
診察を15分ですませて、あと先生と一時間も二時間も
話しこんでしまうのだった。話しこむといっても、おおかたは
先生が話されるのを私が相槌をうつようなことだった。
先生の話がはじまると座をたてなくなった。
それは学問の話にかぎられていたが、学問自身のことより、
その学問をしている学者の人物の話であった。・・・」(p37)


この3頁まえの、文のはじまりを、引用しなくては。

「かつて作家の中野重治さんが
桑原さんの文章の明晰を羨望をもってほめた。
その桑原さんの原稿の少なからずが口述筆記である。
話がそのまま文章になるという幸福の秘密は
桑原さんの座談のうまさにある。
うまいのは特別に文学的な表現があるのではない。
むしろ装飾的なことばを意識してしりぞけて、
卑俗な表現をされる。
話の表現がワイ雑にいたったときは、
話の内容がきわめて高いピークの一点に
きわまったときである。・・・」(p34)


そういえば、と「桑原武夫傅習録」を
今ひらくと、こちらにも、松田道雄の文がある。
けれども、こちらはちょっと
数百メートルしか離れていない距離とは、
ちがった場面が出てきます。

こちらも、興味深いので引用。
こちらは、昭和25年の京都の平和問題談話会の
場面を松田氏の目を通して書いておりました。
途中から引用。

「・・東京側と京都側との合同の会談が、
西園寺公の旧邸だったかであったときのように記憶する。
私ははじめて大学の先生たちが集って議論をする場
というものをみた。国際法の専門の学者とか、
憲法学者だとかの話をきいて・・二回、三回と
会に出るたびに私は気がおもくなった。そういうときに、
私を元気づけ、つづけて会に出るようにさせたのは
桑原さんの発言だった。

失礼だが、桑原さんは国際法だの憲法だのについて
専門的な知識をもっていられるとは見えなかった。しかし、
桑原さんは、どの会合でも黙っていられることはなかった。
何か発言された。そして桑原さんの発言は、
しめきった部屋の窓をあけるような感じだった。

専門家たちが、全面講和に反対する人たちを論理的に
とりひしごうとして晦渋のなかに踏みこみそうになるのに、
桑原さんは反対者の論理を感性的に増幅して、
滑稽なまでに幼稚な姿に描きだしてみせるからだった。
それが専門家たちに自信をあたえて、
論理がなめらかに動きはじめることも多かった。
それは、表現のたくみさに帰してしまえないものだった。
技術的なものよりもっと深いものであった。

それは、どんな議論も相手を説得しようとするなら
論理的であるだけでは足りないということ、
感性的なものを無視し切ることが、
実は論理そのものをどこかでゆがめるということである。

場合によっては感性的に十分にとらえた真実は、
専門知識の組みたてる論理よりも説得的であることを
桑原さんは、見せてくれた。
その時、桑原さんはいつも楽しそうだった。
・・・それからあと、私の学習に
もっともつよい影響をあたえたのは
この桑原さんの学問を楽しむ態度であった。」


この傳習録での松田道雄氏の文は
「桑原武夫全集」(朝日新聞社)の第五巻月報に
掲載され、題して「学問を楽しむ態度」。
ちなみに、この全集の補巻解説は、司馬遼太郎で
司馬さんの題は「明晰すぎるほどの大きな思想家」。
うん。松田道雄さんの「学問を楽しむ態度」を読んでから
司馬さんの「明晰すぎるほどの・・」を読むと、
入り組んだ司馬さんの文が飲み込めて、ラッキー(笑)。


桑原・司馬といえば、
「『人工日本語』の功罪について」と題する対談がありました。
そこで、司馬さんは面と向かってこう指摘しております。

司馬】・・わたしが多年桑原先生を
観察していての結論なんです(笑)。

大変に即物的で恐れ入りますが、
先生は問題を論じていかれるのには標準語をお使いになる。
が、問題が非常に微妙なところに来たり、
ご自分の論理が次の結論にまで到達しない場合、
急に開きなおって、それでやなあ、そうなりまっせ、
と上方弁を使われる(笑)。
あれは何やろかと・・・。

ここで、
寿岳章子著「暮らしの京ことば」(朝日選書)を
私は思い浮かべたのでした。
それは、「京都は激しい政治風土でもある。」(p81)
という箇所のあとにでてきました。
そこをすこし引用していきます。

「 もともとことばというものは、
  次のような機能や意図をもっている。

『ことばの機能』指示・表情・見出し・対人関係の調整。
『ことばの意図』表出・認識・通達・つながりを持つ・
         感化・態度の形成・社会的調整。 

共通語と方言とが二重構造になって
日本人の暮らしに食い入っているとき、
共通語はこの表のことばを使えば指示機能、

そして一方、表出、つながり、感化、態度形成、
社会的調整などの意図は、方言の有効な使いこなしに
よって所期の効果を果たすことがどんなに多いことであろう。
はげしい感情に襲われて、心の中の緊張をほっと外に
吐き出そうとするときの吐き出しことばは、大てい方言だ。

母親がこどものいたずらに腹を立てて思いきり叱りつけるとき、
誰が共通語で叱るだろう。

『そんなことしたらあかんがな、
 ほんまにかなん子やなあ』

というふうにわめいてこそ、
親は叱ったという気がするだろうし、こどもにしても、
親は怒っているなという気になるだろう。

『そんなことをしたらだめですよ』などと言われても、
こどもは芝居でもみているようなもので、
きょとんとしてしまうのであろう。」(~p82)

このあとに、お笑い番組についての指摘が
ありますので、もうしばらくお付き合いください(笑)。

「まして選挙のような行動で、
一票を何とか獲得したいと願うとき、
どうして相手が心を動かすかについて、
ものを考える人であるなら、方言を適当に使うであろう。
それはきわめて賢明な方法だ。また、テクニックとして
それを採用する、というふうなつもりはなくとも、
一所懸命に隣りの人に自分の考えを理解してもらおうと
するとき、その一所懸命さに比例して方言が顔を出す
のではあるまいか。すなわち、説得という言語行動を
とるとき、人はよく方言を使うのである。

笑いを誘い出す場合も断然方言が活躍する。
端的なところ、私はお笑い番組が大好きで、
その手のものをよくテレビやラジオで見聞きするが、
どうしても関西弁の方がよく笑える。
おなかの底からけたけた笑うには、やはり、
私の所属する地域言語の系統の方がいい。

共通語系統では漫才も落語も
頭の範囲で笑っているという感じである。
フフフフとゲタゲタの違いである・・・」(~p83)


うん。笑いで終わらせるとまずいかなあ(笑)。

対談「『人工日本語』の功罪について」で
司馬さんに観察されていた指摘をうけたあと
桑原さんは、どう語っていたのかを
最後に引用しておきます。

桑原】 ぼくは標準語を使ってはいるが、
意をつくせないときはたしかにありますね。
そこで思うんですが、社会科学などの論文に、
もっと俗語を使って、『さよか』とか・・・(笑)。

司馬】 『そうだっしゃろ』とか・・・。

桑原】 『たれ流し、よういわんわ』というような言葉が
入るようになればおもしろいと思うんですがね(笑)。

司馬】 そうですな。

桑原】 わたし、この前北海道に行って、
地方文化の話をしたときに、
少し身もふたもないことをいいました。
いい音楽を聴き、いい小説を読み、うまいものを食う。
それはそれ自体結構なことだが、
それがその地方の文化を向上させることになるだろうか。

現代日本は好むと好まざるとにかかわらず
中央志向的な大衆社会になっている。
だから、東京とはちがう地方文化、例えば北海道や鹿児島で
独特の地方文化を持つのは無理至難なのではないか。

それを持ちうるのは、その地方の人々が
方言で喋ることを恥としない、あえて誇りと思わなくても、
少なくとも恥としないところにしか地方文化はない。

それがわたしの地方文化の定義です、といったんです。
そうすると、地方文化がまだあるのは上方だけです。
わたしは場合によれば京都弁を喋る。・・・」






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京都人は婉曲法が大好きだ。

2019-05-30 | 本棚並べ
寿岳章子著「暮らしの京ことば」(朝日選書・1979年)。

読みはじめると、興味が尽きない。
それも「京ことば」への興味から。

古典の、守備範囲もひろい。
全部は紹介しきれないので、
ここでは、すこしだけ引用。

「もともと京都の人たちには、
次のようなことばについての
意識があると言われる。すなわち、
いわば内側の京都ことばとしては、廓のことば、
そして西陣に代表されるような商家筋のことば、
それから、外から京へ野菜や花などを売りに入って来る
人びとの、もう一つ外の京ことば。
丹波の人のことばは、それよりもっと遠いことばの世界で
であった・・・」(p65~66)

こんな何でもないことも指摘されないと
お上りさんには、わかりません。

さてっと、次は、ここを引用。

「京都人は婉曲法が大好きだ。
率直にずばりということはなかなか好まれない。
 ・・・・
京都は、最短距離をゆかないで、わざわざ
遠回りをしてゴールに到達するのである。
まっ直ぐにゆくことは、一見合理的に見えるが、
京都の人にはそうではないのだ。
まわり道の方に人生の味わいがあるということを、
京都の人びとは身につけてしまているのではないか。
誰をも傷つけないうちに、うまく言いおさめてしまう
一種の言語技術と言ってよい。
  ・・・・
絶対に、『おことわりします』というような返答を
言いあって暮していないのが京都人の特色である。」
(p119~120)


この例として
松田道雄氏の新聞エッセイを引用しております。


「京都文化というものは、
結局遠まわし文化とでも言いたいところである。
直接に荒々しく突き当たらない生活の、一種の
美学とでも言いたいところである。

松田道雄氏はある日の『毎日新聞』に大要次のような
ことを書いておられた。あるとき、氏はこどもが輪に
なっているところを通りかかった。
その遊んでいるこどもたちの中に餓鬼大将がいて、
自分がわり込もうとして、『どきな』と言っている。

松田氏の耳にはそれがぐっとこたえた。
京都のこどもはそんなことば遣いはしなかったものなのに、
そのやんちゃな男の子は、おそらく、テレビでそのような
ことばを覚えたのであろうと氏は推測される。
昔のこどもなら、『ちょっとのいてえな』とも言えず、
『見せとくれやす』とか『見せてえ』と言ったに違いない
とその頃のことをなつかしんでおられた。
こどもたちのことばも、婉曲法で成り立っていると言える。
テレビとか劇画とかは、そんな、あたりの少ない、
やわらかいことばをどんどん追放してゆくのである。

考えてみれば、長い間息を潜めるようにして
行きぬいてきた京都人にとっては、これがまったく
生きやすいひとつの型であったかもしれない。
いろいろのところに気を遣い、どっちの転んでも
さし支えないような生き方を保障するには、
こうした遠まわしの生活技術そのものであった。
だからこそ、さまざまの政権交替を見、
それらを適当にあしらいながら生きつづけてきたのは、
こうした言いまわし、そしてそれをよしとする
精神構造のもとにおいてであった。
京都の人にとってはなくてはならぬ生活の、
あるいは言語生活のパタンであったと言えよう。」
(p130~131)

これを語るために、京ことばが、京暮らしを
踏み固めるようにしてバレエティよく採取されております。
そこも少し引用。

「西陣のその名もゆかしい山名町に生きる」
老婦人に話をうかがったり、

「京都は激しい政治風土でもある。」
として、激しい京ことばも、とりあげます。

さらに第二章は
「京都の人たちの『いけず』ということばには、
いわく言いがたい雰囲気がついてまわっている。」
とはじまり、天草本『平家物語』から引用したり、
狂言の『茫々頭(ぼうぼうがしら)』。
『伊勢物語』、『かげろふ日記』。
さらには、昭和52年の週刊誌に掲載された
沢田研二と加藤和彦の、故郷京都についての話の引用で
『いけず』の正体を見極めてゆく段取りなど、
ゆたかな『いけず』の世界を、垣間見させてもらえます。

京ことばの、まわり道の魅力。
ゆったりとした味わいの歓び。

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京都にきた蕪村。

2019-05-29 | 本棚並べ
藤田真一著「蕪村」(岩波新書)から引用。

「蕪村の転機は36歳のときに訪れた。
宝暦元年(1751)秋、在留20年になんなんとする
関東をあとにした蕪村は、中仙道をとって上方にむかった。
京都にたどりついた蕪村は、まず知恩院内の一隅に歩を休めた。
知恩院は、浄土宗の総本山である。浄土宗徒として、
身を預けるのに好都合だったのだろう。

京に荷をほどくや、取るものもとりあえず、
巴人門の長老弟子、宗屋(望月氏)のもとへあいさつに伺った。
それからは、洛中・洛外の寺でらを拝しまわる日々だったらしい。
京の寺院は、美術品を展示する博物館のような機能をもっていた。
しかも、陳列ケースのなかではなく、生きたままの姿で
拝観させてもらえるのだ。大徳寺や竜安寺に、
蕪村は足跡をのこしている。そんな美術館まわりのためにも、
『釈蕪村』の肩書きは有効だったにちがいない。
・・・」(p45)

「ところで、蕪村に関しては、事情がこみいっている。
前半生は、みずから『日本の過半は行歴』したと
自負する大旅行家であったのに、いざ宗匠についてから
というもの、京に腰をすえたきり、
行脚とよべる旅はしなかった。
大阪や兵庫・灘方面の弟子筋をまわる程度の旅行が
ほとんどだった。蕪村の特殊、
といってよいほどの無行動ぶりであった。

  ・・・・・・・・・

意外なのは、江戸から上京して、そのまま
居ついてしまうひとが珍しくなかったことである。
江戸を離れて、京の地に十年いた、蕪村の師巴人は、
最後には江戸にもどったが、
京を死に場所としたひとも多数(あまた)あった。
かつて芭蕉から、俳諧が似合わない土地柄だと、
嘆じられた京であったにもかかわらず、
江戸を捨てて、京都を活動の場とする者は少なくなかった。
江戸出身の仙鶴(せんかく)という人物などは、
京で茶道を極め、茶師となるかたわら、俳諧にも熱心だった。
みやこの文化的な底力とか潜在力といったものが、
魅力だったのだろう。蕪村もまた、
そんな京をひとりめざしたのだった。」(p44~45)


ちなみに、今回この新書を読んで
ハッとさせられた箇所があります。
それは蕪村の『俳画』をとりあげた箇所でした。

「本業の南画でも、
蕪村はことさらに人物図をこのんで描いた。
しかも、よくある山水画中の点景としてではなく、
大きくアップでかくことがおおかった。
そのすがたは、一見してくだけた姿態をもっていて、
親しみの表情にあふれている。けれども絵の専門家の眼で
それをとらえると、異端の烙印が押されることになる。
見るひとのこころをなごませる描法が、皮肉にも
正統性を逸脱する要因をつくっている、ということだろうか。

だが、かりに蕪村のなかに異端性がひそんでいたとすると、
それは上方画壇のこの時期の特異的現象にちょうど見合って
いるといってもよい。時あたかも、京都画壇では、
伊藤若冲・長沢蘆雪・曾我蕭白など、
まさに奇抜・破天荒な異端の画家が輩出していた。
奇想とよばれる画風の横行した時代であった。
一見したところ、なごやかそのものの蕪村の画作に、
異端のおももちは見受けられないが、
専門家たちは・・・・」(p79)


はあ。奇想の画家たちと同時代人だったのですね。
あらためて、与謝蕪村の俳画をみたくなりました。
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京都にきた東京人。

2019-05-28 | 本棚並べ
梅棹忠夫著「日本三都論」(角川選書)のまえがき。
そこに、こんな箇所。

「わたし自身は京都に生まれ、京都でそだった。
自分でも京都人とおもい、ひともそのようにいう。
しかし、かんがえてみると、最初に職をえて以来、
京都に勤務したもは約四分の一の期間にすぎない。
自分の仕事は東京・大阪・京都の三都を中心に展開した。
『おまえは何人か』ととわれれば、実質的には『三都人』
とこたえるのが、もっとも適切なのではないだろうか。
わたしはそういう人生をおくってきたのである。
・・ただし、根は京都だから、他都市への視点は、
多少のバイアスがかかっているかもしれない。」

この本が出来た際に、梅棹忠夫氏は視力が喪失しておりました。
この本の最後に「三都論の構造」が書かれているのですが、
「本稿はこの本のためにかきおろしたものである」とあります。
視力喪失の後に書かれた「三都論の構造」ですが、
まず、この箇所を読んでみました。

気になる箇所だけを引用すると、

「・・とくに東京と京都が問題である。
わたしの経験では東京の知識人の京都攻撃には
しばしば閉口することがある。日常のつきあいでは
さほどでもないのだが、多少メートルがあがてくると、
ときどき、すさまじい砲撃をくらうことがある。
京都にも伝統的に東京に対する批判的感情もないわけではないが、
東京人の京都攻撃ほどモーレツさはない。・・・
京都人であるところのわたしからみれば、
京都論というのは要するに東京からの
京都攻撃ということなのである。」

ここが、他では聞けないことなので、
丁寧に引用してみます(笑)。

「東京においてその種の攻撃をくらった経験はない。
東京人が京都へきたときが危険である。
京都にきた東京人はときとしてふかい自信喪失をあじわい、
それの反動として攻撃性が暴発するのではないかと推察する。
東京から京都に赴任してきた知識人で、
うまく適応できなかった例がすくなくない。
全国的にみれば東京からきたというだけで、
なにがしかの価値をともなうものだから、
ご本人も家族もその種の期待をもってくるのであろう。
京都では、東京からきたということはなんの価値もない。
かれらは期待をうらぎられ自信を喪失して
ひどい京都ぎらいになった。」(p253)

オモロイので、引き続き引用します。

「もともと京都は突出した文化性のゆえに、
全国のあこがれのまとである
と同時に憎悪のまとでもあったようにおもわれる。
都びとと地下(じげ)のひととの落差はおおきく、
いなかものあつかいされた地方のうらみはひろく、
かつふかいものがあったのではなかろうか。
 ・・・・
あたらしいよりどころをつくった。
それが東京であったのである。
政治的にはまさにそうなのだが、
文化的にもそのことはあてはまる。
京都以外の地に別個の価値の基準を
うちたてようとしたのである。
ようやくそれに成功したとおもっているのに、
京都へきてみると、ここはそのような日本的な
うごきにまったく同調していない。
自分たちが脱出し、克服したと信じてきた
伝統的・古典的な価値体系がここでは厳然といきていた。
ここにきてみると、いやおうなしにみずからの
内なる伝統的価値がよびさまされ、
克服したと信じてきたものが
みずからをうらぎって蘇生してくる。・・・」(p254~255)



はい。これを読んでいたら、
蛇足が、思い浮かびました。

日本の政治は、
与党は、自民党
野党は、関西党(維新の会)にして
二大政党とすればオモロイのに。
そして、これなら政権交代があっても、
さらに、オモロナイことはないだろう。

東京標準語だけよりも、
関西弁との対決に、日本語としての活路を。

そう思うと、どうしようもなく、
わたしには、今の野党が、
韓国語や中国語圏に思えております。


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標準語の世界に住んでおられたのだろう。

2019-05-28 | 本棚並べ
本棚から、
「洛中巷談」(潮出版社)を
とりだしてくる。
メンバーは、河合隼雄・山折哲雄
杉本秀太郎・山田慶兒。
このメンバーに時にゲストをまじえての
巷談。

はい。表紙カバーも魅力で、
購入してあったのですが、
ほとんど、読まずにおりました。

今回は、そのあとがきを引用。
各自が書いているのですが、
その最後に、河合隼雄氏が書いていて、
そこだけを引用してみます。

「校正刷りを読み直しながら、
『これ、あんがいオモロイぞ』と思っていた・・

関西弁の『オモロイ』は、単に、『面白い』という
のよりはニュアンスがあって、硬い言葉に翻訳すると、
いろいろな言葉を複合したものになる。

私は児童文学が好きなのだが、いつか、
『本を選ぶのにどんな規準で選んでおられますか』と訊かれ、
『オモロイのは読みますが、オモロナイのは嫌です』と言うと、
この方は残念ながら標準語の世界に住んでおられたのだろう。

『児童文学は、人間の精神に役立つところが大きいもので、
そんな興味本位で読むべきものではありません』
ときついお叱りを受け、
『ワー、それオモロイ考えですね』と
思わず言いそうになったのを、
ぐっとこらえて神妙に恐縮していた。・・・・

対談でも書物でも、そこから何らかの
新しい知識を吸収するというだけではなく、
自分の考えや生き方の次のステップに対するヒントを貰う。
それによって、自分のなかの何かが動きはじめる、
というところがあるのが好きである。・・・・ 」


はて、この本。私は未読なので、まだ、
『自分のなかの何かが動きはじめる』
ところまでは、いってません。残念です。


ちなみに、河合隼雄の「あとがき」の最後のは
こうなっておりました。

「このような『オモロイ』企画をして下さった
『潮』編集部の吉田博行さん、
これを書物にするのに力をつくされた
背戸逸夫さんに、感謝の言葉をおくりたい。
       1994年1月       」

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京ことばの語り口。

2019-05-27 | 本棚並べ
古本で購入。
伊藤幹治著「柳田国男と梅棹忠夫」(岩波書店)
副題は「自前の学問を求めて」。
これが送料共で480円で、きれいな新刊並み(笑)。

カバーにはご両人が並んで、
カラーで写っております。
はい。この写真だけで私は満腹。

ちなみに、伊藤幹治氏は「まえがき」で

「晩年の9年余りの短い期間・・
わたしは当時、國學院大學大学院の学生として
柳田さんの講義に出席するほか、・・・
日本文化研究所で、柳田さんのもとで
研究生活を送っていた。」

「梅棹さんと接したのは、1974(昭和49)年4月から
1988年(昭和63)年3月にかけて、大阪の千里に
大学共同利用機関のひとつとして創設された
国立民族学博物館で過ごした14年間ほどの期間である。
梅棹さんは京都大学人文科学研究所教授を辞して
初代館長に就任された。・・・・」


パラリとめくると、
こんな箇所がある。


「1954(昭和29)年秋、梅棹は
『はつらつたる京ことば』を使って、
同志社女子大学で『これからの日本語』
(改題「京ことば研究会のすすめ」)
という講演会をしたことがある。
  ・・・・・・
この文章を読んでいると、
民博時代の梅棹のゆったりとした
京ことばの語り口が、記憶のなかから
よみがえってくる。」(p147)

はい。「京ことば研究会のすすめ」を
読んでみることに。
「梅棹忠夫の京都案内」(角川選書)に
それはありました。
本文の前には、どの文にも本人による
「解説」が置かれています。
そこを引用。

「昭和29年の秋、同志社女子大学の国語研究グループから、
講演の依頼があった。・・会場は同大学の教室であった。
わたしはこの際、ひとつの実験をおこなってみようとおもった。
京ことばで講演をしてみようというのである。
そのつもりで草案をつくった。その草案がのこっていたので、
ここに収録した。・・・」(p216)

単行本にして、11頁の講演草案です。
はい。読めてよかったなあ(笑)。

こんな感じです。

「京ことばも、やはり訓練のたまものやとおもいます。
発声法からはじまって、どういうときには、どういう
もののいいかたをするのか、挨拶から応対までを、
いちいちやかましくいわれたもんどした。
とくに中京(なかぎょう)・西陣はきびしゅうて、
よそからきたひとは、これでまず往生しやはります。
口をひらけば、いっぺんに、いなかもんやと
バレてしまうわけどっさかい。・・」(p221)

はい。最後の方も引用。

「こういうことになってくると、
いちばんの問題点は、標準語との衝突
ということどっしゃろな。
あんたはんらだれでも、
うつくしくただしい日本語というのは、
標準語のことで、一方京ことばは方言で、
ただしい日本語とはちがうのやないか、
とおもうてはるかもしれまへん。
しかし、それはおもいちがいどっせ。」

「ほんとの標準語ができあがるまでは、
まだとうぶん時間がかかるとして、
いわゆる標準語というのには、
お気をおつけやしたほうがよろしおす。
みなさん、なにか東京弁ふうにものをいうと、
標準語やとおもてしまうのんと、ちがいますか。」
(~p226)


すくなくとも、私など、京ことばを、
この講演で味わえるのが、うれしい。

そういえば、紙上では、
こういうのって、なかなか味わえないですよね。

梅棹忠夫編「日本の未来へ 司馬遼太郎との対話」(NHK出版)
の最後のコメント2を松原正毅が「知の饗宴」と題して書いて
おられました。そこから、この箇所を引用しておきます。

「卓抜な文章表現者としての梅棹と司馬は、同時に座談の名手である。
梅棹、司馬との対話には、つねに知的こころよさがともなう。
どういう話題であっても、話おえたあとも知的こころよさの余韻がのこる。
本書に収録された座談の名手どうしの対話にも、
行間から知的こころよさの余韻がのこる。
本書に収録された座談の名手どうしの対話にも、
行間から知的こころよさの片鱗がうかがうことは可能であろう。
じっさいの会話では、上方ことばが大量にまじりあうので、
話のたのしさは倍加する。
残念ながら、紙上ではこの話のたのしさを
完全に再現することはできない。・・・」(p297)


うん。とりあえず、京ことばの講演が読めただけでも
私は満足することにします(笑)。




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志ん生・小さん・春団治。

2019-05-27 | 先達たち
小林秀雄と桑原武夫の、
お二人の話し方が気になる。

そういえば、以前に、小林秀雄の
講演カセットテープを聞いたことがあった。

さてっと、まずはじめは小林秀雄。

「小林秀雄百年のヒント」(新潮四月臨時増刊)。
脇には「誕生百年記念」(平成13年)とあります。


そこに安岡章太郎・粟津則雄の対話
「小林秀雄体験」というのがあります。
そこから引用。

安岡】・・・・小林さんは、
失敗というようなことは絶対に嫌いなんですね。
嫌いというか、二度、三度と同じ失敗はしない方です。
昔、講演旅行は、菊池寛が連れていってくれたんだそうですよ。
戦争中は、文士に金が入らない時代なんです。ある時、
高松の小学校で講演があった。体育館みたいなところに、
筵が敷いてあって、入っていったら、目の前に
爺さんが孫を連れて、真正面で座って見てるって言うんですよ。
その瞬間に、小林さんはほとんどなんにもしゃべれなくなっちゃった。
それで、栗林公園のなかを一晩じゅう、ぐるぐる、ぐるぐる
歩きまわったっておっしゃってました。・・・

粟津】 小林さんは、考えに考え抜いたことを、
軽快に話しますね。

安岡】 江戸っ子ですからね、江戸っ子のおしゃべいりは、
いわば、自転車に乗って駆け抜けるようなしゃべり方ですよ。
だから、さあーっと軽快にしゃべるということは、
大変、これはいいんですね。
僕は、中村光夫さんの雑文のなかで読んだんだけれども、
小林さんのお母さんは、世間話の名人というおふうに
書いてありましたね。

粟津】 そうですか。

安岡】世間話の名人というのは、
ビートたけしというのがいるだろう。
あれも江戸っ子みたいだね。江戸っ子というか、
田舎の下町だからね。そういうところはあるな。
ロジックがあるんですよね、三段論法みたいなのが。
ビートたけしのおっかさんにしても。

粟津】 小林さんのおしゃべりは演奏だからね。

安岡】うん。演奏なんです。まさに。

粟津】いつか、大岡昇平さんが賞を取られたときに、
会がありましてね。小林さんが最初に挨拶をされて。
「大岡君は・・・」ってちょっと志ん生みたいな声でね。
・・・・
(p176~177)

うん。どこで切ったらよいか。引用に迷います。
小林秀雄の声が『志ん生みたいな』というのを
引用したかっただけです(笑)。


さて次は、桑原武夫。
富士正晴著「桂春団治」(河出書房)の
「序にかえて」を桑原武夫が書いております。
そこから、引用。

「当時、落語の名人といえば、
小さんというのが定説であった。
私は現物を聞いたことは二度しかない。
もちろんうまいが、江戸ッ子という言語的制約の
しからしむるところか、さっぱりして枯淡ですらあったが、
私が一流の芸術には不可欠だと思う一要素、
むるっとした艶っぽさ・・・・
そうした感じのものに欠けていて、
これを至芸などといっている江戸っ子文化とは、
薄くはかないものだという気がした。
東京の寄席などに通じているある先生に
一度春団治をお聞かせしたが、
いっこうに感心されなかった。・・・
あの微妙で猥雑な上方弁がわからなくては、
春団治は味わえない。・・・・・

私は、芸術とは何かということを考えるとき、
具体的なものによってしか考えられない私は、
・・・・・
話芸における独創ということを考えるとき、
春団治がいつも支えとなっている。
芸術の大衆性という点についても同じである。
春団治を忘れてはならない。・・・」


え~。
江戸っ子と上方弁の、対決の一幕。
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花いりまへんかあ。

2019-05-26 | 本棚並べ
そういえば、武満徹の音楽の中にも京都があった。
ということで、
本棚からとりだしたのは、
吉田直哉著「まなこつむれば・・・・・」(筑摩書房)。


この本の最終章は、「レクイエム」。
その最終章最後は、「武満さんの先駆的な旅」でした。
そこから、引用。

「彼、武満徹にはじめて会ったのは昭和29年、1954年である。
私はNHKに入局二年目の新人で、放送三十周年特集に提案した
『音の四季』という企画が通ったので、その作曲を頼みに・・・」

「そもそも『音の四季』というのは何でもない音を主役に
しようとするラジオの企画だった。日本の現実音を春夏秋冬に分け、
何がどうしたときの音であるというようなことばによる解説はいっさい
入れず、四季それぞれを主題とする音楽と共に感覚的に四章に構成する、
というのが趣旨だったのである。」

さて、武満徹が登場する箇所を引用してみます。

「『音の四季』の録音素材を聴いているときに彼(武満)が、
京都の大原女の、

『花いりまへんかあ、きょうはお花どうどすやろ、
花いりまへんかあ、・・・きょうはお花置いときまひょか、
お花どうどすう、きょうはお花よろしおすか、花いりまへんかあ』

と売り歩く、老若ふたりの掛け合いの声に
こっちが驚くほど感動したことがあった。
『すごい! まるでドビュッシィーだ』
と言ったのだ。しかもつづけて、
『驚いたなあ。ガメランそっくりだ。だからドビュッシィーにきこえるんだな』
と言う。ききとがめると、ドビュッシィーは
インドネシアのガメランを熱心に研究した唯一の作曲家だ、
彼が西欧の限界を超えた秘密の一つはそこにあると思う、
といつもの、自分にきかすような声で教えてくれたのである。
・・・・・
大原女とドビュッシィーとガメラン。
―――あまりにも脈絡に欠けるので、
何が共通項なのかときくと、

『同時に異なる時間が流れている。
時間の重層性、多層性というのかな。
いまの音楽にはこれが全くないんですよ』

という答えであった。・・・」
(p252~257)


京都と花といえば、
六角堂が思い浮かぶので引用。

宮本常一著「私の日本地図14 京都」(未来社)。
ここに、京都の六角堂の話がでてきます。


「この寺の二十世の住持専慶は山野を
あるいて立花(りつか)を愛し、
立花の秘密を本尊から霊夢によって授けられ、
二六世専順はその奥義をきわめた。
堂のほとりに池があったので、
この流派を池坊とよび、
足利義政から華道家元の号を与えられたという。
すなわち立花の池坊はこの寺からおこったのである。

もともと仏前への供花から花道は発展して
いったもののようで、とくに七月七日の七夕には
星に花を供える儀式が鎌倉時代からおこり、
室町の頃から隆盛をきわめ、
『都名所図会』には『都鄙の門人万丈に集り、
立花の工をあらわすなり、見物の諸人、群をなせり』
とある。このように立花は後には次第に
人がこれを見てたのしむようになってきたのである。」
(p118~119)


はい。
武満徹が聞く大原女。
宮本常一が指摘する、
仏前への供花と池坊。

う~ん。京都という世界では
『同時に異なる時間が流れている』
そういう流れを、思いえがきます。


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すっとこめかして、どこ行くの。

2019-05-25 | 本棚並べ
本棚から
梅棹忠夫・鶴見俊輔・河合隼雄の鼎談本
「丁丁発止」(かもがわ出版・1998年)を持ってくる。

鶴見俊輔いわく。

「エッセーというのは
自分のアイデアを置いて、
論争点をつくる方法です。」
(p99)

こんな、言葉がさりげなくあり、
私など、考え込んでしまう(笑)。

それはそうと、この鼎談で柳田国男が
出てくる箇所があり、引用したくなる。
途中からですが、私には気になる箇所。



梅棹】 事実、柳田さんの書いたものは
ほとんど英訳されていないと思いますよ。

鶴見】 そう。それはね、
梅棹さんの問題になるんだけども、
言葉ぐせの問題になるんだね。言葉遣いの問題ね。

柳田国男の文章は、
私はアメリカで教育を受けたから
初めは読むのが非常に困難だった。
というのは、
私が勉強したやり方というのは、
必ず抽象名詞に集約して、
コンデンスして覚えるんです。
抽象名詞として把握して記憶に繰り入れる。

ところが柳田国男は抽象名詞で止めない。
ある状況でこういうことが起こった、という話なんだ。
そこで重大なのは状況であり、動詞であり、形容詞なんだ。

柳田国男に話を聞いたことがあるんだけど、
日本の学問用語をどうするかというと、
動詞と形容詞をもっと活用しなければならないと言うんだ。
たとえば『すっとこめかして、どこに行くのか』の
『すっとこめかして』という語感を
どういうふうにして日本の学術語のなかに生かすか。
そういうことが柳田国男の問題なんだ。

柳田国男を読んでいて重大なのは、
そういうところにある。
あるところで、雨が降ってるのに
急がないで歩いている人がいたから、
『どうしたのか』と言ったら、
『向こうも降っとる』って答えたと言うんだね。
だから、急いでもしょうがないんだ(笑)。
重大なのは、そういうエピソードなんだ。

そういうものによって、柳田国男は記憶していて、
柳田国男の世界が展開するわけですね。
だから、現代ヨーロッパの学術語とちがうんですよ。
そういうところからの話なんだね。
・・・・(p71~72)


さてっと、柳田国男を読んでいない(笑)。
柳田国男の本を前にして、
『こんなん読まな損やで』と言われているような。

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こんなん読まな損やで。

2019-05-25 | 本棚並べ
本棚から、取り出したのは、
河合隼雄・長田弘「子どもの本の森へ」(岩波書店)。

まず、はじめのほうに、
ツンドク本の講釈があります(笑)。

長田】 本はほんとうは必要な家具でもある。
ツンドクしてちゃんと時間をかけないとだめで、
葡萄酒みたいに、ちゃんと寝かせておいてこそ、
おいしく熟成するものですね。

河合】 寝かせてなかったらだめです。

長田】 いまはその寝かせ方が、
本に足りないんじゃないかなあって思いますね。

河合】 書棚に入れておくといいんですよ。
・・・スーパー・マーケットなんか上手ですよ。
いろいろ分けて置いてるけど、別に、レジのところに
ちょこちょこおもしろそうなものが置いてある。
あんな風に、本も、家でも図書館でも、
部屋の入り口なんかに、おもしろい本を
さりげなく置いといたらいいですね。

長田】・・・・たとえば図書館へ行けば、
読んでない本、読まないだろう本が圧倒的
なのが当たり前で、読んでない本、知らない本が
いっぱいある図書館が、いい図書館。

河合】 そのとおりですね。ぼくは
『読みなさい』って言わないいんです。
『こんなん読まな損やで、こんなおもしろい本』
と言うことにしてる。

(p6~8)

う~ん。スーパー・マーケットのレジまわり。
本をじっくり読めない私。そう自覚しておりますが、
本をさりげなく置く。これなら私にもできそうです。


ちなみに、『こんなん読まな損やで』という、
この掛け声は、関東標準語じゃないですよね。
けれども、決めゼリフは、こうじゃなければ。
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『コ』?

2019-05-24 | 本棚並べ
対談集を読むのは、
気楽で、好きです。

何だか、わかった気になる。
けれど、わかった気分だけ(笑)。

以前から、気になっている対談があります。
桑原武夫対談集「日本語考」(潮出版社)。
そこでの、司馬遼太郎との対談。題して、
「【人工日本語】の功罪について」。

はい。気になるテーマなのですが、
何となくしかわからないままです。


その対談を、あらためて読む機会がありました。
今回は、細部の方へと、ピントがあわさります。

司馬さんが話を切り出す。
その対談の最初の場面は、こうでした。


司馬】 きょうはなんのお話を伺おうかと思って、
桑原武夫全集をひっくりかえしてみたんですけれど、
どうも思いつきません。
この瓢亭さん(京の料亭)に入りますと、
きちんと着付けをしたキモノの女中さんたちが、
きれいな京ことばを喋らはります。
私の知人のお嬢さんも、この瓢亭さんに
言葉を習うために奉公にあがっていたことを
思いだしまして、話し言葉や書き言葉の問題を
中心にお伺いしようと思いまして・・・。

これが対談の、はじまりでした。

「瓢亭(ひょうてい)」といえば、

梅棹忠夫・司馬遼太郎編「桑原武夫傅習録」(潮出版社)
のなかにも、「瓢亭」がでていたのでした。
司馬さんは、書いています。

「場所は、京都南禅寺の『瓢亭』である。
瓢亭は建物といい座敷といい、
数寄屋が茶とむすびついてそれが行きついて
しまったような結構で・・・

繰りかえしていうと、氏にとって京都は
日常的な生活の場所である。
わざわざ思想的衝動を感じて
日本美に惑溺しにゆかなくても、
京都の生活者としてそこに在るがままの
ものの中に、たとえば登山者が路傍に
腰をおろす程度のさりげなさで
瓢亭にすわってみるだけのことで・・・」
(p151~152)

はい。読み返していると、対談内容と別に、
気もかけなかった、こういう言葉の細部の
断片が気になりました(笑)。

さてっと、こっちの司馬さんの文は題して
「明晰すぎるほどの大きな思想家」とあります。
はじまりに、NHK大阪の放送局での話のことが
でてきます。

「その放送がどういう主題の話だったかは
わすれたが、その後数日して氏が富士正晴氏に
洩らされたのを、富士氏が私に話した、
『ええコや』。そういうことであった。
・・・・・
蛇足をのべる。コというのは、・・・
さらには氏の堅牢で明快な文章にときに、
それも不意にあらわれる含蓄とのつながりかともおもった。
含蓄というより、論理の息づまるような感じをふせぐための、
文章の上での咳払いというようなものかもしれない。」

このあとに、桑原氏の講演でのことを、
ご自身が語っていたということで引用しております。
そこはというと、

「・・しだいに調子づいてつい京都弁が入った。
・・そういうことを考えとったらアカン、よういわん・・、
といったふうにやると、あとで投書がきて、
『話の内容はおもしろかったが、漫才と同じ言葉を
使ったりして態度が不まじめだ』。
ここで対談の相手は笑う。氏(桑原)の場合、
この種の咳払いによって・・・
要するに氏の話し方においても文章においても、
明晰すぎる論理と堅牢すぎる力学的構造のなかに、
こういう咳払いが入って、風が吹き通ってゆく。
これは反対の論理でもなく賛成の論理でもなく、
かといって中間の態度でもない。
奇妙な言葉の使い方をあえてすれば、
これが氏の文化意識であり、あるいは一般化すれば
文化とはこういうものであるかもしれない。

『ええコや』というのは、
そういう機微にやや通じている。
氏の文化的表現である。」

以前読んだときに、この箇所が、
もうひとつよく分からなかった。
『ええコや』が、どうなんだと?
気にせず、読み過ごしておりました。

その『コ』が、
寿岳章子著「暮らしの京ことば」(朝日選書)に、
あらためて、拾えました(笑)。

その個所はというと、

「全国のさまざまの方言には、それぞれの味わいがある。
私は仙台で三年間の学生生活を送っている。その間、
もちろん片鱗には違いないが、仙台のことばのあれこれ
に接して大変たのしかった。方言の魅力に憑かれたのは、
この頃であったのではないだろうか。
靴を修繕してもらおうと、小さな靴屋さんへ出かけると、
その店のおじさんが、靴の裏をひっくりかえして、
『カネコサぶつべか』という。
関西から出てきたての私は、知識としてあった、
東北地方では、思いがけないもにまで一種の愛称として
接尾語の『こ』をつけるということは
すぐには思い浮かばなかった。
しばらく間をおいて、私はどうぞどうぞと答えたのであったが、
瞬間きびしい戦時下で何もかも不安な、遠いはじめての地域で
の下宿暮らしが、一瞬あたたかな色あいに染められた気がした。
靴の裏のかねにまで『こ』をつけるとは、
なんというかわいらしい言語習慣だろうとうれしくなった。
以後、新聞でも雑巾でも『こ』がつくということを知るに及んで、
ますますその感は深くなったのであるが、どこのことばでも
そういう具合に、人の心を魅了するに足る特色をもっている。
・・・」(p18)

うん。仙台の小さな靴屋さんでの、寿岳章子さんの体験と
京都の富士正晴さんからのまた聞きをした司馬さんの体験が、
方言との地平でもって、重なるような気がしてきました(笑)。


この細部から、対談「『人工日本語』の功罪について」を、
読み直すと、アレレと思うほど、楽しく読める気がします。





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鳥の来て。

2019-05-23 | 三題噺
本棚から
「橘曙覧全歌集」(岩波文庫)をとりだす。
「独楽吟(どくらくぎん)」の箇所を開く。

一首引用(p180)。


 たのしみは 常にみなれぬ 鳥の来て
    軒(のき)遠からぬ 樹に鳴きしとき


鳥といえば、最近思い浮かぶ本二冊。

「中西進の万葉みらい塾」と「災害と生きる日本人」。

まずは、「みらい塾」から二か所引用。

「人間の言葉は、鳥の鳴き声を勉強して
考え出したというお話もあるのです。
鳥どうしはいろいろ会話をしていると考えて、
人間もあれと同じことをやろうと思った。
それぐらい人間は鳥の鳴き声に
耳を澄ましていました。・・・」(p146)


学校で生徒と質問をしている箇所には、
こんなやりとりがありました(p43~)。


中西】 ・・でも、人間が泣くのと、
千鳥が鳴くのとは同じですか、ちがいますか。

C君】 ちがう。

中西】 ちがうでしょう。
ところがそう思っているのは、現代の人たち。
昔の人たちは、いっしょだと考えていました。
『なく』って同じ言葉でしょ。

C君】 ・・でも漢字がちがう。

中西】 そうだね。漢字がちがう。
そう思う人、手を挙げて。うん、たくさんいるね。
だけど漢字は、中国から借りてきた文字です。
昔から日本にあったわけではない。
昔から日本にあったのは『なく』っていう言葉。
中国ではちがう漢字を使う。
中国人は鳥はこう、人間はこう、と考えた。
けれども、日本人は鳥が鳴くのと、
人間が泣くのとは同じだと思った。
『なく』のは全部いっしょ。
漢字を勉強して、それぞれがちがうと
考えるのことも大事だけれども、
もっと広いところで、鳥たちも人間も
同じだなって考えることも大事ですね。
(~p44)


もう一冊「災害と生きる日本人」では
中西進氏との対談で、磯田道史氏は

中西】 特に小鳥が鳴いているのは、
ほとんどが恋でしょうね。・・・・・

磯田】 最近はツイッターで、浅いさえずりを
する人がずいぶん増えました。
万葉集に歌われている歌は、人の心を
かなり深いところから汲みとっています。
鳥が空で生きよう、生きようと
一生懸命さえずっている。
空からこぼれ落ちてくる音を、
万葉集を通じて聴いている感すらありますよ。
・・・(p62)


三冊を並べてみると、なんだかなあ、
令和の宴で、楽しみを味わうような。




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梅のように。

2019-05-22 | 詩歌
本棚に、中西進氏の本があった。
以前に新刊で購入してそのまま、
置きっぱなしになっていました。


中西進著「詩をよむ歓び」(麗澤大学出版会)。

「はじめに」から引用。

「詩はことばの精粋(せいすい)です。」

「欧米では教育がまず詩から始まります。
ところが日本では学校でもわずかしか教えてもらえず、
卒業と同時に詩と無縁な生涯を過しがちです。
残念なことです。」

そのあとに、こんな箇所がありました。

「ぼう大な近代詩の中から何年もかけ、
苦心に苦心を重ねて、一人一編、全八十編
の名詩を選び抜きました。」

この言葉に、大仰さを感じたのかもしれません。
今なら、中西進という名前だけであらたまって、
読む姿勢や態度が、かわっている自分です(笑)。

「はじめに」の最後は、

「なお、この書物は麗澤大学出版会の
西脇禮門氏との長い交友を貴んで、出版するものです。
  2006年 緑陰の山房にて 中西進 」

うん。全八十編の詩が、テーマごとに並び、
各詩のあとに、1ページほどの中西進氏の
コメントがついている。それだけの本です。

詩はむずかしいですね(笑)。
ややもすれば、知らずに通り過ぎてしまう。

たまたま、それが本棚にあった(笑)。

せっかくなので、この本の中の、
井上靖の詩「愛する人に」から、
その一部を引用。


「 さくらの花のように、
  万朶(ばんだ)を飾らなくてもいい。

  梅のように、
  あの白い五枚の花弁のように、
  香ぐわしく、きびしく、
  まなこ見張り、
  寒夜、なおひらくがいい。 」(p36~37)


う~ん。むずかしいですね。
元号が「令和」にならなければ、
きっと、この本をひらいて読み始めなかった
かもしれない一冊です。
まだ、ほかに79編の詩が載っている。 





コメント (2)
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京都の蕪村。

2019-05-21 | 本棚並べ
藤田真一著「蕪村」(岩波新書)。
その「はじめに」の3行目から引用、

「・・京の芝居小屋は、四条通りを東にとって
鴨川を渡ったすぐの界隈に、競って軒を並べていた。
蕪村の住まいは、四条烏丸にほど近いところに位置して
いたから、芝居は四半刻(三十分)もあれば行ける、
ちょうど頃合いの距離にあった。根が好きなだけに、
折につけて芝居通いに精出した。

蕪村は観劇に出かけると、役者の一人ひとりについて、
手紙などでこと細かに論評を加えることがあった。・・」

蕪村の絵について、
「夜色楼台図(やしょくろうだいず)」を
とりあげた箇所があります。

「この絵は、京都東山山麓の冬の景色を描いたものと
考えられている。これが東山だとすると、
後半生を洛中に暮らした蕪村にとって、
その姿はもっともなじみの深い光景であっただろう。
花の盛りには遊山にでかけ、遠来の俳人を迎えて
句会をたのしみ、遊び仲間があれば芸妓ともどもさんざめく、
というふうに、四時(しいじ)のいつをとっても、
こころの弾みを覚える界隈であった。

そのような東山の姿は、蕪村にとって、
たんに景色として遠くから眺めやって、
画中に写しとる対象というものではなかっただろう。
・・・『夜色楼台図』は、いわば蕪村のこころに
刻印された東山の姿だったはずである。
写生的風景というのでは、まったくない。
描き手のやわらかな心性が、ここに宿っているのだ。
写生の手法ではけっして描きえなかった図であった。

蕪村は、それほどまでに、
京都という町を熟知し、
したわしい気持ちをもっていた。
だがその一方で、京都にたいして、
どうにもならない異邦意識も抜きがたくあったらしい。
もともと、蕪村は京の生まれではなく、
上洛するのはようやく36歳のことであった。
定住となると、さらにおそく、
すでに50歳をこす年齢になっていた。

蕪村が画・俳の両世界に活躍したのは、
京住の五十歳以上といってよい。・・」
(p32~34)

はい。蕪村の京都というのも
気になるのでした(笑)。
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東京風のことば。

2019-05-20 | 本棚並べ
梅棹忠夫著作集17巻の月報に、
寿岳章子さんの文があり、気になり、
寿岳章子著「暮らしの京ことば」(朝日選書)を
古本で注文。
山形県小白川町の「古書 紅花書房」へ
注文したところ、クロネコDM便で昨日届く。
宛名はサインペンによる手書き。有難い(笑)。

なんと、「山形の酒蔵」というパンフレットを
二つ折りにしてその中に本をはさんで送ってくれる。
山形県の53の酒蔵を紹介していて、年間イベントも、
そのパンフレットで紹介されているので、
捨てるわけにもいかない(笑)。


こういう楽しみは、ありがたい。
さてっと、届いた「暮らしの京ことば」を
さっそくパラリとひらけば、
第17巻の月報の文と同じ個所が
くわしく書かれており、こちらもありがたい。

う~ん。ここなど引用しておこう。

「・・この種の座談会などで、どうして誰もが
東京風のことばで話さなくてはならないのか
ということについての、つよい疑惑を常日頃から
持っておられるらしい。それぞれの持ち前のことば
で話す方が、ずっと身を入れて話せると信じておられる。

いったいに京都大学の人文科学研究所の人たちには、
そうした考え方を持つ人が多いように思える。
その総大将は、桑原武夫氏であろう。

私は以前、
桑原、梅棹2氏とともにある座談会に出たことがある。
お正月ののんきな番組で、思いつくままの好きなことを
次から次へと、際限もなく話をしあったのが、
出席者としてはとてもうれしかった。
それはラジオで全国放送された。聞いている人にとっては、
私たちがかなり京都弁で述べたてながら機嫌よくしゃべり
まくっているのが果たしてよかったか、
あるいは耳障りであったか。

しかし、私たちが話したことの内容は、
やはり京都ことばの濃厚な語り口において
はじめて効を発するようなものであったように私は思う。
そしてそのときのお二方が、どちらかと言えば
臆面もなくゆうゆうと京都ことばで話されるのを、
とてもたのしいと思った。・・・」(p28~29)

うん。梅棹忠夫といえば、
「知的生産の技術」しか、知らずに育った当方としては
これは、これは刺激的な入門となりました。

はい。ここからなら、スラスラと、
梅棹忠夫著作集を読みはじめられそう。
そんな、切り口に出会えた気がします。

わたしは、座談会とか鼎談とかを
読むのが、小説を読むよりも好きです。
好きなんですが、京都ことばを取り除いた、
座談は、炭酸が抜けてしまった、炭酸飲料を
飲んでいたような気がしてくるじゃありませんか(笑)。

たとえば、梅棹忠夫とか桑原武夫の対談集を
東京言葉風に読みかえてしまっていたのかもしれない。
そう思うと、いったい対談で何を読んでいたのやら、
心もとなくなってくる気がしてきます。

という風な収穫がありました。
そういえば、梅棹忠夫著作集18巻には
「第二標準語論」という文も含まれております。

そういう視点からならば、私には、
梅棹忠夫著作集の16巻以降の巻が、
がぜん興味を抱かせられるのです。


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